一緒に歩こう

raindropsⅠ

「あぁ、渚君か。碇なら奥だぞ。先刻、ユイ君にもう一度コテンパンに伸されて引き籠もっとるよ」
「…ありがとうございます、冬月教授せんせい
 これまで何度来てもレイの父親という人物には会えた例がなかったが、この人には度々出会う。碇・綾波夫妻 1 の師匠筋に当たる人で、学者としては有能だが社会適応に関して甚だ問題のあるレイの父親に、現役を引退した後も辛抱強く付き合ってくれているという…老後のボランティアというには申し訳ないほどに律儀な御仁だ。書斎で本を片手にしている構図が、絵画でも見ているかのようにかっちり決まっている。
 何でも教授の亡くなった娘さんが、レイのお母さん…綾波ユイ女史の友人だったとかで、そのよしみらしい。一つには、綾波家の蔵書がもの凄い稀覯本ばかりでそれを読みに来るのだとも。ユイ女史が恩義ある教授せんせいに譲渡の意向を示したらしいが、「それでは君たちに会いに来る理由がなくなるよ」と笑って謝絶したとのこと。…とことんいい人だ。

 やっぱり、あの冬月副司令なんだろうなぁ。何だか僕の記憶にある副司令よりもかなり歳くって見えるけど。…前髪の後退が著しいし。

 書斎の向こう側、テラス窓のついた広いリビングで、ユイさんは待っていた。
「あら、カヲル君いらっしゃい♪ ああ、シンちゃん、リュウ君はみつかったのね。ほら、心配なかったでしょ」
「それは結果でしょ、母さん。こいつってば駅前まで遠出してたらしいよ。レイ達が見つけてくれたからいいようなもんだけど…」
「いいのいいの。可愛い子には旅をさせよって言うじゃない」
「母さん見てると、僕はともかく身体が弱かったレイが無事に育ったのが奇跡って気がしてくるよ……」
「子供ひとりひとりに応じた教育方針といって欲しいわね。さってっとぉ♪ ……あなた!」
 ユイ女史のぴしりとした声……それに無形の鞭でも当てられたように、その人物は丸めた肩を震わせた。
 リビングの一番奥にある肘掛け付きのソファ。そこへ俯き気味に、なかば埋まり込むようにして斜め向こうむきに座している姿は……背後にオドロ線でも浮かび上がりそうな雰囲気を醸している。
 家の中でさえサングラスなのはお約束。相変わらず肘杖にむさ苦しい顎髭を載せているのもそう。……つくづくブレない人だ。

 シンジ君が父親の傍に立って肩を叩いた。
「父さん。ほら、カヲル君。レイも帰ってきてるんだから。いい加減、しゃんとしてよ!」
「…レイは身体が弱いんだぞ。何かあったときに、母親が傍に居た方がいいだろう。大体、二駅ぐらいの土地ならわざわざ転居しなくても……」
 何だか背筋が寒くなるようなことをブツブツと呟いている。言いたかないけど……ユイ女史はともかく、僕はあなたと同居だけは御免被ごめんこうむります。鬱陶しい。
「父さんってば…大人気ないよ」
「お前もだシンジ。3年ほどの研修とか言いながらあっさり向こうで結婚して子供までつくって。私がユーロにいたときもまったく寄りつかなかったじゃないか。私がどれだけ心配したと思ってる」
「いやあの父さん?矛先変わってますけど…。大体僕、もう28だよ?親に心配して貰う年齢じゃないってば。
 ごめんねカヲル君、うちの父さん、なんていうか……人付き合いが苦手でさ。そのくせ寂しがり屋だから色々面倒…っとと」
 シンジ君があらぬ方角を見て片手で口を塞ぐ。……ずばり、本音が出たね。いやまぁ、お陰で状況が判りすぎるほどわかっちゃったよ。
「お父さんってば!いいかげんにこっち見てよ!」
 レイの方が痺れを切らせたらしい。…ここは、レイのためにこっちが歩み寄るべきだろう。

 僕はソファの前へ回り込んだ。その僕のほうへ、リュウ君がとことこと近寄ってくる。おや、君も付き合ってくれるの?そう、有難いね。

 君のお祖父じいさんは、前に会ったときは自分の弱さを認めることができない人だったよ。たったそれだけのことが、エヴァという怪物を世界に降ろしてしまった。シンジ君……君のお父さんを含めて沢山の人達を巻き込んで、結果として沢山の悲しみを生んでしまった。
 円環の中心にいる者によって、世界は在り様を変える。だから君のお父さんは、悲しみを終わらせるために…父親の代わりに自らが円環の中心となることを選んだ。
 そうして創成された現在の世界。エヴァがいない世界。その中心に誰がいるのか……実はまだ僕にもわからない。
 僕はあくまでも俯瞰する者。おそろしく無力で、無知。流れの中で全てを見届けるだけしかできない。だから、人の企みの中でこの存在が利用されてしまうことだってある。人の営みから遠く離れたところでただ見守るだけのこともある。……その場合、自分が生きているのかどうかっていうのも…よくわからないことが多いけどね。

 そして、人の営みの中に紛れて生きていくこともできる。それはとても目まぐるしいことだけれど、生きているという感触は間違いなく存在する。だから、今の自分にできることをするよ。それがどんなに小さいことでも、一つ一つが未来へ繋がるなら。

 僕はレイを幸せにしたい。今はただそれだけ。そのために、今できることをしよう。

 右手を差し出す。何だったっけ、『仲良くなるおまじない』? いい定義だよね。握手、なんて堅い言葉よりも、ずっとその意味が伝わる。

 僕は、ゆっくりと息を吸った。

「――――初めまして。お父さん?」

――――――Fin

  1. 全く以てご都合主義で申し訳ないのですが、設定上この世界の日本では、選択的夫婦別姓が認められています。国会や最高裁がいつまで経っても議論を煮詰めようとしないのが、柳としては甚だ不満なのですよ。