風の如くに Ⅳ

 リオライは宰相位についてより、ヴォリスの本邸に居を構えている。
 多忙さを考えれば、いっそ王城で起居してもよい程だったが、気が休まらないので一応ヴォリスの本邸へ戻ることにしていた。それほど長い時間が掛かる訳ではないが、その移動の時間に考えたいことがあるからでもある。
 高齢でもあった先代ジェド=ヴォリスは馬車での移動を常としたが、リオライは余程のことがなければ騎行であった。これはリオライが格式というものを半ば敵視していた所為もあるが、リオライ自身が幼時からノーアで武官寄りの教育を受けていたことが大きい。
 その日もカイ=エトラスをはじめとする側近数騎で王城を出たリオライは、ふと乗騎を停めた。
「どうなさいました、リオライ様」
 カイが馬を寄せる。
「寄りたいところがある。お前らは先に帰れ…と言っても駄目だろうな」
「駄目です」
 至極直裁に、カイは言い切った。
「仕方ない、カイだけついてきてくれ」
 苦笑するリオライ。カイがこめかみを揉みつつ言った。
「…まあ、そこで手を打ちましょうか。レイン?」
「了解」
 レインが他の者を連れて先行する。そうは言っても、本邸へ戻る訳でなく、周囲の哨戒に散っただけだ。
「で、何処に」
「…本邸と王城の往復に飽きただけだ」
「まあ、そうでしょうな」
 王城に在って執務するときには微塵も見せないが、友人としてのエルンストや、カイのような古参の近侍の前ではリオライも疲労の色を覗かせることもある。
 『檻に囚われた獅子がゆるゆると憔悴していくよう』というエルンストの感想は、カイも同じくするところであった。獅子は獅子の理由でその檻にとどまっているとはいえ、檻の戸を開ける時間は必要だろう。
「では、何処なりともお供しましょう」
「カイのそういうところが助かるな」
 リオライは笑って、手綱を軽く右へひいた。馬首が向いたのは、馬であれば一頭がせいぜいの…うっかりしていると見落としそうな細道であった。
「…だが、おくれる分には知らんぞ」
 言い終えないうちに馬腹に踵を入れた。リオライの乗騎は即座に反応し、走り出す。カイの乗騎もまた、間髪入れずに追随した。
「そういう古典的な手が…通じると思ってますか!?」
 少年期、リオライが体格に応じたやや小柄な馬を乗騎としていた頃は、この手で脇道に逸れられると、場合によってはまんまと撒かれることもしばしばであったが…今はそうはいかない。
 カイの乗騎が追いつくと、リオライがわずかに悪戯っぽい表情を閃かせた。
 それほど長駆するでなく…開けた場所に出る。リオライは下乗すると、周囲を見回して嘆息した。
 ――――ミオラトの廃園であった。
「すこし…荒れたな。無理もないが」
 かつて、ノーアから無理矢理連れ戻され不貞腐れていたリオライと、必ずしも居心地のよくない居館を抜け出して緑陰に静かな安息を得ていたアリエルが出会った場所である。
 ミオラトの僧院はかなり前から獄舎として用いられており、かつて宮廷としての機能さえ担っていた頃の面影は当時から既になかった。
 広大な内苑は崩れた場所もそのままに放置され、蔦が巻き放題であったが…そこは孤独な王太子の密かな砦であった。
 盗人の標的になりそうな財物が運び出された後も、リオライは時々人を遣ってそのささやかな砦を保守してきたが、リオライがギルセンティアで事故に遭った三年前からそれも途絶えている。草木の侵蝕をこうむるのは致し方なかった。
 柱廊に囲まれた中庭クロイスター。そこは、二人にとって剣の修練場であり、時にはミティアを連れ出す口実となった馬術の練習場であった。
