陽光消ゆ Ⅳ

陽光消ゆ

 早まらせてはならない。何とか、獅子帰還の報を王太子ツェサレーヴィチに伝えなければ。
 天窓を叩いた鳥が、鴉などではない…鷹…それも、リオライ麾下のシェラが使うエルウであることに気づいたとき、アレクセイ=ハリコフはもはや向き不向きを言っていられないと肚を括った。
 ユーディナの司書長たる自分がが拘束されている以上、サレン館は封鎖されていると考えて良い。それにおそらく、王太子は既に館にいない。行動を起こした後なのだ。イェルタから戻ったら、その足で朝儀1へ参ずるつもりだ。
 朝儀で王太子の主張が容れられることは、まず…ないだろう。アレクセイはそう踏んでいた。だが、おそらくその場で命を奪われるようなことにもならない。カスファー王の性格からして、再度蟄居というのが妥当なところだろう。
 しかし今、王城へ辿り着くはおろか文書館を一歩たりとも出して貰えない身では、どのみちとれる手段はない。
 役目は果たしたといわんばかりに鷹が飛び去るのを見送りつつ、アレクセイは歯噛みして翼なき身を呪った。
 しかし、呪うばかりではどうにもならぬ。自身の文机に拳を当て、周囲を固める衛兵隊をすり抜けて外へ出る方法を考えた。
 正面から攻囲を斬り破る、などという武侠小説のような芸当ができる身ではない。あるのはこの王都で一番の収蔵量を誇るこの文書館に集められた記録…それを、自分の記憶のように検索できるという実に役に立たない能力だけだ。
 それでも、手の中にあるもので切り抜けるしかない。
 アレクセイはミオラトの廃園から見つかった旧い図面を思い出した。ミオラトが宮廷として使用されていた策謀渦巻く時代、身を守るために、あるいは他者を陥れるために、この王都の地下にはいくつかの地下通路が作られている。これだけの森が生い茂る土地だ。長い年月の間に樹木の根に侵蝕をうけて通れなくなっていたり、そもそも出入り口が塞がれている可能性だってあるだろう。
 それでも書庫からその史料を引っ張り出したのは、諦めたくなかったからだ。
 文書館の地下倉庫…書架に塞がれた扉の向こうにもその通路があるなどと、以前、読んではみたが話としては面白くても実用性がないから放念していた。
 だが、この際は。
 この冬の最中に滝のような汗を流しながら本を移動させて書架を動かし、旧い通路をこじ開ける。途中の動かない扉や木の根に侵蝕されて狭隘になっている通路は、リオライの置き土産…試作の火薬玉で吹き飛ばしながら進み、行き交う衛兵隊の目をかいくぐってサレン館に辿り着いた。そのときには昼を回っていたし、身形みなりといえばひどい有様になっていた。
 館に仕える者の中には…一応ヴォリスの係累であるアレクセイが見知った顔もあるにはあった。しかし、そろいも揃って保身だけが大事な者達だ。強気でせば剣を抜くまでもなく通ることができた。尤も携えていた剣など、骨の髄まで文官のアレクセイが抜いたところで却って蹴躓けつまずくだけだったろう。それはアレクセイ自身が一番良く知っていた。扉をこじ開けるのに道具が必要だったから持っていただけだ。
 なりふり構っていられない。ただ、あれを遺詔などにさせたくない。その一心だった。

