海風の頌歌  Ⅰ

 シェノレスが独立を宣言し、2年に及ぶ戦の後…ツァーリとの間に和約が成立した。だがその和約成立後半年を経ずして、シェノレスは再び戦火を交えることとなってしまう。
 相手はよりによって、三国同盟の一翼たるシルメナ。
 シェノレス側ではマルフ、シルメナではティーラと呼ばれる小さな島。それを巡っての散発的な紛争…辺境での小競り合いといえど、時期が悪い。シルメナ側も当事者…イオルコスの藩主オレン・ヴァシリスをいつ退かせるかに苦慮している状況ではあったが、俄に事が収まりそうにはなかった。
 シェノレスとしては早急に援軍を派遣しなければならぬ。かといって、過大な兵力を動かすことはイオルコスを刺激する。最小の兵力でイオルコスを牽制し、その間に紛争を解決しなければならない。
 国王として即位したレオンはエルセーニュに留まらざるを得なかった。だから、「海神の御子」レオンの片翼たるルイが司令官として援軍を率いるのは自然な流れというものであっただろう。そして、神官府との連絡・調整として審神官シャンタールアンリーが随行するのも、ほぼ既定事項の筈であった。
 和約締結に前後して、アンリーが頻々と発熱しているという現実さえなければ。
 アンリー自身は「戦いに行くわけではない」と随行を主張したが、ルイが強硬に反対したのである。アンリーの、大神官リュドヴィックの名代としてツァーリとの戦をまとめ上げた手腕は誰もが認めていたが、普通に動ける時と寝付いている時が半々という有様では、ルイの主張の方に分があった。
 挙句…船団が出帆する前々夜からアンリーはまた発熱し、一時人事不省に陥る重態となったことから必然的に残留が決まったのである。

海風の頌歌

 シェノレス神官府・典薬寮。
 ソランジュは典薬寮頭てんやくりょうのかみ補佐の立場にある。彼女の上司であり師でもある現在の典薬寮頭クロエは、寮頭りょうのかみという地位にありながらなかなか典薬寮に居着かないことで有名であった。自ら薬種を求めて各地を歩き回る、寮内で預かる傷病者の治療に当たる、果ては衛視寮に乞われて稽古に出向く等、怠惰とは疎遠なのだが決裁を求める側としては些か困った上司なのである。
 戦時中は典薬寮の神官団を率いてイェルタの砦にさえ乗込み、主力部隊が出撃した後の砦へ近づいたツァーリの哨戒部隊を棍一本で駆逐してのけたという傑物なのだが、意外なことに一児の母でもある。
 その日、黒曜石のような双眸と、つやの良い黒髪…母親そのままの持物アトリビュートを備えた幼児が広壮な寮内をとことこと歩き回っているのに行き合ったソランジュは、思わず口許を綻ばせた。
「いらっしゃい、ヴァン・クロード。寮頭なら執務室よ?」
 幼児は立ち止まり、ソランジュを振り仰いでにこっと笑う。
「ありがと」
 端正なおもてに浮かべる柔らかい笑み、可愛らしい仕草に、誰しも思わず口許を綻ばせずにはいられない。ソランジュとて例外ではなかった。
 母恋しさに職場まで潜り込む幼子おさなご、という構図以外考えられない光景ではあったが、半分本当で半分は事実と異なる。この子は確かに無聊を慰めるために典薬寮に出入りしているが、その目的は母親ではなく、典薬寮の資料庫なのだ。
 ただ、一介の幼児が出入りするには寮頭の許可が必要、と誰からか教え込まれたらしく、来れば必ず寮頭の下へ一度出頭・・してから嬉々として資料庫へ入り浸る。確かに資料庫には書籍だけでなく、好奇心旺盛な子供の注意を惹くであろう珍奇な標本もあるのだが、どうやら図版を手がかりにかなり文字も読み始めているらしいと聞いた。
 末恐ろしい幼児と言うべきであったが、今のところはただの「愛想が良くて可愛らしい子供」である。
 その幼児を微笑と共に見送ると、ソランジュは弛んだ頬を軽くはたいてから調剤部で必要な材料を揃えて典薬寮を出た。

