海風の頌歌 Ⅳ

「…申し訳ありません、クロエ師範せんせい。私などに関わったばかりに、大変な目にあわせてしまいました」
 細い径を先に降りながら、ぽつりとアンリーが言った。
 径というのも憚られる程、その道程は細く急峻で、足を置くところ、手をかけるところひとつ間違えても崖下へ転落する可能性をはらんでいる。アンリーに案内に立ってもらったのは正解だった。山歩きに慣れたクロエでさえ、初見では道があるとは判らないほどだったのだ。
 そして、大神殿自体はエルセーニュ市街からよく見えるにもかかわらず、せり出した岩角や強風吹き付ける岸壁に根を下ろす草木は、この小径を往来する者を巧妙に人目から隠していた。細作組織であるネレイアがその主人あるじたる大神官の下へ人知れず赴き、報告を上げたり下知を受けたりするために通った径であれば、もあろう。
「ヴァン・クロードのことか。御身が気に掛けることではない。大体、あれが勝手に入り込んだのだろう」
「…聡明な御子です。そして…私を不思議と恐れない。彼女ソランジュもそうですが…」
「恐れる?…何故?」
 一瞬何のことか判らなくて、クロエは訊き返した。
「ご存知でしょうに」
 アンリーは足を止め、一度振り返った。濃い翳りを伴った苦笑がそこにあった。
「先程シエルが私に詰め寄った理由ですよ。あの分では、本当は私を殺しに来たのかもしれませんね。いろいろ予定が狂って、刃を向ける相手を間違ったようですが」
「アンリー、お前は…」
「良いのですよ、本当のことだから」
 そう言って再び前を向き、径を降り始める。
「…目的のために沢山のものを犠牲にした。私がやったことです。恐れ忌まれるのは仕方ない」
 現在のツァーリ宰相…当時まだ無位無官の若者であったリオライ=ヴォリスは、シェノレス・シルメナ・リーンの三国同盟を開戦のころから察知し、探りを入れてきていたという。それに気づいた神官府はリオライ=ヴォリスの暗殺をネレイアに命じ、アンリーが遂行したのだった。
 実際には生存していたのだが、結果としてシェノレスが爪牙をツァーリの喉元近くへ突き立てるまで、リオライ=ヴォリスの動きを封じることには成功した。
 だが、そのリオライ=ヴォリス暗殺に際して…ツァーリに残されたアニエスの遺児に側近として仕えていた若者が巻き添えになったといわれている。戦の間は当然ナステューカとの音信も途絶えていたから、それが知れたのは割合最近になってからだった。

 アニエスの遺児・アリエルに仕えていた筈のマティアス=デュナンというその青年が、どういう経緯でアリエルの下を離れ北の山脈ギルセンティアでリオライ=ヴォリス暗殺に巻き込まれることになったのかはクロエも知らぬ。所詮は風聞の域を出ない話で、クロエにとってはあまり深く調べるほどの理由もなかった。あそこまで思い詰める輩がいるということは、相応に信憑性のある話として伝わっているのだろう。だが仮に真実だとして、アンリーが責を負わねばならぬ話ではないはずだった。
 負わねばならぬ者がいるとすれば、大神官リュドヴィックそのひとであるに違いない。
 だが、まだ年若い審神官がいっそ穏やかでさえある微笑とともに零す静かな独白は、陳腐な正論を口に乗せることさえ憚らせるものだった。
「だからすべて私が引き受ける。そして私が海に還れば、諸々の憎しみや哀しみを南海の彼方へ流すことができるでしょう。それでいい。…それでいいと、思っていたのですよ。マルフへ赴くことも叶わない身となった時から、ずっと…」
「…アンリー…」
 クロエは掌の痛みに、岩角にかけた指先に思わず力を込めてしまったことに気づいた。
 何ということだろう。マルフへの随行が叶わなくなった時点で、彼の心は一度折れたのだ。戦うことのできなくなった身を、御祓みそぎの形代とするしかないと決め込んでいた。
「それなのに…あさましいものですね。疲れた、もう眠りたいと思う反面…ふと、南の海…海流の向こうが見てみたくなったのですよ。ツァーリの軛を除いたら行ってみたい、見てみたいと思った景色を。
