残照の日々 Ⅲ

 マルフ島、シェノレス陣。
 国王レオンを幕屋に迎えたルイは、形式を整える為の報告を済ませてしまうとさっさと人払いをした。
「おう、よく来たな。どうした、今日はえらく神妙だったじゃないか」
 そう言ってどっと疲れたていを露わにした友人の背を軽くはたく。
 人払いはルイの気遣いであることを察して、レオンが頭を掻いた。
「ま、一応…そのためにいろいろ勉強・・させられた訳だし。…これぐらいで文句言ってたら、アンリーに申し訳ないからな。少々の我慢はするさ」
 ルイは笑った。
 マルフ島に船団が到着し、国王たるレオンが下船する際には相応の儀礼がある。いつものように舷側をひょいと乗り越えて桟橋へ着地するわけには行かないのだ。常々レオンはそういったことをひどく面倒くさがっていたものだが、今日は万事調ととのうまで大人しく座っていたし、降りる時も侍者やシェノレス陣営の配置を見、シルメナから表敬のために派遣された一隊にも相応の礼を執った。
 外交場面は停戦の時にも経験済みとはいえ、今回は国王としての臨御である。レオンの性格を慮って相当簡略化されているが、相当な心労ストレスであったに違いない。
「よく頑張ったさ。立派な国王陛下に見えた・・・ぞ」
「過去形かよ」
「そのぐだれた格好で何をほざく。いいからその額飾りサークレットは椅子の背にでも掛けとけ。付けたまま頭なんか掻いたら髪に絡まるぞ。それと、上着サーコートも皺にしないうちに脱いどくんだな」
 用意させた酒を杯に注いでレオンへ差し出す。
「…ごもっとも」
 厳めしい〝国王〟の外面そとづらを仮玉座としてしつらえられた椅子に預けてしまうと、レオンは杯を受け取って傍の床几しょうぎ1に腰を下ろした。肺をカラにする勢いで大きく吐息する。
「ルイはあんまり気にしてないよな、こういう上着サーコートとかさ。俺、時々裾踏みそうになるんだけど」
「この丈で裾は踏めんだろ、物理的に…」
 まだ上着を纏ったままのルイが苦笑いで応ずる。その裾捌きにはそつがない。
「イオルコスの連中に山出しって侮られないためには相応の格好が必要なだけだ。誰が好きこのんでこんな動きにくいモノ着るか。調印は明後日だ。とりあえずお前は休んどけ」
 レオンにとっては今日の仕事は終わったが、ルイはこのあとまだレオンと一緒に到着した神官達と停戦後の条件について協議を重ねなければならなかった。レオンに勧める傍ら自身の杯にもいだが、そうのんびりもできないのでその量はほんのわずかだ。
「精々、お飾りの襤褸が出ないように気をつけるよ」
「お飾りって言うな、お飾りって。ちっとは自覚したのかと思えば何も変わってないな、お前は」
 微妙に眉を顰めてルイがぼやく。レオンが口をとがらさんばかりにむくれた。
「仕方ないだろ。俺はただの船乗りなんだってば。そりゃ多少、身を守るために剣をふりまわすことぐらい憶えたけどさ…。
 でもまあ、これが今の俺の役目ってんなら、できるだけのことはするさ。ルイこそ、ちゃんと休んでくれよ?お前まで倒れたら…」
 その言葉にはっと胸を衝かれて、ルイはレオンを振り返った。
「…どうなんだ、アンリーは」
 レオンが言葉に詰まり、俯く。その膝の上に置いた手を握りしめる様子を見れば、ルイにもアンリーの容態が決してはかばかしくないことは如実に知れた。
「今のアンリーに必要なのは、穏やかな風と休養と…それと多分、希望…」
 ようやく絞り出すように言ってから、レオンは顔を上げた。
「アンリーだって…やりたいことがあった筈なんだ。あいつ、頭いいからさ…父親とか、周囲まわりとか、いろんな人から期待されて、自分を殺して頑張ってばかりで…でももう、ちょっとぐらい自分が本当にやりたかったこと…やったっていいんじゃないかな。そうじゃないと…」
 もはやわずかに目の端を紅くさえして言い募ったが、レオンはふと自分で自分の口を押さえてしまう。決定的な一言を口にしてしまいそうになったのは明らかだった。
 ルイは思わず視線を逸らし、火影ほかげが天幕に描く陰翳を見た。
 レオンはいつも理屈を越えて、本質を見抜く。それを自分自身のの言葉で訴える力を持っている。理論で辿り着いたわけでも、鍛錬でもなく。いっそ畏れすら抱かせるほど自然に。
 それこそが、潮流を、波を読み、嵐を予見するといったこととは別に…神官府をしてレオンに神の子の名を冠せしめた理由でもあったろう。
 自分ルイ=シェランシアには持ち得なかったもの。だから、王はレオンでなければならない。それが、レオン自身の望みとはかけ離れていたとしても。回復戦争に勝利するだけでなく、そうして勝ち取ったもの維持していくには、核となる存在が必要だ。だから神の加護を約する〝海神の子〟を王として推戴する。戦を決着させた後の、それはシェノレスにとって唯一無二の選択肢。
 しかしそれはそのまま、神官府の論法なのだ。そこに行き当たるとき、ルイは言い現しようのない憤懣に喉を堰かれる。自分は何をしようとして、何をやっているというのだ?