 ―――しかし。

***

 リオライはアレクセイに後事を託し、自らにはひととき慟哭することさえも許さず、決然と王城に向かった。年若いあるじの、いたましいほどに感情を抑え込んだ横顔を…アレクセイは正視できなかった。
 夜を徹しての脱出行でアレクセイの手足は鉛を注がれたような重さを訴えていたが、ともかくもこのままにしておくわけにはいかない。階下で右往左往している連中に事の次第を伝え、然るべき支度を調えなければ。
 その時、よく整頓された王太子の居室…静寂に支配されたその空間に、薄日が差した。夕方のような薄闇に沈んでいた、緋色に彩られた床…そこに、木洩れ日が落ちる。アレクセイはそれが、無数の三日月の如き影を伴っているのに気付いた。
 ――――蝕か1
 薄曇りの空を仰ぐ。欠け始めている太陽の頼りなげな姿は、薄雲の所為もあっていやにはっきりと視認できた。蝕そのものの予測は数日前から出ていたが、あまりといえばあまりなタイミングであろう。
 アレクセイはようやくのことで立ち上がると、居室へ足を踏み入れた。
 書机に伏せたアリエルの傍、その手から滑り落ちたと思しき彼の剣もまた、床の上にわだかまった緋色の中にその刀身を沈めていた。それに躓きそうになり、アレクセイは思わず書机に手をつく。
 書机には、部屋を極力汚さぬようにとの配慮か外套マントが敷かれていた。緋色に濡れたその裾から、同色の雫が落ちてゆく。
 あと半日早ければ。埒もないと理解ってはいても、そう思わずにいられない。
 アリエルの説得にもかかわらず、父王と宰相は意見を変えることはなく…アリエルは再び蟄居を命ぜられた。
 だから、アリエルはシェノレスのレオンと交わした休戦協定を発効までながらえさせる為、自身が廃嫡され王太子としての地位を剥奪される前に…詔書に遺詔・・としての効力を与えるという方法を採ったのだ。
 そこには、継承者にラリオノフ公リュースを指名しておけば、国王も宰相も当面は国法にもとるような暴挙には出ないという周到で冷静な計算があった。…そして、執行者たるリオライ=ヴォリスが必ず帰ってくると、最後まで信じていた。
 廃嫡されること自体、彼は毛筋ほども頓着していなかったに違いない。ただ、結んだ休戦協定を発効まで存えさせる。その為だけに、それまでおそらく他者に振るったことのない剣を自らへ向けた。
 …傷を診る限り、おそらくはほとんど迷いなく。
『願わくば私が、詔書これを紙屑にしないように…振る舞えるといいのだけれど』
 王太子ツェサレーヴィチアリエルは、その言葉を完璧に成就させた。
 陽光消ゆ。蝕ならば数刻で光は戻るが、もはやこの陽は復することはない。この国は、この危急存亡のときに…聡明な次代王を喪ってしまった。
 肺が空になるほど、大きな嘆息をつき…床から緋色に染まった剣を拾い上げた。それを机上、アリエルの正面にそっと横たえる。
 外套の敷かれた机…そこについた両手を握りしめたことで、外套が吸った緋色が指の間から滲み出す。それを身の置き所がない無力感ととともに眺めながら、アレクセイは絞り出すように言った。

