The departure

Act.4 Green Sleeves

 ヒース咲く原野の中に立つ古城。遠景に鏡の如く穏やかな水を湛えた湖。
 確かに目の前に広がる現実であるはずなのに、それまでの日常とあまりにもかけ離れすぎていて…眩暈がするほどの非現実感に、マサキは爪先に力を入れなければ立っていられないような気がした。
 柔らかな藤色の花の中に、そのひとは立っていた。
 色の淡い髪を後頭部で結い上げた女性。母方の遠縁としか聞いていないが、確かにその面差しは自分か、自分に親しい人に似ているのだろう。初めて会うはずだが、妙な懐かしさがあった。
 二十代後半、親の世代より少し若いくらい?
Professor Alexアレックス教授How should I call you?なんとお呼びしたら
 自分の表情は滑稽なほど硬かったのだろう。彼女は苦笑に近い笑みを浮かべてその手を伸べた。
「ミサヲで結構よ、サキ。…そうね、あなたは憶えていないでしょう…」
 その苦笑がいっそ寂しげな翳りを宿していたことに、マサキは気付いていた。アウレリア・ミサヲ=アレックス。セントフォード大学の教授と聞いていた。もう少し歳のいった人物を想像していただけに、驚きを禁じ得ない。
「…ったく…サキってばカタいかたい!」
 握手した手が離れるか離れないかというタイミングで、突如背後から頭をぐりぐりと抑え付けられて閉口する。
「無茶言うな。こっちは殆ど初対面みたいなもんなんだ。対人距離感壊れてるあんたと一緒にしないでくれ、カヲル」
「またそれを言う…傷つくなぁ、もう」
 この春頃からの体調変化が、自身の血筋に由来する特異体質の発現であったことを聞かされてからこのかた…親元を離れ、この土地スコットランドまで連れてこられ、これから生活することになるこの古城の主人あるじに引き合わされるというこの日までが…とにかく目まぐるしかった。
 俄には信じ難い話ではあったが、現実に自身に起きている変化は確かであったから…受け容れざるを得ない。日本まで迎えに来たこの銀髪の人物に比べれば、至って常識的な距離を置いていた彼女が、ふとマサキの前髪と…額に触れた。
「自分の家だと思って寛いで…といっても、急には無理かしらね。少しずつ、慣れたらいいわ。教えておかなければならないこともあるし」
「…はい、わかりました」
 触れられたことに驚きを感じなかったと言えば嘘になる。只それは触れられたというよりも、その手がもたらす不思議な感覚に対する驚きであった。
「案内は任せるわ、カヲル。部屋は連絡したとおり。暫くゆっくりしてもらって。夕食の時に、皆にもひきあわせましょう」
「了解♪ じゃあ行こうか、サキ」
 その感覚の正体を確かめる間もなく、カヲルはマサキの手を取ってどんどんと進んでしまう。仕方なくそれについて歩きながら、ふと彼女の方を見た。
 その場に佇んだままの彼女は微笑んで、だがやはり少しだけ哀しそうであった。
「夕食って言っても…」
 目を伏せてそう言いさした時、カヲルの手がふいと離れて頭の上に置かれた。思わず立ち止まる。
 …いい加減これはやめて欲しいのだが、カヲルのほうはどうやらそれも判っていて楽しんでいるフシがあるのに気付いてから、マサキは敢えて苦言を呈するのを諦めた。
「ああ、大丈夫だよ。皆、わかってる…っていうか、皆そう・・だから。〝夕食〟っていうのはまあ…符丁みたいなもんだね。話あるから寄っといで、みたいな。まあ、純然たるお茶会やってる場合もあるけど?」
「…そうなのか」
 ここに呼ばれた時のことを思えば、それが自然だろう。妙に腑に落ちて、マサキは再び歩き始めたカヲルに追従した。
 だが、何故ということもなく…もう一度彼女を振り返る。
 彼女はまだこちらを向いていたが、俯いていた。わずかに肩を震わせているようにも見えた。だが、その震える肩にそっと手が置かれる。
 ――――イサナだった。
 長身だとは思っていたが、ああして立っていると彼女の身長が丁度イサナの肩の線だ。一瞬むっとしてしまうほどに画になる身長差というべきだった。
 何をやっかんでるんだ、俺は。
 思わず眼を逸らして、再び歩き始める。だが、2歩と歩かないうちに面白がっているのがありありと判るカヲルと鉢合わせする。
「どうしたの、サキ?」
「別に…」
 表情を見られるのが嫌で、すいと脇をすり抜ける。すれ違いざまにくすりという低い笑いが聞こえたのは業腹だったが、本当に、巧く言葉になりそうもなかったのだから仕方ない。
「…ただ…俺が此処に来て、本当に良かったのかと思っただけさ」
「まあサキにとってのそこは、おいおいと考えてもらうとして…彼女がサキのこと、心待ちにしてたのは本当だよ?そこは信じて欲しいな」
 あんなに哀しそうなのに?
 危うく口にしそうになった。その瞬間、また軽く頭に手を載せられる。
「いい加減にやめてくれ、子供じゃあるまいし!」
 つい、口調が尖る。だが、そのお陰で決定的な一言を口にせずに済んだ。そのことに内心ほっとしている自分に気付く。
「やあ、ごめんごめん。なんだかこの感じが懐かしいというか、面白いというか…」
「…成程、やっぱり遊んでたんだな」
「まあまあ、機嫌直してくれよ。彼女だけじゃなくて…僕だってずっと待ってた。いや、揶揄からかって遊ぶためじゃないよ?誓ってホント、嘘じゃない」
 カヲルは改めて、その手を差し出して微笑んだ。先程までの揶揄うような笑いではなく、とても穏やかな…。
「――――僕はね…今度こそ、みんなに幸せになって欲しいなって思ってるんだ」