海風の頌歌 Ⅲ

『…愛して…いるのか。審神官シャンタールを』
 敬愛する寮頭りょうのかみの問いに、ソランジュは最初呼吸を停めるほどに驚き、そして今も戸惑い続けている――――。
 今日も薬種の籠を抱えて本殿への道を辿りながら、ソランジュは立ち止まって…見上げた碧空に溜息をそっと逃がした。
 仄暗い書庫、天窓から差し込む光条が照らしていた緋の髪は、確かに過日の憧憬であった。だが一介の巫女見習いと大神官の嫡流とでは、それほど言葉を交わす機会が多くあったわけでもない。ソランジュにとってアンリーは、言ってみれば雲上人であった。
 それでも彼の奉献という非情な選択に驚き哀しみもしたし、生きていると知らされた時には心から嬉しかった。だからこそ、彼が審神官として「海神の御子」とともに反ツァーリの陣頭に立つ姿には胸を熱くした。そして心を千切りながら闘い続け…今、疲れ果てて海神宮の招きに緩々と身を預けようとしているかのような現在のアンリーの姿にソランジュが心を痛めているのも紛れもない事実だ。 

 だがこの感情は…クロエの問うた意味のものなのか?  

 いままでそんなことを考えてもみなかった。クロエから、ソランジュの態度がそう見えたというなら、それはそれで衝撃でさえあった。 

 ソランジュは本来他人と接するのが得手なほうではない。むしろ引っ込み思案を自認していたが、施療のために人に接する時は、気持ちが切り替わる。相手が嬰児、成人、老人、男、女、無論貴賎も関わりなく…冷静に病態を見極め、最適な処方を考える。それが医術神官としての責務だからだ。
 だが先日、責務に臨むために風と海の頌歌を詠じた直後であったのに…アンリーから声をかけられた瞬間、調ととのえた筈のすべてが吹き飛んでしまった。
『――――美しい頌歌だ』
 あまりにも突然だったから腰が抜けるほど吃驚したのも確かだが、その瞬間から頭に響くほどの鼓動が、しかも早鐘のように鳴り続けたのだ。呼吸は乱れ、頬が熱くなり、足に力が入らなかった。冷静な判断ができよう筈もなく、薬湯の調製を理由にその場を這々のていで逃げ出した、といってもいいだろう。
 ソランジュの詠唱は音域が広く、体格の割に声量が豊かな為に、褒められることはしばしばあった。それは彼女の裡で殆ど唯一といっていい誇れるものであったから、称賛に対してそつのない対応というものも身につけていたつもりだ。
 だが、あの時だけは…。
 詠唱を褒めて貰った。それだけだ。なのに何故、息が苦しくなるほどに動悸がったのだろう。
 厨房に転がり込むが早いか壁際に座り込んだあと…ソランジュが動けるようになるまでには幾許かの時間を必要とした。ようやくのことで呼吸を整え、薬湯を調製してアンリーの元に運ぶ頃にはなんとか身体はいつものように動いてくれたが、動悸の方はさっぱりおさまらなかった…。
 何が起きているのか判断出来なくて、何を訊けばいいのか判らないまま上司クロエに相談しようとしたのがこの間のことだ。折悪しく不在であったが、慧敏な上司はその夜すぐに訪ねてきてくれた。
 とりとめのないことを言ってしまったと思う。だが上司はそれを丁寧に聞いてくれた。だがその結果…ソランジュがアンリーに特別な感情を抱いて、冷静な判断を欠きそうになっていると判断されたのではないだろうか。
 だが今のところ…問いに対する答えは「わからない」。
 医術神官に必要とされるのは広範な知識と正確な技術、そして冷静な判断力。判断力とは偏向バイアスを排除することも含まれるから、感情を制御することも大切と教えられた。
 制御とは、何も感じるなということではない。ただ感じることによって、行動に悪影響が出ないように調整することだ。むしろ、すべてのものをあるがままに感じよ。人を好きになるのも良い。嫌うこともあろう。しこうして自らの感情を可能な限り客観的に見つめよ。そういった情動を理解できなければ、病者の心の裡を察することなどできはしない。
 そう彼女に教えたのはクロエだった。
 彼女の上司はソランジュなどから見るとそういう意味において完璧に思える。だが、それを口に出すと彼女は『そんなことはない。偉そうなことを言っていても私は結構、感情に流される方だぞ』と笑い、『ラ・ロシェルの件でもおまえたちには随分迷惑をかけたしな』と諧謔雑じりに言ったものだ。

