第壱話 ”Ordinary but Happy Days” 


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 日曜日。
 レイは、昨夜結局カヲルが戻らなかったことに一抹の不安を覚えつつも、待ち合わせ場所である学校へ急いでいた。何せ寝起きの良いカヲルが居なければてんで時間通りには起きられない。
 ありていに言えば、低血圧なのだった。
 この時間だと、めいっぱい急いでも刻限ぎりぎりがいいところだろう。折角シンジが誘ってくれたのに、遅刻などという醜態は晒したくなかった。
『ひょっとすると土曜日は帰れないかもしれないけど、待ち合わせに遅れたりするんじゃないよ、レイ』
 結局そのとおりになりつつあるのだから、レイとしては言葉がない。
「おはよー!」
 息せききって駐車場へ駆け込んだが、実のところそこに顔を揃えていたのは加持、ミサト、ヒカリ、トウジ、ケンスケだけだった。
「おはよ、綾波さん。ひょっとして走ってきたの?そんなに急がなくたってよかったのに」
 荷物を投げ出し、膝に両手をついて肩で息をしているレイを見ながら、笑う。
「え・・・?でも・・・時間・・ぎりぎり・・・でしょ?」
 息があれているので台詞が細切れになる。ミサトがこれも笑いながら手を振る。片手には携帯電話。
「だぁいじょうぶよ、レイちゃん。なんたって、たった今起きたってゆー寝坊助がいるんだから」
「え?」
「さっきアスカから電話があってね、碇君たらついさっき起きたんですって。アスカが出がけに前を通ったらまだ牛乳が入れてなくってね、変だなと思ってインターフォンで呼んだら慌てて飛び起きたらしいわ」
「元来、あいつは寝起き悪いで。一人暮らしになってからミョーにかっちりしてきたらしいけどな」
 これも人のことは言えない。朝食とおぼしきパンをかじりつつ、トウジ。
「なぁんだー・・・・」
 気が抜けたように座り込むレイ。
「大丈夫?その勢いだと、綾波さんも朝ごはん食べてないでしょ」
「うん、もう起きたら時間ぎりぎりで・・・」
「これ、あげるわ。実は私もさっき食べたとこなの」
 ヒカリがそばかす顔をほころばせつつ、コンビニで買ったとおぼしきコッペパンを差し出した。じつは彼女は4時に起きてお弁当作りに精を出したのだが、包むのに手間取って自分の朝食の時間が取れなかったのだ。

 約10分後、アスカに引き摺られるようにしてシンジが到着した。
「ご、ごめんみんな・・・・」
 朝っぱらから謝りどおしのシンジをあらためてアスカがこづく。
「あんた莫迦ぁ!? ったく、いつもは私より早起きなくせに、何ボケたことやってんのよ!?」
「ごめん、アスカ・・・・」
「だからその、すぐ謝るクセはなんとかしなさいって言ってるでしょ!そういうとこが内罰的っていうのよ!」
「まあ、アスカちゃんもそれくらいにして。いいじゃない、そんなに遅くなったって訳でもないんだから」
 見かねたミサトが助け舟を出す。ヒカリにしろ、ミサトにしろ、アスカとシンジのやりとりがあれはあれで本人たちには一番自然なものなのだと分かってはいても、ついシンジが気の毒になってしまう。
 かくて、一行は出発した。

