海風の頌歌 Ⅵ

 俄にひんやりとした風が吹き込んでくる。
「……嵐になるな。船団が戻るには、もう数日かかるだろう」
 ソランジュは、暮色を深める曇天を仰いだアンリーの低い呟きを耳にして…薬湯の椀を下げる手を止めた。
 レオン達が出帆して以降、アンリーは再び発熱を繰り返すようになっていた。ソランジュが大神官代理リシャールに願い出て本殿詰めとさせてもらったのは五日ばかり前からである。典薬寮の仕事もこなしながらのことであるから、目が回るような多忙さではあったが…容態の急変があった時にすぐに対応出来るようにしたいというソランジュの申し出を、リシャールは即座に快諾してくれた。
 大神官リュドヴィックの容態も芳しくはなく、そちらにはリシャールの依頼で随分前から専任の医術神官が複数、交替で詰めている状態であった。アンリーに対していままでそうした処置をとらなかったことに対して、むしろ率直な詫びさえ口にした程だ。
『必要なものや手伝いがあれば何なりと手配させる。…アンリーの心と身体が休まるように、調えてやってほしい』
 彼なりの優しさではあるのだろうが、ソランジュからすると、どうにも遠巻きな気がする。父母を同じくする兄弟というものは、本来もうすこし遠慮のない関係ではないのだろうか。上司クロエには弟がいるが、二人とも血が繋がっていないとは思えないほど遠慮と疎遠であった。普段は離れて暮らしているとはいえ、会えばあまりにも言いたい放題なので、傍から見ると喧嘩しているのかと思う程だ。それでいて、ふとしたときに互いを気に掛けているのがわかる。きょうだいのいないソランジュにしてみれば、羨望に値した。
 だが、あの兄弟は違う…。
 アンリーはアンリーで、兄上と呼ぶ割にはリシャールを上司としか認識していないようにみえるし、リシャールはといえば手を伸べたくはあるが、敢えて自分が関わらない方が弟のためには良いと思っている節がある。それゆえにソランジュの提案に一も二もなく諾を与えたのだという印象さえあった。
 一体、何がそうさせるのか。ソランジュは未だにはかりかねている。
 何はともあれ、アンリーの傍にいることができるようになったのは嬉しかった。

 ――――シェノレス最高位の医術神官は、出発前にアンリーの予後について、ただ存えさせることよりその命の質クオリテ・デ・ラ・ヴィを問うべき段階にあると明言した。
 命の質か。…ソランジュは嘆息する。
 このまま、兄にすら心を開かずにいってしまうつもりなのだろうか?

 ふと、哀しくなって…ソランジュは盆を傍らに置くと、牀の上に畳んであった上着を取った。窓の前に立つアンリーの背に上着を掛け、後ろからそっと抱き締める。
「ソランジュ…」
 ―――テラスへ続く窓から吹き込む風は、湿気を含んで薄ら寒い。上着越しに感じる痩せた身体は、やや体温がさがっているようにも感じられる。だが、頬を寄せ、耳をつけて聴いた背中からは、確かな鼓動が伝わってきた。
「そろそろ窓は閉めましょう、アンリー様。少し、風が出てきたようですし…」
 アンリーはソランジュの腕にやんわりと手を重ねて言った。
「ああ、でも、もう少し。…そうだ、歌ってくれないか。ソランジュ」
「……はい?」
「その間だけ…開けておこう。私は少し下がってそこの椅子で聴く。それでどうだろう」
 そう言って、傍らの椅子を示した。そこなら直接に風はあたらないが、窓が開いていれば吹き込んだ風が室内を廻って届く位置であった。
「ええ、それは構いませんけれど…」
 今暫く風を感じていたいのだろう。ソランジュに否やはなかった。
「では、風の頌歌を」
「拝聴しよう」
 神官が音を奏でる時は、本来はそれが器楽にしろ声楽にしろ神への供物である。それゆえ屋外か、屋内でも外と繋がった空間で奏されるのがならいであった。ソランジュは開いた窓の前に立ち、ゆっくりと息を吸った。
 風の頌歌。ソランジュはこの頌歌が好きだった。海と風の恩威をたたえる、本来は航海の安全を祈願する祭文である。国の行事や大規模な船団が船出する際には正式な神官が歌うが、島の漁師が日々の漁へ出るときでさえ、出航の準備をしながら漁師自身が歌う。そうなると無論簡略化され、詞も平易になり、祭文というより民謡に近いが、そのくらい人口に膾炙した旋律であった。
 胸いっぱいに息を吸い、身体の中心から額に抜けるように歌い上げるのは心地好い。
 晴れた空に向けて歌うのもいい。だが、雨の空も決して嫌いではない。アンリーの身体を慮るとあまり湿気が強かったり、冷たい風は好ましくはないが、そういった事象も含めて自然であれば、より上手く付き合う術が必要だ。であれば、それを用意するのはソランジュの役目であるはずだった。
 持てる智慧と技術のすべてを以て、このひとの安寧を守ろう。自分の頌歌がその助けになるというなら、喉が嗄れるまで歌うことも辞さぬ!