 中庭の一隅にある、割れてしまった大きな水盤。そこへ水を給していたと思しきとひは割れて地に突き刺さったまま天を向いている。リオライはそれを杭代わりにして乗騎を繋ぐと、馬術の練習で障害に使っていた、横倒しになった石造りの円柱に腰掛ける。
「随分…長い時間が経ったような気がする」
 主人が返答を求めていないことは明白だったから、カイも馬を繋いで少し離れた場所にただ控えた。
「アリエルはもういない。ミティアも…いつの間にかもう立派な大人だ。俺ひとりが取り残されてしまった」
 カイは思わず何かを口にしそうになった。だが、寸前で呑み込む。
「その所為か…昔のことばかり鮮明に思い出す。あの子は今、どうしているんだろう…」
 カイが顔を上げたとき、リオライは天を仰いで遙か遠くを見ていた。
「サマンの刺客騒ぎを憶えているか」
「リオライ様が御自分で、御自身の傷を縫ってフレイを卒倒させたあの一件でしょう」
「…憶えてなくてもいいことばかり憶えてるな、カイは」
「おや、憶えていなければいけないことも憶えていますよ。あの件に関して、リオライ様は私に何も言ってくださらなかったこととか」
 自分から振った話題で旗色が悪くなってしまったリオライが、次の言葉を出しそびれているのを看て取ったカイはそっと話を元に戻した。
「…あの子なら、きっと生きていますよ」
「…カイ…」
「早春のギルセンティアは危険です。そのことは、リオライ様が身をもって識っていらっしゃる。ですが、あなたはそこから生きて戻られた。…あの子にしたところで、誰も亡骸なきがらを確認した訳ではありません」
 リオライは、その漆黒の髪をかきあげた。
「…俺も、あの子が生きているような気がする」
 カイは、軽い驚きを込めてリオライを見た。
「きっと、生きている。…生きて…きっと幸せでいる」
「…リオライ様…」
 天を仰いだまま、その紫水晶の双眼を閉ざして吐息する。だが、その口許には微笑があった。多分に自嘲を含んではいたが。
「嗤ってくれて構わんぞ?カイ。俺が到着したという報せで慌ただしく辞去してしまったという娘御…ひょっとして、マキじゃないか…と…。
 待っていてくれとあれほど言ったのに、飛燕のように翔け去ってしまった。とんでもない軽捷さがそう思わせるだけなんだろう。第一その娘御、身分を明かせないというなら、相応の家門であることは間違いない。マキの筈はないんだ。
 …ただ、そんな気がしただけだ。本当に、埒もない。それでも、俺は…」
 ゆっくりとその眼を開き、暮れかけた空へ手を伸べる。虚空に、その手を取る者はない。すこし寂しげに、リオライは伸べた手を引き戻して握りしめた。
 ――――ノーアの北側に広がる、痩せてはいるが広大な草原にはいくつかの部族が狩猟・放牧、時には略奪の生活を送っている。それらは、サマンと総称された。サマンはノーアにとって、長年にわたって劫掠を繰り返し、ときには数部族が連合して国境を侵す忌むべき敵であった。
 しかし十年以上前、サマンの祭司がノーアの領域に入り込むという事件があり、追われていたサマンの少女を偶然リオライが保護した。リオライもノーアにおけるサマンの立場は承知していたから、伝手を頼って少女をノーアの外へ逃がすことを画策したのだが…少女を庇って傷を負ったリオライを見て、少女はそのまま行方を晦ませてしまったのだった。
 早春のギルセンティアを少女の足で踏破出来たとは思えない。リオライは必死になって捜索したが、結局見つからず終いだった。
 庇い切れなかった。その無力を、当時のリオライは泣いて悔やんだ。ギルセンティア山麓の捜索から戻ったリオライが、暫く食事もとらずに人を遠ざけた理由をカイは知っている。
 リオライはそれ以降、カイが知る限り今日までその件について一度も言及したことはなかったが、この事件はリオライに重い決意をさせたようだった。文句を言いながらも、ツァーリ行きを遂に了承したのである。