「…殿下、かくも細やかな配慮をなさる方でしたのに。今度ばかりは…何とも…何ともご短慮であられましたなぁ…」

***

「お、お待ちください、今は朝議の最中で・・・!」
 ひとしきり扉の外で騒ぎがあった後、音高く広間の扉が開かれた。
 集中した視線の先に、リオライがいた。・・・・が、その凄絶な姿に数人の文官がその場にへたりこむ。
 ノーア風の服の裾は緋に彩られ、胸や袖にまでそれは及んでいた。それよりもその両眼で熾烈な光を放つ紫水晶に、広間に居合わせた者全てが程度の差こそあれ胸中に氷塊を感じた。
「何事か」
 非礼に対する叱責の声を投げたのは、宰相であった。
「・・・・王太子ツェサレーヴィチアリエル殿下は、たった今自害なさった」
 感情を可能な限り押し殺した声が広間に響いて、水を打ったような静寂が降りる。その静寂を破ったのは、彼自身であった。
「私リオライ=ヴォリスは、只今ノーア公の使者として参内つかまつった。しかし、容易ならぬ事態を耳にいたしましたゆえ、まず陛下にお尋ねしたく。いまだ朝儀に列することの出来ぬ身なれど、是非直奏1をお許しあらんことを」
 血に塗れた手に握られた、正式な使者としての身分を示す錫杖。誰の血なのかはそこに居並ぶ全ての者が理解っていた。それを掲げて進む鬼気迫る姿に、廷臣たちは命じられるまでもなく左右に分かれて道をあける。
 玉座へ至る階段の前、奏者壇1まで進み出たリオライが、錫杖の石突きを敷石に打ち付けた。水を打ったような静寂を切り裂く音。その動作は完璧に形式に則っていたにもかかわらず、周囲すべてを威圧した。
「・・・一体、何事か。奏するを許す」
 カスファー王のゆっくりとした口調が、敢えて威厳を保とうとしている所為なのは廷臣たちにも明瞭であった。
 サーレスク大公自害。…判っていた結果だった。
 今朝のことだ。単騎、王城へ戻ってきたアリエルが参内さんだいし朝儀への遅参を詫びたとき、矢傷から溢れた血や戦塵もそのままの姿に、その正気を疑った者もいたことだろう。まだその時点ではレオン逃亡の報さえもまだ確定事項として伝わっていなかった。だからこそ、突如として凄惨な姿で現れた王太子ツェサレーヴィチの奏上に廷臣たちは恐れおののいたのである。
 しかし、国王と宰相はそれを退けた。レオン逃亡の事実を認めながら、国王カスファーはアリエルの主張を宿疾の衰耗として取り合わなかったのだ。
 明確な処刑命令は出さない。カスファーはあくまでもアリエルに蟄居を命じたのみだったが、退出する王太子の顔色は、廷臣たちに二度と生きた姿で相まみえることは叶わぬことを予感させるに十分であった。王太子が相当な覚悟でこの場に臨んだのは居並ぶ者達全てに伝わっていた。それを、あくまでも病んだ者の愚挙として片付けたのは父親の逡巡でしかない。
 むしろ、いくらヴォリスの意向に逆らってまで王太子に据えた息子だったとしても…反逆者として処断しなかったことは、老いた王の決断力が衰微したことすら窺わせた。
 リオライは王の狼狽を全く斟酌せず、普段の彼を思えばいっそ慇懃無礼とも思える丁寧さで冷たく礼を述べ、言葉を続けた。
「虜囚・シェノレスのレオンが、王命を待たずに謀殺されかけたとか。…サーレスク大公はそれを回避せんと虜囚の身柄を移送途中、何者かの襲撃を受けたとのこと」
「莫迦な、詭弁だ。王太子は乱心し、生母の故郷という情に引き摺られて虜囚を逃がしたにすぎぬ」
 宰相だけが、その威を畏れていない。だが、声に滲む幾許かの焦慮は近くに侍る者を不安にさせた。
「サーレスク大公領に二十騎あまり、騎兵が派遣されたのはそれを阻止するためだと? 領主たる大公の許しも得ずに?
