海風の頌歌 Ⅱ

残照の日々

 神童と言われ、かつては大神官の後嗣と目されたアンリー。
 ルイの幼馴染みでもあったから、クロエは彼を幼少の頃から識っていた。
 彼が公には海神への奉献という名目で国都から姿を消したのは、わずか11歳の時。その後はネレイア、その統領ゼフィールたることを目的として育てられたはずだ。
 挙兵の夜が明け、襲撃成功の活気に満ちたエルセーニュの片隅…人も通わぬ朝の海岸で、クロエは数年ぶりに彼に会った。
 勝ち戦の一方で、死傷者が出なかったわけではない。今となっては誰とも判らないが、彼があの時、親しい者を海神宮へ見送ったのは確かだった。
 大神官リュドヴィックと海神の御子レオンのみにかしづき、後は人を人とも思わぬと評される審神官アンリーの冷徹・峻厳ぶりが周囲の反感を買っていたことも、クロエは知っている。だが、あの時のアンリーを見る限り…それが必要があって着けていた仮面に過ぎないと直観していた。敢えて言挙げすることでもなし、神官府本殿とは距離を置くクロエに、そこに言及するような機会があったわけでもないから、ひとりを除いて誰にも言ったことはなかったが。

 ――だからこそ、現在のアンリーには出来れば心安らかになる環境を与えてやりたいと思う。

 神官府本殿の家宰が、病身の…一歩間違えば物狂いとも見える奇行を呈するアンリーを持て余していると聞いて、まだ奉献される前、彼に想いを寄せていたらしいソランジュにその療養の差配を任せたのも…つまりはそのひとつであった。
 アンリーの奉献前と言えば、ソランジュとて十やそこらの童女に過ぎぬ。寄せた想いといっても、幼い日の憧憬にすぎぬであろう。だが、ただ…若くして己の責務に殉じるが如き生を歩んできたであろうあの青年に、偏見を持たぬ者を世話に当てることが望ましいとクロエは考えたのだった。
 ソランジュは幼くして両親に死に別れ、生きるために神官府へ来たも同然の身の上であった。当時既に正式な典薬寮神官として働いていたクロエは、巫女見習いとしての彼女の世話と教育を預けられていた。クロエは典薬寮巫女教育の一環として…彼女にアニエスの身の回りの世話に当たらせたのだった。
 さほどに利発というわけでも、気働きに優れているというわけでもない。ただ、己の役目に対して真摯であることについては余人の追随を許さぬ。クロエは当時のソランジュをそう見ていた。
 赤心1は通じる。甘い理想と知りつつ、クロエはそれに賭けた。ツァーリに愛児アリエルを奪われ、死病に冒され本国へ送還されたアニエスの慰めとなればと思ったのである。
 病魔と気鬱に苛まれながらも、ソランジュを傍らに置く時のアニエスはあえかに笑みをうかべた。最終的には薬石効なく没したが、彼女の存在は間違いなくひとときアニエスを癒やしたとクロエは信じている。
 そして今また、さながら実体を持たず海辺と波間を行き来する海神の使い…海精と変じつつあるようなアンリーを繋ぎ止めることの出来る者がいるとすれば…遠くマルフで陣中にあるルイや、新王として祀り上げられたばかりになかなか仮宮から出してもらえないレオンを除けば、彼女ソランジュを置いて他にいないだろう。
 アニエス亡き後、ソランジュは巫女でなく典薬寮神官となるべく勉強を始めた。正確には、彼女の志の在処を汲んだクロエが、実質的に神官の補助者という立場にある巫女よりも、より能動的に治療に参画できる神官の地位に就くことを勧めたのである。適性はもとより地道な研鑽によって、彼女はその負託に応えた。
 ――かくて、現在がある。
 際立った才覚も、天才的な閃きも持たぬ。だが、ひたすらに己の職務に真摯に向き合う。それは比類ない美質であるとクロエは思う。
 一つ難点があるとすれば、クロエを絶対視する嫌いがあることか。
 彼女が神官府に預けられて後、ずっと面倒を見てきた経緯があるから、クロエとしても部下というより身内……妹のような感覚である。その出自と将来を慮り、かなり厳格に修練を課したルイに比べると、典薬寮神官としての技術面を除けば確かに多少甘やかした自覚がないでもない。そう考えれば半分はクロエに咎があるだろう。