 その亡骸が見つかったわけではない。雪渓の最奥へ滑落してしまったというならともかく、行き倒れかけたところを誰かに救われ、何処かで生きているという可能性はあった。
 ミティアをその心身の危難から救い、いまも繁々と訪れては話し相手をしてくれるという娘と同一かどうかはさておき――――――。
 暮れかけた空を漫然と見上げる主人あるじを少し離れて見守りながら、カイは危機感に胃の腑を炙られる思いであった。
 問題は、リオライの側近達が当初から憂えていたように…アリエルを喪ったリオライが孤立感を深めていることだ。
 リオライは元々ノーアにその居場所を求めていた。だが、ヴォリスの嗣子という立場がそれを許さなかった。かの王太子との出逢いはかつてリオライに宰相家の後継としての立場を受け容れさせたが、既にその王太子アリエルはいない。
 アリエルの遺詔執行という目的がほぼ果たされた今、リオライはこの地に留まる理由を見失いつつあるのではないか。カイはそう思う。
「…リオライ様」
 顔を上げて、カイは口を開いた。リオライはふと引き戻されたように…最古参の近侍に視線を戻す。少し、ぼんやりとしていたようだ。常は鮮烈な光を放っている紫水晶アメジストが、今は春の雨越しに見る藤花の色彩に近い。
「…何処いずこなりと、御心のままにかれませ。今のあなたには、その力がある。
 我らは、何処であろうとお供いたします」
 カイの言葉に、ゆっくりとその紫瞳が焦点を結ぶ。
「そうか…有り難う」
 リオライは完爾として笑い、足下にまつわりつく枯草を払って立ち上がった。

***

 シルメナとシェノレスが小さな島をめぐって起こした紛争は、天下に冠たる〝銀狐〟シルメナ王ルアセック・アリエルⅤ世が見事におさめてみせた。シェノレスとの関係を修復する一方、紛争の当事者であった海上貿易都市イオルコスに王女を降嫁させることでその動向の制御を強めた銀狐の独り勝ちという構図ではあったが、平和をもたらしたことには違いない。
 シルメナとシェノレスが着々と国内を整備していく中で、先年内紛を起こしたリーンは悲惨だった。
 王都で擾乱が起きている間に国が荒れ、街道に賊が蔓延ったことで大陸街道の物流が減り、貿易の主流はシェノレスの確立した南海航路へ移ってしまったのだ。結果としてリーンを支えてきた東方貿易の利益はリーンの都ノルノードへ届かず、リーンの宮廷は目減りした利益をめぐって四分五裂という有様である。
 大陸街道の物流能力低下はツァーリにも影響する。海運の弱いツァーリではより状況は深刻といっていいだろう。だから、ライゲイト伯という人物が命からがら、這々のていでナステューカにたどり着き支援を要請したときも、宰相リオライは他国のこととして一蹴するというわけにもいかなかった。
「…会わん訳には、行かんだろう」
 渋い顔で、リオライは言った。他国の戦に巻き込まれるのは真っ平御免だが、知らぬ顔も出来ぬというのが本音である。
 その取次をし、接見の場を設定すると申し出たのがイグナート伯であった。去年の一件で大いに面目を潰した為、名誉回復の機会を与えて欲しいというのがその口上である。
 ミティア誘拐未遂の一件で、企てた者達とは完全に無関係、自分は利用されたと言い立てて処分を免れた人物である。その醜態はエルンストをはじめ関わった者達を辟易させるに十分だった。リオライに至っては会うことすらしなかった。主張が認められ赦されたというより…ある意味、放置されたのだ。
