Sleeping Forest

 旅人の島インゼル・デス・ライゼンデン

 陽が落ち、薄闇のとばりが降りつつあった。
 昼の暑熱が影を潜め、虫の音とともに涼気が草原を渡る。客人が帰っていった後もミサヲはまだそこにいた。そして、別の足音に再び顔を上げる。
 マサキであった。
 何を、どう言うべきなのか。マサキは暫く迷ったようだった。そのうちに彼女の前まで来てしまい…言葉に迷う。絞り出したのは、結局…端的な報告だけ。
「…今、船が無事に出た」
「そう、ありがとう。出航時間がすっかり遅くなってしまって、申し訳なかったわね。でも、会えてよかった。話が出来てよかった」
 少し寂しげな…それでも、あえかな微笑をうかべてミサヲがいらえた。だが、ふと…その寂しさのようなものを払拭する。
「ねえサキ、私、彼女・・を見つけたかもしれない。いまだLCLから出られないという、ユイさんの娘…ひょっとしたら」
 マサキが頷く。
「ああ、俺も聞いた。…可能性はあると思う。箱根に探りを入れさせておこう」
「ありがとう…。
 こんなぎりぎりになってもあなたたちに頼み事ばかりで…ごめんなさい。後でイサナにも伝えておいて?」
「ミサヲ…!」
 まるで遺言書の口述でもしているような口調に、思わずマサキが声を大きくする。だが、それ以上言葉を継ぐことが出来ずに息を呑み込んだ。
「…大丈夫よ。私が眠っても結界は崩れない。私は、そういうふうに構成を編んだから。ただ、ほんとうにもうここを離れるわけにはいかないってだけ。
 ――――もう、離れようにも離れられないけどね」
 夕闇の中に佇立し、苦笑するミサヲの背は…既に巨木と一体化していた。
 今、この巨木を媒介に島の結界を維持しているのはミサヲであった。だが、そのミサヲに休眠期が近づいていたのだ。ミサヲが休眠に入っても結界を維持する方法として、彼女は結界との同化を選んだのだった。
「もう時間ね」
 そう言って、ミサヲが髪飾りマジェステのピンを引き抜く。色の淡いストレートがその肩にさらりと流れた。
「あまり慌てて起こさないでね。私は何処にも行かない。此処に居て、この島とあなたたちを守るんだから。少しの間、こういうことが出来ないってだけで」
 揶揄からかうように、マサキの頬に手を伸べ…少女のように悪戯っぽい笑みを零した。マサキの頬をさらりと撫で、少し伸びた横髪に指を潜らせる。
 やめてくれ、子供みたいに。そう言って身を退くのが常であったが、今日という今日は身動ぎもせず、マサキはその指先の感触を刻み込んだ。
 一旦結界と同化してしまうと、休眠に必要な時間が過ぎても…ミサヲは結界の一部であることを余儀無くされる。ひとつには自力での覚醒が困難になるからだ。そして、ミサヲの覚醒が結界の解除キーになってしまう以上、この島の周囲に残された至宝というべき青い海と生態系を守る結界を解除してしまうわけには行かない。
 術者の補助なしに稼働できる相補性L結界浄化無効装置。それを実用化することさえ出来れば、人柱を要求する結界など必要なくなる。基礎理論は確立しているし、必要なのは資材と人手と時間だけだ。
 …だが、その時間が僅かに足りなかった。ミサヲが眠れば、結界が消える。それを回避するには、こうするしかなかった。
 結界との同化。それはまさにこの小さな世界の人柱となるに等しい。今までとてこの島に拘束されているようなものだったが、いままで比喩であったものが今度こそ現実となってしまう。
 この期に及んで何か別の方法を、とは…マサキからは口が裂けても言えなかった。開発を急ぐことも、代替手段を探すことも、全力でやってみた。だが、間に合わなかった。
「…ああ、必ず」
 すべては覚悟の上なのだ。ミサヲは必要だからそうする。ならば、マサキに出来るのはその覚悟を受け止めることだけ。
「全部整ったら起こす。…それまで、やすんでいてくれ」

「…ありがと。おやすみなさい、サキ」

朗らかに微笑って目を閉じたミサヲの身体が後方へ倒れ込む。そしてふわりと巨木に溶け込んでいった。
 マサキは思わず手を伸べた。その指先が一瞬だけ絡み合う。だが、するりとほどけてミサヲの指先も白化した木膚に吸い込まれた。
 ざらついた樹の表面に手をついて、暫く俯いたまま…マサキは立ち尽くす。ややあって、ゆっくりとその手を拳のかたちに握りしめた。

 押し付けられたその拳が微かに震えているのを見た者は、群青の空に瞬きはじめた星々だけであった。