「〝しこうして自らの感情を客観的に見つめよ〟……」

 できるだろうか。私に。
 ソランジュは碧空から視線を地上に転じて神域の丘陵を眺め、エルセーニュの市街、港、そして紺碧の海を見渡した。その深い、深い静謐の碧を見つめて呼吸を整える。
 そうしてソランジュが再び歩き出そうとしたとき、ふと…本殿への丘を軽捷に登っている幼子の姿が目に留まった。
 神域であるエルセーニュ北東の丘陵地帯には、丘の中腹辺りから最東端の大神殿前の広場に至るまで、その神域の中央を舗装された道が走っていた。そこから主な神官府各寮の建物へ、やはり舗装された支道がつけられている。だがその他、丘にできた自然の畝を踏み固めただけの小径は数え切れない程にあった。
 その幼子が歩いている小径も、そういった脇道のひとつであった。
「ヴァン・クロード?」
 名を呼ばれて、幼子はくるりと身を翻してソランジュを認め、嬉しそうに手を振った。小径を引き返して本道に出ると、ソランジュのところまでわざわざ戻って来る。
「こんにちは」
「今日はどこにいくの?」
「さんぽ!」
 幼子の答えは微妙にずれていたが、それもまた微笑ましい。ソランジュは籠を抱えていた手を片方あけて、小さなつむりをそっと撫でた。返礼とばかりに幼児はソランジュの首に抱きついてくる。ソランジュは結局籠を敷石の上に置かねばならなかった。苦笑しつつ、膝をついてその両手で小さな来訪者を包み込む。この愛想のよさにはいつも完敗を喫するのだった。そのくせこっちが気忙きぜわしいときには挨拶だけしてさらりと行ってしまう。引き際を心得ているというのか、察しが良いというのか…ここまでくると一種の才能ではなかろうかと思ってしまう。
「ランジェはおしごと?」
 利発なようでも滑舌は年齢相応である。名前を適当に端折られてもそこは突っ込まない。
「そうよ。本殿まで行くの」
「にもつ、もつよ?」
「ありがとう。でもこの籠は君にはちょっと…ああ」
 薬種の入った籠を除けば、特段に荷物というほどのものがあるわけではない。しかしソランジュは小さな紳士の厚意を汲んで、腰に提げていた道具袋を外して渡した。道具といっても小刀や鋏、匙、箸など手に馴染んだ小さなものしか入っていないので決して重くはないし、道具は一つ一つ帯で袋に固定されているので飛び出す心配もない。乳鉢や薬研やげん1などかさばる重いものは本殿の厨房に置かせて貰っていた。
「これをお願いできる?刃のついてるものもあるから出しちゃ駄目だけど」
 ヴァン・クロードはニッコリ笑ってそれを両手で受け取り、胸に抱いて歩き始めた。
「クロードも本殿?」
「うん、スタンのところ」
 ソランジュは咄嗟に本殿の書司ふみのつかさトリスタンのことだと翻訳していた。
 典薬寮といい、この年齢で書庫だの倉庫だのに入り浸りだ。そういえばあまり他の子供達と遊んでいるところは見たことがない。特段、身体が弱いということもないと聞いているが。
 これだけ人当たりの良い子が何故子供達の中に入っていかないのか少し不思議ではあったが…訊いていいところなのかどうか、ソランジュには判断がつきかねた。だから、ただとりとめのない話をしながら本殿の入り口までこの小さな紳士と同行することにしたのだった。
 本殿の入り口で別れる時、ヴァン・クロードは預かった道具袋をしげしげと見つめてから、小首を傾げてソランジュを見た。
「ランジェ、今度…おしごと、見に行ってもいい?」
「お薬つくるところ?…いいわ、今度寮の調剤部でね?」
 手にした道具に興味が湧いたのだろう。あどけない仕草に思わずソランジュの口元がほころんだが、さすがに幼児を病者のところへ伴うわけにも行かない。しかし典薬寮の調剤部であれば雑作もないことだった。
「ありがと!」
 道具袋をソランジュへ返し、ヴァン・クロードは手を振って自分の目的地へとことこと歩き始めた。
 それを見送ったソランジュもまた、奥殿への回廊へ足を向けた。
 ――――先日、典薬寮頭てんやくりょうのかみクロエから聞いた。曰く、〝審神官シャンタールはアニエス妃と同じ病であろう〟と。
 かつてアニエス妃の最期を看取ったソランジュはその病態を承知していた。…そして彼女もまた、〝そうでなければいい〟という思いを何処かに持っていた。  
 悪い予感は当たる。だが、現実を否定しても何もよいことはない。あるものは受け容れる。そして対応策を講じる。それだけだ――――。
 家宰に声をかけ、薬湯を調製するために厨房へ入った。持ってきた薬種を確認し、湯を沸かす。奥殿勤めの者に前回訪問から今日にかけての状況を書き留めておくように依頼した蝋板を読み、処方を検討、下準備をする。
 それらが調ととのってから…ソランジュは部屋へ足を向けた。
 いつもながら本当にだれかがいるのだろうかというくらい静かな一室。紗幕で覆われた寝所も静謐に包まれている。なるべく音を立てないように歩み寄ると、紗幕の裡…褥の上に緋色が広がっているのが見えた。
 先日も、この瞬間にようやく部屋の主人が姿を消している事に気づいて探し回った挙げ句、崖下の海岸でようやく見つけたという騒ぎがあったばかりだ。
 その姿があることに少しほっとして、ソランジュは紗幕を掲げた。顔色や呼吸を診て、目覚ましい改善はないまでも特段の異状がないことを確かめ…そっと離れようとしたとき、結い上げていた亜麻色の髪がほどけてソランジュの肩を滑り落ちた。