 ライゲイト伯を王城で接見すれば、その人物を正式なリーンの使者として承認した形になってしまう。そのためまずは別の場所で…というのが今回の話であり、リーンから帰化しているイグナート伯は立場として妥当ではあったから、リオライはイグナート伯の上申を許可した。リオライはイグナート伯に、用いるに値しない凡夫という評価を下していた。…かといって敢えて排斥するほどの理由もなかったのである。
 諾を得たイグナート伯は喜び勇んで準備にかかった。数日かけて自邸の埃を叩き、荒れた外構を整備して場所を整えたものの、警備についてはイグナート伯にそれを賄うことはできなかった。
 結局…畏れながらとその旨申し出て、警備については衛兵隊が派遣されることになった。
 こうした職務でさえリオライは第三隊を動員することが多く、それが言わば干された形の第一隊・第二隊の不満のタネにもなっていることから、今回は第一隊が出動することとなった。
「言っちゃ何だが人形だからな」
 第一隊・第二隊に対する、エルンストの評価は至って厳しい。それはリオライとてそう変わるものではなかったが、少々の事はカイやシェラといった近侍だけでも対応できると考えていたのである。
「俺が単独でつく、ってテもあるんだが、俺が行くと、あのおっさんイグナート伯が口から泡吹いてひっくり返りかねないからなぁ…今回は遠慮した方がよさそうだ…」
 去年の事件でイグナート伯の身柄を抑えるために出動したエルンストがそう言って苦笑した。そのぐらい、当時の様子は周囲の失笑を買ったのである。

***

 接見当日。
 接見の場として設えられた広間ホール…といってもそれほど広壮なものではない。
 対面に扉がひとつずつ、天窓を持つ造りは相応の空間を有していたが、部屋自体はそれほど広くない。だから置かれた調度といえば儀式に使う敷布クロスを掛けられた重厚な卓がひとつと、隅に書記官用の机があるきりだ。
 宰相リオライととライゲイト伯、仲介者たるイグナート伯、下がった位置の書記官机についたアレクセイ、その周囲に警護の衛兵隊第一隊の隊士数人にリオライの近侍であるカイとユアスが立つと、それだけで結構手狭にすら感じられる程だ。だが大仰にするわけにも行かないのだから、ある意味妥当な場所設定ではあった。
 ライゲイト伯ネイサンという人物は、旅塵を落とし休養を取る間はあったであろうに…まるでたった今王都に着いたかのような草臥くたびれた風体をしていた。
 実際にその身体や衣服が汚れているわけでは決してなく、むしろイグナート伯が気合いを入れて精一杯支度を調えてやったのはありありとわかるのだが…どうにも風采の上がらぬ小男という印象が拭えない。
 その上、ネイサンは部屋に入ってきた時からひどく緊張していた。
 机の上に文箱を置き、主人から預かった書簡を出して封を外す…そんな動作の間にも何度も手を滑らせた。
 ネイサンが自身が仕える主人の正当性をしどろもどろに述べ立て、ようやく震える手で書簡を広げて読み始める頃には、リオライとしても既にうんざりしていたのである。
 しかし、空位状態のリーンに正当・・な新王を立て、大陸街道を安定に導くために力を貸して欲しいという主旨の文章を読み終え、主人の署名のあたりまで巻き紙が開かれた時…そこに有り得べからざるものが横たわっていた。書簡の中に、予め仕込まれていたのだ。
 ――――短剣ダガー
「遺恨憶えたるか!」
 それまで背を丸め、俯き気味で表情さえ窺いにくかったネイサンが、俄に顔を上げて板発条いたばねのように身を反らせた。その手には書簡の中に巻き込まれていた短剣。
 イグナート伯が音階を外した絶叫をあげた。
 突き出された短剣を、リオライは寸前で躱した。ネイサンのそれまでの鈍重な動作は、明らかに偽りであった。恐るべき速さで机の上に乗り上げて短剣を逆手に構え、振り下ろそうとする。
