第Ⅱ章 ”Fill my heart with song・・・”

fill my heart with song

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


 ――――――――ここ数日来、カヲルは部屋に引き籠っていた。
 イスラフェルについてヴァイオリンを始めた頃から、少しずつ表情が増え、会話からぎごちなさが薄れてきていた。その矢先のことだった。
 まず、部屋に人を入れたがらない。
 会話に、表情が伴わない。

 反応リアクションはあっても自発的な行動がない。
 まるで振り出しに戻ったかのようだった・・・・・。
 無理もないことなのかもしれない。「死」もしくは「消滅」という言葉のもつ意味を――――記号以上の何かを――――を初めて感じ取ったのだ。
 周囲――といってもイスラフェルやマトリエルくらいのものだったが――はカヲルの沈黙をそう解釈し、とにかくそっとしておくことで意見を一致させていた。
 しかし、カヲル自身の心の裡はそれほど明快ではなかった。
 「死」というもの。それが一つのきっかけであったことは間違いない。「死」が、「喪失」が、あるいは「消滅」が心の裡につくるもの。それに気がついたとき、カヲルは自分の裡に闇を見たのだ。
 闇。底無しの闇。それは虚無と呼ばれるものであったかもしれない。

―――――――あるいは、「渚カヲル」という存在にとってのパンドラの箱。


Senryu-tei Syunsyo’s Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」

第Ⅱ章 ”Fill my heart with song・・・”


C Part

 相談しなければよかったのか?
 第3新東京市のジオフロントではなく、欧州のある場所ににアダムの存在を感じた。
 ガギエルは行ってしまった。
 そして何も起こらなかった。
 あれから何度翔んでも、その場所に存在は感じられなかった。
 不条理と知りつつ、サハクィエルはひとり後悔の念にかられる。
 確かにあれはアダムだったのだ。
 だから、ガギエルは滅ぼされた。おそらくは、エヴァに。
 アダム。我らの母たる存在。そして我らが還るべき存在。