 先程ヴァン・クロードに抱きつかれたときに弛んではいたのだろう。髪留めが紗幕にひっかかりでもしたか。細い音を立てて髪留めが足許の床に落ちた。
 苦笑して落ちた髪留めを拾おうと身を屈めたとき…何かが髪に絡んだような感触があって、ソランジュは思わず動きを止める。
 いつの間にか、アンリーが薄く目を開けていた。痩せた腕を伸べて指先に亜麻色の髪を絡めていたのだ。
「…っ…」
 焦点が曖昧な暗赤色の双眸を思わぬ近さで覗き込む格好になってしまい、ソランジュは思わず呼吸を停めた。
「アンリー…様?」
 ソランジュが呼びかけると、暗赤色の双眸がゆっくりと焦点を結ぶ。
「…ああ、すまない…」
 アンリーは指先をひらいた。亜麻色の髪が滑り落ちる。
「…こんなに淡い色だったかな。いつも上げているから気が付かなかった」  
 柔らかい笑みに、ソランジュはほっと息を吐く。
「髪、ですか? …昔…そう、私が神殿に上がった頃は、貴方様ほどではありませんが、赤かったらしいですよ。私もよく憶えていませんけれど。気が付いたらもう、こんな色になってました。褪せた…っていうか陽に晒した麦藁むぎわらみたいでみっともないんですが、手間がないので伸ばしているんです」
 跳ね上がった鼓動を誤魔化そうと、笑って自身の髪の一房を引っ張ってみせる。あまり収まりが良いとは言えないので結い上げておけばうるさくないというのは本当だが、尊敬する上司の髪型だけでも真似てみたかったというのが伸ばし始めた動機ではあった。さすがに恥ずかしくてそこまで口には出せなかったが。
「褪せた? …そんなことはない。優しい、良い色だと思うよ。…もう一度、触れても?」
「えっ…あ…っ、はいッ」
 ソランジュは声が裏返りそうになるのを寸前で抑えた。
 ふわふわと収まりのよくない白っぽい髪に、痩せて強靱さより繊細さが際立つ指先がゆっくりと絡んでいく様を……ソランジュはなんとも言えない非現実感とともに眺めていた。
「夢を見ていた…と思う。眼を開けたらこの色彩いろが目の前にあったから、すこし驚いたな」
 その呟きに韜晦の微粒子を、そして一抹の寂寥を感じた。かつてこのひとのすぐ傍にあり、いまはきっと失われているその色彩とは…誰の持ち物だったのだろう。
「アンリー、様……」
 覚めてはいるのだろうが、やはりまだその暗赤色の双眸は幾分焦点が曖昧であった。僅かに潤みさえしているようにも見える。髪をまさぐられる感触が心地好くも、また切なくもあり、ソランジュはその場にゆるゆると膝をついた。
 だが不意に、ぱたりと何かが倒れるような音がしてソランジュは我に返る。アンリーにも聞こえたのか、その指先を退いた。
 ソランジュが音のした方…部屋の入り口を振り返ると、先刻本殿入り口で別れた幼児がさして高くもない敷居に躓いて見事に五体投地したところだった。
「ヴァン・クロード!どうして?」
 幼児はすぐに起き上がったが少々鼻もぶつけたらしく、その顔は真っ赤だった。…いや、ぶつけた所為だけでもなかったらしい。
「ランジェ…スタンがいないんだ…」
 今にもこぼれそうな涙を湛えて、ヴァン・クロードは一旦立ち上がったもののその場に座り込んでしまった。駆け寄って怪我がないことを確認し、安心させるためにその両腕で包み込んでから…ソランジュは朧気に状況を察する。行ってみたはいいが書司トリスタンの姿が見えず、仕方なく帰ろうとしたら道に迷ったというところだろう。うろうろしているうちに奥殿に入り込んだに違いない。
「帰り道がわからなくなったのね?」
 ソランジュの腕の中でまっすぐでつやの良い黒髪を勢いよく跳ねさせ、幼児が大きく何度も頷く。見開いた黒檀の双眼に湛えた涙が溢れた。
 状況の確認はとれたものの、困ったことになった。奥殿は大神官一族の私邸である。本来、誰でも彼でも通してもらえるところではなく、ソランジュとて一応本殿から支給された割り符を持って出入りしていた。小さな身体は物陰に紛れやすくはあろうが、一応神官府衛視寮が警備しているものを、どうしてここまで入りこめたのだろう?
 ――――表立ってというわけではないが、衛視寮の警備をザルと嘲笑する上司クロエの正しさを再認識せざるを得ないソランジュだった。
「…〝ヴァン〟…?」
 振り返ると、アンリーが身を起こして牀から立ち上がったところだった。
「あ、いえ…あの…この子は…クロエ様のご子息で、ヴァン・クロードといいます。書司ふみのつかさトリスタン様の養い子でもあって、よく本殿にも出入りしていたのですが……まさか、こんなところまで来てしまうなんて」
 ソランジュの言葉に自分がなにか不味いことを仕出かしたのだ、と察したのか…黒檀の両眼がまた涙で一杯になる。
「ご…ごめんなさい……」
「クロエ師範せんせいの?…そうか、この子か」
 アンリーは微笑をうかべ、手を伸べた。
「ならばこの子は私の客だ。差し支えない」
 思いがけない言葉に幼子が潤んだ眼を見開き、それから不思議そうに小首を傾げた。
「大丈夫だ、ソランジュ。私は客人と話をするから、その間に君の仕事をしてくるといい。……あぁ、医術神官殿を頤使つかって悪いんだが、客人にも何か飲物を調えてもらえると助かる」
 アンリーが言わんとするところを察して、ソランジュは思わず口許を綻ばせる。
「はい、すぐに」