「…早く、戦を終わらせよう」

 ルイは、喉に詰まった何かを呑み下してようやくそれだけ言った。
「マルフ戦線が落ち着いて、国内のことに専念出来るようになったら…いろいろ、余裕が出てくるさ」
「…そうだ。そうだよな」
 レオンの表情が明るくなる。自身が口にしたことさえまともに信じていないルイにとっては羨望に値する素直さ。
「さて、俺は神官府の連中と話をしてくる。お前はもう休め。長旅だったんだ、寝ぼけて式典の真っ最中に上着の裾踏んで転んだら洒落にならんだろ」
「慌てなくたって式典は明後日だって。この丈じゃ物理的に踏めないっていったのルイだろ? ありがとな、お言葉に甘えて休ませてもらうよ。…あ、それで。一番大切なこと忘れるとこだった」
 レオンは弾かれたように立ちあがった。仮玉座に架けられた上着の衣嚢2から、封のある書簡を取り出す。
「出掛けに預かったんだ。アンリーから。…私信だから公務終わってからゆっくり読んでくれって」
 差し出された書簡を受け取り、相変わらず几帳面な宛名書きに目を落とす。その筆致を見る限り、予想したような衰微を窺うことはできなくて…ルイは少し安心した。
 だが、同時にひどく決然とした何かがそこから伝わってくる気がして、落ち着かない。

「あいつらしいな。…しかし公務終わってからって…どの範囲で言ってるんだ? 此処に居る分には俺、ずっと公務みたいなもんなんだが。
 …まあいい、確かに受け取った」

***

 ルイが仮玉座の天幕を出て、神官府から派遣されてきた者達が顔を揃えている幕舎の方へ移動すると、その入り口の前にひとりの女神官が立っていた。
 繊月の薄闇に立つその人物は、かたちばかりは本殿の神官達と同じ裾長の神官衣だが、その下に同色の脚衣を穿いている。履物も布沓ではなく野歩きに適した革、しかも足首までをきっちりと覆うものだ。山野を駆ける格好の上に儀礼用神官衣をひっかけただけ、というのが正解だろう。
「…クロエ」
 つやの良い黒髪は後頭部で纏めて結っている。挿しているのは飾り気のないこうがいだけだが、結いきれない前髪の残りがまるで花簪はなかんざし垂飾たれかざりのように微風に流れている。そうして月下に微笑する凜とした立ち姿は確かに歴然たる美女で、識らなければ思わず目を留め、足を停めてしまう者も多いことだろう。