 後ろで控えていたカイとユアスさえも、咄嗟のことで間に合わない。だが、ネイサンの短剣は机にかけられた布を切り裂いて突き出されたソードブレイカー1の櫛刃で阻まれた。
「…出なくて済むなら、それが一番よかったけどね」
 布をかけられた机の下には、ディルが身を潜めていたのだ。
 短剣は絡め取られ、ネイサンの手からもぎ取られる。机の下から転がり出たディルが机にかけられた布を力任せに引くことで、机の上に乗り上がっていたネイサンが均衡を崩して床の上へ転落する。跳ね起きようとしたネイサンをカイとユアスが抑えた。
「ご苦労、ディル!」
 だが、見事ネイサンを確保したユアスがそう言って顔を上げたとき、ユアスの表情が凍った。
 緊張が緩む、絶妙のタイミングであった。
 暗殺者からリオライを護るように立ちはだかっていた筈のディルが、突如として背後のリオライを左のソードブレイカーで後ろ手に刺したのである。
「…っ…!」
 リオライの顔が苦痛に歪み、その身体がゆっくりと沈んだ。
「ディル、何を…!」
「何ぼやっとしてる。お前ら、本当に人形かよ!」
 ディルの声は警備として配置されていたはずの衛兵隊第一隊に向けられていた。一瞬の空隙の後、第一隊の隊士たちががカイとユアスに襲いかかる。が、ユアスの口笛が空を裂き、間髪入れずに天窓が外から破られた。降り注ぐ硝子を縫って、飛び込んできたエルウが急降下する。強靱な爪に額を抉られ、隊士のひとりが悲鳴を上げて仰け反った。
 両方の扉が開かれ、一方からは第一隊の隊士が、もう一方からはエルウの挙動から変事を察したリオライの側近達がなだれ込んだ。

***

 セレスからサーティスの不在を聞いていたから、駄目で元々、巧くいけば掴まえられるかと思いながら訪問したセルア館で、エルンストはまさに帰宅したばかりのサーティスに出会った。
「…何処へ行ってた?」
「まあ、あちこちな。ようやく帰ってきたところさ。どうした、今日は非番か」
「そんなところだ」
「相変わらず来るときは唐突な奴だな。まあ良い、上がって待て。とりあえず土埃ぐらい落とさせろ」
「…すまんな」
「いつものことだろうが。何を神妙になってる」
 馬の鞍を外してやりながら、サーティスが笑う。先方は何事もなかったように振る舞うが、エルンストとしては前回の別れ方が別れ方だけに…少々気不味きまずいのだった。
 テラスへ回ると、居間の扉が開かれていた。例によってマキが甲斐甲斐しく立ち働き、いつものテーブルに茶菓の支度をしている。
「ね、隊長さん。セレス姐さんは?」
 思い出したように手を止め、不意に問われてエルンストは戸惑う。そう言えばマキはセレスを姉のように慕っているのだった。
「あぁ、セレスには少し面倒なことを頼んでいてな。…そう言えば、今日はまだ会っていない」
「…ふうん、そうなんだ。相変わらずさっぱりしてるなぁ」
 マキが感心しているのか呆れているのか微妙なところだった。エルンストにしてみればさっぱりしているのはセレスの方なのだが…。
「あんまり干渉すると、あれは機嫌が悪いんだ。仕方ないだろう」
「んー…機嫌悪いってのと違うと思うんだけどなぁ」
 エルンストにしてみればなにやら謎をかけられた気がするのだが、マキはそれ以上何も言わずに支度を終えると、ぺこりと一礼して奥へ入った。
 入れ違いにサーティスが入ってきたから、結局それきりになる。
 例によって汲んだばかりの水をそのまま浴びてきたのか、その金褐色の髪はまだ僅かに湿っているようだった。その気になればいつでも適温に沸かした湯を使える身分のくせに、薪が勿体ないといってエルンストでさえ二の足を踏むような冷水を平気で浴びる。吝嗇けちというより本当に頓着しないだけなのが却って度し難い。
「…この間は、すまなかった」
「何の話だ? …ああ…」
