緑瞳の鳥

 午後の陽が、その部屋にも暖かく差し込んでいる。
 一夜明けたが、少女はまだ眠り続けていた。しかし顔色は悪くない。これはもう純粋に、無茶苦茶な雪中行の疲労の所為であろうと見えた。大きすぎる牀の中、柔らかなふすまにくるまって眠る少女は…丁度陽だまりにくつろぐ猫を思わせた。時折寝返りをうつが、目覚める様子はない。
 サーティスは窓の外へ視線を転じた。
 大公家所有というだけのことはあって、館の広さは十分にある。無論庭園もそれなりの広さを有しており、まだ雪を被った庭園の木々は、それでも少しずつ春に向けて目覚めかけていた。
 この雪が、この冬最後の雪だという。これが消えれば、ノーアに遅い春が来る。
「それにしたって…腹は減らんのか?」
 聞こえる訳もないが、すやすやと実に気持ちよさそうに眠る少女のつやの良い前髪をかきやって問う。
 一昨日の夜降った雪に埋もれていたということは、一昨日の夜から今日にかけて食べたものといえば昨夜半睡半覚で啜った重湯だけということになる。とても育ち盛りの子供の一日の消費量に足るとは思えない。
『顔色は悪くないし、身体も十分温まっている。発熱もしていませんし、多分疲れているんですよ。お腹が空いたら目が覚めるでしょう。いつでも食べられるように用意した上で、まだ眠らせておいてあげた方が良いと思いますよ』
 愁柳の言葉はもっともだった。そんな訳で、目覚めたとき少女が戸惑わないように…今朝からずっと側についていたのだ。
 ふと、窓の外…雪でない白がサーティスの目を射た。
「あれは…」
 少女を見る。まだぐっすり寝入っていて、しばらくは起きそうにない。すぐ戻るつもりで、サーティスは部屋を出た。
 ─────白というより、薄紅。一輪一輪は仄かに紅をさしているのに、遠くから見ると白い霞が掛かったように見えるその花を見つけ、その木の下まで歩いた。見上げると重なり合う薄い花弁の向こうに、穏やかな陽が輝く。
 西方にしかない木だと思っていたが、案外あちこちにあるものだ。ツァーリにある木はもう緑の葉が陽を照り返している頃だろうが、ここの木はまだ三分咲きというところだ。
 立ち止まり、サーティスは苦笑した。何でこんなものを見にわざわざ出てきてしまったのだろうと思うと、苦笑するよりなかったのである。

 この春、サーティスは実に十年ぶりに生まれた国へ戻った。…そして、追憶の風景の中に…喪ったひとの姿を見いだしたのだ。

 十年を経て再会した彼女の姿に、一瞬…十年前に喪ったときそのままの姿だと錯覚した。
 だがそんなことはあり得ない。八歳の童女ケレス・カーラが十年経って彼女の姉マーキュリア・エリスとよく似た姿に成長しただけのことだ。 彼女カーシァは生きていた。死を偽装されただけだったのだ。

 永遠に喪われたのは姉のほう。エリュシオーネのマーキュリア・エリス。

 サーティスが王都を脱出するきっかけになった事件。…それは、後に襲い来た数々の絶望の…ほんの始まりに過ぎなかった。カーシァを皮切りに、ライエン、マーキュリア…短時日のうちに、喪いたくないものを次々と喪った。それは紛うことなく自身の力無き故であったから、かなり自暴自棄になった時期もある。それでもいくつかの出逢いが現在の自分を創った。いまだ何も成せず、何が成せるかすらわかっていない。だが、手探りではあっても前に進むことができると…おぼろげに感じ始めて、ようやく故国の土を踏む決心がついたのだった。

 どんなに似ていても、彼女カーシァは彼女。マーキュリア・エリスではない。離別したとき、自分はたった十三歳の子供で、彼女カーシァは八歳の童女だった。許婚といったところでお互いがそうと決めていただけで、その意味を深く考えるには互いに幼すぎた。それでも、生きていたカーシァに再会できたことに有頂天になっていたのだろう。自分レアン・サーティスの帰朝が、現在の彼女には憂慮の種子にしかなり得ないことに気づくのが遅すぎた――――。

