海風の頌歌 Ⅶ

海流の中の島々

 その日の波は穏やかで、その季節としては暖かな陽光が水面に降り注いでいた。
 ソランジュは舟に揺られている。沿岸を移動する小さい舟ではあるが、舷外浮材アウトリガーのついた安定した構造で、それほど舟に慣れていないソランジュでも安心して乗っていられた。
「…大丈夫ですか?」
 櫂を握り、帆を操るのはミランという青年だった。ソランジュが舟には不慣れと聞いて、案内するのに陸路を行くべきかどうか迷ったらしかったが…ソランジュの方が大丈夫と押し切ったのである。
 それでもそう訊いてきた処をみると、ソランジュの表情に余裕がなかったのかも知れない。
 薬種を求めて峻険な山野も自在に渉猟するクロエとは違い、ソランジュはあまり野歩きが得手というわけではない。自然、実際に採集するよりも寮の中にいて集められた薬種を加工する役に回ることが多かった。況して、海神窟は政治的な意味も然ることながら実直に危険なために子供達の遊び場としては禁戒とされていた場所である。連れて行ってもらうのはいいが、自分の足で目的の場所までいけるのかどうか不安がないと言えば嘘になる。
「全く乗ったことがない訳じゃありませんから…」
 ソランジュはそう言って片手を舷側から出し、先刻から舷外浮材アウトリガーに伸びる腕木に止まってこちらを眺めている白い海鳥に手を伸べた。さながらこの短い船旅に同道するかのような風情で、ソランジュが伸べた手を恐れる様子もない。
「穏やかなものですね。…レオン様が…国王が姿を消したというのに…」
 ミランとしては居心地の悪い沈黙をつくるまいとするのか、時々話かけてはくる。だが…申し訳ないことに内容が内容なのでソランジュの方が返答に詰まってしまい、先程からなかなか話が続かない。ミランの言葉は今のシェノレスの不自然なほどの静けさを端的に言い表してはいたが、ソランジュにとってはどう答えていいものか苦慮するところだった。
 人の世がどうあろうが、海も、風も、何も変わらない…。
 そんな答えを返しそうになって、ソランジュは慌ててそれを呑み込んだ。
「…ルイ様がお帰りになるまで、まだ一般には伏せられている所為もあるのでしょう」
 あの嵐の夜、海神の御子・シェノレス国王レオンは公には消息を絶っている。
 レオンが船団を離れ単独騎行でエルセーニュに戻っていたことを含めて、今のところ事態は神官府上層のみで把握されていたから騒ぎになってはいない。だが今日の午後にはシャトー・サランで潮待ちをしていた船団が帰還するのだ。駐留軍の第一団が帰還してもレオンが皆の前に姿を見せなければ、その不在は覆いようがないだろう。
 国王不在でも、日常は神官府の各部署が滞りなく動いていれば今のところ問題は起こらない。かつて神官府と共にシェノレスの両輪を成していた王府といわれる機構はツァーリの侵攻で一旦消滅しており、現段階では仮宮を中心に再編成が進められている途上だった。本来はもっと早くに仕組みが整えられる予定だったが、マルフ紛争の勃発がそれを妨げていたのである。
 それでも日々は恙無く過ぎていく。レオンが自身を『お飾り』と自嘲した所以がここにあった。
 しかし、いつまでもこのままというわけにはいかないだろう。『海神の御子』レオンは海神の庇護を約す存在だ。それがある日突然姿を消したなどということが公になれば、混乱は必至である。