 言いかけて、合点がいったらしかった。苦笑して、杯に酒を満たすとエルンストの方へ押し遣る。
「…まだ諦めたわけじゃなさそうだな」
 その苦笑が少なからず毒を含んでいることを察してはいたが、エルンストは敢えて踏み込んだ。
「実を言えば、そうだ。
 はっきり言おう。リオライはもう限界だ。誰か代わって国王を補佐する者が要る。ツァーリはまだ病み上がりなんだ。今の今迂闊な者に任す訳にはいかん。そのくらいの理屈のわからんあんたじゃないだろうが。
 すぐに結論を出せとは言わんよ。まず一度、リオライに会ってみないか」
 エルンストの言葉に、サーティスはもう一度苦笑して視線を逸らし…自身の杯にも酒を注いだ。
「要するに、私に王城へ出ろと言いたいのか」
「・・・・・・・」
 エルンストに対してではない、ここにいない誰かに対する嘲笑が、世を捨てた先王弟の顔をかすめる。
 サーティスは立ち上がり、テラスへ続く扉を開けた。外で酒宴をするにはまだ寒い時期である。空は晴れていたが、風上の方向に陰鬱な雲がわだかまっていた。夜には、降るかも知れぬ。…この寒さでは雨というより雪か。
「…お前は知ってるはずじゃないか…」
 薄曇りの空に座す白い月を見上げて、呟くように言う。だが、それを聞いたエルンストは一瞬声を呑んで…握った拳を卓へ押しつけた。
「…ッ…知らねえよ…!」
 その半ば唸るような声に、サーティスが理不尽なものでも見るような表情でこうべめぐらせる。
「お前、言わないじゃないか。どうでもいいときは適当に困った振りして晦ます癖に、本当に苦しいときなんて…大概何も言わずに引き籠もっちまうだけじゃないか。
 大事なことは何にも言わないで、理解わかれとか無理だろう!」
 つい、声を大きくしてしまったことに気付いて…エルンストは椅子に身を沈めて杯を呷った。
 サーティスはその表情を一瞬で消し去り、苦笑した。
「そうか…そうだな。お前はいつでも…」
 もう一度月を仰いで杯を傾ける。テラスへつづく扉を閉め、干した杯を持って卓へ戻ると、杯を置いて新たな酒を注いだ。
「大昔の話だ。ヴォリスは私に向けて刺客を送り込んだ。私がカスファーの王位を脅かすとしてな。13のガキにだぞ? 正気の沙汰じゃない。そんな奴の国のために何かしようという気に…エルンスト、お前ならなれるか?」
「サーティス…」
「今更ツァーリ王家が潰れようが滅びようが私の知ったことではない。・・・たとえ最悪の事態になったとしても、その時はその時、また王都を出奔するさ」
 決して激してはいない。若草色の瞳の中に氷塊を浮かべながら、口調だけは冷静で容赦ない。旧友があくまでも晦まそうとしているのを感じ取って、エルンストは苛立ちに拳を握る。
「…嘘つけ、このひねくれ者」
 エルンストが卓を拳で叩いた。そのはずみか。サーティスが手を滑らせたか。注いだばかりの酒杯が倒れ、卓の上を転がって床に落ちた。
 澄んだ音を立てて杯が割れる。サーティスが小さく嘆息した。
「…勿体無いな。エルンスト、少し落ち着け」
 サーティスが少し煩わしげに眉をひそめた。
「俺はお前の為にも言ってる。今、リオライが倒れ…あるいは倒されるような事態が起これば、戦禍から立ち直るために費やされた全てが水泡に帰すことになる。多分、ひと荒れあるぞ。場合によっちゃ王都の森で火の手が上がる」
 サーティスは割れた杯を始末すると、何事もなかったように戸棚から新しい杯を出して酒を注ぐ。
「・・・・で?」
 逆鱗かも知れぬ。だが、エルンストは敢えて言った。
「奴らの国、って言ったな。本当はお前、そんなこと思っちゃいないだろ。この国で誰が玉座にいようが、宰相が誰だろうが、お前にはきっと関係ないんだ。
 大体、お前何で王都ナステューカなんかへ戻ってきた?
