You are not alone.

紅い月

 開け放たれた古風な窓から吹き込む、乾いた風が心地好い――。

 スコットランドの9月の平均気温は12℃から13℃。最高気温さえ20℃に届かない。日本の夏のような暑さはなく、むしろ肌寒い時さえある。湿気も日本の夏に比べれば少なかった。ただ、日照時間が長い。9月に入ってさえ8時を過ぎてようやく日没だ。7月など10時近くになっても陽があった。

 高階マサキが自身の体質に気づいたのは去年の初秋のことだったから、日本にいる間は夜をひどく長く感じた。寝る間も惜しむほどやりたいことがある時は良いが、夜の静寂がふと呼吸いきを停めるほど重苦しくなる時だってあった。
 そういう意味では、この気候は好もしい…。
 この城の住人は例外なく同じ体質の持ち主だ。数人と顔をあわせたが(カヲルを除けば)静かな人物ばかりで、〝夕食〟のある日でもなければ…今現在で一体、何人がこの城にいるのか判断するのが難しいくらいだ。
 しかし、ここに来てから…夜の静寂に、世界でたったひとり取り残されたような重苦しさを感じることだけはなくなった。

 君はひとりじゃないよYou are not alone

 カウンセラーが言うと偽善にしか聞こえない言葉が、年齢不相応に無邪気な笑みと共に発せられると…妙に腑に落ちてしまった。
 そのカヲルは、南極にある研究施設に用があるとかで今ここにはいない。「忙しいんだな」と言うと、「忙しいのはいいことさ」と笑って出立した。
 あれから、何日経っただろうか。まあ、日々時間感覚が曖昧になる気がするのは仕方がないだろう…。

 だが、退屈するようないとまはなかった。

 ――――今、デスクの上に山と積まれた本、時代のかかった手書きのレポート、タブレット上に表示される文献を前に呻吟するマサキの横で、静かに古書のページめくっている20代後半と見える青年は、ここの城主人しろあるじの代理人としてマサキに接触し、此処に来るまでの一切を取り仕切った人物である。