 ただあの夜、かねてから病床にあった大神官リュドヴィックがついに逝去した。リュドヴィックの長子にして首席枢機官リシャールが滞りなく大神官位を継承し、粛々と新体制が築かれつつあった。それゆえ混乱こそしていないものの、神官府はそれぞれの職務体制を整えるのに忙殺されていたといってよい。
 状況を知っているミランにしてみれば、それらすべてが不気味な静穏に思えて仕方なかったというところであろう。
 しかし、ソランジュにとっては…
「…やっぱり、変だな」
 ミランがふと櫂を止めた。
「どうなさいました?」
 ソランジュが伸べかけた手を引っ込めてミランを振り返る。
「何か…おかしいんです。平衡バランスが…」
 ミランは櫂を引き揚げると、船底の一隅…係留のための綱や雑多な道具を入れる為の麻袋がつくねられたあたりを探り始める。ソランジュが座っている舳先側とミランが立っている船尾の間、つまり艇身中程はアウトリガーに向けて渡した板が被さっており、それほど広くはないがある程度の収納が出来る造りになっていた。
 ただ乗っているだけのソランジュには見当もつかなかったが、操船するミランには乗っている人数と舟の均衡に違和感があったのだろう。だが、その理由はすぐに知れた。
 板の下、ミランが覗き込んだ方と反対側から、黒髪の幼児がぴょこりと顔を出したのだ。アウトリガーに止まっていた海鳥が驚いたように飛び立つ。顔を出した方もその羽音に少し吃驚してから、周囲をぐるりと見渡し、ソランジュを姿を認めるといつものようににっこりと笑う。
「おはよ、ランジェ」
「ヴァン・クロード!? 何故ここに?」
「ランジェ待ってたら眠くなって、ここでねてたの」
 先日、ソランジュの許へ今日のことを伝えにミランが訪れた時、確かに彼もその場にいた。ふうん、気を付けてね、という反応だったから、まさかついてくるつもりだとは思わなかったが。
 無邪気な密航者の正体を目の当たりにして、身を起こしたミランがものも言わずに額に手を当てて天を仰いだ。出航前に確認しなかった彼自身の落度だから、叱るに叱れなかった上、どうしたものか途方に暮れてしまったらしい。
 ミランの困惑を見て、ソランジュはひとつの提案をした。
「このまま一緒に連れて行くわけにはいきませんか。…差し支えなければ」
「構いませんが…それこそ大丈夫でしょうかね。舟を下りてからは、あまり道がいいとは言えない場所ですが」
「…私でいける場所なら、多分大丈夫かと」
 最近のヴァン・クロードの行動範囲を見る限り、到底自分より足弱には見えないのだ。ミランはもう一度天を仰いだが、ここまで来て引き返すわけにも行かないのだろう。最終的には頷いた。
「そういえば…書司ふみのつかさ様が心配なさるのでは?」
 隣にちょこんと座を占めたヴァン・クロードへ、ソランジュはふと気づいて問うてみた。神域内を巡り歩くくらいは問題ないとして、半日以上姿がなければさすがにクロエの留守を預かる養父母が心配するのではなかろうか。
 しかし、幼児は事もなげに…というより、胸を張らんばかりに堂々と宣した。
「だいじょうぶ。スタンに言ったら、気を付けていっておいでって。エレアにお弁当もつくってもらった。見る?」
「シュ…シュエット…!」
 ミランが低く呻く。その台詞を間に受けるなら、書司トリスタン…シュエットの名を持つさきの審神官にして実質的なミラン直属の上司は、ミランがこの幼児に出し抜かれることを計算にいれていたということではないか?
