イェルタ海戦において、シェノレスのレオン・捕縛。
王城において、ツァーリ王カスファーみずからによる審問が行われた。
中庭に引き据えられた虜囚を、百官がとりまく。国王は階の上からそれを睥睨し、憎々しげに吐き捨てた。
「シェノレスの守護神・海神の子などと、大層な呼称を帯びたお前が捕えられ、シェノレスの輩はさぞかし意気消沈したであろう。ふん、こうしてみるとただの若造だな」
ツァーリ王カスファー。160年に垂んとするツァーリの平穏を受け継ぎ、宰相家との関係も良好で、何事もなければ平穏に在位を終えていたであろう。
それが、この叛乱である。
崩された平穏の責任を、目の前に引き据えられた若者にぶつけることがしかできない老人。醜悪としか言いようのない光景を、そうと声高に言える者はこの場にいなかった。
「…審問、ってより…いわゆる晒しものですよね。これ。首がつながってるだけマシってくらいで」
ディルがぼそりと呟く。ディルよりは前列にいるエルンストは迂闊なことを口走るわけにはいかず、憮然として瞑目しただけだった。
本人はいっそ首だけにしてくれと思ってるかも知れんよ、と口にはしないまま頷いて応える。
レオンは答えなかった。右肩を矢傷の出血で染めてはいたが、その双眸は未だ不敵な光を湛え、今この場では圧倒的優位である筈の王にある種の圧迫感すら与えていた。丸腰のレオンを三重の鎖で縛り上げた上、五人の兵士に周りを囲ませていることが、それを証明している。
戦傷を負った、ただの若造。そんな言葉で片付けられない畏怖が、そうさせているのだ。
広く大陸史を学ぶ者でもなければ1、ツァーリの人間にとってシェノレスは言ってみれば南の蛮族程度の認識しかないのが普通だ。それが今、ツァーリの喉元に剣を届かせようとしている。まさにその奇跡を起こしつつあるのがこの者であれば、人外の力が備わっていても不思議はない…そんな得体の知れない存在に対する怖れ。国王だけではない。列席する百官の間に根を同じくする不安の漣が広がっていくのがわかる。
だが、エルンストの不機嫌は全く別の処に端を発していた。
『…勘弁してくれんかな、もう』
正直、こういう場に列席せねばならないこと自体、エルンストにとっては苦行であった。そもそも、会議だ式典だといった舞台に第三隊は必要ないはずだ。儀仗兵としての第一隊・その予備軍である第二隊で十分な筈ではないか。レオンの護送のためだったとはいえ、こっちは本隊をイェルタ湾岸の最前線へ残してきているのだ。引き渡しが済んだら帰らせてくれと言いたいところではあったが、上の命令には逆らえないのが軍隊という場所である。レオン捕縛という『戦功』を考慮しての措置だろうが、ありていにいえば有難迷惑である。
…正直、そろそろ厭になってきた。
それでもおとなしく審問へ出席したのは…一つには、レオンを捕縛した時の妙な胸騒ぎが気にかかっている所為もある。
陸戦に強いツァーリ、海戦に強いシェノレス。いままで押しまくられては来たが、陸戦となったらツァーリに分があると主張する将軍方がいる。だが、それは余りにも楽観的だとエルンストは思う。シェノレスに対してツァーリが陸戦の有利を持っているというなら、占拠されたままのイェルタ半島の南半分をどう説明するのだ。
この半年ほど防衛線は動いていない。だが、その向こうでシェノレスは小規模ながら農地まで整備して腰を据えてしまっている。…これが、北上できないのではなくしないのだとしたら、引き絞られた弓から矢が放たれる瞬間に…国都は蹂躙されるだろう。
レオンの捕縛により、シェノレスの船団はカザル砦まで後退した。将軍たちはそれを勝利と思っているようだし、それは一面の事実ではあったろう。しかし、半島の防衛線は全く動いていないし、巧妙な退却戦を展開しつつ退いていったシェノレスの船団もそれほど壊滅的な損害を受けたようには見えなかった。
エルンストの中で何かが警鐘を鳴らしている。
あの日の戦で、レオンを捕縛できる。そう献策したのはエルンストだった。軍議に出ている将軍方の誰一人としてそれを信じたふうはなかったが、第三隊のみで動く、一切の支援無用というエルンストの主張までは排除されずに済んだ。