 彼女カーシァは新しい名を得、館を出ていた。新しい名前セレス新しい生き方第三隊の氷刃。それもいい。それでいい。そう思った筈なのに、思わずこの手を伸べてしまった。その結果を考えもせずに。

 苦しめるつもりなどなかった、と言ったところで…全ては遅い。

 かつて、力無きが故に全てを喪った。だが、今度は浅慮の故に大切なものを傷つけたのだ。自身の愚かしさに絶望しかかっていたが、旧い友人との再会は最悪の事態だけは回避させてくれた。
 彼女が新しい名を得るきっかけになった人物は、旧知エルンストだった。…笑えてくるほどに何も変わっていなかった。実直で、豪胆で、そのくせ本当に欲しいと思ったものに手を伸ばすことだけはひどく臆病。あの不器用な朴念仁がようやく一線を踏み越える勇気を奮い起こした結果に出くわしたのだと知ったとき、サーティスは笑うしかなかった。

 幸多かれ。願わくば次に会ったとき、素直に彼女の現在の名を呼ぶことができれば…

 人の気配を感じて、サーティスは振り返った。
 たくさんの蕾をつけたその枝の下に、少女はいた。寝巻きのまま、はだしのままで。悲しすぎる夢を見たように、その小さな、鮮烈な緑の瞳を涙でいっぱいにして…。
「…ああ、悪かったな、一人にしておいて…」
 サーティスは少女のそばに行って膝をつき、顔を覗き込んだ。
「どうした、夢でも見たか?」
 少女は何かを言おうとして口を開きかけたが、ふと口を閉ざして唇を噛み、ぽろぽろと涙を零してしまう。
 言ってしまいたいことは山ほどあるのだ。だが、言えない。そんなもどかしさが全て、涙になる。だがまた幼いだけに、泣くことだけは素直にできる。何があったのかは知らないが、そのことだけが今はこの子の唯一の救いと見えた。
 サーティスは泣き続けるその子を抱き上げて、とりあえず部屋へ戻った。早春とは言え、まだ雪の残るノーアは寝巻き一枚では寒すぎる。
 牀に降ろしてやっても、すわりこんだまま暫くはまだしゃくり上げていたが、ようやく泣き止んだ。
「…名前は?親はいないのか?」
 そう問うてみたが、少女は何も言わずに見つめ返すばかりだった。通じないのかと思って、自分のとんでもない失敗に気づく。ツァーリ、ノーア、龍禅、シルメナ、リーン、果てはシェノレスまで多様な言葉を母国語同様に話す彼だがさすがにサマンの言葉には手がまわらない。
 待てよ、とサーティスは思った。この子がアズローに連れて行かれることを拒否したのは、確かにノーアの言葉ではなかったか。
「名前は?」
 ゆっくりと、明瞭な発音を心がけ、改めてノーアの言葉で問う。少女は反応しなかった。
「…まいったね、どうも」
 言葉が分からない訳ではない。喋れない訳でもない。…となると、故意に黙っているとしか考えられない。
 沈黙が、流れる。事態が膠着してしまったところに、ノックの音がした。
「私です。いいですか?」
 よくない訳がなかった。この状況をどうにかするには、とりあえず自分では駄目らしい。
「…助かった、愁柳…どうにかしてくれ」
 どうもここのところ、調子ペースを乱されっぱなしのサーティスであった。

