風の如くに Ⅴ

空へ

 館は、戦場のような有様になっていた。
 血溜まりの中に蹲るリオライ。会場警護のために室内にいた第一隊は、全て叛乱軍の党与であり、ディルがリオライを刺したのを合図として一斉に襲いかかってきたのだ。
 エルウの挙動から変事を察したリオライの側近達が扉を破って防戦に加わるが、数の上では第一隊の方が多い。しかも初手でリオライが傷を負わされ動けない状態であったから、第一隊を片付けないことには撤退もままならなかった。
 殺到する第一隊士をカイ達が防ぐ一方で、ユアスがディルと戦っていた。
 目の前で起きた裏切りにユアスは幾分冷静さを欠いており、あと一歩のところで仕留めきれない。
「ディル、何故だ!」
 エルンストの腹心にして、衛兵隊第三隊の副長――――――であったはずの男は、右手の長剣と左手のソードブレイカーを自在に操ってユアスを翻弄し、薄ら笑いすら浮かべていた。
 すこし堅すぎるきらいはあるにしろ、あいつとセレスがいるから第三隊は軍としての格好を保っていられるんだ・・・とエルンストに言わせたほど、信頼の厚かった男である。
「そこの坊やじゃ、時は動かなかった。何も、変わらなかった。だから俺が変えてやる。それだけだ」
「…それが理由か」
 リオライはカイに上体を支えられ、失血にそのおもてを蒼白にはしていたが、炯々たる紫水晶に宿る光は些かも衰えぬ。崩れそうな膝を撲って立ち、ディルに昂然と剣を向けて宣する。
「何も変わらんか。変えたければ自分の手で変えてみるがいい。しかし、そのためだからといって易々やすやすと殺されてやるほど、俺は親切じゃない」
 お願いですから動かないでください。カイがそんな言葉を呑み込んでしまう程に、その声は揺るぎがなかった。
 とても戦える状態ではないことは誰の目からも明らかであったが、そのいっそ傲然とした姿は確かに、ディルの薄ら笑いを吹き消すだけの力を持っていた。
「…この死に損ない…ッ!」
 激情に駆られてディルが目の前のユアスから眼を離した一瞬に、ユアスが踏み込む。左肩を薙いだ一閃は、ディルの態勢を揺らがせた。その時、乱戦の喧噪を圧して声が届く。
「リオライ、無事かっ!!」
 駆せつけるのがエルンストだと気づき、ディルの横顔を確かに動揺の細波が過ぎった。どう考えても無理な姿勢から、ようやく立っているリオライに向けて長剣の突きを放つ。
「リオライ様!!おさがりくださいッ」
 ユアスの、悲鳴に近い声が戦塵立ちこめる空気を切り裂いたが、リオライは剣を構えたまま動かない。動けないのだ。レインがそれまで斬り合っていた第一隊士を蹴倒して両者の間に割って入り、カイはリオライの身体を支えたままその身を入れ替えてディルの長剣の前に晒す。
 金属音。レインがディルの長剣を高くはね上げた。
 エルンストがホールに辿り着いたまさにその時、ユアスの剣がディルの胴を薙いで左腕を斬り飛ばす。
「ディル!!」
 狼狽える第一隊士を戟で薙ぎ倒しながら、エルンストはディルが仰向けに倒れるのを見た。常は穏やかなユアスが、倒れたディルに怒りに任せてもう一太刀を浴びせようとしたとき、それを制したのはエルンストだった。
「殺すな!」
「止めないでください。この男は、それだけの事をしたんだ!」
「たとえ死にたがっても死なせるな。吐かせなきゃならんことは山ほどあるんだ」
 一瞬、裏切ったとはいえ部下への温情と勘違いしたユアスが、容赦のない声音に冷水を浴びせられたかのように動きを止める。だがユアスが剣をおさめたのは、リオライの身体が大きく揺らいだ所為だった。
「…エルン…スト…」
 蒼ざめながらも、リオライは微笑った。エルンストの苦渋を笑殺するように。
「済まん。…こんなことに」
「俺の不明だ。言い訳の仕様もない」
 混乱はおさまりつつあった。サーティスが指摘したとおり、第一隊のすべてが叛乱の党与という訳ではなかったのだ。不満を暴発させ同調する隊士もいたが、概ねどうして良いか判らずにただ邸を取り囲んでいた者達が多かった。それらをエルンストが一喝して鎮圧に動かせたのである。
 そして何より、この場で指揮を執る算段になっていたのはやはりディルだった。ディルが倒されたことで余の者の動きが止まってしまったのである。
 館の主たるイグナート伯はといえば、腰が抜けたようになって這いつくばり、累々たる死屍の間を逃げ惑っていた。しかしそれが幸いしたようで、大した怪我もしていない。
