第壱話 ”Ordinary but Happy Days” 


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

アスカの荷物持ちに徹して帰宅したシンジは、「ただいま」をいう相手もないドアを押した。
 ここには数年前まで、3人が暮らしていた。シンジと母・ユイと、そして父・ゲンドウが。しかしユイは「病気療養」ということで今ここにいない。どこに入院しているのかすらシンジには知らされていない。ゲンドウはそれと前後してほとんどここへは戻らなくなった。仕事場―――なんとかいう研究所―――にほとんど泊まり込むようになったのだ。ここに戻ってくるのは荷物を取りに来るくらいか。
 結果、シンジはほとんど一人暮らしに近い生活であった。
 生活費の心配はないものの、14歳の自炊生活というのもあまりといえばあまりな話である。アスカの母である惣流キョウコあたりは、いっそ惣流家で面倒を見ても良いくらいに思っていたのだが、一応ゲンドウがここを住所として置いている以上、いくら家族ぐるみのつきあいをしてきたとは言ってもそれ以上突っ込んだ話は出来ないのが現状だった。
「困ったことがあったら何でも言いなさいよね。アンタ、要領悪いし言うこと言わないから・・・・」
 アスカは事あるごとに、足を肩幅に開いて両手を腰にやるあのポーズで叱りつけるように言うのだが、そのときのシンジの答えは決まっていた。
「大丈夫だよ、アスカ」
 そういって、微笑う。全く、つくづくつよいのか弱いのか分からない。
 一人分の食事は不経済だ、としばしばアスカがタッパに入った煮物や何かを持ってきてくれることもあったが、今日はとりあえず作らないと何もない。
 シンジは鞄をリビングへ放り投げるとキッチンに明かりをつけた。この年齢ですっかり自炊がイタについてしまったシンジは、冷蔵庫を開けて中身を一瞥するだけで今日の献立を決めてしまっていた。
 音がしないのは嫌いだった。だから、TVをつける。なにをやっていたって構わないのだ。
 ご飯は朝にセットしてあったものがタイマー通りふっくらと炊き上がっていた。先日捌いておいた魚を焼きながら、その傍らで海草を戻して簡単なサラダを作る。
 一人分の夕食がダイニングに並ぶまで30分少々。
 箸を置いて、椅子に座ろうとしたとき、シンジの視界に白い靄が映った。
 靄。いや、それは天井の一隅から吊られたドライフラワーだった。白のカスミ草。母がこの家から居なくなる少し前に、ふとしたことで貰ったカスミ草をドライフラワーにするといって吊していたものだ。
 これをそのままにして、母は居なくなってしまった。
 シンジは椅子を引き摺っていき、それを踏み台にセピア色の花束をフックからはずした。埃が舞い、思わず息を詰める。
 脆い茎を折らないようにそっと包みをほどき、手近な花瓶に抛げ入れた。
 ふと思い出す。
「そっか・・・綾波って、かあさんに似てるんだ」

 12畳はあろうかというフローリングの、半分近くまでが電源コードとパソコンケーブル、そしてそれに接続された機械の数々に占領されていた。
 その前に座っているのは、花屋でレイの傍らにいた少年だった。レイの、青みがかってさえいるプラチナブロンドとは違い、やや色調が柔らかい。しかしそれでも銀としか言いようのない髪。ディスプレイ上の文字と数字を追う瞳は真紅。
 そのタイピング速度はとても常人のものとは思えない。
 センターラグの上に寝転んでクッションを抱いているレイは、ディスプレイではなく彼の手元を見ながら言った。
「今日、碇君って子に会ったの」
「ふうん」
 彼の手は一瞬たりとも止まらない。レイの方を振りむく事もない。だが、至って優しく、彼は応えた。
「で、どんな子だった?」
「ん・・・・」
 レイは返答に詰まったらしかった。意味もなく数度寝返りを打ってから、挙げ句、天井の照明に視線をあずけて呟くように言う。
「・・・・いいひと、みたい」
「レイがそう思うんなら、きっとそうなんだよ」
 きわめてあっさりと、彼は言った。そのあまりな明快さに却って腹を立てたレイがやおら向き直る。
「カヲル、聞いてる!?」
 そのとき、耳障りなエラー音が響いてディスプレイが「WARNING!」の文字に満たされた。
 思わず肩を竦めるレイ。
 しかしその警告された当のカヲルは至って平然と回線を切断することで警告を止めた。
「ごめん・・・邪魔した?」
「いや。そろそろ気づかれるころだったんだ。さすがに「ネルフ」の誇る「MAGI」だね。ここ程度の機材じゃなかなか割り込ませて貰えない」
 そういって先刻レイがいれてくれた紅茶を口に含む。
「待って。それ、冷めてるよ」
 跳ね起き、カヲルの手元からカップを攫う。カヲルがカップを押さえる暇もない素早さだった。実は後からとっておきの瓶から数滴を落としたのだが。「とっておき」の購入自体がレイには秘密なのだから、うっかり文句も言えない。
 ひどく情けなさそうな顔できれいさっぱり芳香が消えたカップを受け取るカヲル。さては、ばれたか。
「そういえば、レイと同じクラスだっけ」
 零れたミルク、もとい流しに消えた「とっておき」を悔やんでも仕方ない。きれいさっぱり頭を切り替えて、カヲルは話を戻した。
「うん・・・」
「話とか、するの?」
「・・・・時々。あんまり、きっかけとか・・・なくて。でもね、今日、廊下でぶつかりそうになっちゃったの。そっか、カヲルとの待ち合わせに遅れそうになってて、急いだから・・結局あんまり話せなかったんだ・・・」
「話してみればいいのに」
 レイは鳩が豆鉄砲をくらったような表情になって固まってしまった。
「・・・気安く言ってくれるわ」
「僕が2年の教室まで出向いて話するより、余程自然だと思うけどな。ここは一発、レイの魅力でデートに誘うってのはどう?」
「・・・・・・・!」
 物も言わずにレイがクッションを投げつけたので、カヲルは慌てて回避した。
「あぶないなぁ。お茶が零れたらどうするのさ」
「真面目に聞いてるの!」
「真面目だってば、僕だって」
 ティーカップを安全圏(・・・と思われるあたり)へ避難させて、カヲルはレイにクッションを返した。おとなしくそれをまた抱きかかえるレイ。
「話してごらんよ。別に悪いことじゃないと思うけどね。・・・・あのひとも、多分僕たちが理解りあうことを望んでいると思うよ」
「・・・うん・・・」
 レイはまたしばらく考え込むように視線を落としていたが、立ち上がってティーカップを流しに持っていった。
「・・・・おやすみ、カヲル」
「おやすみ。・・・なんなら照明を落とすよ?」
「いい。どうせここで寝るもの」
「はいはい。じゃ、毛布を持っておいで」
「うん」
 ラグを引き寄せ、クッションを枕に毛布をひっかけただけという格好でレイは目を閉じた。
「おやすみ、レイ」
 カヲルの手が、薄青い銀色の髪に触れる。いくらもたたないうちに、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 細い肩が、規則正しく上下しはじめるのを見届けて、カヲルは再びパソコンに向き直った。

 ――――――実際、もう手詰まりなんだ。

 カヲルの表情は、つい先刻レイと話をしていた時とはまるで別人のようだった。