 つまらん意地を張って、自分を騙して。それでずっと過ごせるとでも思ってるのか。本当はこの国が心配になったから、危険を承知で戻ってきたんだろう?」
「エルンスト!」
 初めて、サーティスが声をあららげる。逆に、エルンストが語気の槍を収めた。
「お前は王都の森ナステューカの平穏を願ってる。違うか」
 サーティスが、額に手を遣る。ゆっくりと、椅子に身を沈めた。
「俺のことなんかどうだっていい。…連中は…あの連中がライエンを殺したんだ…!」
 耳慣れない名前よりも、サーティスの口から零れた呪詛にも似た声音に驚いて…エルンストは口を噤んだ。
 沈黙が、降りる。そして次にサーティスが口を開きかけたとき、マキの悲鳴に近い声が空気を張りつめさせた。
「どうした、マキ!?」
「サティ、大変・・・・・・・来てっ!」
 滅多なことで取り乱すような娘ではない。そのマキのただならぬ声に、二人は足早にホールへ出た。
 マキの側、重厚な玄関扉にもたれ掛かる細いシルエット。
「セレス!」
 エルンストの声が掠れた。その身は泥で汚れ、全身に引っ掻いたような傷痕がある。服には草の葉や折れた小枝をいくつも纏いつかせていた。そしてなにより、背には見覚えのある黒い矢羽根ヴェインをつけた矢が食い込んでいたのである。
 短い…クロスボウの矢だ。
 サーティスが静かに傷を診る。だが、発した声は怒気をはらんで低い。
「マキ・・・道具と薬の準備を。この掻き傷は…灌木の枝だな。崖から落ちでもしたか?」
「森の窪地で足を踏み外しました。何カ所か打っているとは思いますが、問題ありません。落ちたお陰で、追撃を振り切ることもできました」
 マキは心得たもので、既に準備に走っている。エルンストだけが、事態に対処できずに立ち尽くしていた。
「・・・・セレス、一体何が・・・」
 セレスが、苦笑を閃かせる。
「ディル・・・です。隊長は、薄々気づいておられたのではありませんか?」
 その言葉に、エルンストの顔から血の気が引いた。唇を噛み、拳を固める。・・・・・そして。
「あの時の・・・・お前の言葉通りだ。カンでしかなかった。だがそれだけであいつを・・・・長い間、副長としてよく動いてくれた筈のあいつを、証拠もなく疑いたくなかった・・・。いや、お前に探索を命じたこと自体、もうあいつを信じきれてなかった証拠だな。
 ・・・セレス、済まない」
 そうだ、ディルには知らせなかった。だから探索はセレスに任せ、リオライの部下達との連絡もさりげなく第三隊の屯所を出て行ってきた。何故か。エルンストの裡で何かが警鐘を鳴らしていたのだ。
 第三隊とて…一枚岩とは限らない、と。
「それを言うなら私も同じです。・・・私も、まさかと思っていました。でも・・・」
 セレスはそこで言葉を切った。蒼い顔のまま居住まいを正すと、少し呼吸を整えるような間を置いて、口を開く。
「報告します。反乱勢力の中核は王太后レリア。それと、次期宰相に座りたがっている・・・」
「前宰相の弟の、シードル卿」
 言葉よりも、その声の主に驚いてエルンストは発言者を凝視する。セレスは黙して俯いた。
「サーティス!?」
 その眼は若草色も判然とせぬほどに凍てつき、生気のかけらもなかった。エルンストは問い詰めようとして、準備を終えたことを告げるマキの声で機会を失う。

***

「・・・・やじりは肩甲骨で止まっていた。命に別状はない」
 包帯を巻くのをマキに任せ、サーティスは部屋の外で苛々と歩き回っていたエルンストにそう告げた。
「・・・・・すまん。こんな・・・」
「お前に謝られる謂れはないな」