***

「…ほーお、結局私だったから駄目だった、ということか?」
 愁柳と交代して階下の厨房に食事を取りに行っていたサーティスが戻ってきたとき、開口一番飛び出した台詞は…少なからずひがみっぽくなってしまった。
 少女は明確な拒否こそしなかったが、何処かサーティスを警戒していた。だが、今彼女は愁柳の膝に抱かれて、無邪気にその漆黒の髪で遊んでさえいたのだ。
「その髪ですよ、サーティス」
「…何?」
 盆を卓の上に置いたとき、愁柳の言葉の意味に咄嗟に思い当たらず聞き返した。
「あなたのことをノーアの人間だと思って警戒していたんですよ。一応もう話しておきましたから」
「…ヒドい話だな、ノーアの人間なのは俺じゃなくて、愁柳だろうが」
 苦い顔をしてソファに身を沈める。愁柳は笑った。
「こんな髪をしていて、ノーアの人間だなんて誰も信じやしませんよ。この子も信じてくれませんでしたから」
「…え、それじゃ…本当に?」
 少女の手が止まる。
「ノーアの人間ですよ、私は。…尤も、そうなったのはついぞ数年前の話ですけどね。でも、安心なさい、ここにいる間は誰にも手出しはさせませんから」
 少女は暫く俯いていたが、ひょいっと愁柳の膝を降りるとサーティスに近寄った。
「…?」
「あの、ね、ごめんなさい。ええとね、あなたとってもノーアの言葉…上手だったから…てっきりノーアの人だと思って…」
 いまだノーアの言葉がそれほど流暢という訳でもないらしい。サーティスは笑って頭を撫でた。
「まあ、無理もないさ。心細かったんだろう?」
 少女は赤くなって俯いた。
「で?もう話してくれてもいいだろう。名前は何ていうんだ?」
 だが、そう尋ねたとたんに少女の顔はこわばり、唇は引き結ばれる。
「おい、愁柳…」
 振ってはみたが、振られたほうも肩を竦めるだけだった。
「だめなんです。何故かそういうことに関してはちっとも喋ってくれない」
 仕方無く、少女に視線を戻す。少女は唇を引き結んだまま、目の縁を赤くしていた。
「おい、泣くなって…」
 泣くなと言われれば引っ込む涙も引っ込まないということが、サーティスにとって理解の域を越えていた。
「名前…なんて…ないんだから…!…そんなもの、氷の海の中に…放りこんできちゃったんだから!!」
 わっと泣き出されて、サーティスは眉間を押さえた。
「駄目ですよ、泣かしちゃ」
「俺の所為だってのか!?」
「少なくとも、私の所為じゃないと思いますよ、今のは」
「──────!」
 けろりとして言われ、頭痛を覚えた。この男が見かけよりはるかにしたたかで、くえない性格なのは西方時代から薄々気づいてはいたが…。
「…さ、もう何も聞きませんから…機嫌を直して。少し何か食べた方が良いですよ。お腹が空いているでしょう?」
 愁柳が少女を優しく抱き上げてそう言うと、少女はぴたり、とはいかなくてもかなり速やかに泣き止んだ。そして言われるままに食事を摂り、とりあえず腹一杯になって眠くなったのか、愁柳の膝の上で眠りこんでしまった。
「…愁柳が子供の扱いに長けているとは思わなかったな」
 愁柳の黒髪をしっかり握りしめて眠りこんだ少女の寝顔を覗き込んで、思わず揶揄ともやっかみともつかない科白を口にしてしまう。だが愁柳はそれには笑みで答えただけで、それもすっと消して言った。
「…どうやら少し、分かってきましたよ」
 少女を牀ヘ戻し、上掛けを襟元まできちんと掛けてやってから…愁柳がゆっくりと振り返る。
「場所を変えましょう。どうやらただの家出騒動では済みそうにありません」
 そういえばこの午前中、来客があったようだった。誰が、どんな情報をもたらしたというのだろう。