 派遣された騎兵は殿下に傷を負わせた挙げ句、レオン奪還に動いたシェノレスの一部隊に遭遇、鏖殺されたそうな。レオン謀殺の件も、審問で畏れを成した誰ぞが宰相の意を受けたと思い込んで・・・・・仕組んだとか。
 誰の仕業か存じ上げないが、挙げ句レオンがシェノレスに奪還されてしまったことを考えれば、利敵行為に走ったのはどっちかということになりはしませぬか」
「よくもまあ、見てきたようなことを…」
 宰相の唸りは、不都合な事実を暴かれた事に対する憤りと、それを指摘したのがよりによって…宰相にとっては出来損ないの末子であるという不快な事実、双方の所為であった。
 リオライは部下達がもたらした断片的な情報を取捨選択した上で繋ぎ合わせてここ数日で王都に起こったことを概ね把握していた。宰相ジェドも後嗣たるリオライが独立部隊に近い私兵を抱え、独自の情報網を持っている事は知っていたが、ここまでとは思っていなかったのだ。姿を消していた二年もの間、何があったのかはいまだ宰相の識るところではなかったが、その空白を思えば恐るべき情報収集力であった。
「陛下をはじめ百官、お聞きになられた筈だ。レオンは殺してはならぬ。生かしてシェノレスとの交渉に使うべきと。そもそも、宰相閣下、あなたが提言なさり、陛下がお認めになったことであるはず。サーレスク大公もしかるべく動かれたのだ。
 それを独断で翻されるとは、王権をないがしろにする行為。それこそ反逆」
 紫水晶のような眼光が、王を射た。ついに宰相がいきり立つ。
「お前は、父を陥れるつもりかっ!!」
「…自分の謀略のために娘を閉じ込めたような奴が、今更偉そうに父親面なんかするな!!」
 咄嗟に、リオライは子供の喧嘩のような悪態を封じ損ねた。努めて冷静であろうとしたのだが、とうに沸点を突き抜けてしまった怒りが、その一瞬だけあるじの手綱を振り切ったのだ。しかし、友人のためにひととき慟哭することすら許されなかった咽喉を震わせた時、彼は刹那で手綱をとりなおした。
「殿下はあくまでもシェノレスとの停戦のために力を尽くし、シェノレスのレオンとの間で即時停戦の合意のもとにレオンを解放なさった。
 レオンの奪還を果たしながら、イェルタのシェノレス軍がいまだ動いていないのはその何よりの証拠。
 そしてレオンの謀殺を防ぐためとはいえ、独断で動かれたことについては、殿下は殿下のやり方で清算をなさっている。では宰相、それに余計な横槍を入れたあなたが何故なにゆえ、何事もなかったようにこの朝儀にて大きな顔をなさっているのか。
 宰相はな にゆえ責任をおとりにならぬのか。お聞かせ願いたい!」
 雷霆のような声が空気を切り裂く。宰相は立ち尽くしたまま汗を浮かべ、国王は狼狽に視線を彷徨わせた挙げ句傍らの宰相を眺めやる。
「…良かろう、相応の処断は受けよう。だがそれは、まずシェノレスとの停戦が成って後のこと。そのための条件を…」
 苦虫を噛みつぶしながら、宰相が言い放つのを、リオライは遮った。
「ぬるい! まだ目が覚められぬか! ことはシェノレス一国にとどまる話ではないと、あなた方は先刻お聞きになった筈だ。殿下は言葉を尽くして説かれた筈。
 今すぐ…サーレスク大公の遺詔となったシェノレスとの和平を発効させ、次の備え・・・・を固めねば、ツァーリは滅びる!」
 彼のいわんとする事を悟りはじめた者達のざわめきが、廷臣達の間を漂った。
「アリエル殿下はこう言われたはずだ。・・・この戦、ただツァーリ対シェノレスの事ではない。ツァーリ一国と、シェノレス、リーン、そしてシルメナ・・・三国同盟との戦いなのだと!」