 使者、実は刺客として乗り込んできたライゲイト伯ネイサンは乱刃の下で事切れていた。もはや、誰の刃にかかったのかさえ判然としない。どさくさに紛れて口を封じられたのかもしれぬ。
「大丈夫か、二人とも」
 エルンストが、外にいた兵士から奪ったと思しき戟を放り投げてリオライとカイに駆け寄る。
 リオライの身体を支えていたカイは、ディルの突きをその身を以て防いだ格好だった。しかしレインが間一髪ディルの剣をはねあげたために背を浅く薙がれただけで済んだ。だが、防具があったわけではないので傍目にはかなり大きな傷になっている。
「生憎と命冥加いのちみょうががなだけが特長とりえでしてね。大丈夫ですよ。それより申し訳ありません、近侍のくせにこんな時にちゃんとお守りすることができなくて…」
 ともかくも軽口をたたく余裕はあるらしい。だが、リオライの方は声が出なかった。
 リオライの身体が、ゆっくりと沈みかける。支え損ねたカイごと、エルンストが支えてとりあえずは座らせたが、その腕を濡らす紅に思わず慄然とした。
「リオライ、今回の黒幕は…」
 言いかけて、リオライが既に意識を失っていることに気づいて唇を噛んだ。リオライの身をカイに預けて紅の泥濘の中に横たわるディルを一瞥すると、狂気に縁取られた笑いを浮かべてこちらをを見ていた。…狂気?あるいは嘲笑なのか。
「…隊長。あんたの軛、俺が砕いてやったよ」
 しかし、にわかにその両眼は光を失う。エルンストはこめかみに鈍い痛みを感じて頭を振った。
 宰相暗殺未遂事件。後に五日間戦役と呼ばれる内乱の、禍々しい紅に彩られた幕開けであった。

***

「リオライ様…リオライ様は…!?」
 蹴倒された机の陰からアレクセイがよろめきながら出てくる。書記官として臨席していたのだが、あの乱戦の中で第一隊士から一番倒しやすい相手と見られたか…真っ先に襲われた。その白刃から遁れようとして椅子ごと転び、その際に頭を打って昏倒していたのだが、斬り倒したと思われそのまま放置されていたのである。
 下手に動いていれば間違いなく殺されただろうが、アレクセイが意識を取り戻したのは幸いにして叛乱に与した第一隊士が概ね捕縛された後のことだった。
 よろめくだけでなく実際に二度三度と転んだものの、説明不要な状況を目の当たりにして呼吸いきを呑み…蒼白になってその場に座り込んだ。
「なんて…事…」
「書記官長殿、無事だったか」
 エルンストがアレクセイを認めて一息つく。
「まさかリーンを巻き込んでくるとは…もう一刻の猶予もないじゃありませんか」
 アレクセイが座り込んだまま頭を抱える。
「――――そこ、退いてっ!!」
 途方に暮れた空気を切り裂くような声が、広間を突き抜けた。その声でエルンストも虚脱に陥りかけていた自身に気づく。
「その子は医者だ。通してやれ」
 その言葉に、リオライの部下達が軽く瞠目して声の主を見る。風体としては…背嚢を担いだ、声変わり前の年若い従騎士と見えた。
 血臭漂う修羅場に臨んで怯むふうもない。エルンストを認め、討たれたり捕縛された第一隊士が転がる広間を、岩場を跳ねる鹿のような軽捷さであっという間に踏破した。
「隊長さん…!」
「よく随行ついてきたな。当たらんでいい予感はあたるもんだ。その中でも最悪。…済まんが診てやってくれ」
 従騎士…マキは血に染まったエルンストの腕と、カイに支えられたリオライを見て顔色を喪くしたが、すぐにきりりと唇を噛んで薬種箱をいれた背嚢を降ろした。
 イグナート伯邸へ行くというエルンストに、マキは随行を申し出たのだった。後れても待てないぞ、と言い置いての出発だったが、エルンストにしてもほぼ全速の騎行であったにもかかわらず、マキが薬種箱を背負った状態でぴったりついて走ったのには内心で舌を巻いていた。イグナート伯邸周囲の混乱を看て取り、エルンストは呼ぶまで待てと言い置いて乱戦へ割って入ったのだが、混乱が終熄するのを見て居ても立ってもいられなくなったのだろう。
 何がこの少女をそこまで衝き動かすのかまではわからないが。
「寝かせて。ゆっくり!それと、足…何か枕みたいなもので少し上げて」
「…邸に運んだ方がよくはないか…?」
 マキのきびきびとした所作と声に比べ、気概に乏しい声をかけたのが誰であったのか、エルンストには判らなかった。居並ぶリオライの近侍のうちの誰かであったのだけが確かだ。しかしマキは背嚢を開けつつ、蒼白になりながらも、ぴしりと言い放った。
「今動かしたら、お腹が破れて死んじゃうよ」