 調製した薬湯と、甘い果物でつくった飲物を携えてソランジュが部屋に戻った時…部屋は清爽な風が吹き込むばかりで無人であった。
 無邪気な笑い声は、中庭から聞こえる。
 ソランジュがテラスに出ると、敷石の先……庭の全面に、雄渾な線が縦横に走っていた。よく見ると、只の線ではない。
 幼児ヴァン・クロードが白木の棍を両手で得意気に振り上げる。
「できた!」
「これ、あなたが…?」
 ソランジュは絶句した。地図だ。シュテス島以南の地図が、庭の白砂の上に荒削りながらしっかりと描かれていたのであった。
 テラスに緑陰を投げかける広葉樹の幹に半ば身を預けるようにして座したアンリーは、穏やかな微笑でそれを眺めていた。
「たいしたものだ…」
 薬草の分布図以外にあまりしげしげと地図を眺めたことのないソランジュにも、それが子供のいたずら描きとは思えないほど整った図であることは瞭然としていた。
「スタンのところで見せてもらった地図。南の海の向こう…島が列なってて、もっと南にそれを辿れば、大きな陸地に続くの。大きく描きすぎて、もうここから先が描けないけど…!」
 線を描くために庭中を走り回ったせいか頬を上気させたヴァン・クロードは、黒檀の双眸を燦めかせて懸命に説明する。
「海は静かだけどちゃんと流れてて、ここからこう…。だから船はいつもこう通ってて…」
 島の間に新たな線を書き加えながらそこまで言いかけて、ようやくソランジュが戻ってきたことに気づき、同時にはっとしたように動きを止めた。
「あ…」
 ひょっとして怒られることだったのだろうか。そんな緊張が幼い眉目に翳を落とす。だが、それを見越したようにアンリーが言った。
「ソランジュ、私が頼んだんだよ。…ありがとう、ヴァン・クロード。立派な地図だ」  
 神官府の中庭を画布にした壮大ないたずら描きを眺めながら、ソランジュはアンリーの傍…ひんやりとする敷石の床に膝をついた。盆を置いて薬湯の椀をアンリーに手渡す。
「はー…吃驚しました。頭のいい子だとは思ってたけど…」
「クロエ師範せんせいの令息は大した逸材だね。あと数年もしたら天文寮が目の色を変えて欲しがるだろう」
「いつも、典薬寮や本殿の書庫で遊んでるようですから…。あまり、同じ年頃の子供と遊んでいるのは見たことがないんです。何故かは、わかりませんけど……」
 先刻も頭を掠めた疑問を、ソランジュはふと口にしていた。
 薬湯を呑み下したアンリーはごく自然に…だがわずかに声を低めて言った。
「あるいは出自にかかわること…かもしれないな」
 ソランジュは思わず息をのんだ。
 過日、典薬寮頭クロエが身籠もったことを卒然と公表したときには、典薬寮のみならず神官府全体に激震が走った。
『典薬寮頭クロエに言い寄るなら、あばらの二、三本は差し出すつもりでゆけ』という警句がまかりとおるほど、クロエの美貌と卓越した武術、そして男嫌いは、神官府内どころかエルセーニュ市中ですら知らぬ者はなかったからだ。
『男は嫌いだ。身勝手で、自身の欲ばかり押しつけて…相手の事情は構いなしだからな』
 何処まで本気なのか判らないが、色恋沙汰に話が及ぶとクロエははいつもそう嗤って躱していた。
 実際に肋を折られた男がいたかどうか、ソランジュは知らない。だが衛視寮に稽古を請われるほどの技術と胆力が相俟って、『鋼のクロエクロエ・レ・アスィエ』の異名ふたつなは実のところ開戦前から存在した。カザルの一件が変に有名になってしまい、そのを姓と勘違いされるようにすらなったというだけなのだ。
 その彼女クロエ・レ・アスィエが懐妊という事態に、当然その子供の出自を巡って憶測が飛び交った。

