風の如くに Ⅶ

Little Bird

 この人事を天地が裏返りそうな驚愕で受け止めたのは、他ならぬマキであった。
「どうしてっ!?」
 サーティスからこれを伝え聞き、例によって連絡のためにセルア館を訪れたセレスを掴まえての開口一番がこれである。
 馬を下りるなり両肩を掴んで詰め寄られたセレスは、穏やかに笑んで言った。
「どうしてって…マキちゃんは、私も王都からいなくなっていいの?」
「えーと、そういうことじゃなくて、ああもう!」
「これから王妃になられるミティア様や、摂政として国政に関わることになった殿下…それに、エミーリア…。守りたいものが沢山あるこの王都から、私は離れたくない。これは私の意志よ」
「…うー…」
 それを言われるとぐうの音も出ない。そっと手を離して、マキは俯いた。
「…やっぱり、セレス姐さんは強いね…」
「そう…? そんなことはないと思うけれど」
「だって、セレス姐さん泣いてたよ。…隊長さんと離れたくないって」
 それが昨年、エミーリアを身籠もっていた時のことを言っているのだと気付いて、セレスは苦笑する。
「そう、私、泣いていたの…」
「え、まさか憶えてないとか?」
「そういうわけじゃないけど…そうね、あの時、マキちゃん達が支えてくれたから…私は心が潰れずに済んだわね」
 そう言って、マキを両腕で包み込む。マキが少しだけ気恥ずかしそうに首を傾げた。
「私、何にもしてないよ?」
「いいえ、マキちゃんには随分助けてもらったの。だから今、私は此処に在る。
 ミティア様や殿下を助けて差し上げたい。エミーリヤの傍にも居たい。でも、あの人から離れたくないのも本当。…欲張りなのよ、私は。でもね…何もこれが今生こんじょう離別わかれって訳ではないでしょう。…ミティア様の仰るとおり、生きてるんですもの。だったら今、私は私がやるべきことを為す。
 ふたつ一緒にできないのなら、優先順位をつけなくてはならない。だから私は此処に残る。あのひとにだって、いつかまた会えるから」
 怜悧な美貌が浮かべる微笑みは些かも崩れない。だが、そこに至るまでの葛藤を想うと、マキの両目は涙で一杯になってしまう。
「…やっぱり、強いよ」
「いいえ、マキちゃんには負けるわ」
 マキのつやの良い黒髪を軽く撫でて、セレスはマキの側を通り抜けた。