***

 南中した太陽が傾きかけた頃、カザルの砦を巨大な衝撃が襲った。津波の第一波だ。この堅固な砦も揺らいだかのように、皆が感じた。
 海の向こう、遙か彼方で起こった地震が津波を引き起こし、海を渡って今この湾岸に到達したのだ1
「おそらくこの津波で・・・」
 アンリーが淡々と言った。
「残念なことにこの半年ばかりでカザルの周囲に築いた防塁や拓いてきた耕作地は少なからぬ被害を受けるだろう。軍船もおそらくいくらかは攫われる。こればかりは人の力ではどうにもならん。…だがそれは、この際あまり大きな問題にはならない」
「そりゃ、兵糧は何とか収容したが、船はどうにもならなかったからな。…だが、損害には違いないぞ」
 ルイが口をはさむ。海の魔獣にしがみつかれたかのように、再び砦が震撼した。
「相手がそれ相応の・・・あるいはそれ以上の犠牲を払ってくれるなら、自ずと事情は違ってくる。我々にはレオンがいるが、果たして戦勝祝いで酔いつぶれたツァーリ陣営に、海神わだつみの怒りを察知出来る者がいるか否か?」
 端正な顔が、ひどく意地の悪い笑みを浮かべる。おもわずゾクリとして、ルイとレオンが沈黙した。
 暫くして、ルイが深く吐息して額に手をやると、唸るように言った。
「・・・何があっても、絶対にお前とだけは喧嘩したくないよ・・・・」
 その時、外が俄に騒がしくなった。
「何だ、何処か破損箇所でも…」
 ルイが立ちあがって望楼へ出た。レオンが予知したとおり昼前には雨が降っていたが、雨雲は薄く時折日差しもあった。だが、その日差しが翳り始めていた。雲の所為ではない。太陽そのものが欠け始めていた。
「…蝕か…このかよ。まあ、昨日じゃなくてよかったが…」
 シェノレスの神官府には天文寮があり、この日食も予測が出ていた。しかし数日の幅があり、この日の何時いつ起こるとまで判るわけではない。しかし太陽が欠けるという現象は不吉であり人心にも影響するから、大きな国事は避けるのが通例とされていた。
 レオンが囚われた日に起きていたら、それこそシェノレス軍は瓦解していたかも知れない。ルイの嘆息はそのためだった。
 レオンも出てきて、空を仰ぐ。薄雲の向こうで欠けゆく太陽。眼下は逆巻く波。砦は大丈夫だと皆に言い聞かせてはいたが、不安を掻き立てる光景ではあった。数カ所ある物見台に並ぶ顔には、程度の差はあれ不安の霧がかかっている。吹く風も心なし温度を下げているようだった。
「…皆が不安になるのは無理もない。予測していても、こうして見ていると落ち着かないからな。偶然とはいえ、こんな津波と重なれば尚更だ」
 そう言って出てきたアンリーの顔色は、心持ち蒼い。
 レオンは暫く物見台や胸壁へ三々五々姿を表す人々を見ていたが、おもむろに息を大きく吸い込んだ。
「――――――戦は終わる!」
 よく通る声が、吹きつける海風を突き抜けてカザルの城壁を駆け巡った。
「陽はまた戻る。戦は終わる。皆よく戦ってくれた。…皆でシェノレスに帰る日はもうすぐだ!」
 霞んで見えにくいが、今頃対岸のツァーリ軍の陣にも波が押し寄せている筈だ。海神わだつみの怒りは斉しく人の営みを薙ぎ払う。カザルの城塞に拠るシェノレス軍はともかく、海岸線近くに野営しているツァーリ軍がどうなるか、火を見るより明らかだった。
 対岸に布陣しているのがツァーリの全軍ではないが、水がひいた後に無傷なシェノレス軍が王都をくまでの時間で立ちはだかることができるのは、わずかな王都守備隊に過ぎない。
 そう、この戦は終わるのだ。
 ――――不安のざわめきが、徐々に歓呼へ変わってゆく。
「…ありがとうよ、レオン」
 吹きつける風を圧して湧き上がり伝わってくる歓呼を聞きながら、ルイがレオンの背を軽く叩いた。
「お前がなんて言おうと、お前はシェノレスを正しく導ける王だよ。見ろ、皆の顔を」
「そうかなぁ。俺はただ、みんなに安心してほしいだけなんだけど」
 それが王の資質でなくて何だ。ルイはそう思ったが、それについて論じ出すときりがなくなるので、小さく笑うに留める。…だがその時、アンリーが胸壁に身を凭せかけるようにして座り込んでしまったのを見て胸中に氷塊を感じた。
「おい、どうした…?」
 レオンも気付いてアンリーの傍に膝をつく。
「アンリー…真っ青じゃないか。大丈夫か?」
 アンリーが蒼白な頬に冷汗をしたたらせて俯く姿など、レオンは勿論、ルイとて見たことがない。嘔気を抑え込もうとするように口許へ当てた手は、わずかに震えている。
「血の、匂い…ナステューカからの…風が…」
 その声は、掠れていた。レオンとルイが思わず顔を見合わせる。
 レオンとルイには潮の匂い以外のものは感じ取れなかった。それに今の風は海から吹いている。王都ナステューカからすれば真逆の方向だ。
 波の下の者アンリーアンリー・ラ・ネレイア。…大神官の意を受けて動くために、海神への“奉献”で自らの存在を抹消した者。シェノレスの戦を調ととのえるためにそのすべてを賭ける者。その辛辣さは、しばしば他との衝突を招く。だが、誰から何時何を言われようとまったく動じないのがアンリーだった。

 その、彼が…。
 
 アンリーが感じ取ったものが何なのか、二人ともおぼろげに理解した。粛然として北の空を見る。

 ――――あの一途な王太子は、今…彼自身の血の贖いを以てその祈りを成就させた。

  1. 朝議…朝廷の儀式の総称。この場合、国王臨席の下で行われる会議。