雪催の曇天の下、王城の森を一台の馬車が進んでいた。王城を出て、ヴォリスの本邸へ向かっている。前後には騎馬の護衛が併走していた。
ついに雪が舞い始める。
その馬車の行く手に、外套を纏った人物が立っていた。明らかに遮るように立っているから、御者は手綱を引く。前をゆく護衛騎士が馬を進めてその人物に近づいた。
風体は平民だが、外套の下に剣帯を身につけている。本来なら王城の森で平民の風体で剣を吊っていれば、衛兵第三隊の隊士か、さもなければ賊、というのが通り相場であった。
しかし、賊にしては単独というのが妙だ。
騎士が誰何すると、その人物は外套の蔽いをすべり落とした。年代としては青年、といっていいだろう。その下から現れた癖のある金褐色の髪を揺らして、青年は答えた。然程大きくはないのに、よく通る声であった。
「馬車の中の御仁に用がある。認めたくはないが一応身内でな。一寸話がしたい。レアン・サーティスが王太后レリアにお目通りを願う、と言えば、おわかり頂けるかと思うが」
青年はそう言って剣帯から鞘ごと剣を外し、柄から鍔にかけて刻まれた優美な紋章を示す。
だが、その騎士はその紋章が何を意味するかを理解できなかったらしく、馬を進めて鞭を振り上げた。剣に刻まれた紋章が何を意味するかを考えるよりも、その風体のみで判断を先行させたらしかった。
「何を抜かす、平民風情が無礼な…!」
だが、騎士が振り上げた鞭は…振り下ろした時には持ち手近くで切断されていた。
「何…」
然るべき手応えが得られず均衡を崩した護衛が、手綱を引いて鞭の切り口を茫然と見つめる。
何が起こったのか。その人物はただ立っているだけのようにしか見えなかった。抜いたのも納剣したのもまったくわからなかったのだ。そもそも、剣を抜いたのかどうかさえ。
だが、現実に鞭の先は薄雪の上に鋭利な切り口を見せて落ちている。その上に、音も無く雪が降り積もっていった。
それを小さな吐息と共にさもつまらなさそうに見遣り、青年は吐き捨てるように言った。
「ふん、もはや紋章官1でもなければわからん水準か。自業自得とはいえ嘆かわしい限りだ。
しかしまぁ…相変わらず手下には恵まれてないようだな、王太后レリア」
青年が剣を剣帯に戻す。鋭角的な若草色の双眸に至って静かな冷笑を浮かべてそう言い放たれ、護衛騎士は嚇怒して柄だけになってしまった鞭を投げ棄て、剣に手を掛けた。
「ふざけるな!」
「…おやめなさい」
馬車の中から声が掛かり、護衛騎士は不承不承、青年から距離を取る。青年は悠然と馬車の傍まで歩み寄ると帷帳をおろしたままの窓へ声を掛けた。
「…あんな小娘の何が癪に障るのかは知らんが…嫌がらせにしても大概にしないと、そのうち大火傷することになるぞ」
馬車の窓の内側で、帷帳が揺れる。中の人物が帷帳を開こうとして、思いとどまったのは明らかだった。
「…何が言いたいの」
「イグナート伯も気の毒なことだ。藁をも掴む心持ちであんたの話に乗っただろうに。
杜撰な計画?…いいや、ただの嫌がらせでしかないな。しかもその結果は宰相の逆鱗に触れた。最初からそのつもりだったんだろう?取り次いでやりたいが、自分は現宰相とあまり仲がよいとはいえない、だが今東別邸にいるあのお嬢さんに話をつければきっと耳を傾けてくれるだろう…とか何とか。そこで誘拐という手段に出る辺りで、イグナート伯の底も知れたがな。つくづく、後先を考えない小者だ。
だが、あんたの思惑通り…あんたにとって目障りな小娘は連中の標的になった。そこに関してはレリア、あんたも大層な策謀家と言うべきだ
しかし喧嘩する相手は間違わないほうがいい。現宰相は、やるときには身内だって容赦しない。そんなことはあんたがいちばんよくわかっているだろう。ヴォリスの血筋なんだからな。
…あんただって、ライエンを殺した」
「あれは、事故よ…!」
遂に、帷帳が開かれる。前王カスファーの妃、現王リュースの母后たる王太后レリアの幾分血色を欠いた顔がそこにあった。
「そうだな、あの時は俺も訳のわからない理由で憎まれることに辟易するだけの子供だったし、あんたはただ後先考えずに邪魔者を消そうとするだけの小娘だった。だからこそ起こった事故だ。