 悟ったようなことを言って、やはり思っていたんですね。…もう少し、生きていたいと。生きて、夢を見てみたいと。
 先日、レオンに叱られたのもありますが…今日、あの子が庭一杯に描いてくれた地図を見て…それがはっきり判ったんです。あなたの御子と、あなたの愛弟子のお陰ですよ」
 海辺の砂地に咲く淡色の小さな花のような…か細いが確かな生命力を感じさせる微笑に、クロエは内心で吐息した。
 ――――よくやった、ソランジュ。
「…あさましくなどない。生きたいと願うことに、愧じる必要などないよ」
「ありがとう…ございます」
「ソランジュが聞けば喜ぶだろう。御身が憶えているかどうかは知らんが、ソランジュは御身のことをずっと気に掛けていた。それこそ、御身が奉献される前からな。御身が生きることの意味を見失っているのではないかと…ずっと案じていた」
「知っています…思い出させてくれたのは、彼女ですよ。ほんの数年前のことなのに、ひどく遠い…大切な約束を思い出させてくれた。感謝しています」
 足を止めて…アンリーがしげしげと自身の掌を見つめる。かつてそこに在ったものを追う眼であった。ややあって、その手を握りしめてまた歩みを進める。
「自明の筈なのに、時に誰かに教えてもらわなければならないことが…誰しも、あるのですね。かつてあなたにそれをもたらしたのは、常世国からの客人まろうどですか?…」
 歩調を微塵も緩めぬままに不意に思いも寄らないところに話を振られて、さすがにクロエは一瞬言葉に詰まった。
「…そうかも、しれんな…」
あの島ラ・ロシェルから帰ってきて、あなたはすこし変わったと聞いた。…覚悟を決めたふうだったと」
「覚悟、か……」
「あなたは神官府の…大神官リュドヴィックの方針に反対だった。だが結局、対ツァーリの戦線を支える兵站構築に尽力し、自らカザルに赴いて傷病者の治療にもあたってくれた」
「兵站が疎かになれば、塗炭の苦しみを味わうのは大神官ではなく、前線の兵だ。その中にはルイもいる。別段、大神官のやり方をうべなったつもりはない。
 …私は私のやりたいようにやっただけだ」
「そう…なんでしょうね。それでこそ…クロエ師範せんせいだ」
「何だ、それは」
 すべてを見透したような微笑に、少しだけ居心地悪さを感じて眼を逸らす。だがその所為で、アンリーが足を止めたのに気づくのが遅れて一瞬均衡を崩しそうになった。
「どうした?」
「…情けなくも、この身体は通い慣れた小径を降りるのでさえ息があがる有様で…遠出ができそうもないのですよ。師範せんせいに、折り入ってお願いがあるのです。おつかいだてして申し訳ないのですが…」
「…聞こう」
「ありがとうございます、実は…」
 アンリーが言葉を切る。その時、海側から吹き上げてきた一陣の風が血の臭いを孕んでいたのは、クロエも気付いた。
「…すみません、また後刻」
「そうだな」
 アンリーが足を速める。息が上がっているといいながら、クロエでさえ追従するのは少なからぬ努力を要する歩調ペースであった。
 程なく、岩盤にぽっかりと開いたあなの中にアンリーの姿が吸い込まれる。クロエはそれに続いた。
 岩坑いわあなの中は、別の裂け目から差し込む光でぼんやりした明るさを持ってはいたが、それとて白昼の如くというわけにはいかない。だが、明らかな血臭がそこで何が起こったのかを明確に教えている。
 薄暗い坑の中は、岩室であった。おそらく海と繋がっているのだろう、半ばは海水に覆われ、後の半分は岩場である。天井近くから差し込む淡い光の下、誰かがその岩場で蹲っているのが見えた。


シュエット…どうして!」
 アンリーが岩角を飛び移りながら駆け寄る。シュエットと呼ばれたその人物は、岩の上から動けないようだった。見れば、その片脚が斬り飛ばされて波間に浮いている。
「いや、私は大丈夫だよ」
 岩場で蹲ったまま顔を上げたのは、さきの審神官シャンタール、書司トリスタンであった。波間に浮いていると見えた片脚は、彼の義足であった。
ベルトを斬られて義足が飛んでしまったから、動けないだけさ。おや、クロエまで?