結果として、レオンの捕縛が成った。第三隊とエルンストは大いに株を上げた形だが、エルンストとしては漠とした不安を拭いきれない。
何かが起りかけているのではないか。捕えたレオンを取引材料に停戦、というツァーリの目論見とはかけ離れた、何かが。
それを見定めたいという心算もあった。だが、破片がうまく嵌らない。自分がそういった計算に向いていないということは百も承知であったが、彼が知る内でただ一人、それを成し得るであろう人物が、今ここに居ない。
下手をすると、既にこの世のどこにもいないのかもしれない…。
こんな森の奥で、茶番をやってる場合じゃないだろう。
ツァーリの国都ナステューカは、直線距離こそイェルタ湾からそれほど離れているわけではないが、通称「王都の森」と呼ばれる広い森におおわれている。自然の要塞というわけであるが、その様から暗喩として「緑砦」が用いられることもある。王都の人間は、この森が、陸戦には不慣れといわれるシェノレスに対する十分な防壁となると信じているに違いない。
「お前が捕えられた後、反乱軍はカザルの砦へ雪崩を打って退却したそうな。脆いものよ。みておれ、すぐにカザルの砦も返してもらうぞ」
「そううまくいくとでも思ってるのか、ツァーリ王」
レオンが、はじめて口を開いた。
「『されど 篝火は消えず』」
それは、禁じられた古謡であった。シェノレスがツァーリに占領されたときに、最後まで抗ったとされる神官の賦2が元になっているといわれる。
「『一木燃え尽きてなお その勢ゆるがざるなり』」
彼の態度は、王の神経を刺激するに充分だった。
「ぬ…!」
「『聖王の風砦 久うする能わざる』」
どこにその体力が残っていたかというような、朗朗たる声。
「『いずくんぞ緑砦のみ 滅びざらん』…!」
一瞬呑まれた格好の国王に代わり、傍に立つ人物…宰相ジェド=ヴォリスが合図し、取り囲ませていた兵にレオンを石畳へ捩じ伏せさせる。しかしそのとき、レオンは最後の一節を口にしていた。石畳に押しつけられた額が切れ、鮮血がレオンの眉間を伝い落ちる。
エルンストは、石畳に滴る朱を凝視して呼吸を詰めた。
首だけにされた方がまし?いや、訂正だ。こいつは、諦めてなどいない。何が何でも生き延び、シェノレスに帰るつもりでいる。ツァーリが絶対の勝利を得たければ、こいつだけは今この場で止めを刺すべきだ。
しかし、宰相はレオンを抑えさせたまま、宣した。
「それがお前の覚悟というわけだな。よくもこの場で俗な唄なぞうたってみせたものだ」
古謡は、古の聖王の国・シルメナさえその繁栄が長くなかったことを引き合いに出し、緑砦…ツァーリが必ず滅びるのだと唄う。それをほかでもないツァーリ国王の前で口にするということは。
誰しも、レオンが自らの死刑執行命令書に署名したとしか思わなかった。憤怒でその顔を朱に染めた国王が、王笏を振り上げる。
「言わせておけば! ・・・即刻レオンの首をはねよ!今、この予の前でだ!」
「お待ちを、陛下」
激昂する国王を宰相が制した。王より年嵩ではあるが、その挙措は矍鑠として、隙がない。
「このような若造を、わざわざ英雄にしてやることはありませぬ。生きたまま陣頭にさらし、シェノレスに撤退を迫る。こやつにはその程度の無様な役どころが似合いでしょう。ご短気はなりませぬ」
余の者がこんな進言をしたところで、決して受け容れることはないであろう。だが、舅でもある宰相の言である。カスファーは自身が一時の感情に駆られたことを認め、王笏をゆるゆると下ろす。それでも、腹に据えかねたのであろう。閉廷を宣して身を翻しながら、吐き捨てるように命じた。
「ミオラトの牢に放り込め!最下層…地下牢だ!」
それはディルが漏らしたように、審問というよりまさにレオンを晒し者にするための場であったにもかかわらず、恥をかかされたのは国王の方だった。エルンストとて、レオンを捕縛した時から拭いきれない漠とした不安がなければ失笑したに違いなかった。
しかし、血で汚れた面を昂然とあげ、両眼には炯々たる光を湛えて、曳かれていくというより堂々と退出するこの虜囚を見送っていると、イヤな確信を深めてしまう。
何が起ころうとしている?