 ソランジュも一瞬開いた口が塞がらなかったが、あの一見のんびりした佇まいを思い出すにつけ、まあそんなものだろうと納得してしまう。
「全くあの方は…それならそうと私にもひとこと言って下されば…」
 言ったら言ったで…この生真面目そうな青年が幼児の同道を快諾したとは思えなかったが、ソランジュは敢えてそこを指摘することは避けた。

 そうするうちに、峻険な岩の岬が視界に入る。
「風の岬、海神窟…」
 ヴァン・クロードがそう呟いて景色に見入る。彼が絵本代わりに見ていた地図からは想像も出来なかったであろう奇観に圧倒されている様子であった。しかしソランジュにしたところでそう状況が変わるわけではない。生まれて初めてここに来た、ということに関して何ひとつかわりはないのだ。
「洞の入り口に寄せます。少し揺れますから、気を付けて」
 ミランにいわれて、ソランジュは片手で船縁を握った。もう片方の手でヴァン・クロードの小さな手を握る。
 洞の入り口が黒々と大きな口を開けている中へ、舟は入っていった。
 洞の中へ入ってしまうと、波はゆるやかになるものの…突如として風鳴かざなりがする程の風が吹き抜けるため、慣れているらしいミランはともかく、ソランジュが立っていると均衡を崩しそうになるだろうことは容易に想像がついた。
 姿勢を低くして、船縁にかけた手と、つないだ手を握り締める。
「ランジェ、怖いの?」
 不意に、ヴァン・クロードが問うた。少し心配そうに、ソランジュの顔を覗き込んでいる。
「ちょっとね。あ、ごめんなさい。痛かった?」
 この小さな手を強く握りすぎてしまっただろうか。ソランジュが慌てて手の力を緩める。
「ううん、大丈夫」
 ヴァン・クロードはそう言うと笑って握りかえし、小さな身体をぴったりと寄り添わせた。
「怖くなくなるおまじない!」
「…ありがとう、ヴァン・クロード」
 ――幼児に気を遣われてしまった…。
 状況が状況とはいえ、自分のふがいなさに頭の上に石でも載せられたような重みが加わる。後ろで櫂を握るミランが抑えた笑いを零すのを聞いてしまっては、尚更だ。
 ひとつ大きく息を吸って、呼吸を整える。
 かつては反逆者であるアレンの墓所ということでツァーリへの聞こえを憚り、また崩落事故が頻発したことから立ち入りが制限されてきた風の岬。その内部を穿つ巨大な海蝕洞…海神窟。そこには昔、神殿があったとも言われる。
 そして十余年前、海神の御子レオンが漂着した場所でもあった。
 ミランに案内されて舟を降り、ソランジュはヴァン・クロードの手を引いて岩伝いに洞内へ入った。
 巨大な本洞から無数に伸びている自然の岩穴と後付けの隧道。それらの中のどれを、どれだけ進んだのか。小さな石室があちこちにあり、分岐も多い。おそらく、もう一度辿れと言われても無理だろう。
 そうするうちに、ひとつの石室の前でミランが足を止める。威儀を正してその奥に向かって一礼した。
「この奥が、風神アレンの墓所だったところです。ここは以前、赤い水がたまって一面真っ赤だったそうですが…いつかの地震のあと、水の抜け道ができたらしくて水が溜まることはなくなりました」
「…ここなの?」
 ソランジュにも、ヴァン・クロードが息を呑んだのがわかった。つないだ小さな手にも力がこもる。そうだ、だれもが知っている。ここは、大侵攻に最後まで抗った緋の風神アレンが生きながら葬られた場所。確かに今、岩室の床はわずかに湿気を含んではいるものの、水が溜まってはいない。ただ、至る所に赤褐色の堆積物が乾いて張り付いている様は、以前の光景を推し測るには十分だった。
 ヴァン・クロードの緊張を読み取ったのか、ミランが補足する。
「…誰かから聞いたのかい?風神アレンの遺体は数年前に儀礼に則って海に葬られたから、もうここにはない。格子も取り払われた。あるのは空の石棺と、ここで見つかった短剣だけだ。
 …さあ、いこうか」
 ソランジュとヴァン・クロードもまた、墓所へ向かって一礼してミランに続いた。
 もう暫く行ったところにまた岩室があり、そこにソランジュをここに招いた人物が待っていた。
 海神の御子、シェノレス王レオンそのひとである。
「レオン兄ちゃん!」
 ヴァン・クロードがレオンを認めて喜んで走り出し、ぶつかるようにして抱きついた。