 ――――常世国ニライカナイからのまれびと

 子供ヴァン・クロードの父親について、クロエは誰に対してもそれ以上の説明を一切しなかったし、ソランジュもそれを詮索するような理由を持たなかった。おそらく書司トリスタンやクロエの伯母であるエレオノラも聞かされていないのではないかと思う。
 少なくとも神官府、おそらくはシェノレスの者でもないというのが大方の予想であった。してみれば、常世国からのまれびとであったとしても然程に不思議ではなかろう。
 況して、黒髪黒眼という母親の持物アトリビュートを忠実に継いだヴァン・クロードの…いっそひとたらしとでもいうべき愛想の良さと、時々はっとさせられるほどの才の燦めきをみるにつけ、ソランジュは仮にこの子の血の半ばが異界の者であっても驚くには値しないのではないかという気さえするのだった。
 だが、父親の判らない子供に対する風当たりはいつの世もあまり温かいものではない。それを生んだ女についても同様であった。
 典薬寮頭クロエといえば反主流派とはいえ既に神官府内では重鎮であり、醜聞を理由に処断されることはなかったし、子供が生まれた後は物の分かった伯母夫婦が多忙な母親クロエを支援した。だが、これが名もなく、身寄りもない一介の女神官であれば神官職を辞することさえ考えねばならぬ。そうでなくてもとかく噂の種になる事は避けられない。
 大人の間の噂といえど、子供にも影響する。ヴァン・クロードがいつもひとりなのは、そうした事情もあるのではないか…アンリーの指摘はそういうことだった。
 少し考えれば判ることなのだが、ソランジュはその可能性に敢えて目を瞑ってきたともいえる。仮にヴァン・クロードが子供達の遊びの輪から閉め出されて仕方なく独り遊びばかりしているとしても、当人は至って素直で聡明に育っていたからだ。今のところ年長者と話しているところしか見たことがないが、あの愛想の良さなら、老若男女均しく誑し込めそうな気がする。同年代の子供については多分、今はまだ…機会に恵まれていないだけなのではないだろうか。

 ただ、クロエの方はどうなのだろう。
 もとよりその辺りに頓着するふうは全くないのだが、仮にそういった言痛こちたさを甘受してでも生む決心をしたのだとしたら…彼女がそれだけ「常世国からのまれびと」を愛していたからなのだろうか?

