Sleeping Forest

 旅人の島インゼル・デス・ライゼンデン

 そこには、今や至宝というべき紺碧の海が残されている。
 セカンドインパクトと呼ばれる天変地異の後、2年と経たずに世界の海は魚はおろかプランクトンとて生存を許さない原初の姿へ還ってしまった。だが、この小さな島のまわりに残された海は、後に〝相補性L結界浄化無効装置〟と呼ばれるシステムの原形となる方術陣で守られている。
 島とその周囲の海を覆う巨大な方術陣の中心には、巨木があった。白、薄紅、淡紅、朱鷺、鬱金、山吹、橙…淡い暖色系の小さな花々が咲く草原の中に佇立する巨木は、珊瑚のように白化し今は一枚残らず葉を散らしている。しかし地と深く繋がったその巨木は、〝浄化〟を食い止める結界を成していた。
 その巨木に背を預けるようにして、ミサヲは立っていた。いつものように色の淡い髪を端正に結い上げ、ゆったりとした丈長のワンピースを纏っている。
 やや俯き加減に瞑目していたが、緑の毛氈のごとき草原をゆっくりと踏み分ける音に、ふと顔を上げる。
「…珍しいお客様だこと」
 草原を訪れたのは、やはり20代後半と見える女性。やや栗色がかった髪を活動的なショートカットに切り揃え、チェックのコットンシャツにスキニージーンズという扮装いでたちで、背にはバックパック、足元は山中行にふさわしいトレッキングシューズである。
 どこから見ても山道を散策中のハイカーだが、白い帽子サファリハットは貴人に拝謁する準備でもあるかのようにすでに取って胸の前に当てていた。そうして彼女の前まで歩み出ると、恭しくさえある所作で丁寧に一礼した。
「こちらにいらっしゃると伺って…お久しぶりです、アレックス教授せんせい
「相変わらずね、ミサヲで結構よ。…ユイさん」
 ミサヲが顔を綻ばせた。綾波ユイ。今は、碇ユイか。ミサヲは彼女を好奇心旺盛な少女の頃から識っている。長じては優秀な学生で、いまや博士と呼ばれる身分だ。
「お母さんになられたそうね。子供さん達はお留守番?」
 ミサヲの問いにユイは微笑んだが、その笑みは翳りを帯びていた。
「ええ、シンジの方は連れて来れないことはなかったんですけれど。レイのほうが…まだLCLから出してやることが出来ない状態なんです」
 ミサヲがふと顔を強張らせた。
「LCLの医療転用…臨床試験中とは聞いていたけど、まさか、お嬢さんが?」
「はい…でも、一昔前ならきっと助からなかったでしょう。生命の恒常性ホメオスタシス変転性トランジスタシスの持つ可能性に、私は賭けたんです。私は、あの子にもシンジと同じようにこの世界を享受してほしいから。…何より、私があの子を喪いたくなかったから。そういう意味では、私のエゴなのかもしれませんが。
 それでも、私はあの子に生きていて欲しかった。試練に満ちた生でも、生きてさえいればチャンスはあるから」
 ユイが、翳りを振り払うようにもう一度笑った。
「…ああ、いつかきっと、この風景も見せてあげたい。
 やっぱりシンジだけでも連れてくればよかったですね。聞いていたよりも登りやすい場所だったし、こんなに綺麗なんだもの」
 そう言って、至高天の青セレストブルーの空と紺碧の海を振り仰ぐ。
 ミサヲは穏やかに頷いた。
「母が子に生きていて欲しいと願うことに、愧じる必要なんてないわよ、ユイさん。
 まあ、3歳のお子さんに登らせるには少々険しい道程みちのりかも知れないわね。でもこれから機会がないわけでもないでしょう。後日の楽しみということにしておくわ」
「…ええ、そうですね」
 後日。その言葉に、ユイは明らかに動揺した。だが、唇を噛み締めて表情をあらためる。
「ミサヲさん、私…今度エヴァ初号機の直接接触実験ダイレクトエントリーの被験者になります」
 鳶色の両眼に宿る炯々たる光は、既に揺るぎない決意を湛えていた。それを読み取ったミサヲは、ただ穏やかに微笑む。
「危険は承知、という訳ね?」
「はい。…最近、自分が何者なのか…少しずつ判ってきたんです。
 エヴァが…どうやら形を成してきました。あのリリスの複製体が、我々に何を語るのか…接触してみなければわかりません。でも、ひとつ判っていることがあります。アレは、執行者なのですね」
 ミサヲがやや沈痛な面持ちで頷く。
「諸刃の剣であることは私も承知しています。しかし使徒を贄にリリスが再び扉を開けてしまえば、今度こそ地上の生命は滅びる。セカンドインパクトで海が死んだように、今度こそ、この星全体がリセットされる。人類リリンが生き残る算段さえ、するいとまもなく。それに抗するためには…やはりエヴァにはこの世界へ降りて貰わなければならない。
 ねえユイさん、私は取り得る手段はすべてとるべきと思うの。生き残るために取り得る選択肢は、きっと多い方がいい。