背筋を冷汗が滑り落ちるのを感じながら、それでもいったい何がどうなろうとしているのか見当もつかない自分に腹が立つ。
すべてはこいつがぼんくらだからだ、と思わず刺々しい視線を国王へ戻した。
当の国王は、侍医の忠告も忘れて怒鳴り散らしたことでひとしきり荒い呼吸に苛まれていた。しかしそれがおさまると、退出しかけて王座に次いで高い位置―宰相と同等の―にある座の人物を見遣り、その肩に手を置いた。
国王の第一子、王太子アリエル…。
緩く波打つ陽光色の髪と、若草色の穏やかな眸を持った、今年22歳の青年である。
彼の母、先王妃アニエスは既にこの世にないが、彼女はツァーリに対して反旗をひるがえしたシェノレスの出身であった。当然、反乱勃発以降のアリエルへの風当たりは強く、宰相ヴォリスあたりはほばあからさまにそれを口にしていた。彼を退け、第二子であるラリオノフ公リュースを新しく王太子として立てるように度々進言しさえしていたが、そのつど王の気まぐれでないとは言い切れない寛容さ…あるいは優柔不断によってアリエルは護られてきたのだった。
そして公式の場から姿を消し、反乱について一切言を避けてきたとされる。
だがそれは、事実の片面でしかない。表向き、この2年ほど病を理由に蟄居同然の生活をしているとされているが、実際にはほぼ軟禁に近い状況であった。エルンストでさえ、この2年というもの正式な面会は叶っていない。それが、宰相の命令によるものであることも、エルンストは掴んでいた。
『早く戻って来い、リオライ。…この一見おとなしそうな王太子殿下が何を抱え込んでいるか知らんが、このままじゃ灼き切れちまうぞ』
同じく2年前から消息を絶っている年若い友人に、声には出さず苦言を呈する。
リオライ。この王都において、この状況を変えられる立場と力を持った…おそらくただひとりの王太子の味方。エルンストが衛兵隊第三隊隊長という立場とは別にアリエルと面識を持っているのは、他でもないがリオライの紹介によるものだった。彼は、王太子が軟禁された理由を知っているはずだ。そして、事態を打開すべく北へ発って…帰らなかった。
ツァーリと北のノーアを隔てる天険・ギルセンティアでの事故という。
聞いた時には正直、エルンストは暗殺さえ疑った。いくらギルセンティアが大陸に冠たる天険であろうと、彼や彼に従う者達にとっては庭に等しい筈。
彼の身の上に何が起こったのか、2年経った今でも皆目分からない。確かなのは、それ以降消息が途絶えてしまったという一点だけだ。近侍の者に連絡を取ってはみたが、王都に残っている者はエルンストが知っている以上のことを聞いてはいなかったし、ギルセンティアに随伴した者達とは連絡が取れていない。
リオライも、エルンストには詳しいことは何も言わずに発ってしまった。おそらく、衛兵隊というエルンストの立場を慮ったのであろうが…。
北に伝手がない訳ではなかったが、先方の心情を思えば迂闊に書簡で訊く訳にもいかず、かといって直接行って話が訊ける状況でもない。
王太子に関しては、とりあえず軟禁されているだけで一応の生存は確かめていたから、自分が下手に動くことで彼を窮地に追い込む可能性を思えば、エルンストとしても却って下手に身動きがとれずにいたのである。
加えて衛兵隊といえど第三隊はもともと国王の食客集団、言ってみれば傭兵組織的な色彩が強い。戦況の悪化とともに前線へ出なければならず、探りを入れることもままならない状態で今日に至っていた。
エルンストがそんなことに思いを馳せている間に、国王が王太子の肩に手を置いたまま短く発した言葉は、皆を驚かせるに十分だった。
「近く、お前にも兵を率いさせることになろう。準備をしておくのだ」
「…は」
父王の言葉に、アリエルは無表情に…それでも礼儀にかなった反応をした。
「――――――!」
明確な命令ではないにしろ、公式の場での発言である。廃嫡すら噂されていただけに、廷臣の間に低いさざめきが駆け抜けた。それを、宰相ジェド=ヴォリスが苦々しげに見ている…。
「…隊長?大丈夫ですか、なんかえらい汗かいてるけど」
エルンストは、ディルに言われて初めて自分が嫌な汗をかいていることに気付いた。軽い眩暈とともに訪れる、悪寒とも寒気とも言い難い感覚。
―――また、きたか…
「ディル、隊へ帰るぞ」
汗を拭って、エルンストは短く言った。
「へ?」
「こんな処、もう用事はない」
「あ、はい。そりゃそうだ」
退出を許可されるが早いか、エルンストは足早に王城を離れた。はじめは怪訝な顔をしていたディルも、口を噤んでそれに続く。
衛兵隊第三隊の兵舎へ戻ると、音を聞きつけてひとりの隊士が出迎えた。
鴉羽色の髪を、肩の少し上で切り揃えた女性である。年の頃はディルと同じ、おおよそ二十代後半と見える。右眼を両断する古い傷痕は、視力が失われているわけではないから隠しさえしていない。姓はなく、ただセレスとだけ名乗る。本名ではないらしいが、そんなことは第三隊では珍しいことではない。ディルと同様副長の地位にあって、第三隊がイェルタ湾へ派遣されている間の留守を守っていた。
「セレス、済まん。すぐにイェルタへ戻る。ランツェは出られるか」