 だが、助かった。私よりミランを診てやってくれ。そこの岩陰だ。返事がないんだが、大丈夫かな」
 詮索はあとだ。クロエは頷いて指示された岩陰を覗いた。服の胸元を朱に染めた若者が半身を海水に浸かったまま伏せていたから、ともかくもその傷を診る。傷そのものは広いが、浅手だ。
呼吸いきはある。倒れた時に頭を打ちでもしたんだろう。傷は浅い。だが動かすには固定が要るな。何でもいい、布のようなものはないか」
 アンリーが即座に自身の片袖を裂いて差し出したから、クロエはそれを使ってミランと呼ばれた若者の傷を固定した。その間にミランは意識を取り戻し、傷の痛みに呻きながら声を絞り出した。
「シュエット、ご無事ですか…!」
「気づいたか。わたしは大丈夫だよ。…よかった」
 トリスタンが大きく息を吐く。
「怪我で済んだならよかった。お前を殺してしまったら、シエルは後戻りが出来なくなるところだった…」
「シエルが…?」
 アンリーが眉を曇らせる。
「二人がかりでも止めきれなかった。すまんな、アンリー。尤もわたしなんぞ、一人前には数えられんから一人半がかりと言うべきだが」
 トリスタンが乾いた笑いを零す。
「皆、わかってはいるんだ。デュナンの息子のことはな。ああするより他なかったことぐらい。シエルにはその割り切りができなかった。それだけだ。
 まあ、私があれを育て損ねた結果だな。そういう意味では、今回のことは私の責任だ」
「シュエット…」
 アンリーはトリスタンの義足を波間から拾い上げたが、帯が両断されていたために装着することが出来ない状態だった。それを見せられたトリスタンが深く吐息して頭を振る。
「やれやれ、迎えを頼むしかなさそうだな。さて…あれシエルはまだ、生きてるかね?」
「それはどういう意味ですか、トリスタン」
「どのみち、クロエを怒らせるようなことを仕出かしたんだろう?瞬殺されたと言っても私は驚かんよ」
「人聞きの悪い。取り抑えてちゃんと衛視寮に引き渡しましたよ。あの男が血糊のついた剣など提げているから、怪我人がいると思って降りてきただけです。無手の子供を盾にとるような下種、何をやらかしていても不思議はない」
「…まさかと思うが、ヴァン・クロードを?」
 クロエは頷いた。鷹揚な書司がさすがに青ざめる。
「やれやれ、アンリーに刃を向けるだけでも命がいくつあっても足りんというのに…よりによってか。シエルめ、よくも命があったものだ。すこしばかり一本気なところはあるが、それなりにものを考えている奴だと思っていたんだがなぁ」
 トリスタンがやや大仰に喉を撫でてみせるものだから、思わずクロエの声が尖る。
「だから、あなたまで人を刃物のように言わないでください。私が祖父から学んだのは殺さずに制圧する術であって、人を殺す術ではない。ご存知でしょうに!」
 最終的にヴァン・クロードは無傷だったのだから、クロエとしてはこの上どうこうするつもりはなかった。あの瞬間、頭に血が昇ったのは確かだが。
「いや、わたしが悪かった。ジェラルド師に怒られるな」
 あっさりと謝られて、クロエは自身がまだ昂っているのにようやく気づいた。息を整え、改めてトリスタンの傍らに身を屈める。装着していた義肢を斬り飛ばされたということは、平気な顔をしていても何らかの傷を負っている可能性が高い。案の定、トリスタンの神官衣は切り裂かれ赤く滲んでいた。今度はクロエが片袖を裂き、義足の帯を斬られた際についたであろう浅い傷を縛る。
「そうですよ、トリスタン。あなたの所為です。あなたが書庫にいないものだから、ヴァン・クロードが本殿をうろうろする羽目になったではないですか」
 すこし冗談めかして、クロエは最後の結び目をわざとややきつめに引く。
「いたた…もうすこし柔らかくできんもんかね。…そうさな、約束をすっぽかしてしまったんだ。あの子には可哀想な事をした。あとでよく謝っておこう」
 前審神官とはいえ、普段は歩くにも杖の要る身だ。それでも現職者アンリーが実務に就ける状況ではないために現在はネレイア統轄の任にも当たっており、今日も身内ネレイアの暴走を止めるために不自由な足でこんなところまで出向いてきたのだろう。軽口を叩いてはいてもその悔恨はいかばかりであろうか。
「…あなたは、あの男が凶行に及ぶ可能性を察していたのですね?」
「面目次第もないが、察しのとおりだ。このミランからシエルが激発しそうだという相談を受けてな。何とか間に合って、此処でいったん引き留めたんだが…」
「あなたとミランを斬り倒して…ここを上がっていった、と…」
 アンリーが沈痛な面持ちで呟くように言った。トリスタンが頷きでもってうべなう。結果として止めきれなかった慚愧を滲ませながら、深く吐息した。
「私とミランだけでおさまっていればよかったんだが…事が衛視寮に伝わったとなると、まぁ…シエルの処分はやむを得んか」
「処分…」
「私やミランの件はともかくとして…本殿、大神官家の邸内へ無断で侵入しての刃傷沙汰となると…な。咎めなしというわけにはいかんだろう」