 今まで、聞いてみたことはなかった。ソランジュにしてみれば、全く興味の外にあることだったから。クロエがヴァン・クロードの父親を「常世国からのまれびと」だと言うなら、それが真実。何も揺るがないし、ソランジュにはそこから詮索すべき何事も存在しなかった。何処の、どんな男で、どんなふうに出会ったのか。
 …そして、愛していたのかさえ。

『…愛して…いるのか。審神官シャンタールを』
 あの時のクロエの問いは…いっそ傷ましささえ纏ってはいなかったか。人を愛するということが、幼い日の憧憬とは違って痛みや苦しみさえ伴うものと知っているからこそ…斯くも傷ましさを滲ませていたのだろうか?

 招きに応じて共に木陰に座し、絞りたての果汁で色と甘みと香りをつけた冷水の碗を受け取って嬉しそうに飲むヴァン・クロード。その様子を穏やかな微笑とともに見守るアンリーの姿に、ソランジュは不意に胸が締め付けられるような気がした。
 誰かを愛することが、仮に痛みや苦しみを伴うものだったとしても…今、この平穏な光景の中に自分がいられる。そのことが嬉しい。

「…ランジェ…?」
 その声にはっとすると、両手に碗を捧げ持ったままソランジュの前まで膝行いざり寄ったヴァン・クロードが、すこし気遣わしげに見上げていた。
「ランジェ、泣いてるの…?…」
「…えっ…」
 驚いて身動ぎした時、それが零れ落ちたことで初めて自分の両眼に溜まっていた涙に気づく。
「ああ、お庭の砂が白いから、照り返しがちょっと眩しくなっちゃっただけ…。ありがとう、ヴァン・クロード。心配してくれたのね」
 ソランジュはあたふたと涙を拭ってから少し怪訝そうにしている幼子の頭を撫でて、空になった碗を受け取った。
「ごちそうさま!」
 撫でてもらったことで訝しさも払拭してしまったのか、幼子はにっこり笑って端正に一礼してから…再び棍を手に地図の続きを描きに戻る。
 それを穏やかな微笑とともに見送ったアンリーは、一度目を伏せて言った。
「寮頭から聞いたね?…私の、病のこと」
「…はい。おそらく、アニエス様と同じ病であろうと」
 ソランジュは、声を揺らさないようにするために少なからず努力を要した。上司はこのことを本人にも告げたと言った。ならば、隠し立てはしない。それでも、自身の顔から血の気が引いたのだけは自覚していた。それを見てか、アンリーはただあえかに苦笑を浮かべる。
「大丈夫だよ。この間レオンにもこっぴどく叱られた。
 私はまだ、諦めていない。私は誓約を果たしていないのだから。…まだ、死なないよ」
「レオン…いえ、陛下に…?」
 先日、アンリーが寝所を抜け出したときのことだ。
 ソランジュは海辺で砂と塩粒にまみれて座り込んでいるアンリーを見つけたが、辛うじて意識はあるもの会話さえ成り立たず、ソランジュは途方にくれた。そこへ、いまや国王となったレオンが例によって仮の王城から抜け出してきたのと行き合ったのだ。レオンは端からアンリーの見舞いに行くつもりであったから、ソランジュがアンリーを神官府へ連れ帰るための人手を探しに行った間、アンリーについていてくれたのだった。
 おそらく、その間のことだったのだろう。
「昔……ずっと昔、常世国ニライカナイの向こうへ…新しい航路を拓こうと、約束したんだ。そのためにツァーリの軛を除く。すべてはそのためだったんだ。  
 …危うく見失うところだったよ…」  
 庭いっぱいに描かれた地図。それはまだ、ソランジュでも判る領域に留まっていた。新たに島を書き加えていく幼子の脳裏には、きっともっと沢山の島々がきざまれているのだろう。広がってゆく地図を、暗赤色の双眸がいっそ陶然と眺め遣るのを…ソランジュは細くはあるが確実なあたたかさをもたらす火が胸中に点るのを感じながら見ていた。