 だがルイは、麗人の嫣然たる笑みを前に半身退いた。

「久し振りだってのに…どうしてそう逃げ腰な訳?」
「別に逃げ腰って訳じゃ…っッ…!」
 それは確かに逃げ腰になったわけではなく、間合いを取って体勢を整える為だった。しかし、クロエの方が動きは速い。易々と手首を取られ、次の瞬間には堂々たる偉丈夫といっていいルイの身体が宙を舞った。
 …辛うじて受け身は間に合った。クロエは着地して体勢を整えるルイの動作をっとみつめていたが、冷然と言い放つ。
「ルイ、元気そうで何よりだけど…右肩と左足首の動きが硬いよ。この半年ずっと戦を避ける算段してたんだから身体がなまるのはある程度仕方ないとして、最低限動く身体は維持しときなさい。怪我するから」
「その〝久し振り〟の出会い頭に、いきなりひとを投げ飛ばして診察するってのは、医者としてどうなんだよ!?」
 予測を毫もはみ出さない展開に、まんまと嵌まって口惜しいのが半分。先刻のレオンのように「らしくない」ことばかりで微妙な不安が拭えないところへ、不本意ながら妙な安心感を感じてしまったのが半分。ルイの声は思わず跳ね上がっていた。
「あら、失礼ね。誰にでもやりゃしないわよ」
「当たり前だ、怪我人が増えるわ!」
「あんたぐらい頑丈だとこれくらいやんないと不調が見えにくいの。ああ、これ一応褒めてるつもりだけど?」
 けろりとして言い放たれ、ルイはこめかみを暫く押さえて反問を諦めた。
 クロエ=レ・アスィエ…歳の離れたルイの姉である。ただし血の繋がりはない。ルイが生まれた年にはもう神官府にその身を寄せていたから、一緒に暮らしたこと自体はあまりなかったが、早世した母に代わって色々と面倒を見てもらった。
 現・典薬寮頭てんやくりょうのかみという地位にあり、大人しく神官府で仕事をしていることもあるが基本的にはじっとしていないたちで、カザルにも当然のように出向いてきて後方支援の陣頭に立った。祖父の仕込みだという格闘においては衛視寮にさえ敵う者がないという強者であり、ツァーリの偵察部隊をこん一本で追い払ったこともある。鋼のクロエクロエ・レ・アスィエなどという怖ろしげな名を奉られている原因の半分はこの気性の所為だとは思うが、決して名前負けしていないことは身内であり体術に関しては弟子でもあるルイが一番よく識っていた。
「聞いてないぞ、クロエまで来るなんて」
「あら、レオンにはちゃんと話を通したんだけど。レオン、何も言わなかった? それはそうと、その言い方だと来ちゃいけなかったみたいに聞こえるわよ。仮にも戦場なんだから医術神官は必要でしょうが」
「そりゃそうだけど…何で典薬寮頭御自おんみずから?」
「丈夫な身体を過信して無理してそうな身内が心配だったから、典薬寮からの派遣要員を決めるときに職権を有効に行使しただけよ。文句ある?」
「…突っ込み処が多すぎて、どこから突っ込んでいいかわからんのだが」
 困惑に頭を抱えるルイに、クロエがさらりと言い放つ。
「心配するな、あんたが気にすることじゃない」
「…アンリーの傍にはクロエが居てくれると思ったから、俺は安心してエルセーニュを離れられたんだがな」
「彼の傍にはソランジュが居てくれる。あの子の技術うでは確かよ」
「ああ、あの女性ひとか。…あんたの直弟子とは思えないくらい優しくて穏やかだよな。毒されてないのが不思議だよ」
「…相変わらず言いたい放題ね」
「それはお互い様だろ」
「でもまぁ…正直な処少し後悔もしてるよ。技術が確かでああいう気性だから、あの子ならと思って彼につけたんだけど…どうにも、このままじゃあの子にとってもつらいことになりそうでね」
「…どういうことだ」
「あんた、アニエスを憶えてる?」
「アンリーの叔母さんだろ。ツァーリ先王妃の」
 クロエが珍しく鬱屈した表情で頷いた後、何かを振り捨てるように頭を振ってルイに向き直った。
「彼を蝕んでいるのは、十中八九アニエスとおなじ病。こいつの厄介な処はね、気鬱が身体の力を奪ってしまうってこと」
 ルイは絶句した。
 アンリーには休養が必要なのだと思った。だから少し休めといってエルセーニュに置いてきた。…それは、あるいはアンリーから気力を奪ってしまったのではないか。
「そこでいきなり蒼白にならないで頂戴。彼をエルセーニュに残したあんたの判断は間違っちゃいない。この上半年も陣中生活なんかさせてたら、秋を待たずに彼、血を吐くことになってた。
 アニエスも、最初こそ早く元気になって息子の処へ戻ってやらなきゃって言ってたけど…どこからか諦めていた。途中から坂道を転がるみたいにして悪化したのは多分その所為。
 気鬱は…身体が病と戦うための力を削いでしまう。
 この病の本質はひたすらに体力の消耗。症状としては微熱とか、食思不振とか、倦怠感。でもそれだけで命を取られることはない。でも病勢が強くなれば消耗が激しくなる。それは身体が病と戦う力を削ぐ。それがさらなる気鬱の種子たねとなり、消耗と一緒になってまた身体から戦う力を奪う。その悪循環。気力と体力が尽きたときが、命の終わり」
 クロエがこういう説明をするとき、淡々として決して感情を交えない。それは、聴く方が冷静さを保てるようにという配慮なのだとルイは知っているが、鋼ならぬ氷のクロエクロエ・レ・グラースとも呼ばれる所以でもあった。
「…アニエスはそうやって命の灯を消した。私はね、アンリーをそうさせたくはないの。それは無論彼自身の為だし、ソランジュの為でもある。…そしてルイ、あんたやレオンだって、そんな結末、望んじゃいないでしょう」
「まだ、ながらえさせることはできる…?」
 クロエの言葉が、そこを必ずしも保証しないことを知りながら…ルイは敢えて訊いた。
「…より長く生きることだけが…良いとは限らないこともある。命にはどうあったって限りがあるんだから。
 でも、当人がよく生きた・・・・・、と思える生涯に…長いも短いもない。私はそう思う」
 ルイは、我知らず両拳を握りしめていた。シェノレス最高位の医術神官は、アンリーの予後について、ただ存えさせることよりその命の質クオリテ・デ・ラ・ヴィを問うべきと言っているのだと理解したからだ。
「…俺に、できることは?」
「調印が終わったら、あとは本殿の神官ども に任せてとっととレオンとシュテス島へ帰りなさい。そして、アンリーが彼として終焉おわれるように支えてやることよ。
 アンリーが辿ってきた生き方は、彼に彼自身の望みが何処にあったかさえ、見失わせている。
 それを扶けてやれるとしたら、この地上に在る者全ての中で…あんたたちだけなんだから」
「…このこと、レオンには?」
「言えるわけないでしょう。でも、レオンは理屈でなく解ってる。余命のことに関しては微妙だけどね」
 即答だった。ルイは思わず顔の下半分を覆って吐息を逃がす。
「…流石だな」
 それは、この姉と、友人レオンと二人にむけた賛辞であった。先程の様子から察するに、レオンはクロエとほぼ同じ結論に至ったのだ。…ただ強烈な危機感を伝えるのに、彼女ほど明確な言葉を持たないだけで。
 解っていないのは自分だけだった。いや、考えたくなかっただけか。
「私の話はここまで。私もそれほど自由のきく身分じゃなくてね。式典が済んだらレオンを連れて帰らなきゃならない。どうすべきかは、あんたが判断するの。
 …行きなさい、本殿のお歴々が待ってるわよ」
 そう言ってしまうと、クロエは身を翻した。