 だが、いつか大切なものを見つけて離れてゆく。それが自然だし、そうあるべきとも思う。
 それが、アンリーなのかどうか?
 幼い日の憧憬が、好意以上のものに結びつくのかどうか…クロエは知らぬ。しかしソランジュの憂色を見るにつけ、彼女に任せたことはあるいは残酷であったのかもしれないという想いが拭いきれない。それでも一旦任せ、そして彼女がそれを受け容れた以上…下手な忖度は却って彼女の治療者としての矜恃を傷つける。それが判るから、さしあたって静観するのが妥当という判断をしていた。
 自分がすべきは、彼女の苦渋を肩代わりすることではなく…苦渋に立ち向かう彼女を支えることだろう。
 まずは情報が必要だ。そのためにクロエは、まずは本殿への上奏のついでを装ってアンリーを見舞うことにした。
 〝ルイが心配しているから、アンリーの近況を報せたい〟。ルイをだし・・にするのは多少気が引けたが、全き嘘という訳でもないから躊躇はしない。
 家宰に来意を告げ、かつて毎日のように無力感に苛まれながら通った回廊を通り抜ける。かつてアニエスが療養していたその一隅は、十年を経た今でさえ目を閉じていても歩けるほどに知悉していた。
 だが、そうして大神官家の居住区へ入ったクロエは、ふと奇妙なことに気づいた。
 気配がしないのだ。
 人がいれば、何らかの音がする。足音、息遣い、衣擦れ。そういった音と自然音を区別することはある程度の経験と勘を必要としたが、クロエはその両方を持ち合わせていた。
 だが今、部屋の前まで来ても、いる筈の人物の音を捉えることが出来ない。
 まさか。
 クロエは足早に前室を抜けた。思った通り、寝所に彼の姿はなかった。
 話には聞いていたが、これだけ見事に気配を消されると家宰達が畏怖するのも仕方がないだろう。
 仕方なく、中庭に出る。清爽な風が吹き抜け、思いのほか眩しい陽にクロエは思わず手を翳した。
 だが、次の瞬間…忽然というより他に言い表しようがない唐突さで、アンリーの姿がクロエの視界に入った。ずっとそこにいたかのような風情で、中庭のテラスに佇んでいたのだ。
 緩く纏った神官衣が、吹き抜ける風にそよぐ。おろしたままの緋の髪もまた。
 軽く目を閉じ、風に向かって片腕を伸べている。
審神官シャンタール…居られたのか」
 クロエがそう声をかけると、アンリーはゆっくりと目を開けて振り返った。
「ええ、風がいので。…お久しぶりです、クロエ師範せんせい?」
 師範せんせいときたか。クロエは苦笑した。ルイに体術の基礎を仕込んでいた頃、アンリーは時々それに付き合っていたのだった。ここでは審神官としてではなく、かつての弟子として扱って欲しいという彼なりの意志表示なのだろう。
「お忙しいところ恐縮です…ここのところずっと、秘蔵の愛弟子ソランジュの手を煩わせてしまって…申し訳ないと思っていますよ。
 今日は、寮頭りょうのかみ御自ら診察ですか?」
 クロエは彼の意志表示を尊重することにした。
「いや…本殿に用があってね。近々マルフ島へ行くつもりだから、ルイにお前の様子を報せてやりたいと思ったんだ。心配しなくても、ソランジュはまた後から顔を出すよ」
「おや、あなたまで私を揶揄うんですね」
「揶揄ったつもりはないが。少しは、余裕が出たようだな。顔色も良くなったようだ」
「ええ、お陰様で」
 アンリーは中庭の一隅、壁面に向かって歩み始めた。
「一日も早く本復して…彼女とあなたの負担を減らさなければなりませんね。そのためにも、今の私がどのくらい動けるものか…私なりにすこし確認をしたいのですが。
 ――一手所望します、名にし負う…鋼のクロエクロエ・レ・アスィエ?」
 アンリーが向かった壁面には修錬用の棍が数本立て掛けてあった。何故そんなものがここに、と疑問を差しはさむ間もなくその一本を渡される。