 ――不意に、小さな悲鳴が聞こえて思わず手にしていた盆を取り落としそうになる。
 中庭を直接の海風から防いでいる低木。その狭間から若い男が唐突に姿を現し、片手でヴァン・クロードの襟首を掴んでいた。もう片方の手には抜き身の剣がある。頭の中が真っ白になってしまったソランジュは、ただそこに立ち尽くした。アンリーがふらりと立ち上がる。
「……シエル…?」
 アンリーはどうやらこの人物を識っているようだった。シエルと呼ばれたその男は、アンリーの動きを牽制するように幼児を掴んだ襟首で引き寄せ、その首元に剣を擬する。
「動かれるな…!」
 ソランジュの背筋は凍り付き、膝ががくがくと震えた。音階のはずれた叫びを発しそうになって、ソランジュは危うく自分の口を両手で押さえる。今自分が声を上げてしまうことが、この闖入者を刺激しかねないと思ったのだ。
 悲鳴は紛れもなくヴァン・クロードのものだったのだろうが、当人はすでに声を出すこともできなくなってただ涙目で震えている。
「何事か、シエル。私は逃げも隠れもしない。先ずその子を放すことだ」
 アンリーもそうであったのだろうが、若い男の血走った両眼や異常な瀕呼吸にソランジュは危険を感じていた。とてもまともな判断ができる状態ではない。そんな震える手で幼児の柔らかい皮膚に刃物なんか当てないで、と叫びたかったが、ソランジュにはどうすることも出来なかった。
「…答えてください、統領ゼフィール…あなたがマティスを殺したのか、本当に…!」
 ソランジュの中ではその言葉の意味が巧く繋がらなかった。だが、アンリーを審神官シャンタールでなく統領ゼフィールと呼んだことで、この男がネレイアの一員であったことだけは理解した。
 アンリーは武器を持たないことを示すように、両手を広げてゆっくりと前へ進み出る。
「答えてくださらなければ…このわっぱの喉を掻き切る!」
 男の声は裏返り、剣を持つ手の震えは一層激しくなる。今にもその切っ先が柔らかな肩口を掠めてしまいそうで、ソランジュは自分の喉奥が奇妙な音を立てるのを聞いた。
「私は逃げない。問にも答える。…だからやいば退き、その子を放せ。
 お前の為に言っているのだ。お前は今、誰に刃を突きつけていると思う」
 やめて、やめて! 叫びだしたい衝動をやっとのことで抑え込む。こんな状態の人間にまともな説得がきくわけがない。
 身体が動かない、何も出来ない……!ソランジュは口を押さえたまま、自身の指を強く噛んだ。鋭い痛みが凍り付いていた身体に感覚を取り戻し、ゆっくりと手を下ろす。何か、ヴァン・クロードを放させる手段てだてはないか…?
 だが、ソランジュが自分の腰に吊っている道具袋に気が付いて手を伸ばそうとした瞬間に、全く予期できなかったところで動きは生じた。
 鋭い風切り音とともに飛来した何かが、男の眉間をあやまたず痛打したのだ。
 男が声もなくもんどり打つ。ヴァン・クロードはその瞬間に身を捩って遁れ、転がるようにして離れた。男が持っていた剣は宙を舞い、切っ先を下に落下する直前に別の手によって捕捉された。
 剣は庭へ仰向けに倒れた男の首から一横指ほどのところへ深々と突き立てられる。
「……さて、どうしようか」
 仰向けに倒れた男の胸板を片膝で押さえ、片脚で剣を持っていた手首を踏みつける。片手は突き立てた剣の柄頭において更に押し込む構えだ。そうして紅唇に凄絶な微笑をうかべたのは、典薬寮頭クロエであった。
 男が一撃くらって怯んだ一瞬を捉え、神速でソランジュの脇をすり抜けたのは知っていたが…そうでなければ忽然と中空から現れたようにさえ見えたであろう。
 再びの風切り音とともに落ちてきた棒を、もう片方の手で受け止める。それは薬種を磨り潰すための擂粉木すりこぎであった。立ち尽くすソランジュのほうへ無造作に抛り投げる。
「借りたぞ、ソランジュ。ヴァン・クロードを頼む」
「あ、はいっ」
 ソランジュは咄嗟に受け止めた擂粉木を小脇に抱え、半ば走り半ば転がりながら脱出を果たした幼子を抱き寄せる。ヴァン・クロードは咄嗟に声も出ないようで、ソランジュに唯々ただただしがみついた。
 男は片手を踏まれている他は拘束された訳ではないが、胸板を踏み破らんばかりの勢いで抑え付けられ、頸のすぐ横には剣が突き立っている。柄頭を僅かでも傾ければ、刃は容易に頸動脈を切り裂ける位置にあった。
鋼のクロエクロエ・レ・アスィエ…! 何故ここに…」
 柄頭に手を掛けたまま、クロエは冷然と言い放った。
「何故と訊くか。場所が何処であれ…療養の場であるからには、そこは典薬寮の管轄。その内での乱暴狼藉は寮頭の裁量にてこれを処罰するのは神官府内規の定めるところだ。
 これだけのことをやってくれたからには、御辺には相応の覚悟があると思っていいのだろうな?」
 鋼のクロエクロエ・レ・アスィエ、あるいは氷のクロエクロエ・レ・グラース。そんな厳めしい異名がもたらす恐怖もあったかもしれぬ。だが、今現実に胸骨の上で男の動きを封じている膝頭の重みときたら、痩身の女神官の体重とは明らかに釣り合わなかったのだろう。シエルと呼ばれた男が汗を垂らしながら息を詰めたのがソランジュの位置からでもわかった。
 ソランジュは幼子の身体についた砂を払い、怪我がないことを確認して思わず吐息した。
「よかった…。何処も、痛いところはない?」
 まだ声が出ないものの、ようやく細く啜り泣きはじめたヴァン・クロードが涙目のまま大きく頷いた。
 その傍に、アンリーが膝をつく。幼子の頭を優しく撫でて言った。
「巻き込んでしまって済まない。よく…泣かずに堪えたな」
 そして立ち上がり、侵入者とそれを取り抑えるクロエの方へ歩み寄る。深々と一礼して言った。
「申し訳ありません、寮頭りょうのかみ。私の不始末です。ご子息を無用の危険に晒したこと、心よりお詫び申し上げます。
 ……どうか、後のことは私に」
 アンリーの丁寧な申し出に、クロエは油断なく男の挙動を監視しながらゆっくりと身を起こした。
「御身の寝所でもある、それは別に構わんが…っ…!」
 そう言いかけて視線を落としたクロエの目許が、不意に険しくなる。
「ソランジュ! ヴァン・クロードも…怪我はしていないな?」
「はい、大丈夫です」
 正確に言えばソランジュは先程身体の自由を取り戻すために噛んだ指から僅かに出血していたが、これは言い立てることでもない。ソランジュは即座に答えた。クロエの目許は険しさを通り越して氷を纏う。
「…誰の血だ、これは」
 庭に突き立てられた剣には、僅かだが血痕があった。シエルは先程クロエが放った一撃で眉間から血を流してはいたが、それとて剣につくわけはない。
「…たった今だ。誰を斬った!?」
 シエルが心身双方の圧迫感に耐えながら、口を引き結んで横を向く。そうして視界に入った白刃の鈍い光からも目を逸らすように瞑目した。
「そもそも御辺、どうやってここまで侵入した。幾ら衛視寮の警護がザルでも、御辺のようなあからさまに怪しい者を通すとは思えんが」
 クロエ様、思ってもそれはここで言っちゃ駄目です…さすがに衛視寮の神官が物音を聞きつけて集まってくるのが聞こえていたので、ソランジュは冷や汗を感じた。