「おいで・・・」
 苔生した木の根の間から、それはおずおずと頭を出した。
 子猫。生まれて3ヶ月というところか。母猫からはぐれたらしい。ひどくびくびくして、不安げな上目づかいでカヲルを見ている。
「おいで、ほら」
 その微笑みにほだされたわけでもあるまいが、子猫は少しずつ近寄ってきた。
 カヲルの手にくるまれ、僅かに身動きするが、結局抱かれるままにしている。ほどなく心地よさそうな喉声を立てながら、目を閉じてしまった。
 いまこうして戸外に出て、迷い猫を相手に表情らしいものすら見せているとはいえ、先日来の兆候がすべて消えた訳ではなかった。むしろ、問題を潜在化させることで、無意識的に破滅を回避したにすぎない。そしてそれは、カヲル本人が誰よりもよく理解っていた。
 彼は自分が何者であるのか、知っているつもりだった。しかし、それは誤りだったのだ。
 ――――――自分の裡には闇がある。
 その認識は、カヲルから自然な笑みを奪っていた。笑うことが出来ない訳ではない。表情を作ることはできるが、感情が伴わないのだ。その気になれば万人を魅了しうる微笑を湛えて見せることもできただろうが、その内側に歓びはなかった。悲しみも、寂しさも、また。
 だから、何の表情を浮かべることもなくガギエルを送ることもできた。
 ガギエルが赤いEVAに内側から引き裂かれるのを見届けることもできた。
 硝子の向こうの景色を見るように、冷静に。
 サキエルの時は、失神同様に同調を断ち切ってしまったが、カヲルは既に同調する感情・感覚を自由に設定できるところまで到達していた・・・・・・・。
「変なものに興味を持つんだな」
 カヲルが振り返ると、そこにはひどくアンバランスな二人組がいた。
 浅黒い肌の、長身の男。
 白いというより青白い顔と、銀の髪。そして冷たい碧眼がひどく不健康な印象を与える少年。
 長身の男はゼルエル、少年の方はバルディエル。カヲルの朧気な記憶は、二人にそんな名を振り当てていた。
 カヲルの手の中の子猫は、怯えたように毛を逆立てる。
「やめてくれないか。怖がってる」
 カヲルは無表情に、そう言った。
「僕は何もしてないがね」
 バルディエルの、色の悪い唇が動く。その声は、年齢不相応に低い。
「この子に対して、害意を持っている」
「エンパシーか。器用なもんだ」
「違う、君じゃない。そっちの人。それに、エンパシーなんか使ってない。心を直接触れ合わせるんだ、こっちだって相手は択ぶ」
 カヲルの言葉に、攻撃的な要素はなかった。ただ、冷たい。・・・というより、素っ気ないのだ。先刻子猫を懐かせた微笑は別人かと思える程に。
 浅黒い男のほうが、言葉もなく地を蹴り、身を乗り出す。猫の方はもう恐慌状態である。
 カヲルが猫を庇うようにして一歩退いた。
「僕らが何者であるか、忘れかけてるんじゃないのか、タブリス」
 バルディエルが、冷たい笑みをして言い放つ。
「自己以外の対象について何らかの”感情”を持つなんて、まるでリリンみたいだよな」
 カヲルは何も応えない。子猫を腕の中に庇い、透明な眼差しで二人を見ている。
「ゼルエルは、それが気にくわないんだってさ。どうやら分かってないみたいだから教えてやるけど、こいつは猫なんかどうだっていいんだ。他でもない、おまえの存在が気にくわないんだよ」
 そう言い終わるのと、ゼルエルがカヲルに掴み掛かろうとするのが同時だった。
 だが、その腕がカヲルに触れる直前、ゼルエルは獣のような呻きを発して横転した。
「・・・!?」
 呻きながら地べたを転がり回るゼルエルの身体から、薄い白煙が上がっている。そして顔と言わず服と言わず小さな焼け焦げがついていた。
 同時にバルディエルの足元には、黄色い結晶がこぼれ落ちていた。ゼルエルが直接身に受けてしまったものを、彼は己の能力で凍らせたのである。
「危ないじゃないか!!」
 バルディエルが加害者に向けて非難がましい視線を投げる。
「危ないのはそっちだ、莫迦野郎!!」
 そう怒鳴りつけたマトリエルの右手首は、鋭利なナイフで切り裂いたように口を開けていた。しかしその傷口を覆うのは、粘性を持った黄色い液体。掌を伝い、指先から落ちた雫を受けた小石が、白煙を発して融解する。
「ちゃんと抑えとけよ! 凍らせるばっかりが能じゃないんだろうが!! ・・・・カヲル、こっち来い。そんなのの近くにいるんじゃない」
 黄色い液体をまといつかせていない左手を差し出す。素直に従うカヲル。しかしその左手は、人差し指の爪だけが黒く鋭角的に変形し、血をこびりつかせていた。カヲルは動じなかったが、差し出してしまったマトリエルは苦笑し、その手を引っ込めた。
「びっくりさせたな、ごめんよ」
 そう言う間に黄色い液体は全て落ちてしまい、あとには赤い傷口があった。しかしそれも左手で押さえている間に癒着してゆく。黒い爪も見る間に剥がれ落ち、あとには何の変哲もない爪が既に生えていた。
「サハクィエルが探してたぜ。また何か、新しいデータが見つかったらしい。行ってやってくれ。俺はもう少し、こいつらに話があるんだ」
 この時だけは、マトリエルも努めて笑おうとしていた。カヲルは一瞬、もの言いたげな目でマトリエルを見たが、それを呑み込んだ。言ったのは、ただ一言。
「ありがとう」
 マトリエルはカヲルが家へ戻るのを見送り、ややあってまだ転がっているゼルエルに近づいた。その顔には、一抹のいたましさがある。
 ゼルエルがとかく力に訴えるのはもとからだが、現在のゼルエルはそんなレヴェルをはるかに飛び越えている。際限なく攻撃的であり、衝動的。会話は成立するかしないか、微妙な境界線上にあった。バルディエルの能力を使ってなんとか今の生活を保ってはいるが、バルディエルが戯れに手綱を緩めた途端に、これだ。
 脳の一部に損傷を受けているのかもしれない、とサハクィエルは言う。
「おまえ一人に荷を負わせて、済まないとは思ってるよ」
「・・・いずれ僕にしか出来ない。どんなに済まないと思って貰ったところで、代わって貰える訳じゃない」
 バルディエルは冷たく言った。
「それに、この家の者は誰しも・・・多かれ少なかれそう思っているんじゃないのか? ・・・あいつは、その存在自体リリンの匂いがする」
「・・・・」
「ゼルエルはストレート過ぎるだけだ。誰だって不快なのさ。エヴァもそうだ・・・・リリン程度に取り込まれた同胞を見るのは、いやなものさ」
 バルディエルの青白い顔にあるのは、行き場のない苛立ち。それは、 あるいは自身もリリンに利用されているのではないかという不安に根ざしている。それが理解るのは、マトリエル自身も一度通った径だからだ。
「・・・・たとえカヲルが、リリンの策謀から生み出されたものであったとしても・・・」
 マトリエルは遥かな空・・・かつては父なる存在の御座所と言われていた空の高み…至高天の蒼セレストブルーを見上げて、言った。
「それはカヲルの所為じゃあるまい?」