 ――――かつて、イェルタのカザル砦に拠ってツァーリとの戦が繰り広げられていた頃のことだ。カザル周囲の山林からツァーリ南方軍の強行偵察部隊が接近したことがあった。たまたま主力は出撃中、医術神官たちが負傷者の後送のため砦を出て船団を仕立てている途中だったため、わずかな守備兵は騒然となったが、クロエはその混乱を抑えるために自ら籠手さえ着けぬ神官衣のまま棍一本を携えてツァーリ兵数名を叩き伏せ、偵察部隊が怯んで退いた間に船団を出港させてカザルの防備を固めたという経緯があった。
 クロエが用いたのは戦闘用の鉄棍ではなく、あくまでも警備や修練に用いる白木の棍であった。だが爾来、クロエの名にはしばしば〝レ・アスィエ〟の銘が冠せられるようになったのである。

 クロエは決して不戦主義というわけではない。護身と心身鍛練の手段として武術を修めたつもりだが、護るべきものがあるなら戦う。だが、殺さずに済むなら殺したくはない。まるで一振りの刃物でもあるかのような異名はいたく不本意ではあったが、言われるたびに打ち消してみてもきりがない。苦笑と共に流すのが常であった。
「…私はあくまでも医術神官なんだがな。たった一度のことでえらい枕詞を奉られてしまったものだ」
 アンリーが何を思ってそんな銘を持ち出してまで仕合を望んだのかは判らないが、クロエにとっても実のところ渡りに船であった。一手仕合えば、クロエにとっては相手の身体能力を推し測るには十分だ。
 受け取った棍を構えた時、その向こうにいたのは…病床にある面窶れした青年ではなかった。国土回復戦争において敵と味方に畏怖された…風神アレンの後身、審神官シャンタールアンリー。
「ご謙遜を。…では、参る」
 クロエが構えたことで、諾を得たと解したようだ。アンリーが優美に笑んで、踏み込んだ。
 その姿勢にブレはない。むしろ、神楽舞かぐらまいを見ているような流麗な動きと律動は見事でさえあった。
 鋭い打撃を受け流しても、立て直しが早い。回避も完璧。攻撃に転ずるためまでの動きに無駄がない。
 思った通り、アンリーの瞬発的な動作能力については、決して錆び付いてはいない。おそらく、自身が体調の良い時を見て修練は続けていたのだろう。物干し竿に擬態するかのように何気なく外壁に立て掛けられていた棍は、まさにそのために置いてあったに違いない。ただ、当然であるが持久力に関してはかなり厳しい状態にあるのは確かだった。
 見当がついたとき、クロエが棍を退いた。
「…ここまでだ。これ以上は怪我をする」
 アンリーが苦笑で応じてやはり棍を退き、膝を折って礼を執る。その動作には一見、そつはなかったが…くずれそうになるのを巧妙に棍で支えたのがクロエにはわかった。
「お前自身にも判っていると思うが…動きは悪くないとしても体力の低下は如何ともしがたいぞ。もう暫く落ち着いて養生することだ」
「ええ…ありがとうございました」
「何、案ずることはない。ルイは短気な奴だが、堪えるところと暴発してよいところの区別くらいはついているさ。今暫く任せてやれ」
「…そうですね。あまり私が騒ぐと『俺が信用できないのか』と文句を言われそうですから」
「さすがによく判っているな。…なら、判りついでに…」
 クロエは意図して少し険しい表情をした。
「心配をかけまいとしているのも判るが、医術神官に対して、殊…体調のことで隠し事はなし・・にしてくれ。何より彼女ソランジュに対して不誠実だぞ」
 一瞬、アンリーが息を停めたのは判った。…それで理解った。目許を緩める。
「やはり図星か」
「…狡いですよ、鎌をかけるなんて」
 クロエは薄く微笑った。
「私はソランジュと違ってスレているからな。自慢ではないが鼻も利く方だと思う。自分で確認できる事象と本人の訴えに乖離があれば、訴えの方を疑うのさ。
 …血を吐いたな? 量は多くないが鮮血、咳が出た後」
 アンリーはクロエを見つめたまま白皙のおもてを更に蒼白にしたが、ややあって目を伏せた。
「はい…」