だがその事故は、宰相家の優秀な後継者だったライエンを死に至らしめた。それは厳然たる事実だ」
「…レアン・サーティス…!」
レリアが裏返った声で青年の名を呼んだ時、サーティスの右手が翻った。一瞬の後、抜き放たれた長剣は馬車に柄元近くまで突き刺さる。然程大きな挙動がなかったにもかかわらず、凄まじい力というべきだった。
馬車の扉さえ薄紙のように突き抜けた白刃が膝のすぐ前を掠め、王太后の喉から壊れた笛のような声が漏れた。長衣に触れるか触れないかという微妙な距離で怜悧な光を放つ刃に、自らの蒼白な顔が映るのを見て…膝を震わせる。
色めき立った護衛二騎が殺到するが、一騎は無様に均衡を崩し落馬した。投擲された刃に手綱を切られたのだ。残る一騎はサーティスが左の逆手で抜き放ったもう一本の剣に右手をひと薙ぎされ、やはり馬上で均衡を崩した。掠めただけと見えた一閃は手首の腱を瞬時に切断していたのだ。
それは短剣と言うより剣というに相応しい長さがあり、一瞬で順手に持ち替えられたときには既に護衛騎士の喉元に擬せられていた。辛うじて落馬を免れた護衛騎士は鞍にしがみついたまま体勢を立て直すことも出来ず、抜いた剣も取り落として喉元を凝視し、脂汗を垂らす。
「言っちゃ何だが…私はツァーリがどうなろうと、知ったことじゃない。今回もこれほど長逗留するつもりはなかった。
ただ、あのお嬢さんを損得抜きで心から案じている人物がいてな、その憂いを払う為なら、俺もまあ…少々の骨折りはしてみてもいいと思っただけだ。
ミティア嬢は王妃となる。そう望まれ、そう育てられた。他でもないヴォリス宗家によってな。己が身が可愛ければ、黙って祝福してやることだ。これ以上の手出しは自分の首を絞める結果になる。
…そう、警告しに来ただけさ。なあ、義姉上殿よ」
サーティスは、一動作で馬車から長剣を引き抜いた。
それと同時に擬せられた剣を引かれ、護衛の騎士が喉元を擦る。
納剣したサーティスは冷たい笑みをして、するりと護衛の傍を通り抜けた。ぶらりと垂れ下がった右手を抱えた護衛騎士が打って変わった畏怖の眼差しでそれを見送る。右手を潰され、剣は失った。体格に似合わぬ凄まじい膂力を見せつけられた後だ。下手に刃向かえば今度は首を飛ばされるのは明らかだった。この男が何者なのか、もはや詮議する余裕はない。声すら上げることはできず、がたがたと震えながら馬上に伏せる。ひたすら、通り過ぎてくれることを願って。
サーティスは数歩を進めて向き直り、低く…だが聞くものの心胆を寒からしめる響きを持った声で告げた。
「レリア…その所業、忘れたとは言わせん。あんたのやったことが一体どれだけの人間を傷つけたか。今更ここで並べ立てるのも面倒だが…本来なら、殺しても飽き足りんな。
だが、ライエンはそんなことを決して望んではいない。むしろあんたが王妃…いや、今は王太后としての職務を全うすることこそ望んでいるだろう。ライエンに免じて、今回は見逃すさ。
だが、次はない」
震え、上擦った声をはねあげて…王太后は命じた。
「その男に構うな! …車を出しなさい」
***
程なく、リーンの内紛はついに火を噴いた。
再戦を唱える者、国内安定の優先を唱える者、さらにはそれぞれの内部派閥が入り乱れて宮廷内でさえ刃傷沙汰が日常となるほど拗れに拗れた。それというのも、どの派閥でもあいついで中心人物が怪死を遂げ、疑心は暗鬼を呼び、宮廷内の均衡が完全に崩れてしまったのである。挙げ句、国都で小戦闘が繰り返され、リーンの国力はツァーリの勢力下にあったときよりも悲惨な状況にまで落ち込む事態となった。
停戦協約を破棄しようとする動きは大なり小なり各国の中にあったが、その中で一番急進的であったリーンが自身で自身の手足を食い荒らすような倒れ方をしたことは、周囲の再戦派を牽制する効果はあったようだった。
どの国も疲れている。今事を起こすのは愚かだ。その認識を諸国が共有した事件であった。
だからこそ、春神の月に入ってからマルフ島でシェノレスとシルメナの間で紛争が発生した時、現場はともかく本国の方は火消しに躍起になったのである。