***

 式典は滞りなく終わった。
 マルフ島は以後、シェノレスにおいても聖風王の裔たる王女に敬意を表して以後ティーラ島と呼ばれ、シルメナ・シェノレス両国が領事と領事館を置いて通商の拠点とすることが定められる。同時に島全体を非武装区域とされることが正式に決定し、両軍の撤収期限も定められた。
 撤収期限まではそう猶予があるわけではない。文官たちにすべて委譲していくには相応の準備が必要であり、ルイはそれに忙殺されることになる。
 結果、レオンやクロエ達の船団に、ルイは乗ることが出来なかった。
 それを伝えたとき、レオンは正直に落胆を見せたがすぐに笑って「苦労かけるな。早く戻ってきてくれよ」と言った。
 クロエのほうは「そう」と言ったきりだった。
 先発する船団に傷病兵を一足先に連れ帰ってもらう算段をしたり、領事館の設置といった残務を処理する傍ら、ルイは何度もアンリーの書簡を手に取った。しかしその度にその封を開ける決心がつかなくて、置いてしまった。
 私事よりも公用を重んじた訳では決してない。むしろ、何を措いてでも知りたかった友人アンリーの消息である。
 …何故なのか、彼自身にも分からなかった。
 言うなれば、ただ漠然とした不安。様子が知りたいと思いながら、知ることが怖ろしい。
 停戦直前のあの日…津波が押し寄せる最中さなか、レオンとルイには潮の匂いしかしなかったカザルの風に、アンリーは唯一人…血の匂いを嗅いでいた。
 あの瞬間に…サーレスク大公アリエルは命を絶ったのだろう。
 アンリーが一番良く理解していた筈だ。サーレスク大公自身で王と宰相を説破できなかったときは、王太子として発したあの詔書を…遺詔として効力を存えさせるために自らの命を絶つ覚悟で王城へ戻っていったことを。
 アンリーは止めなかった。シェノレスとしても妥当な落とし処であったのは勿論、サーレスク大公の凄絶な覚悟を重んじたのだとルイは思っていた。
 だが、あの後からだ。アンリーが体調を崩し始めたのは。
 停戦発効、正式な講和、撤兵といった忙しさの中では、皆が目が回るようだった。気の緩みから倒れる者も少なからずいた。だから、アンリーの顔色が優れなかったり…声を掛けたときに少し返答が遅れるぐらいのことは、強いて気にかけてなどいなかった。
 マルフ紛争が始まり、アンリーが熱を発して倒れるまでは。
 だがその後、エルセーニュからの断片的な便りの中でアンリーが徐々に弱っていく様子を聞くにつけ、カザルでのことが予兆であったように思えてならない。もっと早く休ませてやるべきだった。そんな後悔がルイの胸を刺すのだ。
 かくて、ルイへ宛てられたアンリーの手紙が開封されるのは更に数日後…ルイがエルセーニュへ帰る船上となった。
 このときの躊躇ためらいを、ルイは長く後悔することになる。

  1. 床几…脚を打ち違いに組み、臀部を預ける部分に革や布を張った折り畳み式の腰掛け。陣中・狩り場・儀式などで用いられた。端午の節句の武者絵なんかによく描かれてるアレ。
  2. 衣嚢…いわゆるポケット