 ――――ほぼ間違いない。アニエスと同じやまいだ。
 本殿からの帰途、清爽な潮の香が吹き抜ける小径を歩いていたクロエは、ふと足を停めて空へ向かって大きく吐息した。
 予想の中でも、最悪のものが的中した。
 そうだ、予想はしていた。決して珍しい病ではないし、衰弱の仕方がアニエスのそれを彷彿とさせることに随分前から気づいていた。だが、それをあの稀有な緋色の髪、父親リュドヴィックよりも叔母アニエスに似た面差しがそうさせるのだ…そう思い込もうとしていたのだと、あらためて認識させられたのだった。
 内心忸怩たるものがあったが、それを歎いても始まらない。
 特効薬などないが、死病とも限らぬ。必要なのは滋養と休養とよい空気。あとは本人の生きたいという強い希望だけだ。アニエスの場合、愛児を奪われた悲嘆と兄リュドヴィックへの絶望が、あれを不起の病たらしめた。
 生きる希望か……。
 シェノレスを勝利に導いた南海航路。ルイから聞いた話では、アンリーは奉献される前、既にその実現を夢見ていたという。声高に言い立てることをしなかったのは…子供の夢想と一蹴されることを怖れてか、父リュドヴィックばりの深慮遠謀のためか。前者なら可愛げがないだけだが、後者なら怖ろしいばかりだ。
 結果として……大神官リュドヴィック主導のもと南海航路は確立され、ツァーリの搾取を躱しつつ軍備を整える為の財源となった。極秘の内に進められた計画であり、それがどういう経緯であったのか、詳細はクロエも知らぬ。
 だが、南海航路構想には続きがあった。
 既知の世界を結ぶ現在の南海航路よりもさらに南へ向かう新たな海路。海の向こうは海神宮の領域、という常識は誤謬であり、南海の波濤の向こうにも人の住める土地があり、人々がいるという。

 常世国ニライカナイの彼方――海の向こう、新たな大陸とそこに住むであろう人々。

 十年前まで、少年の夢想、荒唐無稽なお伽噺に過ぎないと、一笑に付されるのが普通だった。その“お伽噺”を、クロエはかつて少女の頃、別の人物からも聞いたことがあった。…聞かされた当時のクロエはまさに一笑に付したが。
 新大陸こそ見つかっていないものの、その前段たる南海航路はいまや現実のものとなっている。今は国内を落ち着けるのが先とばかりに誰もまだそれに興味を示さないが、将来的には国を発展させる方策として衆目を集める日が来るかもしれない。