 晴れ渡った空。風も穏やか。岬の突端に建つ神官府本殿までの道程はそう長いものではない。その間、ソランジュはふとあの利発そうな幼子の所作から遠い日の記憶を手繰っていた。
 本殿の書庫で静かに旧い文献の頁を捲る、緋の髪の少年。当時巫女見習だったソランジュが上司の用向きで本殿を訪れた時…嫌な顔ひとつせず、その手を止めて目的の資料を一緒に探してくれた。
 それが大神官の直系、風神アレンの後身、神童と囁かれる人物であると知ったのは少し後のことであった。だが、知って間もなく、彼はソランジュの前から姿を消してしまった。
少年…アンリーは海神に〝奉献〟されたのだ。
 その意味を知らなかった当時のソランジュは驚倒したが、見かねた上司は絶対に口を緘することを条件に…その真実を教えてくれた。
 〝奉献〟とは、大神官直属の細作組織に身を置き、俗世との縁を切ることだったのだ。
 生きているならそれでいい。すべてを理解できた訳ではなかったが、当時のソランジュはそのことだけを胸に刻むことにした。生きてさえいれば、また会えることもある。
 果たせるかな、挙兵の日…「海神の御子」レオンの傍らに彼の姿を見つけた。それはとても嬉しかったけれど、かつてのように言葉を交わす機会があろう筈もなかった。
 ――――それが、まさかこんな形で。
 ソランジュは本殿…奥殿おくどのの方へ足を向ける。今の彼女には、通常の補佐の他に上司から命ぜられた任務があった。
 援軍出発の直前に倒れてから、衰弱の一途を辿るアンリーの治療である。
 それまで、頻々と発熱を繰り返してはいても強硬にマルフへの随行を主張していたぐらいで、決して気力が衰えているふうではなかった。ところが、マルフへの派遣から外され残留を余儀無くされてから後、度々意識を失うようになったのだ。
 覚めている時は至って冷静で、話の辻褄もきちんと合っている。指示された薬を飲み、細いながらも食事を摂りもする。そうかと思えば丸一日意識が戻らないときもあり、当然食事が摂れないから衰弱する。そのくせ、誰も気づかない内に寝所を抜け出し、海岸を歩いているのだ。
 しかも、その間のことを憶えていない。
 折しも大神官リュドヴィックも体調を崩して病臥していたから、最初は疲労が出たのだろうと思われていた。しかし、意識も定かでないまま人も寄らぬ険しい岩礁のあわいそぞろ歩く姿は、いっそ人外の者のような雰囲気さえ帯びて…治療に当たる神官、世話に当たる雑色ぞうしき1が畏れをなして次々と辞めてしまう。最終的に典薬寮頭クロエが指名したのがソランジュというわけだった。

 大神官の一族が住まう本殿の奥殿は、静謐に満たされている。

 ソランジュは家宰に声をかけ、今朝の様子を訊ねた。今は、お寝みになっておられるようだとの返事であった。
 くりやに入り、持参した薬種から薬湯を調製する準備をしてから、奥殿の一室に向かう。
 清爽な風の吹き込むその一郭が、アンリーの療養のために供されていた。それはかつてツァーリへ赴いたアニエス妃が最期の日々を過ごしたところでもある。
 音を立てないようにその部屋に入り、紗幕のかけられた寝所に確かに瞑目するアンリーの姿があるのを確かめる。
 ソランジュはそっと紗幕を上げ、その枕頭に立った。決して顔色は思わしくない。むしろ、食事の量を考えるとよく生きていられるという水準レベルであった。それがまた、近侍にさえ畏怖を抱かせ、遠退とおのかせる一因にもなっている。
 ふっと胸が詰まり、思わず洩れそうになった嗚咽を抑え込むためにソランジュは口許を覆った。
 風神アレンの後身。大神官リュドヴィックの依代。神懸かり、人外めいた異名ふたつなばかり奉られるこのひとの苦しみを真に理解出来る者は…きっとこの地上にいない。それでも、我が身の能う限りそれを癒やしたいと思う。それはきっと、まだ幼かったあの日に迷宮のような大神殿の書庫で出逢った、双眼を燦めかせて南海の夢を語った少年への…憧憬の続きなのだろう。
 少年は青年となり、透き通る紅玉のような双眼は暗褐色の翳りを帯びた。それでも…その鮮烈な緋の髪は些かも変わることはない。
 〝絹を血で染めたような〟。そんな恐ろしい形容をされることさえあると知っていたが、ソランジュにとっては様々に形を変え、色彩を変え、それでもなお燃えさかる炎の紅。穏やかな微笑が纏う斯くも勁烈な色彩に、ソランジュは魅了された。いや、されている。今でも。
 峻厳、冷徹。彼の影を覆うそんな評を、ソランジュは理解できない。彼は必要があってそうしたのだ。…心を千切りながら。
 千切れた心が安寧を取り戻す日は来るのか…?
 ソランジュはやつれた頬にかかる緋の髪を軽く整えてから寝所を離れ、テラスへ出た。
 木立を透かして海と空の蒼が見える、美しい庭だ。
 海と空へ向かい、ソランジュは礼法に則って祈りを捧げた。立ち上がるとゆっくりと息を吸い込む。

