風の如くに Ⅰ

強き翼

 大陸暦900年、シアルナの下月。
 講和締結後1年、その間リーンで内紛があり、シェノレスとシルメナの間で小さな島を巡って紛争があったりと多事多端であったが、ツァーリは概ね平穏であった。
 前年末ミティア=ヴォリスの入内が正式に公布されたが、直後に養父たる前宰相が卒去したため、婚儀は翌年の秋と定められた。リュジノヴォの離宮で静養していたミティア=ヴォリスはナステューカの住み慣れたヴォリス別邸に入り、婚儀の準備を進めている。
 その別邸には、ひとりの赤児がいた。
 エミーリヤというその女児は、ミティアがリュジノヴォに滞在していた間に猶子として迎えられた。春先にミティア懐妊の噂が流れた後のことで、一時さきの王太子アリエルの遺児ではないかという憶測も流れたが、嬰児の黒髪碧眼は時間と共にその無責任な噂を霧消させた。
 そして、ミティアの帰還と共に、その警護の任にあった衛兵第三隊のセレスも本隊に復帰することとなる。

***

 一面雪に覆われた練兵場で、衛兵隊第三隊の調練が行われていた。
 監督にあたっていたエルンスト隊長は、ふらりと背後の森に足を踏み入れた。
 張り詰めた様子はない。いつもと変わらぬふうに歩いて、練兵場の喧騒がはるか向こうに聞こえる程の所まで来ると、ふと足を止めた。
「・・・・・誰もいやせんから、安心して降りてこい」
 やや上を向いて、樹上の鳥にでも呼びかけるように言う。かさり、と薄く雪を被った枝が揺れて、一人の青年が隊長の前に忽然と姿を現した。
「はは、さすがはエルンスト隊長」
「・・・レイン、だったな」
 青年は態度で肯定した。レイン。現宰相リオライの腹心の一人。
「・・リオライを介さずに俺に用がある・・・ってんなら、九分九厘あいつ自身のことだな」
「ついでに言うとあまり他人をまじえたくない事情で。不躾な呼び出し方をしたうえに、姿を隠したことについてはお詫びします。おれは仲間の総意で、あなたにお願いに来ました」
「面倒臭い前置きは抜け。・・・おおかた、前宰相ジェド=ヴォリスの一件だろう」
 レインは思わず口を噤み、しばらくこのおそろしくカンの良い傭兵隊長をまじまじと見つめてしまった。
「前年病死した前宰相・・・実は毒殺だという噂が立っているのをご存じですか」
「ああ。これだから宮廷雀ってのは嫌なんだ。好き勝手、無責任なことばかり抜かしやがる。連中にとっちゃ、面白ければそれでいいんだろうが・・・はっきり言って迷惑千万だ」
「どうやら故意に、噂を撒いてる連中がいるようなんです」
「前宰相派…だろうな」
「おそらくは。しかし、証拠がありません」
 エルンストは、少し考えに沈んだように言葉を返すのを遅らせた。
「探索依頼・・・か」
「どうやら根が深すぎて、ノーア出身の俺たちには手に負えそうにないんですよ。それに、俺達があまり表立って動いても、リオライ様が…」
「そんなもの捨て置け、と機嫌が悪い、か。苦労するな、お前らも」
「引き受けていただけますか」
 エルンストは、即答しなかった。
「現国王が、嫌いか」
 俄に話の風向きが変わったものだから、レインはばつが悪そうに頭を掻くと、憮然として言った。
「・・・好きになれんことは確かですよ。リオライ様をツァーリなんかに縛り付けた張本人なんだから」
 エルンストがやれやれといった風に吐息した。
「正直だってのはいいことだが、願わくば我らが国王陛下にもう少し同情してやって欲しいもんだなぁ。他に選択肢がなかったんだ。リオライもそれを汲んで、あえて宰相位を受けた。停戦の後片付けその他諸々、放り出しちまうわけにはいかなかったからな」
「それは判ってるつもりです。今上の身の上は俺達だって気の毒とは思う…でも、それとこれとは話が別だ。リオライ様は危機に瀕したこの国を建て直すために身を削っておいでなのに、何故今、こんな中傷を受けなけりゃならないんです! 今更あんな老いぼれひとり殺したって、リオライ様に何の益がある訳じゃないことくらい、なんで皆、理解ろうとしないんです!?」
 余人の耳目を憚る内容だということは判っていても、抑えきれないものらしい。レインの声音が跳ね上がっていくのを片手を軽く挙げることで制して、エルンストが言った。
「判った、わかったから一寸落ち着け…。あの噂が下らん中傷だって事ぐらい、陛下が一番良く知ってるさ。それにしても老いぼれってお前ら、宰相家って一応主筋しゅうすじ1じゃないのかよ?…まあ、俺には関係ないけどな。
 …承知した。確かに放ってはおけん。できるだけ早く火元は探し出そう」
「す、すみません。・・・俺、元々ノーアの人間ですから・・・ヴォリスの血筋がどうとかって今ひとつ・・・」
 自分が声を荒げたことに気づいたレインが赤面した。単純を絵に描いたようだ、と仲間内で揶揄われる所以がここにある。だが、小兵こひょうながら投槍ジャベリンのように真っ直ぐで篤実なこの青年は、リオライの側近としてはカイに次ぐ古参である。案ずる気持ちは誰よりも強かろう。
 だが、エルンストの心配は他にもあった。
「実際、こんな噂を本気にして不毛な正義感にかられた奴等が動きださんとも限らん。最悪の事態になる前に手を打ちたいところだな」
 エルンストの指摘にレインが蒼褪める。だが、今度はぐっと唇を噛みしめてただ頭を下げた。
「・・・お願いします」
 レインと別れ、エルンストは何事もなかったように練兵場へ戻った。
「あれ、隊長…さっき、姿がなかったですよね?」
 副長のディルが振り返る。
「ああ、悪い…何か林の中で気配がしたから行ってみたが、栗鼠リスだった」
 エルンストの返答に、ディルは笑った。
「相変わらずケモノみたいな聴覚ですね。間諜どももここんとこ大人しいし、あんまりピリピリしなくたって大丈夫でしょ?」
「そうだな」
 その日の訓練が終わり、皆ばらばらと兵舎に戻る。エルンストは暫く誰一人いなくなった練兵場の一隅で、考え込むように座り込んでいた。
 ややあって兵舎に戻ったが、いくらもしないうちに今度は乗騎を連れて、またふらりと兵舎を出る。