 我々は悪魔を造り出そうとしているのかも知れない。でもそれが希望になるなら、敢えて禁を冒しましょう。ヒトがつくるものにはヒトの心が宿る。悪魔の如き力を持つ存在であったとして、ヒトの心がそれを導くなら、それはヒトを滅ぼす悪魔ではなく、ヒトの世界を守る存在になり得る筈だから」
「やはり、エヴァを造ることの是非はともかく…与えられた試練…〝使徒の襲来〟を乗り越えるしかない?」
「〝使徒の襲来〟…ね」
 ミサヲの表情が、やや苦くなる。一度眼を伏せ、小さくかぶりを振ってから、切り替えるように顔を上げた。
「そこにも抗うすべがあるかもしれないわ。少なくとも、私はまだ諦めていない。猶予期間が尽きないうちに…どうにかして、だれも大切なものを奪われないで済む方法がないか探しているの」
 僅かに蒼ざめてはいたが、ミサヲもまた毅然として宣した。その様を見て、ユイが手にしたサファリハットを握りしめる。
「…やはりあなたは、つよいかたですね。眠りの森の妖精女王ティターニア・ザ・プロテクター・オヴ・スリーピングフォレスト

 ――――この島に結界が張られるよりもさらに以前から…島の森にある洋館は「眠りの森スリーピングフォレスト」と呼ばれてきた。ただそれは、館の固有名詞というわけではない。
 この緑溢れる島は、人間じんかんに在るに倦んだライゼンデが住まうだけでなく…休眠期に近い者が安全確保のために身を寄せる場所であった。そして休眠期を森の中、静かな洋館で過ごす。同じような場所が他にも世界中に数カ所かあった。「眠りの森スリーピングフォレスト」は休眠期にあるライゼンデを守るための場所であり、それを維持管理する組織の名でもあるのだ。
 「眠りの森」を統轄する高階ミサヲ・アウレリア=アレックス。創設者であると共に管理者でもある彼女は、時に「眠りの森の妖精女王ティターニア・ザ・プロテクター・オヴ・スリーピングフォレスト」と呼ばれる。
 ゼーレの資金の何割かについて裁量を任されており、ある程度の独自活動を行う権限も持つ。ライゼンデの庇護もその一環ではあったが、セカンドインパクト後の海洋生態系保存研究機構や方舟計画といった地球環境保全のための活動も彼女の管轄であった。
 地球環境に関する事業については、決してゼーレの名が表に出ることはないにしても、ある程度の情報が公式に全世界に向けて開示されている。それは人類補完計画をゼーレの意向通りに進めるためのプロパガンダという側面も持っていたからだ。その事業を引き受けることで、彼女はゼーレへの恭順を示したとされる。
 ――――それというのも、セカンドインパクトの件で彼女が一時、ゼーレとげきを生じたという噂が流れたからだ。…少なくともユイはそう聞いていた。
 ゼーレへの反逆。それはゼーレという存在を識る者達からすれば、絶対にあり得ない選択だった。どれほど社会的に高い地位に就いていようと、一夜にして存在が抹消されることだってあり得る。況して、社会的にはひとりの大学教授でしかない彼女を、ゼーレが排除にかかったら。
「あのね…頼むからそれはやめてもらえないかしら。一体誰が言い出したんだか。妖精女王ティターニアなんて…年増に対する嫌がらせよね。ええ、それは私、物凄い年寄りですもの。そこは否定しないけど…私は人間よ、ユイさん」
 ミサヲは苦笑した。
「ただの人間よ。長く生きた分、いろんなものが見えたり聞こえたりするだけ。それと…すこしだけ昔のことを知っている、というくらいかしら。
 本当に…何も出来ない、無力な存在」
 ミサヲの自嘲気味な言葉に、ユイがかぶりを振って深く一礼する。
「そうだとしても…数世紀にわたってライゼンデ達を庇護してきた実績は確固として存在します。海洋生態系保存研究機構のことだって、あれに希望を賭けている人達がどれだけたくさんいることか。素晴らしい研究です。それに比べたら、私にできることなんて…」
「私は私のやりたいようにやってきただけよ。ゼーレの意向がどうあろうと。
 そして、これからもそうする。やはり私は、原罪からの解放、浄化された調和と静謐の世界とやらより…罪にまみれようともひとの生きる混沌を選ぶ。そのために神のことわりを越えることが必要なら、その手段を探し続ける。それが正しいのかどうかはわからないけれど、私はそうしたい。…自分の望みさえも見失いたくはない。
 ――――ユイさん。あなたも、あなたの望みのままに進みなさい。あなたにしか為し得ないことが必ずあるのだから。今…私に言えるのはそれだけよ」
 ミサヲはそう言ってまた微笑んだ。力づけるように。
「ありがとう…ございます」
 ユイは顔を上げた。
「…実は、お願いがあるんです」