 南海航路とその先にあるもの。いまやそれだけが、アンリーの魂を繋ぎ止めることのできる唯一のものではあるまいか。

 神官府本殿の書庫には、閲覧制限のある書架がある。管理者たる書司ふみのつかさは大神官の係累に限られるが、概ね傍流の仕事ではあった。
 クロエが入り口に吊られた訪問を告げる木鉦を打つと、布沓と硬質な木の音が混じり合う特徴的な律動リズムを持った足音が書架の奥の仄暗い静謐の中から近づいてきた。
「これは……珍しいお客だ」
 当代はトリスタン。若いときに海で事故に遭ったため、右足は義足である。歩行に不自由はないが荒事には向かないということで、衛視寮を辞したのだという。
 そして数年前まで、審神官シャンタールといえばこの人物であった。
 それはとりもなおさず、この穏健な容貌と物腰の、白髪とも金髪ともつかない微妙な色合いの髪をした初老の人物が、かつてネレイアの統領ゼフィールとして動いていた時期があるということを示している。
 だが現在は、この静謐な神殿書庫の穏やかな管理人で、クロエがヴァン・クロードを預けている伯母エレオノラの伴侶でもあった。
「ヴァンなら今日は典薬寮おまえさんのところの書庫ではないかね?」
 クロエは苦笑した。
「ヴァンを捜しに来たのではありません。神殿書庫の管理者たる書司ふみのつかさ、あなたに用事があって来たのですよ、伯父上。…というか…今日は・・・、ということは、ひょっとしていつも本殿書庫こっちにまで出入りしてたんですか、あの子は」
「ひょっとしなくてもそうだよ。典薬寮のように現物はないからあまり面白くもないだろうに、いろいろ引っ張り出しては大人しく見入っているね。散らかすでもないから好きにさせているよ」
 一応部外秘の資料を収蔵するのがここの役目の筈だが、と思いはしたが、クロエはその疑問を鄭重に黙殺した。
「南海航路について…資料を見せていただきたい」
「ほう…おまえさんが薬種以外のことに興味を持つと思わなかったな」
「上つ方の許可が必要ですか? 首席枢機官リシャールとか」
 トリスタンは笑って手を振った。
「いやいや、この間からヴァン・クロードにさえ見せたものを、なんで許可が要るものかね」
「ヴァンが?」
「地図を面白がるからな」
 本当にいいのか、それで。いろいろ問題があるような気がするのだが。
「少し待っていてくれ…あ、いや、来てもらった方が早いな。いいかい?」
「はい……」
 この鷹揚な伯父について書架の間を歩きながら、クロエは普段立ち入ることのない景色を注意深く観察していた。クロエは言ってみれば現場主義なので、調べ物があれば書庫にも入るが、用もないのに書庫に入り浸ったりはしない。一子ヴァン・クロードの行動が奈辺からくるのか少々掴みかねていたが、親としてそれに掣肘を加えるつもりは毛頭なかった。
「面白い子だね、あれヴァン・クロードは」
「ご厄介をおかけしていませんか?」
「何の、むしろ楽しませて貰ってるよ。アンリーの小さい頃を思い出すね。そう、あの子も南海航路には興味を持っていたな。
 …あまり体調が芳しくないと聞いているが…やはり…悪いのかね?」
「慧眼、恐れ入ります…伯父上。
 アンリーに必要なものは、後…此岸こちらがわへの執着だけではないかという気がするのですよ。彼が見た南海の夢は、それに繋がりはしないだろうかと」
「成程ね……」
 書司は深く嘆息した。
「ツァーリを倒すための南海航路ではなく、その更に先…未知の世界か」
「正直なところ、それを知ってどうなるというものでもないかも知れません。南海への航路図があったところで、今の彼にその海路みちを征く体力はないでしょう。
 …それでも、希望に手を伸ばす気力は出るかもしれない」
 トリスタンが天窓から差し込む光へ目を遣って言った。
「此岸への執着か…。あるいは、彼を此岸に引き留めてくれる誰か…とか?」
 クロエは思わず足を停めた。
「……心当たりが?」
 義足の硬質な足音もまた、止まる。
「……いや、言葉のあや・・だよ。そうだといいな、と思っただけだ。
 陛下やルイだってアンリーのことは随分と気に掛けているが、今はあれの傍に居てやれる状況でもないしなぁ」
 そうしてまた、歩き出す。クロエもそれに続き、暫く沈黙が降りた。だが…トリスタンの言葉を反芻している内にふと思い立ち、問うた。
さきの審神官シャンタールトリスタン…ヴァン、という人物をご存知か?おそらく随分前に亡くなっていると思うが」
 僅かな間があった。
「私を前審神官と呼ぶからには……ネレイアの中にそういう人物がいたか、という問いだと思っていいんだね?」
「……はい」
「では、私がそれに答えられる立場にない、ということも…理解してもらえるだろうか」
 十分に予測された返答。クロエは僅かに目を伏せた。
「…はい…」
「でもね、君も知っての通り、ネレイアに身を置く者が俗世を棄てる証として、その名を変えることはよくある。ヴァンとかシエルフラム胡桃ノワイエシュエット…確かに…人の名としては稀なこともある。おおむね自然現象、天地有情を指す言葉だからな。だが、ネレイアに限らず風という人物がいたとしても不思議ではないね。
〝ヴァン〟・クロードの母御たるクロエ、君こそ〝心当たり〟が?」
「いいえ、そういうわけでは……」
 さすがに老獪だ。巧く躱されてしまった。
 ――――エルセーニュの総督府襲撃の翌朝…つまりはシェノレス回復戦争まさに開戦の朝のことだ。
 あの海辺で…クロエはアンリーが戦いで命を落としたであろう一人のネレイアを水葬に付したところへ行き合った。
『…今、ヴァンが…海に還りました』
 恬淡とした言葉。感情を排した表情。あれが、一人の部下の死を冷静に受け止めていたのではなく…自身の支柱に等しい誰かを悲傷とともに見送ったあとの、いわば虚脱だったのではないかと、今にしてクロエは思うのだ。
 その時のことは、長く脳裏から離れなかった。それほど深く関わるつもりもなかったのだが、短いその名の響きが何故か耳に残ってしまったのだ。
 ヴァンは…アンリーを此岸に引き留める者は、既に喪われているのか?
 アニエスの力ない微笑と、水平線を凝視みつめるアンリーのひどく透明な眼差しが脳裏で重なって、それを追い出すためにクロエは軽く頭を振った。
 人の寿命は天の賜物だ。どうにもならないことかもしれないが、諦めるのは人事を尽くしてからでいい。
 書司が立ち止まる。
「……ああ、この書架だな」