 サーティスの声は硬く、まるで意志と無関係に紡ぎ出されたかのようにぎごちない。いつもの悠然とした態度は微塵も感じられなかった。視線を合わせようとすらしない。
「ああ、そうだよ。知っていたさ、多分最初あたりからな。
 連中、抜け抜けと俺に手紙を寄越したのさ。加わらないか、とな。その手紙、セレスに渡るようにしておいたんだが…使わなかったようだな。動かぬ証拠になったのに」
 そう言って唇を噛むサーティス。だがそれを見るエルンストは、目の前が昏くなるような遣る瀬なさとともに憮然とするしかなかった。
 …こいつ、まだ理解ってないのか。
「…あんたに迷惑が掛かると思ったんだろう」
 本来の名を棄てたからといって、そこをゆるがせにできるようなセレスではない。
「そう…だな。そうだろう。計算に入れるべきだったな。…彼女には悪いことをした」
 エルンストとしては言いたいことは山程あったが…さしあたっては俟った。俟つべきだと思ったのだ。
 サーティスはエルンストから視線をはずしたまま金褐色の髪を苛々とかきまわしていたが、ようやく口を開いた。
「巻き込まれてもかなわんから、俺は王都から姿を消すことにしたのさ。居ない者は、誘いようがないだろう。それに、連中がどの程度本気なのかを確かめておきたかったから…国境守備に回っている軍の動きを見てきたんだ。
 あの書簡を上手に使っていれば、全部片付いている頃合いだと思ったんだ。
 宰相の一族が…骨肉の争いの末に滅びる姿を見物してやろうかと思っていたのさ。それがまさか、セレスがいまだに他の証拠を探していたなんてな。
 あの二人の周囲には、知っての通り衛兵隊の第一隊・第二隊がいる。全員というわけじゃないし、戦力としてはものの役に立たんが、王都内部で事を起こすなら使い方次第で相応の効果を上げることはできるだろう。それと東部軍のラクツ将軍・・・ジェドの失脚で辺境から帰り損ねたことから、今回の一件に参画する気になったらしい。王都でコトが起これば呼応して挙兵するだろう。・・・急げ」
 抑揚の乏しい声で、サーティスは言うだけ言ってしまって黙り込んだ。その沈黙を、扉の音が遮る。上着をはおりながら、セレスが出てきた。その後に、処置に使った薬瓶を抱えたマキが続く。
 その場を満たす沈黙の意味を正しく理解し、セレスはサーティスをいたましげなまなざしで見つめた。サーティスの苦渋を、彼女は誰よりも良く理解できたからだ。
 表情を消し、セレスがエルンストに向きなおる。
「隊長、彼は私の口を封ずる気でいたのです。あの時、私が死んだと思わせることができていれば上々なのですが…一刻も早く手を打たなければ、宰相閣下の身に危険が及びます」
 その時、エルンストの顔が一気に蒼白になった。
「まて、ディル…ディルは、今日…!」
今日行われるリーンの使者との会見。その性質上、会見場でのリオライの警護を第一隊に譲ったが、念のためディルを派遣していた。自分が目立たないところで控えている分には第一隊との軋轢も起きないだろう、という他ならぬディルの進言を容れたのだった。
 ディルが叛乱軍の党与だというなら、何が起こるかは明白だ。
「リーンの使者は、刺客か。狙いは、宰相リオライ…!」
 マキが呼吸を呑む。
 エルンストはサーティスを見た。サーティスは一見無表情とも思える横顔を見せていた。だが、かすかに苦しげに眉目を歪め、声を高くする。
「俺に出来ることがあるなら何だってやってやる。あの手紙も使っていい。行け!早く…
 ツァーリを戦火が覆う前に!」

  1. ソードブレイカー…片方に櫛刃、片方に通常の刃を持つ短剣。武器破壊ないし防御のためのもので、盾代わりに左手に持つ場合が多い。先端は尖っており、刺突も可能。