隊長格礼装用のケープを脱ぎながらエルンストが問う。セレスはそれを受け取って言った。
「待機させています。ディル、キャネリも出られる」
エルンストとディルは厩舎で待機していた乗騎に乗り換えて兵舎を出た。ディルに至っては礼装もなにも前線にいる格好と何も変わりはしないのだから、早いものである。
王城の森を抜けたところで、一旦乗騎を停めたエルンストに、それまで黙々と後ろをついてきたディルがようやく問うた。それとなく周囲の気配を探り、聞き耳を立てる者がいないのを確かめ、その上にもやや低声で。
「隊長…ひょっとして、また何か起こります?」
ディルが周囲に十分に注意を払った上で尋ねているのを知っていて、なおも言い淀む。…だが。
「…ともかく、もう戦どころじゃなくなるのは確かだ。将軍がたは俺の言葉なんぞ聞きゃすまいが、隊の奴らは助けたい」
絞り出すようなエルンストの言葉に、ディルが静かに青ざめた。
衛兵隊第三隊隊長エルンスト。第三隊の殆どがそうであるように、出自ははっきりしない。だが、時として凄まじく鋭敏な勘を働かせることがあった。先日のレオン捕縛もそうだが、事が終わってみて初めて…その正確さが判る。まるで、未来が見えているかのようなのだ。
何が見えたのか。エルンストの表情を見る限り、それを細々と訊くような時間はないのは明白だった。
***
日没を迎えたカザル砦。その最上層の物見台に、二人の人影があった。
「レオンは…生きているのか!?」
頓狂な声をあげて、ルイは弾かれたように立ち上がった。はずみで蹴りつけられた木箱が、悲鳴を上げるかのように軋む。
「…お前とて、信じてはいなかっただろう。レオンが、討たれたなどと」
胸壁に背をもたせかけて腕組みしているアンリーは、およそルイと対称をなす冷静さで言った。略式の神官衣の上から軽装鎧を着けている姿は昼間と変わらないが、その貌には憔悴の色が濃い。無理もないであろう。レオンが海に落ちた後、軍をまとめてカザルまで撤退させたのは彼の功だ。しかしそれは特段、彼にとって困難なことではなかった。想定していた場所でレオンを救出できなかったことが、彼を著しく疲弊させていた。
「そりゃそうだが…はーっ。心配させやがって…」
気が抜けたようにゆるゆると座り込む友人を見遣り、それからイェルタ湾を隔てた対岸…ツァーリ軍の灯をその紅瞳に映して、アンリーは言葉を続けた。
「安心するのはまだ早い。ツァーリからその情報があったのを忘れたのか?」
「忘れた訳じゃないが……。とりあえず生きていることが確認できただけでも十分だ。おい、頼むからそこまで落ちつき払うな。俺がてんで莫迦みたいじゃないか」
「慌てて何とかなるならいくらでも慌てるが」
暫時、ルイは渋い顔をして髪をかき回していた。
「…わかった。よーくわかったから話を先へ進めろ。終いには殴りたくなってくる」
大体、こういう場合にルイが勝った例はない。
「ツァーリはレオンの身柄と引きかえに大神官リュドヴィックの首と、カザル砦の返還を要求している」
「あの宰相の知恵か。気分が悪いな。あの大神官がいなけりゃ神官府なんか怖くないってか」
160余年前。それまで辺境の小国でしかなかったツァーリが、周辺四国に対して次々と侵攻した。初めに東のリーンが屈服し、北のノーアは屈辱的な講和という形で戦の災禍を免れた。西のシルメナまでが降伏した後、残ったのはシェノレス一国。
翌年、島国という特性を生かし、海という最後の城壁に拠って頑強に抵抗したシェノレスもついに降伏する。しかし王統は根絶やしとされ、国政はツァーリの総督に握られ、周辺四国の中で最も悲惨な扱いを受けた。
シェノレスの民の生活を支える職能集団であった神官府は、元来王統と両輪を成す政務機関であったが、その政治的役割を放棄することで命脈を永らえる。しかし、160年の時を経てツァーリに叛旗を翻したのは、他でもないその神官府の長・大神官リュドヴィックであった。
そのリュドヴィックが擁する「海神の神子」レオン―――――。
十数年前、シェノレスに文字通り漂着した子供は、最初は言葉さえも不自由であった。だが海の事象を細かに察知し、時に雨を呼んだ。そういった不思議を湛えてはいても、見た目はごく普通の子供であった。
神官府で「海神の加護を受けし者」として総督府の目を憚りながら育てられたことの意味も、長く誰も知らなかった。共に育ったルイはおろか、レオン自身でさえ。
明らかになったのは2年前。総督府襲撃直前のことだった。
出自のことを除けばごく普通の青年だと思われてきたレオンは、挙兵の陣頭へ押し上げられた瞬間から、特異な精彩を放ち始めた。レオン自身は武勇や智謀に長けていたというわけではない。だが、彼が陣頭に立つことで皆の戦意が高まり、結束は強固なものとなった。
そしてそれを支えてきたのが、彼らであった。レオンと兄弟のようにして育ったルイと、神官府衛視寮のアンリーである。アンリーは神官府からレオンの護衛・輔弼の任をうけてはいたが、レオンがルイの家に預けられたころから言葉の問題を含めて読み書きの面倒を見てきたのであるから、3人の関係は概ね10歳のころから変わっていなかった。…変わったのは、環境である。
シュテス島の穏やかな海辺から、戦場へ…!