 最大9人乗り、というだけのことはあって、大人2人、子供6人が乗ってもあまり狭いという感覚はない。
 運転席には無論、加持。後部シートに(アスカ言うところの)3莫迦トリオ。前シートにヒカリ、レイ・・・そしてアスカ。助手席はナビのため、ミサト。
「葛城、ナビ頼むわ」
 この加持のひとことでなし崩しに決まった席割りに、一番不満だったのは勿論アスカだった。
「加持さぁん!どぉしてよぉ!! ナビシステムなんかちゃんとついてるじゃない!!」
「ああ、ごめんなアスカ君。俺、こいつ苦手なんだわ」
 苦手な人間が、何で、一般化しているとはいえ決して安価な代物ではないナビシステムを搭載しているのか。別の用途があることなど思いもよらないアスカは力一杯ふくれて見せる。しかし、
「それとも、アスカ君がナビしてくれるかい?」
 ・・・・・出来ない相談だった。これでようやく諦める。無論、後でとばっちりを受けるのはシンジであった。・・・まこと、御愁傷。
 加持のとなりに座れないばかりか、よりによってミサトがその座を占めているのをおとなしく後ろから見ているようなアスカでもない。わざわざ大きな音を立ててシートを回転させ、後部と対面にしてしまう。
「・・・もてるわね、加持」
 にやにや笑いながら助手席からナビシステムを操作するミサト。加持は少し声を落とし、ナビの画面を覗き込む振りで身を乗り出すと囁くように言った。
「ひょっとして、妬いてくれてる?」
「だぁああれがっっ!!」
「・・・そんなに力一杯否定しなくても・・・」
「いっちょまえに傷ついたような顔すんじゃないわよ。前見て、前!」
「はいはい・・・・」
 台詞と裏腹に、加持の表情にはしてやったりという彩が浮かんでいた。無論、ミサトは押し寄せる敗北感に気合で体面を保っているのだ。
「へえ、碇君も朝はダメなんだ?」
 変わって、後部座席。レイの別に揶揄するでない、きれいな笑みでそう問われ、シンジは真っ赤になって応えた。
「うん・・・最近は、そうでもなかったんだけど・・・その、今日はちょっと・・・」
 なお赤くなって小さくなるシンジ。まさか、言えない。ひさしぶりに夢を見ていたからだ・・・・などと。
 夢。かあさんの夢。かあさんがいなくなった直後は、よく見ていた。それもひどく哀しいイメージに支配されたものばかり。しかし、一人暮らしに慣れてしまってからはそれもなかったのだ。
 どうして、あんな夢を見たのだろう。
「私も朝はダメなのよ。起こしてもらわないと、遅刻寸前まで寝ちゃうの。今日もね、実は時間ぎりぎりだったんだけど、碇君のおかげでたすかっちゃった」
「そ、そうなの?」
 悪戯っぽく言うレイに相槌を打つつもりで顔を上げ、レイの笑顔が眩しくてつい俯いてしまう。
「大丈夫?碇君、顔赤いわよ?熱でもあるの?」
 そう問うたのは、委員長はもはや天職、根っから世話係のヒカリである。
「そんなことないよ、平気」
 何で、レイのときだけそんなに真っ赤になる訳!?
 一人胸中穏やかでないアスカ。
「別にシンジとは幼なじみ以上の何者でもない」という建前、そして自身も「大人」の加持にひかれている手前、言葉に出してシンジを詰るようなみっともないマネをするようなアスカではない。しかし、自分とは全く違うタイプの、しかも美少女にシンジが少なからず関心を抱いているという事実は彼女にとって快いものではなかった。
 彼女自身、おとなげないとは分かっていても。
 寝が足りなかったか、大口をあけて睡眠モードに突入するトウジ。
 カメラの最終調整、そして撮影に余念のないケンスケ。
 ヒカリやレイの他愛もない話に、時々赤くなりつつ応じるシンジ。
 助手席で早速ビールをあけているミサト。
 それを運転席で呆れたように見る加持。
 楽しいピクニックは、まだ始まったばかりだった。

