海風の頌歌 Ⅷ

 大神殿。
 クロエが書庫の前まで来たとき、そこはいつもと同じ薄闇と静寂を湛えていた。
 木鉦の音に、薄闇の奥から書司トリスタンが特徴的な足音とともにゆっくりと姿を現した。
「おかえり、クロエ。ご苦労だったね」
「ただいま戻りました、書司。足の方は、もうよろしいのですか」
「もともとかすり傷さね。義足さえ修理できれば、何もさしつかえはない。それより…」
「ええ、今…会ってきました」
「そうか…」
 トリスタンはクロエに椅子を勧め、自らも文机の向こうにある自分の椅子に座を占めた。
「…穏やかでした」
「そうだね…。大神官リシャールの詔勅の件は?」
「聞きました。マルフ…否、ティーラに届くまでにはもう少し時間がかかるでしょうが」
「…ひと荒れ、あるだろうな」
「ないわけが…ない…」
 クロエは頭痛を堪えるように眉間に手を遣った。
「…護衛といいながら、レオンを一人行かせた咎は私にあります。何が起こるか判っていて…行かせたのですから」
「仕方ない。シャトー・サランで船団が停泊中に急病人が出た、と聞いているよ」
「それは嘘ではありません。だが、同道する医術神官が他にいなかったわけではない。護衛の任を優先させるなら、何があっても私はレオンに追従するべきだった」
追従ついて行ったところで、何かできたかね?」
 トリスタンの静かな問に、クロエは返答に窮した。そして、僅かに俯いて吐息を零す。
「…仰る通り…」
 大神官リシャールの詔勅。…曰く、〝海神の御子その務めを終えて海に還りき。その後を、シェノレスの旧き王統を以て継ぐべし〟。それは他でもない、アンリーが最期に願ったことをリシャールが追認したものだった。
 クロエがエルセーニュを出る直前。クロエはアンリーからひとつの依頼を受けた。海神窟の岩室から、あるものを持ち帰って届けてほしいというのである。
 油紙に包まれた布片と金貨。金貨の方はあるいは護符アミュレットかも知れぬとアンリーは言っていた。レオンが、南海の向こうから渡り来たことを示す異国の織物と護符は、大神官リュドヴィックがひた隠しに…いや、その存在を抹消しようとしていたものだった。
 それは、『レオンは海神の使わされた御子。海神は、シェノレスが御子の旗幟のもとツァーリに立ち向かうことを嘉したもう』という神官府の主張を通すには、甚だ都合が悪かったのだ。リュドヴィックはレオンと共に漂着した船の残骸をすべて焼き払ったが、そのふたつだけはアンリーがリュドヴィックにすら告げずに隠し持っていたのだった。
 アンリーはそれをレオンに渡し、もうこれ以上、シェノレスに縛られる必要はないことを説いたのだろう。
 レオンがこのままシェノレスに骨を埋める意志があるならいい。だが、そうでないなら…自分の命があるうちに、シェノレスという軛からレオンを解き放ちたい。それが、アンリーの望みだった。
 ――――それがたとえ、神官府への裏切りといわれようと。
「これで、ルイ坊は王朝の再興者となるわけだな」
「…本人は、微塵も喜ぶまいと思いますが。一歩間違えれば帰って来るなり大神官に剣を向けかねない」
「…かも知れんな。リシャールもそれは覚悟の上だろう。何、シエルのように衛視寮に嗅ぎつけられるようなことにさえならなければよいのさ」
「トリスタン…!」
 飄々たる調子でさらりと物騒なことを口にするから、クロエは自身の声が尖るのを止められなかった。だが、書司は毫も揺るがない。
「真面目な話だぞ。…どのみち、誰かが背負わねばならん。ルイもリシャールもそこは理解っているさ。ただ、呑み込むために各々、相応の時間と手続きが必要だ。リシャールはもう、この半年ばかりそれに向き合ってきた。
 レオンが発った今、王位を長くからにすることはできない。ルイには納得してもらわにゃならん。時間を与えてやれない分…リシャールなら黙って一発殴られてやるぐらいのことはするだろうよ。それで、このシェノレスを守れるなら廉い…とな」
 クロエは沈黙した。そうして深く吐息する。
「…そう言えば、ヴァン・クロードを見ませんが」
「あの子ならソランジュについて、レオンを見送りに行ったよ。まあ、ミランをうまく出し抜けたら、だがな。姿がないというなら成功したのだろう。そろそろ、戻ってくるのではないかな」
「…では、迎えに行ってみるとしましょう」
「そうしてやってくれ」
 クロエは書司に辞去の挨拶をして、本殿を出た。
 神官府のある高台からエルセーニュ市街へ降りる、敷石で舗装された道をゆっくりと歩いた。高台から見るエルセーニュは、既に薄暮のなかにあった。

 アンリーは逝き、レオンは南へ発った。ルイはあと数日で、友人の残した王冠をただひとりで継がねばならないという事実に向き合うことになる。

 いつか、南の海、海流の向こうへ。アンリーの誓約は果たされたが、海流を越えた先に何があるのか。答えはまだ出されていない。
 陽は落ちたが、雲は清かな月光を受けて柔らかい光を地上に投げている。
クロエはエルセーニュの向こうに広がる海と空を見渡した。

 ――――命のある限り、見届けよう。