「お前まで来ちゃったのか…」
 それを受け止めながら、レオンが苦笑する。
「…陛下、ご依頼のものです」
 ミランが鄭重に、油紙の包みを差し出す。
「済まない、手間をかけさせたな」
 レオンは受け取り、包みを半ばまで開けた。油紙の下は、絹布であった。絹布で包まれたその中身を確認すると、再びくるむ。
「…ソランジュさん、あなたに…頼みたいことがある」
うけたまわります、陛下」
「あの夜から、色々考えた。でもやっぱり、これ以上アンリーを待たせられない。俺は行くよ」
「…はい」
「ルイには悪いと思ってる。でも他に、もうどうしようもないんだ。だからソランジュさん。申し訳ないけど…ルイに伝言を頼みたい。これと一緒に」
 レオンは包みを差し出した。ソランジュが受け取り、中身を見る。予測はしていたものの、思わず息を呑んだ。
「陛下…」
 油紙と絹布の中に包まれていたのは、王府の主、国王の位を示す額飾りサークレットであった。ティーラへも持っていっていた筈だが、おそらくは船団にそのまま預けていたもの。それを、どのような手段によってか、ミランがここまで運んだのだ。
「それを、ルイに預かってほしいんだ」
「…陛下…!」
 包みをかき抱き、ソランジュは声を詰まらせた。
「海向こうにも大陸がある。その航路が見つかるまで、ルイにこれを預かって欲しいんだ。
 皆で行くって決めた。ルイが舟を作ってくれるって言った。その約束を忘れたわけじゃないが、おれは先に行く。これ以上、アンリーを待たせられないから。
 …ルイに、そう伝えてほしい」
 ソランジュは数度口を開きかけた。だが、その度に喉を堰かれて言葉を呑み込んだ。結局、ソランジュが口にすることが出来たのは、ごく短い言葉だった。
「…謹んで、拝命いたします。陛下…」
 渡された包みを抱いたまま、ソランジュは静かに身を折った。
 それをただ黙して見届けたミランは、その岩室の一隅にある小さな鉄扉に近づいた。懐から鍵を出し、解錠する。
「…シエル、出ろ。統領ゼフィールからの命令を伝える」
 解錠された鉄扉を内側から押し開け、出てきたのは…過日、奥殿…大神官家の私邸へ侵入したあの青年だった。多少やつれた様子が見える。
 統領からの命令、という言葉に、シエルという青年は扉から出てきたその場に膝をつき…拝命の礼をとった。
「天文寮神官・ユリス=オリヴィエは、マルフ紛争における戦病死1とする」
 ソランジュは、青年の肩がびくりと揺れるのを見た。
 書司が本名と、ネレイアとしての名である〝シュエット〟を使い分けていたように、「ユリス=オリヴィエ」が本来の、この青年シエルの名前なのだろう。
 大神官の私邸に侵入し、その一族に刃を向けたあっては…処分は免れないと書司トリスタンは言っていた。シェノレスにおいて大神官家は国主一族と同等である。況してやネレイアは他でもない、大神官直属の細作組織だ。しかもネレイアとして知り得た通路を使っての暗殺未遂となると、死罪は確定である。しかし本来その意図もなかった上に未遂であること、そしておそらくは当事者たる審神官の意向を汲んで、敢えて天文寮神官としての地位を、その存在を抹消するにとどめる。それが、ネレイアの裁定なのだった。
「――――シエルには以後、南海へ旅立つ御子レオンの水先案内を命ずる。知識と経験のすべてを注ぎ、統領に代わって御子の旅を支えよ」
 暫時の沈黙があった。だが結局、シエルはその頭を深く下げて言った。
「…拝命します」
 それを聞いたヴァン・クロードが、小さな手を伸べてレオンの袖を握り、声を絞るようにして訊ねた。
「兄ちゃん、海流の向こうへ…いくの?」
 国王を捕まえて兄ちゃん呼ばわりではあるが、この場にいる誰一人としてそれを咎めだてする者は居ない。レオンはヴァン・クロードの艶のよい黒髪の上に手を置いて言った。
「…うん、行ってくるよ。ずっと前から、そうしたかった。皆と行く約束だったけど、もう…これ以上アンリーを待たせられない。俺が先に行って、航路を見つけてくるよ。
 常世国より向こうに、きっと人の住む陸がある。それを見つけたら、今度こそ皆で行こう。
 …でも、ユリス…じゃなくて、シエル?お前は、それでいいのか?