***
春神の月に移ったとはいえ、王都にはまだ薄雪が残っていた。
王城の宰相執務室。アレクセイ=ハリコフは、リーン内紛の続報を淡々と読んだリオライが深く吐息するのを見た。
イグナート伯の逮捕後程なく、エルンストが一時王都から姿を消したことは知っている。そして、今回の内紛。アレクセイには特に相談があったわけではない。ただ、若い主人が苦しい決断をしたことだけは察していた。
生来、おそろしく真っ直ぐなこの青年が、それを命ずるに足る脅威があった。その苦衷は察して余りある。
――――本来なら、この若い宰相は苦楽を分かち合う聡明な王に仕える筈だった。
しかし陽は翳り、今彼はこの国の舵取りをほぼ一人で背負っていかねばならない。しかも、周囲は味方ばかりとは限らない。
かつて、ヴォリス家の基となった王弟ヴォリスは、大侵攻と呼ばれる大陸史上の大きなうねりの中心人物となり、周辺四国の怨嗟を踏み潰してツァーリを大国の地位に押し上げた。だが、その一生が兄王の粛清に怯え続ける凄惨な道程であったことは、それほど知られていない。
昨月、雪催の空を見上げながらリオライが口ずさんだのは、そのヴォリスの辞世と伝えられる詩である。公的には病死となっている。しかし実は、いずれの国か詳らかでないが、国を踏みにじられた怨みでもってヴォリス暗殺を企んだ男の処刑を見届けた後、あの詩を書き残して自室で毒を呷ったのだ。
公式の記録からは一切削除されているが、このとき刑を執行された男の遺髪がついこの間までユーディナの文書館に保存されていた。命じたのはヴォリス自身。「然るべき時に、然るべき処へ返還せよ」との遺詔が付されていた。
また、緋の風神と呼ばれたシェノレスの神官…神官府からさえ離反者として弔いを拒まれたアレンを、戦士としての最高葬礼である黄金造りの短剣と共に葬ったのもヴォリスである。
王都暮色深く 雪催 枯野深閑として行人なし 芳樹の下 清歌妙舞の錦繍は朽ち 別れを為して孤蓬万里を征く
王都の繁栄も、ヴォリス自身にとっては然程価値のあるものではなかったのかも知れない。むしろ、敵とはいえ守るべきもののために命を賭した者への哀惜と、戦い続けることへの疲労感が彼の裡を占めていたのではないか。
だからこそ、アレクセイはリオライが空を見て何気なく口ずさんだ詩句に不安を覚える。
この年若い宰相が、いつかその負担に耐えかねて始祖と同じ途を択びはしないかと。
***
「それで?イグナート伯とやらは結局どうなった」
暫く王都を留守にしていたエルンストがひょっこり戻ってきて酒瓶片手にセルア館を訪ねた日のことである。冬神はこの地を去り、春神がその息吹を森の隅々まで行き渡らせる季節になっていた。
セルア館は、西方渡りだという薄紅色の花が満開を迎えていた。酒宴にはよい時期ではあったが、エルンストが訪れたその日、館にマキと呼ばれる少女の姿はなかった。何でも、数日かかる使いに出ているという。
「ああ、あの気の小さいおっさんか。情報提供の代わりに襲撃の件について責任を問うことはしない、ってことになったらしいな。リーンから渡ってきた奴らについては…どこぞの獄舎にぶち込まれてる筈だが、まあ…浅慮の代償を払うことになるだろう」
エルンストがうんざりしたように言った。イグナート伯が逮捕された際、相当みっともない命乞いをしたとかで噂になったが、それに付き合う羽目になったのはエルンストなのである。
イグナート伯がミティア=ヴォリスというハイリスクな標的を択んでしまった理由が今ひとつ不明瞭だったのだが、尋問しても怯えるばかりで全く埒があかなかった。
あまり心楽しくなる光景ではなかっただけに、エルンストはさっさとその時のことを頭から追い払って話を切り替えた。
「それはそうと…ミティア嬢はリュジノヴォの離宮って?」
リュジノヴォ。ツァーリ南西部にある風光明媚な土地である。街道からはずれているため、至って静かだ。四季の寒暖差が少ないことから、保養地としてかつては王室の離宮も築かれていた。離宮は、現在ヴォリス家に下賜されている。ただ、下賜という名目で実質的にヴォリス家に管理が委ねられているようなものではあった。