***

 案内された愁柳の私室は、薬湯の材料を入れた壺に壁の二方までを占領されている。目を患ってから、自分なりに治療を試みた流れで本草学に興味を持ち、ノーアに来てからもこの地の薬種を集めているという。
 佐軍卿として多忙な中でよくもこれだけ、という種類と量であったが、本人が言うには愁柳がそういったものを集めていると知った部下や里人が事あるごとに雑多な薬種を献じてくれるのだそうだ。はずれ・・・も多いらしいが、その中でも珍しい物や、貴重なものがあると、案内させて採集したりもしているらしい。
「それでこの質と量か。人徳と言うべきだな」
「息抜きに職権を行使しているようで気が引けるんですがね。まあ、いずれ何かの役に立つかも知れませんし。
 あぁ、入り用のものがあったらいつでもお持ち頂いて構いませんよ。あなたの場合ご本職・・・ですしね。役立てて頂ければ幸いです」
「当てにさせて貰う。ところで…」
「ええ。…どうやら、つながってきました。アズローに、サマンの一部族の刺客が入りこんでいるようなんです」
「…刺客…?」
 いきなり話が物騒になった。
「狙いはノーア公か、銀姫将軍か。…それとも、愁柳か」
「誰でもありません」
「まさか、あの坊やか?」
「…彼は言わばとばっちりですね。本命は、おそらくあの子ですよ」
「……!?」
 訳が分からなくなって、サーティスは口を噤んだ。
「あんな子供に、殺されなければならないような何かができるとは思えんな」
「そのとおり。実は今朝、ラースが大公殿下の使で来ましてね」
「…ああ、あの、正直の上に何かつきそうな従者殿か」
 一応面識はある。銀姫将軍ナルフィリアスの近侍衛士だ。実直という言葉が服を着ているような人物だったことだけが印象に強い。
「一昨日から今日にかけて、二人ばかりの刺客が討ち取られ、一人が捕らえられたそうです。…それが妙でしてね。刺客なら刺客に適したものを送ればよさそうなものなんですが、全員どうやら祭司に当たる者達らしいんです」
「祭司…?」
「そして、彼らが討ち取られたのは、リオライを害そうとしてのことだったらしいのです。彼は今あの通りですが、彼の周りにはちゃんとそれなりの者達がいますから、どうにか事なきをえたんですけれどね。
 …サーティス、あなたならこの事実からどういう結論を導きますか?」
「おい、愁柳…」
 愁柳の深い色の瞳は、先刻あの子供をあやしたときとはまるで別人のようだった。
「彼らは戦の続きで刺客なぞ送ってきた訳ではない。〝黒髪の子供〟を彼岸に送り出すために、わざわざ祭司・・がアズローまでやってきているんです」
「祭司が強制的に生あるものを彼岸に送り出す…とすれば、その理由はただ一つ。神への〝贄〟か」
 サーティスが眉をひそめて吐き捨てるように言った。
「…蛮族が…!」
 神などこの世に在ろうはずはない。居もしない者のために人の命を奪うなぞ、ばかげている。
「…本当か嘘かは知りませんが、昔こんな話を聞いたことがあります。
 ――――ある処では、漁のときに水に落ちた漁師を救い上げることはしないそうです。何故ならその漁師は水の神が欲した贄だから。…それどころかその漁師が自力で這い上がっても、周りの者はもう彼を死んだものとして扱うのだそうです。贄に逃げられた水の神を怒らせないために…。
 それだけ、神への贄と定められたら絶対なのでしょうが、選ばれる理由なんて、存外そんなきっかけなのかも知れません」
「それがさらに凶悪になったら、祭司が出向いて送り届ける、という訳だ。…は、ご苦労な事だな」
 自分はこんなに激しやすかったろうかと思うほど、激しい言葉になった。それに気がついて語気の槍をおさめ、供された薬湯を含む。
「…贄となることを栄誉と考える習俗は珍しくない。だがあの子に関する限り納得ずく、ということでは絶対にないな。あの子供の目は死を求めてはいない。…何らかの禁忌に触れたか」
「そんなところでしょう。ともかくも神への贄と定められ、殺されかけた。どういう幸運かそこを逃げ出せたが、祭司は追ってくる…」
「…帰るところもなく、逃げた先はノーア。サマンだと分かれば殺されかねない…か」
「リオライが暫くあの子を匿っていたらしいのです。あなたの言っていた傷も、おそらくは祭司からあの子を護ろうとして…。その関係で、あの子を見失った連中がリオライを狙ったのでしょう。大公邸近くをたむろするぐらいですから、連中としても決死の覚悟だったはずです」
「…成程」
『…僕の怪我が自分の所為だって思いこんじゃって…家を飛び出したんだ』
『…知られたく…なかったんだ…だから…フレイのとこから針と糸だけ持ち出して…』
『あそこには…帰れない…だめ…』
  ────これで大体、繋がった。
「…だとすると、そのうち危険にさらされるのはここということになるぞ。俺がここにくる間、誰にも見られていなかった訳じゃない」
「そういうことになるでしょうね」
「落ち着き払うな。…こうなったら、一刻も早くノーアを離れさせた方がいい。イェンツォ…いや、龍禅の辺りまで逃れればとりあえず安全だろう」
「部族の祭司を鏖殺する訳にもいきませんから、最終的にはそうせざるを得ないかも知れませんが…ひとまずここで脅しをかけて、以後の追跡を諦めさせるようにしては?」
「本来なら逃亡というのは癪に障るし、別に祭司どもを鏖殺することになっても俺は一向に構わん。…だが、そうすればこの館に危険が及ぶ」
「サーティス…」
「愁柳が今一番気にかけていることは、この館の平穏だろう?」
「いいところを突いてますが、残念ながら・・・少し違うんですよ、サーティス」
 愁柳は優しい笑みをして言った。
「確かに今、此処を騒がせたくはないんですが…護りたいのはこの館そのものではないんです。それに…」
「…〝それに〟?」
「あの子の瞳と髪の所為でしょうね。他人とは思えなくて。あの子のこれからのことも含めて、私の力の及ぶかぎりのことをしてやりたいんです」
「…やれやれ、相変わらずお優しいことだな。長生きできんぞ」
「おや、あなたに人のことがいえるとでも思っていたんですか?ここのところ不安定な大陸街道、一人旅だって危険なのに、子連れで行こうなんて少々のお人好しで出来ることじゃありませんが?」
「…拾った責任だ」
「ま、そういうことにしておきましょうか」
 笑いながら、愁柳が立ち上がった。
「いずれ彼らがここを嗅ぎつけるでしょうから、キルナへの道にいくつか使い鳥を配置しておきましょう。お客様がきたときに、出迎えの準備もないでは失礼に当たりますからね。
 ところで、問題は…こと此処に至って彼女の所在をリオライに知らせるべきか…!」
 不意に、愁柳の手が椅子に掛けられていた刀にかかった。それは、サーティスが小剣を抜き終えるのとほぼ同時だった。
「だめ!言っちゃだめ!」
 だが、明け放たれたドアの向こうにいたのはあの少女だった。
「言わないでよ!絶対に、戻れないんだか…ら…!」
 また泣きそうになったとき、愁柳に抱き上げてもらってすっと涙が引っ込む。
「分かりました、言いません。その代わり、理由をちゃんと言ってください。そうでないと、どうしてだめなのかさっぱり分からない」
「言ったら…黙っててくれるの?」
「約束します」
 暫く迷ったらしかったが、余りにもきっぱり言われてようやく意を決したらしく…少女が頷いた。