 場所を確保し、必要な道具を揃えた盆を置く。カイはマキの言葉に従った。レインが上着を脱いで丸めると、指示通りの位置に差し入れる。
 血に染まった服を鋏で慎重に切り開き、傷を診る。清潔な布を当て、その上から手で抑えた。布がじわりと朱に染まる。そのまま、マキがエルンストを振り返って言った。
「…隊長さん…誰か、館までの道判る人、いる?サティ…サティを呼んで。ここで処置しないと、多分馬車の振動でも…!」
 流石にエルンストが一瞬呼吸を呑んだ時、リオライが眼を開いた。
「エルンスト…」
 冷汗を浮かべ、蒼白になりながらも唇を引き結んで痛みをねじ伏せようとするリオライを見て、エルンストは我知らず拳を固めた。
「リオライ、俺の声が聞こえるか。完璧に先手をとられてしまったが、黒幕は王太后とシードル卿だ。証拠は抑えた」
 リオライは口許を苦笑の形に歪めた。まあ、そうだろうな。余裕があったなら、そう言いたげな笑みではあった。呼吸を整える。
「アレクセイは無事か。無事なら直ちに陛下に上奏、逮捕の勅許をとれ。ユアスはそれについて王城へ。以後は別命あるまで陛下の警護だ。太后はともかくシードル卿は陛下の身柄を抑えようとする可能性もある。
 エルンスト、第三隊からも何人か王城に回して陛下の警護を。陛下からの勅命が届き次第、王太后レリアとシードル卿を反逆罪で拘禁する。身柄はそれまでに抑えておけ。
 それとレイン、東別邸へ走ってミティアの警護につけ。考えたくないが…ミティアが標的になる可能性もある」
「御意!」
 下命を受けた者達がそれぞれの位置で礼を執る。
 冷汗がその額から滑り落ち、その顔色は蒼白ではあったが、リオライの言葉には毫の揺るぎもない。だが、いま戦となったらリオライが陣頭に立てる状態ではないのは明らかだった。
「カイ、俺は動いて良いのか」
 リオライがそう訊いたのは、側に膝をついて傷に手を当てている人物が近侍であるカイ以外の誰かであるという状況を想定できなかったからだろう。
「…まだ、駄目です」
 その返事がカイの声でなかったから、リオライは僅かに首を傾けてそちらを見た。そして何かを口にしかけたが、今は説明している時間がない。
「…リオライ、聞いてくれ」
 エルンストは、意を決した。
「一人だけ…この状況を預けられそうな人物がいる。先王弟さきのおうていサーティスという人物を知っているか」
 だが、エルンストが慎重に口にした名前にまず最初に反応したのは、リオライではなかった。
「…何故、御辺がその名を?まさか、ご存命か!?あの方が…」
 床に這い蹲ったままの格好から弾かれたように身を起こしたのは、アレクセイ=ハリコフだった。
「アレクセイには心当たりがあるようだな」
 リオライが、促すようにアレクセイを見る。アレクセイは膝立ちしたまま僅かな間、躊躇うような間を置いた。
「以前、申し上げましたな。ひとりだけ、思い当たる御仁があると。…まさにその方ですよ。先々代ニコラ陛下の末子に、シルメナ王女アスレイア・セシリア所生の公子があられました。御名をレアン・サーティス。今上陛下からは叔父上…ということになりますか。齢十三にして颯竜公を叙爵されておいでで…おそろしく聡明な方ですよ。昔、何度かお会いしたことがあります。確か、私と同年の筈ですな。しかし、ヴォリスの家とは…」
 それ以上は、アレクセイがくだくだと並べるまでもなかった。
「ヴォリスの家とは確執がある、か…」
 アレクセイがややふらつきながら立ち上がった。
「先程の話…セルア館までの道程なら私が存知上げておりますよ。私が行って出御を乞うて参りましょう。先方が私を憶えておられるかどうか微妙ですが…」
「…そうは言うが、貴公馬にれたか、書記官長?」
 軽く眉を顰めたエルンストの指摘に、アレクセイがぐっと詰まる。
「…れんことはないが、常歩なみあし1より進めようとするとよく落ちていたな」
 先程少女が発したような…突き抜ける高音とはまた違い、低いが通りの良い声に…一同が広間の入り口に注目する。
 癖のある金褐色の髪を額飾りサークレットで抑えた、身分ある青年貴族の姿がそこにあった。
「サーティス!」
 常の、平民と変わらぬいでたちとは違う。帯剣はともかく、紋章のはいったサーコート姿なぞ、エルンストも初めて見た。その驚愕をサーティスは幾分苦々しく見遣る。
「呼びに来るには及ばん。どうせこんな事だろうと思って来てみたら、案の定だ。