 彼らを目的地で待っていたのは、けぶるような紫の花だった。
「すっごーい。こんなところでもラベンダーって育つのね!」
 アスカが先刻までの鬱々とした表情を一気に払拭し、車を降りるが早いか入り口の花壇を埋め尽くすラベンダーへ駆け寄る。ヒカリとレイが追いつくまでに一枝折ってしまっていた。
「だ、ダメよアスカ、そんなことしちゃ!」
「だぁいじょうぶよ。一枝くらい、わかんないって」
 折り取ったそれをティッシュで包み、胸ポケットに忍ばせる。あたかも香水をつけたかのような芳香をまとうアスカ。
 道中ずっと喋り続ける女の子のパワーにあてられ、些か疲れぎみのシンジと、寝ぼけ眼のトウジ。ひとり元気なのはカメラと一体化したかのようなケンスケだった。
「ほらほら、入園ゲートはあっちよぉ」
 350ml缶にして3本はあけたはずだが、きっちり素面のミサト。・・・おそるべし。
 このシーズンは「ハーブ」をテーマにしているとのことで、中央のテーマ館・・・ガラスのドーム状の屋根を持つ温室・・・には、世界各地のハーブや、それにちなんだ展示がなされていた。
 昼食までには十分な間があり、彼らはテーマ館を見物してから遊歩道を通って芝生の中の休憩所へ行くことにした。
 本物のハーブを見た後のエリアには、ハーブティーだのハーバルバス用の小袋だの、これでもかというくらいのハーブグッズが揃えてある。若い女性にはウケることだろう。案の定女性陣はここですっかりひっかかってしまい、シンジや加持、トウジはテーマ館を出たところの待合所ですっかりぐだれてしまっていた。ケンスケが何をしていたか・・・・ここに書くまでもない。
「女の人って・・・元気ですよね」
 時計を見て、些か呆れたようにシンジが言った。
「女性は向こう岸の存在だよ。俺たちには思いもよらないことで、とんでもないエネルギーを発揮するものさ」
 達観したような加持の台詞は、シンジを疲れさせただけだった。だが、ふと思いついて問うてみる。
「綾波って・・・よく社会科の参考ディスクって見に行くんですか?」
「ん? あ、ああ、どうだろうね。俺が見たのはあれ一度だったように思うが」
 シンジにミサト並みの観察眼があれば、加持の一瞬の動揺を察知したかもしれない。
「そうですか・・・」
 こころもち俯いてしまったシンジに、つい悪戯心を出す加持。
「気になるのかな、ん?彼女のことが」
 この問いかけに対するシンジの反応は激烈だった。
「いっ・・・いや、あ、そんなんじゃ・・・そんなんじゃ、ないです・・・!!」
 顔を真っ赤にして、声が半ば裏がえっている。道行く人が一瞬振り返るほどだった。それに気づいて、小さくなるシンジ。
 やれやれ・・・・。台詞の数十倍は雄弁なシンジの態度に、加持は天を仰いだ。余りにも出来すぎた展開だった。・・・さては。
「シンジ君。気になる女の子の興味の対象ぐらい、自分で研究するもんだぞ」
 そういう台詞で笑い飛ばし、その場を切り抜ける。・・・切り抜けるも何も、今のシンジに加持に対して何らかの詮索をするだけの余裕はなかったが。
 結局、ミサトたちがテーマ館を出てきたころには昼が下がっていた。
 諦めのよいシンジや悟りの境地に至っている加持はともかく、トウジときたら。まるでおあずけをくらったまま目の前にある餌に蟻がたかるのを見守る犬のような表情であった。
「早いとこ、メシにしようで。腹と背中がくっついてしまう」
 それはもはや、ブーイングというより哀訴に近かった。

 トウジの至福の時間が始まる。
「いやーこれがやっぱり生きとるシアワセってやつや!」
 アスカとヒカリ、そしてなぜか加持が腕を振るったランチが、青空模様のピクニックシートの上に並べられる。時間のなかったレイは、食後のおやつを振る舞うことでなんとか体面を守った。
「がんばったんだねぇ、アスカ」
 シンジが素直な賛辞を贈る。しかし、当のアスカはといえば、自分の作った卵焼きよりも加持の作ったものの方が塩と砂糖のバランスがよいことに気づいて静かに落ち込んでいた。
 ヒカリの料理の腕には定評がある。だが、彼女にとってはどんな賛辞よりもある人物が幸せそうに料理を平らげてくれる光景が嬉しかった。おいしい料理が幸せな者、その食べる姿を見て幸せになる者。もはや、お幸せに!としか言いようのない雰囲気がシートの一郭を占めていた。
 そして、ミサトはといえば。
 普通は飲食物持ち込み禁止のはずのこういった施設の中で、驚異的に規則がゆるくお弁当を公然と広げられる場所であるとはいえ、さすがに周囲を慮ったのと、近くの自販機に酒がなかったため、信じられないことにお茶で済ませた。
 彼女の場合、それでも十分楽しくやれるのでいっこうに問題なかったが。
 食事の後、集合場所と時間を決めて自由行動ということになって、アスカはすかさず加持の袖を引っ掴んだ。
「ねぇ、加持さぁん。あっちいこうよ」
「ああ、いいけど・・・他に誰か行くかい?」
 加持がそう言って振り返ったものの、背後のアスカの眼光を恐れてケンスケすらも同道を断念した。
 かくて、加持とアスカが高山植物のエリアへ、残りが熱帯植物を集めた大温室へ向かう。