***

「全然…わかんなかった」
 大人用の椅子は少女には座面が低すぎ、仕方無くクッションで高さを合わせ、ようやく肩から上を卓の上へ出して座っている少女。彼女が最初にぽつりと言ったのは、その言葉だった。
「怖かった…父さんも母さんも…ううん、もう父さんでも母さんでもないけど…助けてくれなかった。だからもう、あたしには名前なんかないの。あんな人たちのくれた名前なんて、あたしは要らないから」
 最後の言葉は、ちゃんと顔を上げて、半ば宣言するように放たれた。愁柳が優しく尋ねる。
「…リオライは、君を何といって呼んでいたんですか?」
「リィ…」
 少女は一旦俯いた。
「名前がないと、話がしづらいからって…名前、くれたの。うーんと西のほうの言葉で木、っていう意味の、〝マキ〟」
 言ってから、しゃくり上げる。
「…マキ?」
「…うん…。木の下に隠れてたとこ、見つかったから」
「いい名前ですね。それじゃ私もこれからそう呼びますが、構いませんか?」
「…うん」
 目を擦りながら、そう答えた。その時、かたんと音がして空の茶碗が転がる。
「?…サーティス?」
「…なんでもない」
 空になっていたとはいえ茶碗を取り落とした上、決して〝なんでもない〟という顔色ではないなとは思ったが、愁柳はそれ以上追及しなかった。追及しても無駄だと悟ったからでもあるし、今は追及できるような場面ではなかった。
「…私は席を外そう」
 サーティスが立ち上がる。愁柳はそれを止めなかった。