***

 エリウスの月になってから、暖かな日が続いていた。
 隊長職を拝命したセレスが隊長の宿舎に入り、エルンストは出立の準備をする間をそれまでセレスが寄留していた家に世話になることになった。…旅装を調えるのにそれほどの時間が必要だったわけではないが…。
 そんなある日の午後、エルンストは森の中へ散歩に出かけた。
 森は新緑の季節を迎えていた。気がついてみると十年の歳月が経っている。十回以上見てきたはずの新緑が、やけに新鮮だった。
 ──────新緑。その下で、陽をうけた深い碧。
 頭を振る。陽のかけらと、新緑がないまぜになって目に飛びこみ、その眩しさに目を閉じた。
 木陰に腰をおろして幹に身を預ける。ゆったりした蹄の音に身を起こしたとき、エルンストは初めて自分が半ば眠っていたことに気づいた。
 馬上の人物を、エルンストは知っていた。
「…サー…ティス…?」
「…随分と、暇そうだな」
 彼にしても、意外なところでの出会いだったらしい。馬を降りて手綱を預けるに適当な枝を物色しつつ、いつもと変わらぬ調子で言った。
「…暇さ。お役御免になったらこんなにやることがないとは思わなかったよ」
 改めて頭の後ろの手を組み直し、幹に背を預ける。
「…そういうあんたも随分暇そうに見えるが」
「別に暇な訳ではないが、ちょっと外の空気を吸おうと思っただけだ。昨今、館の中にいても大量の書類が何処からともなく流れてくるものでな」
 憮然として、サーティス。そうなった原因の一つは確かにエルンストにもあったから、思わず苦笑する。その笑いを消して、ふと言った。
「…なぁ、サーティス。俺ってやっぱり、ガキなのかな」
「何をいきなり」
 真意を掴みかねたように、サーティスは僅かに首を傾げた。
「…十年も一緒にいて、先が見えなかったよ。いつまでもこのままだと思ってた訳じゃなかった…と思うけどな…」
「ふ…ん…」
 サーティスは表情を動かさず、手綱を適当な枝に結んで手近な青葉を弄んでいたが、ふいに木陰に腰をおろして少しむっとしたように言った。
「…やめんか、それが他人ひとの許嫁を豪快にかっさらった男の言うことか?」
 むっとした、というより、拗ねた、と言ったほうがより的確であったかも知れない。真剣味を欠いているのだが、それでもまんざら冗談でもない。
「…この国で…まさかお前に会うとは思っていなかったよ」
 先の文脈となんらかの関連があるのだかないのだか。何かはぐらかされたような気になって、エルンストは笑う。
「でも、竜禅を出る時に言っただろ。この国ツァーリに来る事は…」
「まさか、そんなに長居するとは思ってなかったのさ」
 サーティスは、笑った。
「…この国は、お前のような…自由な人間には少々住みづらい。そうは思わないか。…シルメナほどではないが、古い国だからな。だから、とっくの昔に居心地が悪くて飛び出してるかと思っていたんだ」
「………」
 返答どころか相槌にも困って、エルンストは旧友の表情を見た。しかし青葉の群がつくる微妙な陰影が、エルンストに表情を読ませない。
「お前に出逢ったのは西方だったな。竜禅で再び会ったのは偶然だ。そして此処ナステューカで会ったのも。…だがな、エルンスト。俺がかつてこの国を理不尽に逐われた結果を、たった一つ何者かに感謝するならば…それはお前に出逢えたことだ。出逢えて、そして二度にわたって再会できたことだ」
「…サーティス…」
「…笑ってくれるなよ、エルンスト。…俺が生きてきた中で、友人と言える人間をさがすなら、お前をおいて他にないと思っているよ」
 西方、砂礫の小邦イェンツォ。そこでエルンストが初めてサーティスに出会った時、行動を共にしたのはほんの数日。当時から人外の者かと思うほどに超然としていた双眸の若草色は、今とそう変わってはいない。いや、韜晦することを覚えて読みづらさに拍車がかかったか。
 だが、随分と穏やかな笑みをするようになった。ひとを誑し込むときの度し難いほど蠱惑的な微笑とは明らかに別物なのが、何故かいつもよくわかるのが不思議なのだが。
「次の偶然は必要あるまい。只酒が飲みたくなったら、またいつでも館に来ればいい。俺は此処に居る。此処で、この森の静謐を守る。
 …それが、俺が生かされた意味だった。そう思うことにした。正しいかどうかは分からん。だが、少なくともそうすることが…俺にとってひとつの解決になると思う。
 いつでも帰ってこい、エルンスト。酒の支度はしておくさ」
「…期待しとこう…」
 自分のなかで何かが解き放たれるのを感じて、エルンストはふと天を仰いだ。青葉の向こうで、翼を広げた鳥が緩やかな弧を描くのが見える。
「…見送りはせんぞ。誰かの所為で、随分と忙しくてな」
「されてたまるかい、思わず笑っちまうよ」
「は、言ったな!」
 サーティスは立ち上がって手綱を解いた。
─────愛すれば失い、いとおしめば奪われる、孤独な竜。いつか小さな鳥がその呪縛を打ち破る。それはもう傍にいて…懸命に小さな嘴で竜のいましめをほどこうとしている。
 弱い雷に打たれたような感覚と一緒に、エルンストの脳裏にそんな映像ヴィジョンが閃く。大概、ろくでもない予感はよく当たる。でも当たって欲しい予感だってある。
「…サーティス…」
 騎乗したその横顔へ言いかけて、敢えて伝えるべきでないと悟った。すぐ傍に、緑瞳の鳥はいるのだから。
「何だ」
「お前に会えてよかったよ、サーティス」
「…また会える」
 エルンストは、サーティスを見送ることはせず、ただ空を仰いだ。