 審神官シャンタールアンリーの物狂いは少しずつ周囲の知れるところとなり、彼岸と此岸を往復しているのだ、と囁かれる始末であった。
 その病状は一応安定している。悪くならない、という程度のことではあったが、さしあたり細いながらも食事は摂れているだけよしとしなければならない。
 数日に渡るような意識消失はみられなくなったものの伏せっていることのほうが多く、それでいてふわりと姿を消す。それがまた、まったく気配を悟らせずに忽然と奥殿からいなくなるから、本殿勤めの者から気味悪がられることに変わりはない。
 皆が神殿の内外を捜し回っている間に不意に戻っていることもあれば、海辺をふらふらと歩いているのを保護されることもある。何をしていたのかと訊いてもまず憶えていなかった。

 一方でマルフの紛争は…シルメナ王ルアセック・アリエルⅤ世の采配でようやく終熄の糸口が見えてきた。
 銀狐とも評されるシルメナ王は、藩王オレン・ヴァシリスが膠着状態に倦むのを見透かしたような間合いで突如としてイオルコスまで行幸し、藩王にシェノレスとの停戦・和約を提案したのである。
 かくて正式な停戦条約の締結のためにレオンがマルフ島に赴くことになった。
 同時に傷病者の後送手配のために典薬寮から神官が派遣されることになる。駐留している医術神官もいるが、撤退ともなると規模ことが大きくなる。ある程度責任を負える立場の者が赴くべき案件であったから、寮頭クロエ自身がマルフに赴くことにした。
 補佐官級の者で十分だろう、という意見も出るには出たが、クロエが行くと言ったら行くのだ。敢えて強硬に止めだてする者もいなかった。
 不在の間は補佐官達に託す。それにあたり、整理しておかなければならない雑務もあって、この数日クロエは典薬寮と本殿の往復をしていた。