***

 ツァーリ国王リュースは今年17歳になる。
 兄である王太子の自刃、前王の頓死、宰相の辞任。その中で周辺三国との講和、2年にわたる戦で逼迫した国庫の立て直しなど課題は山積していた。前宰相の正当な後継者であり自身にとっては叔父にもあたるリオライ=ヴォリスを新宰相として任じ、停戦後のツァーリの舵取りを委ねるのは…ほぼ唯一の選択肢であっただろう。リュース自身はその選択肢に何の疑問も持ってはいなかったが、実際には国王の近習でさえ異を唱えるものはいたのである。
 挙句は前年末の前宰相死去について、リオライの関与を囁くものさえいる始末だった。
 叔父リオライ=ヴォリスは尊敬するアリエルの親友だった。
 本来その忠誠はサーレスク大公アリエルにこそ捧げられる筈だったが、兄の遺詔継承を宣したことで叔父は自分を認め、登極を後押ししてくれた。その信に応える。無力な自分には、今はそうすることだけが与えられた役目を果たすための方策だと信じていた。
 だからこそ、リュースは無責任な噂噺に心を痛める。
 ――――先王時代の政務はほぼ宰相を頂点とし、国王は大きな国事にのみ臨席することを専らとしていたが、リオライはそれを改め政務報告を国王・宰相の日課とした。それはいままで国事に表立って参加することのなかったリュースへの配慮であることを理解していたから、リュースはそれを丁寧に聞いた。冗長にならないように質問もした。だがここのところ、叔父の疲労の色が濃いことが気になってしまう。
 無理もないだろう。国王たる自分がこのていたらくであるから、この国の立て直しは宰相の双肩に掛かっている。優秀な幕僚がいて彼を補佐していることも知っているが、その負担は想像を絶する。…だが、自分には何も出来ない。
 報告が終わり、退出する宰相に声をかけるのがやっとだった。
「・・・何か・・・たちのよくない噂が流れているようだけれど、わたしはそんなもの、信じていないから・・・・」

