海風の頌歌 Ⅴ

 程なく、停戦調印のため国王レオンがエルセーニュを離れた。典薬寮頭クロエは国王レオンの護衛兼負傷者の後送準備、停戦後の態勢を維持するための物資把握のために同道している。例によって寮頭としての務めは補佐官に分担され、ソランジュとしては決して一人で負う訳ではないにしても更に多忙を極めることになった。
 そんな中で、ヴァン・クロードは審神官の客としても本殿に出入りするようになった。
 本殿警備にあたる衛視寮の神官からすると、書司ふみのつかさのところで面倒を見ていた子供が審神官のところへも出入りするようになったというだけのことであったが、この律儀な幼児は立哨する神官に出会う度、畏まって深甚な礼を施してまわるので…神官達もすっかり絆されて彼の姿をみると気軽に声をかけるようになっていった。既に割り符が意味を成していないのだが、それについては既に誰も指摘しようとしなかった。
「…なんというか…人あしらいの巧い子だね」
 その日ソランジュがいつものようにアンリーの様子を見に行くと、例によってヴァン・クロードが既に来ていて手習いの最中であった。
 今まで海図は読んでも文字が読めるわけではなかったのだが、海図上の文字を訊かれるままに答えているうち、なんとなく読み書きを教えることになってしまったのだとアンリーは笑った。
「はい、私もそう思います」
 ソランジュは真正直な感想を述べた。
「思い出すよ。レオンがシェノレスに来たばかりの頃、やっぱりこんなこんなふうにして読み書きを教えた。当時は私だって子供だったんだが…」
 そう言って目を細める様子が、一時に比べると随分と生気を伴ってきた気がする。
 ソランジュが専任の医術神官として関わり始めた頃は、ただ穏やかで…ともすると風の中に溶けていきそうな気さえした。要は、存在感に乏しかったのだ。部屋に入ってみてもその姿を視認するまで、本当にそこにいるのかが判らない。すぐ傍にいても息遣いさえよく注意しないと感じ取れない。脈をとるために触れる手も不安になるほど体温が低かった。
 最近は…体温は相変わらず低いものの、不安を呼び起こすほどではなくなった。無邪気な訪問者の所為か、その部屋が主人あるじの所在を疑う程の静けさに満ちている事も少なくなった。
 食事は相変わらず細く、時々喀血もしている。病状としては決して楽観のできる状態ではなかったが、その双眼の奥に光が戻ってきた。
 先日の一件はソランジュにとっても衝撃であった。だが、なによりまたアンリーが心の均衡を失うのではないか、坂道を転がるように病状が悪化するのではないかと危惧していただけに、起きている時間も増えて、いっそ楽しげにヴァン・クロードに読み書きを教える姿を見るのはほっとする。
 ヴァン・クロードが海図に乗っている言葉の意味を知りたい、というところに端を発しているから、机の上には子供らしいおおらかな字と、定規で引いたような几帳面な字が交互に書かれた蝋板のほか、海図が常に広げられている。
 ソランジュが薬湯を持って部屋に入ったとき、手習いの方は一休みで、アンリーが地図上の地名を訊かれるままに次々と答えているところだった。ソランジュは薬湯の椀を乗せた盆を持ったまま、暫くその情景に見入る。
「…済まない、ヴァン・クロード。薬の時間だ」
 ソランジュとしては唯ただそれに見入っていただけなのだが、それに気づいたアンリーが声をかけかねていると思ったのかそっとヴァン・クロードの頭に手を載せて言った。すると、ソランジュに気づいたヴァン・クロードがいそいそと片付けを始める。
「お邪魔をしたくは…なかったのですけれど」
 その言葉は、決して社交辞令ではなかった。ソランジュ自身が、本当に嬉しいのだ。一時は根を絶たれた花が緩々と枯死していく姿すら彷彿とさせたアンリーが…僅かずつでも生気を取り戻してくれる様子を見るのが、何よりも嬉しい。むしろ、この光景を見ることで力を分けて貰える気さえしていた。
寮頭りょうのかみが不在で忙しいだろうに、この上あまり時間をとらせても申し訳ないよ」
「お気遣い、いたみ入ります。でも、私一人が負うわけではありませんから…何卒なにとぞお気になさらず。
 ヴァン・クロードもひとやすみするといいわ」
「ありがと、ランジェ」
 ヴァン・クロードにも飲みものは用意していた。ついこの間まで動けば汗ばむ陽気だったが、今日は少し肌寒いから湯割りの果汁である。飲みやすいように甘みもつけてあった。吃驚するほど利発な子ではあるが、ごく普通に甘いものは好きなようだ。
 にこにこしながらもらった果汁を飲み、材料になった果実の名前を訊いて、蝋板に書く。綴りが合っていることを教えてもらって歓び、また消しては別の言葉を書き込む。幼子が得意気に書いてみせた単語を、ソランジュはゆっくりと声に出して読んだ。
「ILE MALEUF…イル・マルフ…マルフ島」
「母様が行ってる」
 胸を張らんばかりに誇らしげである。
「そうね…」
 淡泊なようでも…やはり母親は誇りなのだ。つやの良い黒髪を撫でて、ソランジュは幼子に微笑んだ。
「そろそろ…着いた頃だろうか」
 薬湯の椀を置いて、アンリーがふと呟いた。多分、このひとの心に去来しているのは彼の地にあるはずの友人たちのことなのだろう。そう言えば、レオンにルイへの手紙を托していたようだった。
「そうですね、風がよければ…」
 ソランジュがそう言いながら置かれた椀を取ろうとして身を屈めたとき、低く掠れた声が耳に入って思わず動きを止めた。
「ルイは…私を赦してくれるかな…」
 椀を取ろうとした手が滑り、器は少しだけ鋭角的な音を立てた。
「ランジェ…?」
 ヴァン・クロードが不思議そうにソランジュを見上げる。
「アンリー…様?」
 意味を取り損ね、それでも言い知れない不安に駆られて、ソランジュはアンリーを見た。
 赦す。何を?マルフ紛争は終結の目処がついたとは言え、総指揮官たるルイがエルセーニュに戻れるのはもう少し先になるだろう。それまで、待てないかもしれない。そんなことを考えているのではないか。
 だが、アンリーはそのまま目を伏せてしまった。
「…ああ、済まない。聞き流してくれないか。埒もないことだ…」
「は、はい…」
 そう言われては訊き返すことも出来ぬ。ソランジュは不安を抱えたまま、改めて椀を盆へ取った。
 その時、ヴァン・クロードが小さな背嚢リュックサックに蝋板と鉄筆を詰めて立ち上がる。
「ランジェ、スタンのとこ、いくね?」
「あ…送りましょうか?」
 この間のこともある。ソランジュは思わずそう言ったが、幼子は満面の笑みで首を横に振った。
「だいじょうぶ!」
 …ここのところ随分自信をつけたようだ。
「さよなら。またくるね」
 そう言って、ぺこりとお辞儀した頭をそっと撫でたアンリーの顔には、先程のような翳りはなかった。…ただ、穏やかな笑みだけ。