「そう聞いている。気持ちの整理をつけるなら、一時王都を離れるのもよかろう。…まあ、おまえさんには気の毒だがな」
サーティスがやや意地悪い笑みをしてみせる。だが、エルンストはただ微かに苦笑して、酒杯を呷った。
「仕方ないさ…」
セレスは引き続きミティア=ヴォリス護衛の任を帯び、リュジノヴォへ赴いている。帰ってくるのは、ミティア=ヴォリスが王妃として入内する時になるだろう。公式の発表はまだだが、入内の件はほぼ本決まりであった。
そもそもセレスをミティアの護衛に付けたのはエルンストだし、傷心の娘にセレスがいたく同情しているらしいのと、ミティア自身がセレスには気を許してくれたことで、今度の騒動が諸々解決をみたのも確かだ。況してセレスの随行は、王室とヴォリス家双方から衛兵隊に対し、正式な依頼があってのことである。隊長であるエルンストに否やがあろう筈もなかった。
…それでも、身体の片側がやたらとすうすうして落ち着かない。その様子は傍目にも判るらしく、既にディルをはじめ隊士達にもさんざっぱら揶揄われた。
『ある日突然、女房に家出された亭主みたいですよ、隊長』
隊士達の前では『まったく以てその通りなんだが、何か文句があるか』とやり返すだけの余裕があったのだが。
「淡白だな。下手すると秋、冬になるかもしれんぞ」
「うん…」
揶揄うつもりが、だんだんとエルンストの声の調子が落ちていくのに居心地悪さを感じたサーティスがついにこめかみを押さえる。
「ええい、鬱陶しい奴め。マキの使い先はリュジノヴォだ。定期的に行くことになるだろう。私信を言付けたいならいつでも言え。
…というか…どれだけ堅物なんだ。こういうときに使わんで何の職権だ、衛兵隊第三隊隊長?」
「サーティス…」
サーティスの声音が徐々に刺々しくなっていく。その理由が解らないのか、エルンストの表情はいっそ不思議そうでさえあった。
「マキはミティア嬢の話し相手に喚ばれたんだ。例の、誘拐騒ぎ以来のつながりで…ゼレノヴァ夫人の懇請があった。正直な処、ヴォリスの係累なんぞとあまり誼を通じたくはないんだが、マキが行くと言うんだ、仕方ない」
「…そうなのか」
心ここにあらず。相槌にもなっていない。
「何なんだ、まったく! 煮え切らんな」
そうは言っても、サーティスには理由が判っている。ただ、自分からは言えない。言うわけにはいかない。
――――こいつが悪い。何でこんなに鈍いんだ!
柄にも無く愁いに沈んだふうの友人を見遣り、理不尽とわかっていて、サーティスは胸中で悪態をついた。…胸の裡を灼く痛みに耐えながら。
エルンストがようやく、訥々と話し始めた。
「いや、セレスが…少し前から、そう、停戦の頃からだな…何か調子悪そうだったんだ。気にはなってるんだが、セレスが行くというなら行かせるしかなかった。リオライにも頼まれちまったしな。
…ちゃんと医者にかかれとは言ってあるんだ。まあ、なんとなればジェロームの内儀も相談に乗ってくれるとは思うが」
「エルンスト…お前な…」
サーティスが苛々と、自身のこめかみに拳を捻じ込んでいるのを見て、エルンストがふと杯を置いた。
「お前も具合悪いんじゃないのか?」
「…誰の所為だと思ってる」
サーティスが苦虫を噛みつぶすような表情で唸るから…おそるおそるといった態で、エルンストは訊ねる。
「サーティスお前…機嫌、悪いか?」
「当たり前だ、この野暮天!」
サーティスが怒鳴るところなど、久しぶりに見た。思わずエルンストが目を丸くしていると、サーティスがそのすこし癖のある金褐色の髪を掻き回してもう一度唸る。
「まったく、なんでこんな大切なこと、俺の口から言わなきゃならないんだ?…セレスもセレスだが…お前が悪いんだぞ、エルンスト!」
「だから、何を怒ってるんだ…」
「お前、本当に何も気付かなかったのか。…いや、調子が悪そうだと思ってたなら何故セレスに直接訊かん。
…セレスの胎には子がいる。誰のだなんて言うなよ!? それこそ殴るぞ!」
――――エルンストが、杯を取り落とした。