 木々の間から見える蒼穹は、高く、碧く澄んでいた。

***

 その廃園は、もともと藤棚に絡められていたものが野性化して、今では建造物という建造物、立木という立木にびっしりと藤と蔦が絡みついていた。
 マキは、小さな泉の大理石の囲いに腰かけて漫然と廃園を眺め渡していた。
 ──────あの時は本当に、心臓が停まるかと思った。
 あのひとが殺されるかも知れない。そう知った時、マキはイグナート伯邸へ行くというエルンストに殆ど無理矢理ついていった。
 果たして、瀕死の重傷を負ったリオライを目の当たりにして…マキは胸腔に霜が降りたような感覚を味わうことになる。あとは、もう一生懸命にできることをした。
 いつか、もっと強くなってそばにいく。そう心に決めて、ノーアを離れた。彼がツァーリに赴いたことも、宰相後継者となることも知っていた。
 多分、彼はもう忘れているだろう。だが、マキにとっては忘れきれる想いではなかった。だからこそ、およそ思いつく全てのことをがむしゃらに学んだ。あのひとの役に立てるようになるために。あのひとの傍にいられるようになるために…。
 術後、サーティスの代わりに何度かヴォリス邸に赴いた。傷の経過を見て抜糸するまでを、サーティスがマキに任せたからだ。
 いつかきっと。そう思っていた人が、目の前にいる。なのに、不思議とこみ上げたのは嬉しさではなかった。
 ツァーリの戦は、マキにとって実際のところ他人事でしかなかった。サーティスが、口で言うのと裏腹にツァーリを捨て切れていないことを知るまでは。だから、巻きこんで欲しくなかった。以前からツァーリの戦の話をすると、サーティスの眉がほんの少し曇ることを知っていたから、余計に。
 そして、そんな自分に気づいてはっとする。自分はいったい、何を一番に望んでいるのだろうかと。
「…誰かいるのか?」
 その声に、跳び上がるほど驚く。いつかの地震で瓦礫の山になっている四阿あずまやの向こうに、人がいたのだ。それが誰なのかに気づいて、マキは思わず息を停めた。
 宰相リオライ=ヴォリスだった。珍しいことには供回りがいない。
「…ああ、颯竜公の…」
 そこまで言って、先方も続ける言葉を無くした。颯竜公の館にいた従騎士、くらいにしか思っていなかったのだろう。なんと呼びかけたものか逡巡したのは明らかだった。おまけに、やはりあちらもまさか人がいるとは思っていなかったようで、どうしたものかというふうが看て取れた。
「…この庭に、お別れですか?」
 マキは、感情を抑えた声で言った。
「そんなところだ」
「お邪魔はしません。…では」
 そう言って立ち上がったが、彼は穏やかに言った。
「構わない。…いや、よければ話に少し付きあってくれないか」
 マキが硬直してしまったのを見て、彼は苦笑した。
「済まない…気にしないでくれ」
「あ、いえ、わたしでよければ」
 彼は崩れた石柱に腰かけて、マキにも座るように言った。正直な処、マキとしては距離のとりかたに苦慮したが、なるべく不審を買わない程度の時間で腰を下ろす場所を見つける。
「私は、もうすぐこの国を出る」
「…ノーアへ、戻られるのですね」
 マキは何気なくそう言ったが、リオライは少し驚いたように軽く目を見はった。
「あ、なにか…」
「いや、いい…。そうか、戻る…か…そういう言い方をしてくれる人が、ツァーリにいるとは思わなかったよ」
「でも、そうなんでしょう?」
「そうさ。帰るんだ。私にとって、故郷はノーアだからな。…でも、そういう見方をしてくれる人は少ないよ。まったく、何人に薄情者よばわりされたことか。絶対嫌だと言った宰相位に、就いたら就いたで文句言ってきた連中なのにな」
 そう言って、苦笑する。
「面と向かって!?」
「まさか。でもまあ、いろいろなところから入ってくるのさ。それでも、私がこれ以上ここにいるべきじゃない理由を一々言ってまわる訳にも行かない。言いたいものには、言わせておくしかないし、言いたいことを言える国は、まだ滅びないさ」
 そこで一度、言葉を切った。
「…颯竜公には、申し訳ないと思っているよ」
 マキは、返答をしかねた。一度俯き、話を変える。