 ――――詠ずるは頌歌オード。海の恵み、風の慈愛への感謝。そして病み疲れた者への癒しを海と風に乞う祈りの歌。

  それはまた典薬寮の神官が実務に当たる際、自身の心身を調えるための…歌の体裁をとった呼吸法でもあった。祈りの形を借りて、自身が冷静な判断力と果断な実行力を維持出来るよう調律する手続きなのだ。
 祭文の最後の一節を謳い上げ、ソランジュはゆっくりと一呼吸しながら眼を開…こうとした。
「――――美しい頌歌だ」
 出し抜けにかけられた声に、ソランジュは噎せ返った上にその場に座り込んでしまう。
 座り込んだままという…少々締まらない格好のまま、ソランジュは恐るおそる身を捻って背後をかえりみた。
「ア、アンリー様!?」
 まったく気配はしなかった。ソランジュが祭文に集中していたと言えばそれまでなのだが、つい先程まで紗幕の裡で眠っていると思っていたアンリーが、いつの間にかテラスへ出て白い長衣を風に遊ばせながら立っていたのだ。
 陣中に在った頃には、触れれば切れるような雰囲気を纏っていたが、今はただ穏やかであった。
「驚かせたか。すまない」
「あ、いえ…お耳汚しでございました」
 ソランジュはあたふたと立ち上がり、裾を払った。
「ご気分は如何ですか?」
 紅の髪も降ろしたまま、吹く風に流している。その微笑は穏やかではあったが、別の言い方をすれば生気を欠いていた。
「起きぬけに佳いものを聴かせて貰ったからな。…すこぶるいいと思うよ」
 本人はそう言うが、明るいところで見ても、やはりあまり顔色がいいとは言えない。
「薬湯の支度が出来ております。お持ちしますから、外の空気を吸われたらお入りになってください」
「判った。ありがとう」
 ソランジュは一礼してくりやへ戻った。
 彼の傍をすり抜ける時、跳ね上がった鼓動が聞こえてしまいはすまいかと怖れながら。