 御身ら、宰相閣下の下知はあったのだろう。事は一刻を争う。命に従われよ」
 相応の身分はうかがわれるものの、リオライの部下達にしてみればその時点では何処の誰とも知れぬ。だが、その一言でレインが声もなくリオライに一礼し、走り出した。誰かはともかく、その言葉の正しさを認めたのだ。
「ようやくはらを括ったか、サーティス」
「…喚ばれたのは医者・・だろう。後のことは後のことだ」
「判った。任せる」
 屈折した物言いにエルンストが微かに笑って立ち上がる。エルンストの使命は第三隊に合流し、王太后とシードル卿の身柄を抑えることだ。
「…殿下。私のことをご記憶とは」
 アレクセイがサーティスの前まで這うようにして進み出ると、王族に対する礼を執る。
「今は書記官長か。当然だな、アレクセイ。よく転ぶのは相変わらずか」
「恥ずかしながらお察しの通り」
「人には向き不向きがある。できることをすれば良い。…そう言われただろう」
「御意。…では、卑職わたしの仕事に掛かるとしましょう。どうか…リオライ様をお願いいたします」
 国王リュースへの上奏、逮捕状の請求。それが今のアレクセイの職分だった。立ち上がりながら、少しだけ抑えた声で付け加える。
「…あの方の、弟御です」
「…そのようだ…さて」
 サーティスはエルンストやアレクセイを見送ることなく、少し涙ぐみながらリオライの傍らで圧迫止血を続けているマキの頭に軽く掌を乗せた。マキが小さく頷いて場所を代わる。
 サーティスは血に染まった布を除いて傷を診、改めて新しい布で抑えて言った。
「正解だ、よくとどめた。動かしていたら手遅れになる処だった」
「…とりあえずお湯、だね?」
「それと天幕を。動かせない以上、ここでやるしかない。レクシスを表に待たせているから、荷を運び入れろと伝えてくれ」
「わかった」
 マキが立ち上がり、走り出す。湯については聞いていたカイが傍にいた者に指示したからだ。
「…さて、宰相閣下。
 刺し傷だが、鋸歯状のもので擦れていて傷口が不整なうえ少々深い。内臓を傷つけてはいないが、腹膜には損傷があるから、動けば破れる可能性が高いと判断する。故に、今すぐここで縫い閉じてしまうことを勧めるが…如何いかん?」
 リオライは小さく息を吐いた。
「それが可能であればお願いする。…おそろしく精確な診断みたて…妹ミティアを救ってくださったのもやはりあなたか。初めてお目に掛かるに…このような格好のままでのご挨拶となることをご容赦あれ。
 颯竜公レアン・サーティス殿…下…?」
 言い終わらないうちにサーティスが浮かべた、凪いだ水面にふと生じたさざなみのような微笑に…リオライの言葉が途切れる。
「…何処かで、お目に掛かりましたか?」
 そう言ったとき、従者が輪状に丸めたしなやかな支柱となめし革の包みを持ってきたので、リオライの問いは遮られた形になった。
「確かに承った。…準備にかかります。では、今のうちにこれを」
 サーティスが薬種の盆の中から出した小瓶を渡す。小瓶を凝視みつめて、リオライは問うた。
「これを飲むとどうなります」
「強い酒のようなものと思っていただければ。眠くなり、一時痛みを感じにくくなります。何せ、腹を縫わねばなりませんので」
「了解した。お委せする。他にも貴方にお願いせねばならぬことがありますが、それについてはまた後刻」
 リオライは封を開けると、一息に飲み乾した。迷いのない動作に、サーティスの方が軽く驚いたふうでもある。
「…は、不思議な味のする葉に薬を染み込ませてありましたな…」
 そう言い終えたとき、リオライの手から空の小瓶が滑り落ちた。紫瞳は既に閉じられている。小瓶を拾い上げて、サーティスが呟くように言った。
「…御身の主人は、何とも思い切りの良い御仁だな。カイ=エトラス卿。毎度こっちの方が冷や汗をかく」
「それがこの方の良いところであり…困ったところでもありますよ、殿下。もしや過日、早春のギルセンティアで…」
 言いさしたカイを片手を軽く挙げることで制し、サーティスは従者が持ってきた天幕を組み立てはじめた。
「あまり埃っぽいところで宰相閣下の腹を開ける訳にはいかないのでな。手伝って貰えれば有難い」
「承知いたしました。…リオライ様はあなたに命を預けることに決められたようだ。今更私が詮議するのも筋違いでしょうな」
 サーティスは薄く笑んで言った。

「――――――宰相閣下は良い部下をお持ちだ」

  1. 常歩なみあし…馬の歩く速度で最もゆるやかなもの。