「…ノーアでは、どなたか待っておられるのですか?」
 リオライは、返答にあたって視線を宙に浮かせた。
「…まあ、さしあたって…姉上、兄上、父…ノーア公、それと甥っ子が一人。それから…」
 そして、笑った。
「忙しくて、浮いた話の一つもない。兄上はどうやら縁談を準備しているらしいが」
 やや大袈裟なほどに溜息をついてみせる。だがその直後、ふっとその双眸が翳った。
「…でも、もうなくすのはたくさんだから…」
 口元は苦笑を残しているだけに、その翳りは深く、濃い。マキは、その瞳の紫を見た。少し遠くを見つめるそれは、ついさっきまでの紫水晶というよりは、藤の花の色に似た…。
 ────これを同じ色彩いろを、今と比較にならない程遠くではあるけれど一度見たことがある。
 シェノレスとの戦のごたごたもおさまりかけた初夏の、雨の日だった。ここだ。今マキが座っているここで、咲き乱れる藤の花と一緒に雨に濡れていた黒い髪。その下で、生気を欠いた藤色が漫然と雨を映していた。薬草集めの途中で雨に降られ、近道しようと通りかかったのだが、マキはその場を横切れずに立ちつくした。
 雨で冷えきっているであろう手がゆっくりと目を覆う。雨の音にまぎれてはいたが、マキははっきりと忍び泣きを聞いた。
 泣いたところで嗤われる謂れはない。それだけのものを失っていた。だが彼は泣いていられる立場になかった。その時間も、場所もなかっただろう。しかし、その悲しみという単語ではおさまりきらない感情は、押しこめておいて消えるものではない…。
「──────黒い髪で、鳥みたいにすばしっこい女の子だった」
 マキは、耳を疑った。
「雪解けのギルセンティアで、結局見失った。エルウにも捜してもらったが、見つからなかった。…今でもギルセンティアの雪渓のなかで眠っているのかも知れない」
 マキは思わず息を呑み、何かを言おうとした。でも言葉にならない。
「…およそ、誰かを〝失う〟のは初めてだったから…えらくこたえたよ。しかし、この目で亡骸を見た訳じゃないからかも知れないが…どこかで、信じていない。あるいは、何処かで生きて…なんて甘いことを考えたりしたものさ」
 もともと好天という日ではなかったが、ついに水滴がリオライの頬をかすめた。空を仰いで、リオライが立ち上がる。
「…あぁ、埒もない話に付き合わせて悪かったね。さて、そろそろ帰るか。カイにも居場所がバレる頃だろうしな。おまけに、どうにも雲行きが怪しい」
 だがその時、閃光が空を割いた。それを合図にしたかのように、桶をひっくり返したような雨が降り始める。
「…こっちへ!多分、長続きはしないだろうから…」
 マキはリオライについて走った。もう一つの、崩れかけてはいるが一応屋根だけは健在の四阿あずまやに飛びこんで、一息つく。その直後に轟音が二人の鼓膜を打った。
「…春雷、というやつかな」
 服についた水滴を払いながら、リオライが呟いた。
「でも、遠いから…ここら辺に…落ちることはないと思います…」
 努めて冷静に、慎重にマキはそう口にした。何か喋っていないと、涙が零れそうだった。
「落ちないんだろう?…怖くは…」
 リオライは分かっていて何を怖がっているのだろういうふうに問い返しかけて、言葉を切った。マキの頬を滑る水滴に気付いたからだ。
 平素、雷程度で怯えるようなマキではない。雷が怖い訳ではなかった。…怖くて泣いているのではなかった。だから、雷がいっそ有難かった。今なら、この雷の所為にしてしまえる。今なら、いくら泣いても雷が怖いで済ましてしまうことができる……!
「み…みっともないところをお見せして、申し訳ありません。や、やっぱり、判ってても怖くて。あの、見、見なかったことにして頂けると幸いですっ…」
「そうだな、従騎士どのにも意地があろう。良いさ、俺は何も見てないし、何も聞かなかった。これでいいな?」
 リオライがそう言いながら、安心させようとしてかマキの頭に軽く手を載せる。
 握りしめた拳にぱたぱたと雨よりもぬるい水滴が落ちかかるのを凝視みつめながら、マキは必死で答えた。
「は…い…。ありがとうございます…!」
 そのまま、轟音を三回聞いた。

 ──────気がつくと、嵐は去っていた。