 サハクィエルが見つけたのは、第3新東京市庁舎のデータバンク。その中の、「榊タカミ」の名を持つ人物に関するデータだった。同名の人物は複数いたが、手の込んだアドレス隠しやMAGIへの侵入キイの用意ができる人物ということで絞り込むと、たった一人しか浮かび上がらなかった。
 榊 タカミ・カーライル、29歳。システムエンジニア。本栖バイオケミカルインダストリー社(M.B.C.I.)所属。人格移植OSについての論文で、既に博士号を持っている。
 NERVに直接関与できる立場にはないが、M.B.C.I.自体は第3新東京市建設に深く関与しており、NERV本部の建設にも何らかの形で関わっていることは想像に難くない。
 しかし、なによりも。
 ファイルに添付されていた意味不明のマークを辿ると、この人物が西暦2000年9月13日――あの日――に、南極にいたことが分かった。
 正確にはサウスシェトランド諸島南端の小さな島にいたのであるが、あの日一瞬にして南極大陸が融解したことを思えば奇跡の生還者と言えた。当時14歳。
 ちなみに、奇跡の生還者はもう一人いた。葛城調査隊に同行していた葛城博士の息女、葛城ミサトである――――――――。
 記録によれば、葛城ミサトがその後長期間にわたる失語症を引き起こしたのと同様、榊タカミもまた長期の入院をしていた。医者であった父親の勤務する国内の病院に引き取られ、3年にわたる入院の後、大学入学という形で社会復帰している。
 そのくだりを除けは経歴として不審な点は何一つない。むしろ優秀なシステムエンジニアとしてエリートの王道を歩んでいると言ってよいのだ。
 こんな人物が、何故?
 集めたデータをざっと表示させながら、サハクィエルは問うた。
「どう思う、カヲル?」
 いちおう全てのデータに目を通すまで、カヲルは口を開くことはなかった。だが、ようやく口を開いた時に発した言葉は。
「・・・・会ってみるしかないでしょう」
 それは、サハクィエルを絶句させるに十分なものだった。