***

 ソランジュがその日成すべき仕事を終えて寮内の宿舎に戻った後のことである。ソランジュの房の扉を叩いたのは、今日も昼過ぎには執務室から姿を消していた典薬寮頭であった。
 神官は寮に起居のための房を与えられる。家庭を持った神官や寮頭級の役職にある神官は個別に家を持つこともあるが、高位にある神官でも利便性から寮で起居する者が少なくない。研究者としての側面を持つ典薬寮神官は特にその傾向が顕著であった。…典薬寮頭補佐の地位にあるソランジュはその多数例に属していたのである。  寮頭クロエには一子ヴァン・クロードが待つ家もあったが、家と子供の世話を見てくれる係累がいる為、必ずしも帰宅する訳ではない。自宅と寮が概ね4割ずつというところであろう。のこり2割は、薬種を求めての野歩きの最中そのまま野宿か、さもなければ船の上なのだった。
寮頭りょうのかみ、どうなさいました…?」
「夕刻、お前が訊ねてきたときいた。他の補佐官は要件を聞いていないようだったから、一応寄ってみただけなんだが」
「わざわざ申し訳ありません、寮頭。取り立てて用というほどの…ことでは」
 ソランジュが言いよどんだ一瞬を、クロエの深い色彩の両眼が隙なく捉えていた。
「成程、取り立てて用という程のことはない…か」
 クロエは少し意地悪く微笑んで、ソランジュの肩を軽く押す。ただそれだけであったのに、ソランジュは数歩を退がってしまった。するりとクロエの長身が扉の内に滑り込む。
「謝らなくても良い。典薬寮において、用がなければ寮頭のところへは来てはいけない、というような規則はないぞ。…取り立てて用事はなくても、何か・・はあったのだろう?」
 調度といえば頑丈なだけが取り柄の質素な椅子、そして文机。あとは牀だけの部屋だ。ソランジュの傍をすり抜けて奥へ進み、その椅子へ座を占めるクロエの所作は…あまりにも堂々としていて、ソランジュには止める間もなかった。
 もとより、止める理由もなかったが。
「……審神官シャンタールのことか」
 クロエが零した一言に、ソランジュがふと呼吸を停めた。
 審神官とは、ネレイアの長たる者の、言わば表の官名だった。ネレイアはあくまで非公式な細作組織であり、その長とて公式な立場のあるものではない。
 当代の審神官シャンタールとは、当然アンリーであった。
 シェノレスの国土回復戦争において、アンリーは大神官リュドヴィックの名代として神官府の意向、もしくは決定事項を伝達する役目を担った。その神官府における官名として与えられたのが審神官シャンタールだ。位階としては大神官直下、ただし配下は誰もいないという奇妙な役職の内実を知るのは上級の神官のみである。
 ソランジュは停めた息をゆっくり吐き出し、意を決して師に向き直った。
「…あの方は、既に……海神宮わだつみのみやの招きをうけておいでなのでしょうか…?」
 死病であろうか。ソランジュはそう訊ねたのである。クロエは一旦眼を伏せたが、顔を上げて言った。
「そうかもしれない。…そうでないかもしれない。あれのやまいの正体を、実のところ私もすこし掴みかねている。心身双方の限界を超えた疲労が根にあるのは明らかなんだが、それだけでは説明のつかない部分が多すぎる」
「その…クロエ様でも…?」
 ソランジュの戸惑うような声音に、クロエは苦笑した。
「当然だ。私とて病の原因を見極められないこともあるし…手の打ちようがなくて途方に暮れることだってある」
 クロエは手を伸べて、ソランジュの亜麻色の髪に指を潜らせた。
「聡いお前のことだ。判ってはいるんだろうが時々忘れていないか?…私とてひとりの医術神官にすぎん。判らないこと…できないこと…いくらでもある」
「…は、い…」
 含羞に染まった頬を袖で隠して、ソランジュは返事を濁した。
 ソランジュからするとクロエには不可能などないかのように思える。だがクロエは常日頃からソランジュに限らず、典薬寮に仕える神官・巫女・雑色すべてに訓示しているのだ。
 ――――山ほどの書を読み、長い経験を積んだとしても、人の身で出来ることには限りがある。だから常に、起こる現象に対して謙虚であれ。自らが下した判断の無謬を妄信する勿れ。それが人の命に関わるなら、例え上位者の判断であっても、疑問を呈するに憚ること勿れ。
 そう、これはいつものやりとり。いつもたしなめられるのに。
 クロエが立ち上がって恐縮に肩を竦めるソランジュの頭を撫でた。
「…良いさ、訊いてくれてよかった。私も気になってはいるんだ。今度様子を見に行ってみる。その上でまた相談させてくれないか」
「はい、お願いします」
 ソランジュの顔がぱっと明るくなる。
 相当に思い悩んでいたのが手に取るように判るその変化に、クロエは苦笑して足先を扉に向ける。
 だが、扉に手を掛ける直前…クロエは卒然と問うた。
「…愛して…いるのか。審神官を」
 その問に答えるまでには、幾許かの時間が必要だった。言い淀み、数度口を開きかけ、その都度言葉を呑み込む。
 最後に、困じ果てたようにソランジュは言った。
「…わからないのです…」

  1. 雑色…この場合、神官府に仕えている、神職ではない(神官・巫女ではない)人々のこと。