海の国シェノレスの守護神である海神の御子。この戦いが始まったときから、レオンは数多の戦いに参加し、シェノレスを勝ちに導いてきた。未だかつてレオンの参加した戦いにシェノレスの敗北はなかった。ただ、そこに在れば良い。そういう人種がいるのだということを、ルイは理屈でなく知った。
ならば、自分の力の及ぶ限り護ろう。どのみち、アンリーと違って他に能のない身だ。ルイはそう思ってきた。そして、それを実践してきた。しかしここへ来て、最悪の敗北を喫したのである。
よりによって、レオンをツァーリに捕えられるなどと!
逆上したルイが、それでも闇雲な攻勢へ傾れ込まずにいられたのは、アンリーの判断を信じたからだ。あの状況下で、自分が感情に呑みこまれればどうなるか、ルイには見えていた。だからこそ感情を捩じ伏せてアンリーとともに撤退を指揮したのだ。
海神の加護を失ったと思い込んだ兵士を支え、カザルまで撤退させるのは並の苦労ではなかった。数世代に渡ってツァーリの圧政の下に置かれてきたシェノレスの民が、ツァーリに対して反旗を翻すためには、「海神の加護」という絶対の護符が必要だったのだ。
今、この状況ではカザルに立て篭もるシェノレス軍を維持することさえ危うい。大神官は一体、どうするつもりなのか。シェノレスを解放するためなら、あの御仁は自分の首さえ惜しまないだろう。だが、そうしてしまえばシェノレスは再びツァーリの搾取の対象に戻る。今、シェノレスという国のかたちを維持しているのは他でもない、大神官なのだ。
ルイは、軽く頭を振った。そんな話は神官府へ任せておけばいい。自分が心配しなくてはならないことは別にあるのだ。まったく、自分はいつからこんなややこしい話にまで首を突っ込むようになってしまったのだろう。
苛々と自分が坐している木箱を打っていたルイは、その指先を強く握りこんだ。
「……それで?いつ動く」
ルイの言葉に、アンリーがやや意外そうに視線を上げる。
「露骨に意外そうな顔すんな。…お前がそれを話したってことは、動く目途がついたってことだろう。レオンが捕まってる場所の見当が」
「…」
「動くなら、俺たちだけのほうがいい。…そのつもり、だったんだろ?軍を動かせばツァーリの奴らに気取られるからな」
「…あたりまえの戦ではない」
「今更だ。だから、お前と行く。俺が隠密行動向きじゃないことは百も承知だ。それでも…考えたかないがレオンが怪我でもしてたら、お前一人で担いじゃ帰れまい。まさか、一人で行くつもりだったなんて言うなよ?」
「ルイ…」
「戦はもう始まってる。…もう、お前一人で戦うことはないだろう」
常は感情の振幅がほとんど見えない白皙の面が、微かに揺らぐ。
「…わかった」
やっぱりこいつ一人で行くつもりだったな、と心中で吐息し、アンリーの逡巡を断ち切るように宣して立ち上がった。
「…じゃ、行くか。やっぱり、奴の傍には俺たちがついててやらなきゃな。まだ終ってない。レオンは生きてる。そして俺たちも生きてる。…篝火は、まだ消えてない!」