 一応の経緯いきさつは聞いてる。でも本当に、いいのか。言っちゃ悪いけど、楽な道程じゃない。命懸けだし、何の見返りも期待できない。天文寮神官としての途は閉ざされたかもしれないけど、シェノレスの何処かで、別の誰かになって、平穏に暮らすという選択肢だってあるかも知れない」
 俯いたまま、シエルは更に頭を深々と下げて言った。
統領ゼフィールのご下命なれば…」
 膝をついたまま、シエルはそう応えた。これ以上は無意味か。レオンは吐息した。
 ミランが言葉を続ける。
「この件、審神官アンリーたっての願いにて、既に大神官リシャールの裁可を得ております。…陛下、何卒お聞き届け願わしゅう…」
「そっか…リシャールさんがね…」
 レオンの口許に、雑作に似合わぬ苦い笑みが閃く。
「じゃあ、シエル。…よろしく頼むよ」
 レオンが身を屈めて手を差し出した。頭を上げかけたシエルにそれが何を求めてのことか判らないわけはなかったが、ただ困惑を湛えて再び頭を下げる。
「同道をお許し頂き恐悦。至らぬ身ですが、我が身に能うすべてを賭けて、案内あないつかまつります」
 レオンは再び…先程よりは幾分明るさはある苦笑をうかべ、拝跪するシエルの手を取って握手した。
「アンリーが望んだってことは、お前はアンリーの名代ってことだろ。肩こる言葉遣いはなしにしよう、な?」
「はい…」
 困惑が完全に拭われたわけではない。だが、シエルはようやく顔を上げた。

 南の海は、残照で橙赤色に輝いていた。
「シエルは…シエルもまた、南海航路…あの方が見た南海の夢…その熱烈な信奉者だったのですよ」
 ミランは今まさに沖に消えなんとする孤帆の遠影を見遣りながら、吐息雑じりに言った。
統領ゼフィールに対してもまた、敬愛…というよりもはや崇拝に近かったのではないかと…思います。それだけに、ギルセンティアの一件で統領がひどく憔悴しておられたのをひどく気に掛けていました。
 何があったのか判ったのは…つい最近なのですがね。おそらく統領は前大神官へ報告は入れておられたのでしょうが、我々がそれを知ったのがつい最近という意味です」
 それはソランジュへの説明のていをなしていたが、ソランジュにはミラン自身が状況を納得するための手続きのように思えた。だから、ソランジュはただ静かに聞いていた。ヴァン・クロードはといえば、そのソランジュの傍らにちょこんと座っておとなしく集めた貝殻を波で洗っている。
「アニエス様がデュナンの一族に我々と連絡を取る方法をお示しにならなかったのは…おそらく、御子アリエル様の身の安全を慮ってのこととは思います。しかしおそらくはそれがきっかけで…デュナンの一族をして神官府への不信感を抱かせ、最終的にマティアス=デュナンをしてネレイアの活動を掣肘するかのような挙に出させてしまったのでしょう。
 無論、前大神官リュドヴィック様がおられたからこそ、シェノレスはツァーリの軛を斬り落とすことができた。でもその一方で、障害となるものを容赦なく切り捨てる前大神官の非情さに…ネレイアの中でさえ疑問を持つものがいました。就中なかんずく、シエルは…あの方が大神官の方針に倣ってデュナンを切り捨てたのだと思って…激発したのです」
 ミランが一度言葉を切り、唇を噛み締める。そして改めて、口を開いた。
「事実としては確かにそのとおりなんでしょう。でも、シュエットも仰っていたように…ほかにどうしようもなかったのですよ。リオライ=ヴォリス暗殺はあの時点での最優先事項だった。だから、あの方は自らをその任に当て、その責任のすべてをご自身で背負われた。