***

 用件を終えて退出しようとしたリオライは、まるで用意されていたかのような、だが遠慮がちな声に引き止められた。
「・・・何か・・・たちのよくない噂が流れているようだけれど、わたしはそんなもの、信じていないから・・・・」
 リオライは一瞬呼吸を停めた。リュースにしてみれば、懸命に考えた末の言葉であっただろう。だが…。
 詰めた呼吸をそうと悟られないようにゆっくりと逃がすと、リオライは改めて国王に向き直り、最上礼を執る間にこの若い国王にかけるべき言葉を探した。
「…宸襟を騒がせ奉り、申し開きの仕様もありませぬ。何卒ご寛恕賜りたく」
 控えの間で主人あるじを待っていたカイとアレクセイは、玉座の間から退さがってきたリオライの表情を見て一斉に溜息をついた。
「主上に何を言われました、リオライ様」
 こういうときに、カイはただ沈黙を以て側に控えるのみであるが、アレクセイのほうは言うことに遠慮が無い。
「…そんなにひどい顔をしているか、俺は」
 リオライが苦笑する。
「それはもう。エルーカ2のサラダを三日連続で大皿一杯に出されたときのような」
「俺は別にエルーカは嫌いじゃないが」
「嫌いじゃないかも知れませんが、お好きでもありますまい。そんなものでも食事の度に出されていればうんざりしますな」
「アレクセイの喩えは迂遠でいかん」
 若い主人が露骨に眉を顰める。ツァーリの書記官長はへらっと笑って言った。
「いえ、某処からお前は歯にきぬ着せるということを知らんとお叱りを受けましたので」
 リオライはこめかみに手を遣って嘆息した。
「例の噂だ。『たちの良くない噂』については『信じない』と。全く以て有難いことだが、陛下にあそこまで切羽詰まった表情かおで言わせるとなると、俺の聞こえないところでは相当な言われようをしているな」
「心配なさらずとも主上がリオライ様に何か仰るときには大概切羽詰まった表情をしておいでですよ」
「アレクセイ…!」
 カイが直言不諱3を画に描いたような同僚を横目で苦々しげに睨む。アレクセイは肩をそびやかして言葉を続けた。
「まあ、真面目な話…主上も気に掛けておいでですな、相当」
「陛下は国事に対しては慎重な方だ。おそらく噂を本気にとって妄動する輩の存在を憂えておいでなのだろう。何が正しい、ではなく、誰が正しい、にとらわれる奴らの多いことだからな。面倒事が増えそうだ…」
「『妄動する輩』の挙動を探らせますか」
 カイが言うと、リオライは暫し沈思黙考して静かに首を横に振った。
「いい…。自分の方がうまくやれるというなら、やってみるがいいんだ。宰相になりたいというなら、正面切って俺にそう言ってくればいい。講和は成った。国の立て直しもそこそこ軌道に乗ってきた。宰相職なんか欲しければくれてやる」
 アレクセイは苦笑いした。
「またそれを言う…」
「俺は本気だぞ、アレクセイ。
 …だが、それを得んがために戦を起こすというなら…誰だろうと、俺は全力を以て叩き潰す。王都の森に火を放つ者を、俺は決して赦さん」
 熾烈な光を両眼の紫水晶アメジストに閃かせて、リオライは言った。