 そうして典薬寮に戻ったクロエは、例によって典薬寮の資料庫にヴァン・クロードが来ていると報告を受けて足を向けた。
 行儀よく書見台の前に座り…といっても背丈が足りないので椅子の上に小さな木箱と上着を敷いて…本を広げていた幼児が、クロエの姿を見て椅子から滑り降りる。
「おかえりなさい」
「…ただいま。ヴァン・クロード」
 こちらの目を真っ直ぐにみつめ、とことことクロエの前まで来るから、自然と手を伸べる。普段からエレオノラには「とてもよい子」と鍾愛されているが、確かに甘え上手な面はあるようだった。
 幼子を抱き上げ、書見台へ近づく。開かれていたのは図版のはいった本草学の解説書だった。名前をいくつか読むようになったらしいが、まあこの子にとっては絵本というところだろう。
「面白いか?」
 クロエの問に、幼子は満面の笑みで以て答えた。
「図版もよいが、今度本物も見せてやらないとな…」
 何気ない呟きに、幼子はふと深い色の両眼を燦めかせて顔を上げる。
「連れてってくれる?」
「ああ、だがそれにはしっかり山道が歩けないと」
 すると、真剣な眼差しで何度も頷いた。下ろしてというから下ろしてやると、本を閉じ、踏み台を使って本を書架へ戻すが早いか、またとことこと外へ向かって歩き出す。
 ふと振り返り、真面目くさってこう宣したものである。
「さんぽ、いってきます」
 いたって真剣なものだから止め損ねたが、神域から出ない限り危険はなかろう。唐突なことで、クロエは少々めんくらったが…少し考えてから、合点がいった。しっかり山道が歩けないと、というのを、足腰を鍛えるようにという意味に取ったに違いない。何とも素直なことだ。
 思わず、口許が綻んだ。
 いとけない幼児が、今確かにクロエをこの地に踏みとどまらせている。

 ――――開戦よりも少し前のことだ。いよいよツァーリとの戦に突き進むこの国に…正確に言うならそれを進めようとするリュドヴィックに反撥していたクロエは、自身のこころざしとこの国の行く先に矛盾を感じて息の詰まるような思いをしていた。
 ツァーリにアニエスを奪われたリュドヴィックの怨嗟を理解できないわけではない。だが、もっと他の…血を流さない方法があるのではないかという想いは常にあった。
 自ら剣を取って戦うことのない者が、戦を煽り立て皆を死地に追い遣るなど、あってはならないのだ。
 その一方で、典薬寮の寮頭として医薬品を含めた兵站構築の任を提示されたとき、クロエは受けざるを得なかった。戦など起きてほしくはない。だが、補給がままならず糧食や医薬品が不足すれば、悲惨な目に遭うのは実際に剣を取って戦う者達だ。その中にはおそらく、ルイも含まれる。
 その葛藤が頂点に達したとき、クロエは自らの心の均衡を保つためにエルセーニュを離れた。シルメナとの国境に近い小さな島に、薬種の調達・備蓄と輸送経路を確認するために神官を派遣する予定だったが、出発直前にクロエがその担当者と入れ替わったのだ。
 泡を食ったのは数名いる補佐官達であったが、クロエの突発的な行方不明にはある意味慣らされている。その筆頭がソランジュだが、何も疑わず「はい、いってらっしゃいませ」と送り出した直後にそのラ・ロシェルの位置を思い出し、大慌てしたとか、しなかったとか……。

 あの島ラ・ロシェルで、異界から紛れ込んだかのような不思議な旅人に会った。
 旅人とその連れが乗った船が難破し、連れとも離ればなれになってあの島に打ち上げられたのだ。傷を負っていたこともあって、迎えの船が来るまでの半月あまりを共に過ごした。
 とても不思議な時間だった。
 あの時の感情を、どう言い表せばせばいいのか…今以てよくわからない。ただ、その邂逅は…クロエの裡に新しい生命と、ひとつの覚悟をもたらした。
 リュドヴィックとでも、ツァーリとでもなく…いくさという怪物から、大切なものを守るために闘う覚悟を。

 もう、逢うこともないだろう。だが、それでよい。おそらく向こうもそう思っているだろうことについて、クロエは妙な確信があった。
 時間を共有した。互いに何かを得た。それでよいのだ。

 そういったようは、決して万人に理解されることはないだろうが。


月明かりの海
  1. 赤心…偽りのない心。まごころ。誠意。