 裏切られた、と感じたのかも知れません。あの方は皆が言うような、大神官の依代などではないと…シエルは信じていたのでしょう。だからあの方の口から、否定してほしかったのかも知れません。
 ええ、そうですよ。あの方はリュドヴィック様の依代などではない。だからその思惑を理解した上で、その非情な決断の代替案を出せなかったからこそ、苦しみながら…他でもない自らをその任に当てられたというのに。…勝手な話です。
 多分…頭に血が昇って奥殿に踏み込んだものの、あの方にまみえたその瞬間、シエルはその苦衷を理解してしまったのではないかと思うのです。
 シエルは私と違って、天文寮神官としての職務もありましたから…お倒れになってからのあの方にまみえる機会はありませんでした。だからこそ倒れてから後の…あの方を一目見てしまったら…自分が何をしに行ったのか、どうしたらいいのか判らなくなってしまったのでしょう。
 ――――でも、その坊やには申し訳ないことになってしまった」
「…?」
 ヴァン・クロードが貝殻を洗う手を止めて、不思議そうにミランを見る。
「…済まない、気にしないでくれ」
 小さな子供が身に過ぎる衝撃を受けたとき、その記憶が飛んでしまうことはままある。ミランはヴァン・クロードの表情をそのための空隙と解して流そうとしたが、ヴァン・クロードは小さく頭を振って笑った。
「ぼくが大きな声上げちゃったから、あのお兄ちゃん、吃驚したんだね。大丈夫、なんともなかったし、気にしてない」
「…!」
 岩室の鉄扉からシエルが出てきたときも、この幼児が向けたのは開けっぴろげな興味の視線だけだった。ソランジュでさえ、ヴァン・クロードがてっきり憶えていないのかと思っていたのだ。
 肝が据わっているというべきなのか、鷹揚なのか。もしくは少々鈍いのか。いずれにしても一番怖い目を見たはずの当人がけろりとしているので、ミランはふっと息を吐いた。
「…そう言ってもらえると、私としても気が楽になるよ。
 シエルは確かに短慮だった。だが、立場が逆だったら…私だって冷静でいられたかどうかわからないんだから」
 ソランジュはそれを聞いて、託された包みを握った手に思わず力を込めてしまう。
「処分としては重い…のですよね。それでも受け容れたというのは…彼はその短慮を悔いていたのでしょうか…?」
「無論、悔いていたでしょう。彼自身も南海の夢を見ていたというのもあるかも知れません。でも、シエルが即答だったのは…それよりも多分、私が伝えたのが…遺詔・・であると察していたからではないかと思います」
 最後の一言は、発するために少なからず力の要るものだったのだろう。ミランは、喉奥から押し出すように一気に言った。
 ソランジュの肩が震える。搾り出すような声も、また。
「私…とうとう言えませんでした。〝まだ、待てる〟と仰った、あの方の言葉を信じて発つレオン様に…!」
「…ランジェ…?」
 様子を察したのか、ヴァン・クロードは貝殻を置いて立ち上がり、ソランジュの頬に両手を伸べた。そうしてソランジュの頬を伝う滂沱たる涙を懸命に拭う。
「ランジェ、ランジェ…何で泣くの…?」
 ソランジュは何事かを言おうとしたが、嗚咽に喉を堰かれて声を出せなかった。だから、ひどく戸惑い、窮している幼児をその腕に包み込み…ただ、抱き締めた。

  1. 戦病死…軍人・軍属が従軍中に病死すること。