 鯨吉ときよしイサナ。ここの住人ライゼンデ達の例に漏れず、他にもいくつか名があるらしいが…マサキはそう呼んでくれと言われている。
 鴉羽色からすばとでもいうべきつややかな黒髪と、明るい場所ではわかりにくいが光量の少ない環境ところでは紫水晶アメジストにも似た光を放つ不思議な双眸。世間的には美丈夫と評されるであろう、雄偉な体躯に恵まれていた。実際、身長だけでも現在のマサキと頭ひとつ分以上違う。
「どうした、疲れたか?」
 ページを捲る手が停まっているのを見咎められたか。
「…頭が熱暴走でも起こしそうだ。…全く、科学なのか魔術オカルトなのか、どっちかにして欲しいもんだな」
 マサキは机の上にペンを抛り投げると、嘆息して言った。
「大体、無茶だぞイサナ。そりゃ、俺も…そこそこ、日本むこうではまあ規格外な扱いはされてたらしいが…概ね普通に中学生なんだ。いきなり形而上生物学とか、大方の人間が初めて聞くような超マイナー分野の、しかも修士論文なんか読まされたっておいそれと理解できるもんか」
 ライゼンデに外見上の年齢はほぼ無意味とはいえ、マサキより歳上であることには間違いないから、最初の頃はマサキもこの人物のことを「鯨吉ときよしさん」と呼んでいたような気がする。だが、数ヶ月程のやりとりの間にすっかり敬語は抜け落ちていた。
 イサナが微笑を浮かべた。どうにも、微笑というより猫科の大型肉食獣が獲物を見つけたような表情という方が妥当な気がして仕方がないのだが、本人は至って友好的なつもりらしい。
「〝科学なのか魔術オカルトなのか、どっちかにして欲しい〟…そんな疑義が出る時点で、十分理解はできているさ。何も問題は無い」
「問題おおありだ、まったく!」
 マサキは少し伸びてきた色の淡いストレートを掻き回した。つい、声が跳ね上がる。
「いわゆる常識を根本からひっくり返されてるんだ。自分の身体のことがなかったら、とてもハイそうですかって信じられる話じゃない。…イサナはそうじゃなかったのか」
 とりあえず冷却時間クールダウン。椅子を引いて立ち上がると、マサキは後ろにあるティーテーブルに置かれた保冷用ポットから、グラスに冷えた茶を注いだ。イサナに目顔で問うてみたが、軽く片手を挙げて謝絶する仕草をしたのでそのままグラスを取る。
「俺か。…俺は…まあ最初から、お前が言うところの魔術オカルト寄りのところで育ってるからな」
「そうなのか?」
「俺を育てたのはミサヲだ。物心ついた頃にはもう、彼女に引き取られていたんだ。…まだ、ライゼンデになる前のことさ」
 初めて聞く話に、マサキは反応リアクションを選びかねた。物心つく前から引き取られて、今が20代後半の容姿。そしてライゼンデとなってから、どのくらいの時を彼女ミサヲと共にしていたのだろう。そんなことを考えていて、思わず動作が止まっていた。思わず目を伏せていたことさえ、イサナの声で我に返るまで気が付かなかった。
「気になるか」
 何のことだ、と言おうとして…口を噤む。妬心に似た何かを見透かされた気がして、下手に抗弁したくなかったのだ。だから、口にしたのは別のことだった。
「なあイサナ…なんであのひとは、あんな哀しげな眸で俺を見るんだ」
 イサナは少し驚いたように口を閉ざし、開いていた古書も閉じて、それから考えるように窓外の景色へ一旦視線を投げてから…再びマサキを見た。
「…〝魂の記憶〟については?」
 マサキは少し眉をしかめる。
「一応読んだ。…正直な感想を言わせて貰えば、物性1も明らかじゃない21グラム2にどれほどのものが書き込めるのか疑問って気がするけどな。ただ、魂なるものが限りなくニュートラルで、記憶に類するものは適合・・する身体うつわを得てアカシックレコード1へのアクセスが可能となった結果と考えれば全くない・・話じゃない…ってとこだったか。ライゼンデと呼ばれる特異体質者の中には、限定的だが明らかに自身の体験と異なる環境の生活記憶エピソードを有する者がいて、それはある程度、外部的に記録された事実に符合していると」
その通りquite so
 イサナが至極満足そうに、再び微笑を浮かべた。
「古来からの…幾分宗教色も混じる用語に従って『生まれ変わり』、ないし『輪廻転生リインカネーション』と言わず、敢えて『魂の記憶』と呼ぶのは、我々が持っているのはこの世界の外部記憶との整合性を持った生活記憶エピソードばかりとは限らず…世界の記録との整合性に難があるにもかかわらず、複数のライゼンデが同じ記憶を共有するという事例ケースがあることから…他の時間軸・・・・・における記憶も混在している可能性を考慮するからだ。こればかりは物証がないから検証のしようがないが」
「…呼び方はともかく…やっぱり、彼女は俺が生まれる前のことを知っているのか」
 イサナは再び口を閉ざした。元々、講義の時以外は至って寡言な男だが。
「…彼女は…」
 ようやく言いさした時、やや性急なノックの音がそれを阻んだ。それに続く、すこし焦ったような声。
「ごめんイサナ、講義中とは思うけど…ちょっち至急!」
「どうした」
 イサナが本を置く。ドアを開けて顔を覗かせたのはカツミだった。収まりはよくないがつやのいい黒髪と、暗緑色の双眸がややアンバランスな少年である。見た目はマサキとそう変わらない年齢だが、そこはあてにならない。
「ベタニアのリエ姐から、カルバリーベースでひと揉めあったかもって。カルバリーのタカミと連絡が途絶してる」
「カルバリー?あそこにはもう何も…」
「うん、大方のモノは運び出しちゃった後だけどさ、代わりにあそこで実験やるとかやらないとかいってただろ。リエ姐が、ひょっとして連中、やらかした・・・・・んじゃないかって。ミサヲ姐ったら話聞く途中からもう真っ青になっちゃって…」
 そこまで聞いたイサナは物もいわずに立ち上がり、部屋を出た。カツミがそれに続く。
 マサキもグラスを置いて出ようとして…不意に倒れた。
 置きかけたグラスは指先から滑り落ちたが、絨毯の上だったので鈍い音を立てて転がっただけだった。落ちたグラスがアイスティを零しながらティーテーブルの猫脚にぶつかって止まる様子が、理不尽なまでの違和感と共に倒れたマサキの視界に入る。
 何かに躓いた訳ではなかったと思う。ただ、足が動かなくなった。…なんだ、これは。
「へっ!? …ど、どしたのサキ?」
 カツミが音に気付いて振り返る。先行するイサナに声をかけるべきかに迷って、結局それを諦めてマサキの傍へ膝をつく。どのみち呼んだって止まらない、と踏んだようだ。
 動かないのは足だけではない。腕も、口さえも動かせないから声が出ない。それどころか、息が出来ない…!
 その直後、視界が漂白される。
「おいサキ?サキってば! …やだよ、息してないじゃん。…って、脈がないっ!?」
 暗闇で突如フラッシュの閃光を向けられたような眩しさの中で、マサキの聴覚はまだカツミの慌てた声を捉えていた。呼吸停止。心拍停止。それは、つまり。
 ヒュッという、掠れた呼吸音。マサキのものではない。次の瞬間、カツミの裏返る寸前の叫びに近い声が、マサキの鼓膜を弱く打った。
「イサナ、イサナっ!! 今すぐミサヲ姐呼んでッ!
 …サキが…サキが摘み取られちまう・・・・・・・・!」

  1. 物性…物質の物理的性質。物質のもつ熱的、電気的、磁気的、光学的、機械的などの性質。
  2. 21グラム…1901年にマサチューセッツ州の医師ダンカン・マクドゥーガルが行なった研究発表によると、人が死ぬとき数グラムから40グラムの体重減少がおこるそうな。これを魂の重量とする説があるが、実際には色々問題アリな実験だったらしい。柳が子供の頃読んだ本には36グラムと書いてあった気がするのだが、今ググると21グラムという数字が出てくる。平均値というわけではなく、最初の患者の計測結果だそうな。