その、夜。
「・・・・”怖い”のか、お前が?」
「意外そうに言うなよ。俺にだって怖くなることくらいあるさ」
 マトリエルは苦笑する。今日の午後の話を披露に及んだあとのことであった。
「身を守るための咄嗟の反応とはいえ、あのままカヲルがATフィールドを展開していたら、今頃ゼルエルはミンチだぞ。コントロールが未完成だって?あれで?冗談だろう」
「・・・ある一定以上の出力に関しては、という意味でしょう?自己存在の保全という意義におけるATフィールドの使い方としては、彼は十分に使いこなしていると言えるわ。
 アティックに、珍しく客がある。黒い瞳、鴉羽色の髪を腰まで垂らした、年齢的にはラミエルに近い女性。レリエルの名で呼ばれる。
 完全な夜型で、日が落ちなければ起き出してこないという生活サイクルは、夜遅くまでパソコンに張りついているサハクィエルやマトリエルでさえ到底ついていけるものではない。ひどく気まぐれで、起きていることに気が向かなければ数日眠り倒すことも珍しくはない。
 その気まぐれが、今夜はたまたまこのアティックに向いたらしかった。
「陽の下に出るのでさえ、基本的にはATフィールドの庇護が必要な程だった訳だし。おまけに厄介な能力を持ってるでしょ。そういう意味では、器用でさえあるわ。適当に閉ざすことを知らなかったら・・・・アラエルみたいになるしかないわよ」
 その言葉に、毒はない。だが、最後の一言で、粛然とした空気がその場を圧した。
 アラエル。ゼルエルとはまた別の意味で、哀れな存在。・・・・尤も、彼女がある意味で一番幸福なのだという見方を、肯定はせぬまでも誰も否定することはできないのだ。
「マトリエルが怖がる訳、ほんの少しだけど分かるわ。・・・私たちは確かにATフィールドをある程度自由に使うことが出来る。しかし、”ある程度”以上の出力で行使しようと思えば、私たちはこの身体を再構成しなければならない。ところがあの子は、それを必要としないわ。恐らくは」
「・・・まさか」
 サハクィエルの短い言葉は、多分に否定的な要素を含んでいた。
「・・・そうじゃなかったら、マトリエルが危険を感じて割って入ることもなかった筈よ。違う? ゼルエルは完全にタガが外れてるんだから、身体が耐えうる最大レベルのフィールドを展開していた筈。それでもなおかつマトリエルが割って入ったのは・・・・・」
 レリエルはそこで一旦言葉を切った。
完全に展開する前の状態ですら・・・・・・・・・・・・・・、私たちがこの身体で許容できるレベルを遥かに越えた出力だったからよ。マトリエル。そうじゃなくて?」
 そのときは咄嗟の事でそこまで考えてはいなかったマトリエルが、ゆっくりと青ざめた。
「・・・・単なるコントロール不良で、自身を損なう程の出力を許してしまった、というとりかたもできなくはないけど・・・。いずれにしろ、あの子は私たちとは少し違うわ。そんな気がする」
 マトリエルは何か言いたげにサハクィエルを一瞥した。サハクィエルは目を伏せることでそれを遮り、言った。
「・・・我々にこの環境を与えたのが父なる方であれ、リリンであれ、この探索がその思惑通りであれ、予想外であれ・・・・我々はともかく動くしかない。カヲルの持ち帰る結果は、おそらく答えに一歩近づけるものであるはずだ」
「だからって・・・よかったのか、あいつ一人で」
 その時、降って湧いたように4人目の声が階段から聞こえた。
「何処に行かせたの?」
 レリエルが階段を振り返ったとき、そこにいたのは。
「びっくりした、イスラフェルじゃない。どうしたのよ、ひどい顔色じゃない」
「大丈夫よ。それより、夕方頃からカヲルの姿がないけど・・・何処に行ったの?」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
 心地悪い、沈黙。サハクィエルはイスラフェルのほうへ向き直り、半ば宣するように言った。あるいは、一番言いにくい相手であったのかも知れない。
「メイルの件はカヲルから聞いただろう。あれの、発信者が絞れた。カヲルはその人物に、直接会いに行った」
「・・・・そう、行ってしまったの」
 半ば呟くような声でそう言った彼女の表情にはいつものような柔らかな笑みもなく、こころもち青ざめてすらいる。
「どうしたんだよ、一体?心配ないよ、あれで結構、要領いいんだから」
 元来陽気な声をことさらに張り上げての言葉が、先刻の台詞と完全に矛盾していることは、言ったマトリエルが一番よく理解っていた。だが、そう言わずにいられない。
「・・・・そうね、私たちに心配されるような子じゃないものね・・・」
「イスラフェル・・・・?」
 レリエルのおもてから表情が消えた。
「莫迦みたいよね、私・・・・。戻らないエデンを懐かしんで、結局・・”現在”をも壊してしまった・・・・」
「・・・あの子は自分の意志で、あなたの心に触れ、そしてあなたの裡にあった今とは異なる自分を見つけてしまった。それだけよ。いずれ、いつかはこうなる筈だった。あなたの所為じゃないわ」
「・・・いっそのこと、私が何も憶えていなかったら良かったのに・・・・そうしたら、懐かしさに惹かれて関わることもなかったわ・・・」
 もはや、レリエルは何も言わなかった。サハクィエルは彼女がここに現れた時に気づいていた。
「・・・・このヴァイオリン、もともと私のというわけではなかったけれど・・・・・・カヲルに渡しておいてくれる? ・・・気に入ってる、みたいだから」
差し出されたヴァイオリンを受け取って、マトリエルは思わず受け取ったものとイスラフェルの顔を見比べてしまう。何か言おうとしても、言葉にならない。
「・・・ラミエルがこういうときの言葉を教えてくれたわね。なんだったかしら。そう・・・・」
イスラフェルは、微笑んだ。

「・・・・”さよなら”」