***

「どう見ます、カイ=エトラス」
 リオライが宰相執務室に入った後、隣室で控えているカイの元にアレクセイが姿を現した。
「…リオライ様は考えることは至って慎重ですが、言うこととやることはおそろしく直截な方です。ああ言ったからには、相応の人物がいれば宰相職を譲る心づもりなのはまず間違いありますまい」
 リオライの幕僚の中でカイよりも年長なのはこのアレクセイぐらいである。また、傍流とはいえヴォリスの一門であるから、ヴォリス家を主筋とするカイは一応アレクセイに対しても敬語を用いた。ただ、先方アレクセイが至って無頓着なので徹底しているわけではないが。
「そりゃわかってますよ。あなたほどじゃありませんが、私も結構これで付き合いが長いですからね。問題は、人選ですよ。…今のところ宰相職を欲しがりそうな方々は、大概リオライ様の仰るところの『何が正しい、ではなく、誰が正しい、にとらわれる』輩ですからね」
「宰相職を手に入れた途端に、軌道に乗ってきた事業の全てをひっくり返しかねない…と?」
「ご明察」
 アレクセイは頭を掻いた。
「おまけにまあ、真っ正面から宰相職をくれと言うことができるような真っ直ぐな方々でもない。手に入れるならもぎ取るか、掠め取ることしか考えないでしょう。しかも、他人を巻き込んで」
「…そうでしょうな」
「そうなれば…言いたかありませんが規模の大小はともかく刃傷沙汰は避けられない。最悪…」
「…叛乱」
 流石にアレクセイが立てた指を自身の唇に当てた。ここが控えの間であり、カイとアレクセイしかいないとは言っても、王城の中である。誰が聞いていないとも限らない。
 焦慮のあまり口を滑らせたことを愧じ、カイがすこし疲れたように嘆息して言った。
「…第三隊のエルンスト殿に…探索を依頼してはいる」
「そうですか…黒幕の候補には事欠きませんが、事前に証拠を押さえるとなるとエルンスト隊長でも少々手を焼かれるでしょうな。
 ああ、エルンスト隊長と言えば…ミティア様の一件の時に…王都の森にお住まいの何やら身分を公にしたくない御仁の協力を得られたとか。どんな方なんです?あなたは何かご存じないんですか」
 カイが静かに首を横に振った。
「残念ながら…私は何も。エルンスト隊長からは西方に居た頃の友人で、信用のおける医者と伺っているだけです。大雑把に見えますが、あれで口は堅い人ですからね。あの様子では、多分訊いても教えてはくれないでしょう」
「そうですか…」
 アレクセイもまた嘆息して両腕を組み、暫く視線を床に落としていた。言うべきか否かを迷うような間があったが、ややあって顔を上げる。考えすぎかも知れませんが、と前置きしてから言った。
「少し、気になるんですよね…その御仁。
 敢えて身分を隠すというなら、相応の家の出身の筈です。もしそうなら、リオライ様の敵になることはなくても、『黒幕』に目を付けられる、ということもあり得るでしょう?」
「ご当人にその気がなくても、利用される可能性はある、ということですか」
 カイの表情が硬くなるのを見て、首席書記官は軽く手を振った。
「…あくまでも可能性の話ですよ。本来はかりごとは密なるを良しとするでしょうが、体制をひっくり返したいというなら…敵さんだって仲間は多い方が嬉しいでしょうからね」

  1. 主筋…主君または主人の血筋。また、その血筋をひいている人。主人側。
  2. エルーカ…ルッコラの別名。ほかにもアルグラとか、ロケットとか。栄養価は高いらしいが、辛味、ものによっては少々苦い。
  3. 直言不諱…正直に言ってはばからないこと。