「暑ーい・・・・・」
 熱帯植物を集めたエリアなのだから当然といえば当然なのだが、特にレイは暑さが苦手らしく、額に玉のような汗を浮かべていた。
「大丈夫?レイちゃん。少し休んでたほうがいいんじゃない?」
 ミサトがレイの顔を覗き込んで聞いたが、レイは笑って大丈夫と答えた。
「大丈夫って顔じゃないよ。私がついてってあげるから・・・・」
 ヒカリがやおら園内案内図を引っ張り出し、一点を指した。
「ほら、ここ。休憩所だって。あとから私がジュースかなにか買ってきたげるがら、すこし休んで」
「う、うん・・・」
「そうね、丁度歩き疲れてきたころでしょ。ちょっと一休みしましょ」
 ミサトの一言で、事が決した。
 大温室と言っても、それぞれ温度や湿度が微妙に異なる、個々には独立した4つのエリアをつなげたものである。休憩所はその真ん中にあった。休憩所というよりれっきとしたレストハウスであり、中はよくクーラーが効いていた。
 実はけっこうバテていたミサトは冷えた空気を呼吸し、感慨深げに呟く。
「う~んやっぱりクーラーは人類の至宝!」
 さすがに人が多く、6人一緒の席は取れなかった。トウジ、ケンスケとミサト、そしてレイ、ヒカリとシンジという二組に別れて座る。
 セルフサービスということだったが、真っ先にヒカリが席を立って「ついてあげてて」とさっさとカウンターへ行ってしまったので、シンジはレイの側に残った。
「綾波、気分どう?」
「ん、大丈夫だよ。ごめんね、心配かけちゃって」
「そんなことないよ。みんな、歩き疲れてたとこだったし」
「・・・・やさしいんだ、碇君って」
 そう言って見つめかえされ、少なからず慌てる。だから、必死になって話題を探す。
「あ・・あ、そうだ、綾波、誰か身内の人が入院してるの?」
「?」
「先週、花屋でカスミ草買ってただろう?実は僕、あのとき反対側の店にいたんだ。アスカの買い物につきあわされてさ。・・あの花と・・綾波の顔を見てたら・・・・ああ、お見舞いなのかなって思って・・・・・ごめん、詮索するようなこと言って」
 レイが、赤い瞳を見開いてシンジを見つめる。まるで、信じられないものを見たように。だが、間を取り繕おうと必死のシンジはそのまなざしに気づかない。
「僕の・・・・・かあさんがね、やっぱり入院してるんだ。とうさんが、入院先も教えてくれなくて・・一度もお見舞いに行ってないんだ。もう・・・・何年になるだろう。もし行けるんなら、カスミ草・・・持っていってあげたら喜ぶだろうなって・・・」
 そのとき、レイが不意に立ち上がった。
「・・・・あなた、 ほんとうに何も知らない・・・・・・・・・・・の・・・・!?」
「・・え・・・・?」
 シンジは硬直した。何を言われたのか、一瞬理解できなかったからだ。
 そして、理解不能の言葉からおぼろげに何かを感じ始めたとき、シンジは気づいた。・・・というより、思い出したのだ。この平和が、平穏な日々が、かりそめの幸福でしかなかったことを。
 失踪に近い形で、療養を理由に姿を消した母親。
 それに相前後して、家に戻らなくなった父親。
 どう考えても異常な状況。それを仕方のないことなのだと、やむにやまれぬ事情なのだと思い込もうとしたのは、シンジ自身だった。
 療養だって!? かあさんは身体なんか悪くなかったよ!!
 何が忙しいの、父さん!かあさんが居た頃は、どんなに忙しくたって、ほんの数分しか帰れなくたって、毎日ここに帰ってきたじゃない!!
 どうしちゃったのさ!! 二人とも、何処へ行くのさ!?

 僕を置いて、何処へ行くの!?

―――――自分が、それなりに幸せであると思い込もうとしただけ。
―――――目の前の悲しいことから、目を伏せただけ。

 その場所だけクーラーの恩恵から取り残されているかのように、シンジの額は汗を浮かべていた。
 見開かれた両眼の焦点は、自分の指先を彷徨うばかり。
 レイは、言葉を失ったように立ち尽くしていた。