「ああ、またおいで」

 ソランジュが椀を片付け、退出の挨拶をするためにもう一度その部屋に戻ったとき…アンリーはまだ、海図に見入っていた。ヴァン・クロードが丁寧に文箱へ片付けたあとではあったが、文箱を棚に戻すのは自分がやるからとそのまま置かせていたのだった。
 海図に見入るアンリーを見るのは好きだった。とても穏やかな微笑と、生き生きとした眸をしているから。
「…声をかけてくれていいのに」
 ソランジュが部屋の入り口に立ちつくしているのに気づいたのか、海図を手にしたままアンリーが立ち上がった。
「あ、いえ、集中なさっているようでしたので」
「ただ眺めているだけだよ。仕事というわけではない」
「それでも、お好きなのでしょう? 程度にもよりますが…お身体の為にも、時には好きなことに集中するのはよいことです」
「…そうだね。海図を見るのは好きだな。夢が…未来の夢が見られるから…」
 そう言って、再び視線を手の中の海図に落とす。
 ――それが、こない未来の夢だとしても。
 言外の意味を聴き取ってしまった気がして、ソランジュは慄然とした。
 賢しげに忠言しておいて、却って言葉に詰まってしまったのが口惜しくて…思わず俯く。なんと言ってこの場を退出すればいいのだろう。頭の中が白くなってしまって、ソランジュは立ち尽くした。
 それほど長い時間を要した筈はない。だが、ふと陽が翳った気がして顔を上げた時、手の届く程の距離に彼はいた。
「…ソランジュ…髪に、触れても…?」
 このひとの眸が暗赤というより深紅、穏やかと言うより少し頼りなげでさえある色彩を湛えているところなど、ソランジュの記憶には絶無だった。過日、意識が定かでないまま海辺を彷徨い歩いていたときとは違う。その双眸は確かにソランジュを見ていた。
 ソランジュではないのかもしれない。だが、それでもいい。今、目の前の深紅の双眸に映っているのは…確かに自分だから。
 ソランジュはこうがいを抜き去った。亜麻色の髪が神官衣の肩を滑り落ちる。
「どうぞ…ただ、陽焼けした麦藁みたいで、あまりおさまりが…」
 震えが声に出なければいいがと思いながら、でも声に出さずにはいられなくて。だがその言葉は、最後まで口に出来なかった。鄭重に抱き寄せられて思わず呼吸を停めてしまったからだ。手にした笄がソランジュの指をすり抜けて落ちた。硬い音がしたはずだが、意識に上ることはなかった。
 おそらくその緋の髪に染み着いているであろう潮の匂い。清潔な神官衣の匂い。鎮咳処方特有の清涼感ある甘辛い匂い。ソランジュの嗅覚はそれらを明確に弁別したが、取り落としてしまった笄の行方を気にする余裕は吹き飛んでしまっていた。髪を潜る指先は抱き寄せる腕と同じように、至って鄭重で…躊躇いがちでさえあるのだが、あまりにも心地好かった。
 立っていても膝が崩れてしまいそうで…知らず、ソランジュは手を伸べて神官衣の背を握りしめる。
 彼が、このふわふわと落ち着きのない髪に…かつて傍に在り、今は喪われた色彩を見ていたとしても…それで一刻ひとときアンリーが安寧を得られるなら、ソランジュは構わなかった。
 ――それでまた、彼が言う、〝誓約〟を果たすために歩き出せるなら。