 ――――クロエは取り抑えたシエルの身柄を、駆けつけた衛視寮神官に引き渡した。身動きできない程の負傷はしていない筈だが、既に抵抗の意思はないらしく、大人しく連行されていった。

 それを見送り、クロエが改めて剣についた血痕を観察する。
「…おそらく大神殿裏の崖でしょう…」
 アンリーであった。ただでさえ蒼白な顔色が、さらに血の気を喪っているように見えた。
「…大神殿裏…〝風の通い路〟か」
「ご存知でしたか」
「大神殿にネレイアが使う出入り口がある…と聞いたことはあるし、存在するはず、とは思っていた。
 …さては、やはり御身が度々煙の如く消えるタネはそこか…」
「ご賢察のとおりです」
 アンリーがやや青ざめたまま苦笑する。
「ソランジュ、ヴァン・クロードと此処で待て。私が降りてみる。誰か判らんが、失血で動けなくなっている可能性もある」
「は、はい」
「私も降ります。慣れた道ですので、私なら目を瞑ってでも」
「判った、アンリー。御身に案内を頼もう」
 クロエとアンリーが木立の向こうへ消えるのを見送って、ソランジュは吐息した。だが、幼子が再びしゃくり上げるのを聞いて、改めてその傍に膝をつく。
「どうしたの?」
 赤くなった目のまま、か細い声でヴァン・クロードが問うた。
「…誰か怪我した?…スタンじゃないよね?」
 遊びに行けばいつも迎えてくれる書司トリスタンが、予告なく姿を消した。その不安が幼児の中で変事へと直結しただけのことだろう。だがこの聡明な幼児の直感と思えば…ソランジュの胸中に、言い知れぬ不安が水の中に落とした墨のようにじんわりと広がるのだった。

  1. 薬研…生薬を粉末化するための道具。