 トリスタンの言うことは尤もだった。
「さて、こうしていても仕方ない。アンリーは本殿へ戻りなさい。クロエ、済まんが岩伝いに海側へ出て、外に繋いである舟を廻してもらえないか。わたし一人なら泳ぐという手段もあるが、今のミランには少々酷だろう」
「いえ、私は大丈夫です…!」
 ミランと呼ばれた若者が動きかけて呻きと共に身を折る。
さきの審神官シャンタールの指示に従え。舟を廻すくらい何ということもない」
 クロエは立ち上がってそれを制した。
「では、私は本殿に戻ります。…ご厄介をおかけして申し訳ありません、シュエット…」
 幾分憔悴した表情で、アンリーはそう言って前審神官に一礼した。先程の明るんだ表情は失せ、血の気の乏しさが際立つ。
 踵を返したアンリーの背に、前審神官は穏やかに声をかけた。
「…おまえはすこしぐらい休んで良いのだよ、アンリー。お前は務めを果たした。誰にでも、休息は必要だ。わたしも片足を失って暫く休息をさせてもらった。今、お前が休む間くらいはわたしが働くさ。戦も終わった昨今、そうそう今回のような荒事になるわけではないからね。そこはお互い様、というやつさ。
 …あまり気に病むものではない。治るものも治らないよ」
「はい、ありがとうございます…」
 入ってきた岩穴は一見して天井にぽっかりと空いているようだが、よく見ればそこに至る壁面に足場が刻まれていた。なるほど、此処が出入り口になっていた訳だ。アンリーの表情には疲労があったが、さほどに危なげなくその足場を伝って岩室を出て行く。それを見送って、クロエは前審神官トリスタンに向き直った。
シュエット……それがあなたのネレイアとしての名というわけですか」
 頭を掻きながら、トリスタンはあっけらかんとした微笑をうかべた。
「ネレイアのすべてが名を変えているわけではないがね。私の場合、使い分けが必要な時期が長くてな。便宜上、というわけだ。そうそう、この名はエレオノラにも内緒にしておいてくれよ。名を変えたり別の名を持つのは、万が一の時に家族に累を及ぼさないためでもあるから」
「…判っているつもりです」
 クロエは前審神官に一礼して、岩伝いに水路を進み…海辺に出た。
 おそらく大神殿の裏…真下にある断崖なのだろうが、張り出した岩壁のためにエルセーニュ側からは見えない位置にあった。切り立った崖に囲まれた岩場に一艘の小舟がもやわれている。繋船柱は岩場に根を張る低木に偽装されていた。
 係留索を引き寄せて乗り移る。棹を操り、狭隘な水路を戻った。舟は入らないことはないが、天候によっては舟が破損する危険がある。そのため、普段は岩室の中へは漕ぎ入れていないのだろう。
 ――――ネレイア、波の下の者。海神宮に仕える者とも。大神官に仕える、その実態を公にされることのない細作集団で、多くは神官出身者。だがいわゆる神官…生活に密着した技術者集団、という言わば地味な枠にはまりづらい外れ者が吹き溜まる場所…という認識もまた、神官府内には存在していた。
 クロエはかつて、その実例を見ている。
 ジュスト=ブランシュ。大神官家の傍系であり、天文寮頭から次代を嘱望されながら見果てぬ夢に身を投じてクロエの前からも姿を消した男――。
 公的には死をを装い、おそらくその後は本格的に南海航路の確立に尽力していたに違いない。
 尤も、そういう人物ばかりではない。上手に表裏を使い分けている者も少なからずいるのだろう。トリスタンのように。
「さすがだね、クロエ。ここいらは波が荒いから結構難しいんだが」
 舟を操り岩室に辿り着いたクロエを、前審神官トリスタンはそうねぎらった。
「――――以前、訊かれたな。ヴァンの名を持つネレイアがいたかと。まあいろいろ厄介をかけてしまったことだし、ここだけの話として聞いておいてくれ」
 その名を聞いて、ミランという若者が少しだけ表情を硬くした。しかもそれを、全力で押し込めるかのような苦しさを目許に残して、唇を引き結ぶ。
ヴァン、の名を持つネレイアは…以前、確かにいた。それも、アンリーのすぐ傍にね。それ以前は別の名で呼ばれていたが、そいつにヴァンの名を与えたのもアンリーだった。前に、話に出たな…。“アンリーを此岸こちらに引き留めてくれる誰か”、というなら…そうなり得たかも知れん。
 だが、もう何処にも居ない。これ以上のことはわたしには言えんよ。これで勘弁してもらえないかね?」
 前審神官のひどく言い難げな様子に…クロエは吐息した。
「お気になさらず…今はいない者なら、詮索したところで仕方ない。それに多分…彼はもう、捜しものをみつけたようですから。
 彼には命数は命数として受け容れる勁さがある。それでも、もう少し生きていたい…と…そう思えるものを、彼はもう見つけている。
 少なくとも…私は、そう思います」
 クロエの言葉に、トリスタンは心から安堵したように言った。
「そうか…それならよかった」