『愛して、いるのか。審神官を?』
 クロエの問いかけの答えはまだ出ない。だが、愛するということが…誰かが誰かのために、自分の持てるすべてのものを対価なく与える覚悟を言うのなら、あるいはそうかもしれない。
 神官衣の下に触れる背中は、幾分痩せてはいても…まだ前に進むための熱を残している。その熱は、今はまだ熾火のように灰に埋もれているのかも知れない。ならばその熾に、自分が風を送ろう。灰を吹き払い、熾が再び炎を上げるまで風を送り続けよう。
 亜麻色の髪に絡められたその手に、ソランジュは自分の掌を重ねた。まだ膝はがくついていたが、ソランジュは懸命に足を踏みしめる。肩に摑まるようにして背伸びしながら、アンリーの耳許にそっと唇を寄せた。
「アンリー様…どうか…生きて誓約を果たされませ…」 

 陽光の下で燦めく水面もさることながら、夜のとばりの裡にある海は美しい。
 マルフ島…今度から和約の象徴となった王女ティーラの名で呼ばれることになったその島は、言うまでもなくシルメナとの国境にある。

 クロエは波と風の音だけに支配される静謐の中、波打ち際の岩に座を占めて穏やかな波の上を滑る細い月光を見ていた。
 和約は成った。散発的だった戦闘も完全に終結し、撤収が始まる。
 イオルコスの藩主オレン・ヴァシリスはレオンにシェノレス国王として相応の敬意を払い、シェノレス・シルメナ両国が再び島を争って騒擾を起こすことのないよう綿密な取り決めに応じた。程なく、レオンはエルセーニュへ還御し、ティーラ島の実務は今暫くルイの管轄とはなるが、上手くいけばルイも年内にシュテス島の土を踏むことが出来るだろう。

 早く、その日が来ればいいが。

 先日の事件の後だ。クロエはアンリーからある依頼を受け…それを遂行してからマルフへの旅程に就いた。
 アンリーの覚悟を聞かされた時、さすがに顔から血の気が引くのを自覚した。
『他ならぬあなたに、こんなことをお願いするのは心苦しいのですが…私にはもう、時間がないのです』
 旧い友人の面影が脳裏をよぎったが、すぐに気づいた。…あの時とは違うと。
 静かな笑みをうかべてそう言ったアンリーは、病み衰えてはいてもその双眼の奥に勁い光を湛えていたのだ。
 その紅瞳は未来を見ている。たとえそれが、自分自身は享受できない未来だとしても。
 ルイに、アンリーからの手紙を一刻も早く読むように言うべきだったろうかとも考えた。だが、今更どうなるものでもない。エルセーニュは遠く、ルイは今動ける立場にない。ルイが私情と預けられた責任のどちらを優先するか、クロエには痛い程判っていた。そう教えたし、ルイ自身がそう在ろうとした。その上で…“ルイ=シェランシア”を名乗った。

 ――――他に、どうすれば良かっただろう。