 海よ、風よ、我らは慈悲深き御身をたた
 願わくば我らの旅路に安寧を賜らんことを…!

 ここのところ鍛錬がおろそかだったかもしれない。ソランジュはかすかに喉奥に痛みのようなものさえ感じたが、途中から聞こえてきた低音の旋律に支えられて最後まで充実感を伴って掠れることなく声に力を乗せることが出来た。
 息を大きく吸って、一度ゆっくりと吐き出す。
 ゆっくりと目を開けて、海と空に一礼した。そして踵を返し、アンリーにも一礼する。
「ありがとう…」
 アンリーはゆっくりと立ちあがり、両手を伸べてソランジュをその腕の中におさめた。
「…お耳汚しで…ございました。一緒に、歌ってくださったのですね」
 頬が熱くなるのを感じながら、ソランジュはようやくそれだけ言った。過日、そうとも知らずに彼の前で歌ったあと…恐縮して逃げるように薬を調えに厨房へ走ってしまったことを思い出す。
 ソランジュは包み込む腕に指先を添え、アンリーの胸に耳を当ててその鼓動を聴いた。その確かな律動を感じて、今度は安堵の吐息を洩らす。
「…審神官シャンタールという言葉には…本来、謳う者の意味があるそうだ。祭文を謳うことで神を降ろし、その神託の真否をつまびらかにして人々に伝える役目であったと。私はあまり詠唱が得意ではないから、審神官といっても本当に名ばかりだけれど」
「いいえ、よいお声でした…」
 おさまりの悪い、褪せた麦藁のような髪をゆっくりと梳く…痩せた指先の感触に陶然としながら、ソランジュは暫くその甘美な感覚に身を委ねていた。だが、その耳許で穏やかに紡がれた言葉に、静かに現実へ引き戻される。
「もう少しで、レオンが帰ってくる。そうすれば、誓約を果たすことができるだろう。君と、師範せんせいのお陰だよ。
 本当に、ありがとう。…そして、すまない」
 ソランジュはアンリーの背に腕を伸べて、支えるように抱き返した。

「…生きて、誓約を果たされませ。私の望みは、ただそれだけです」


 控えの間で、ソランジュはただ座して天井を仰ぎ、止まない雨音を聞いていた。
 視界にあるのは手燭の揺らめきを仄かに映す天井のみ。涙で歪んだそれを、ソランジュは目を閉じることで遮る。
 少し前のことだ。
 荒天のため、帰郷は数日後であろうと思われていたレオンは…船団をシャトー・サランに残し、雨の中単騎エルセーニュへ戻ってきた。そして、仮宮に寄ることもせず、およそ人を訪う時間ではないにもかかわらず、ずぶ濡れのまま本殿の扉を叩きアンリーへの面会を求めたのだった。
 何かを感じてのことなのだろう。それはソランジュにも判りすぎるほどわかっていた。時は訪れたのだと。
 いかに非常識な来訪とはいえ、海神の御子と謳われる現国王のただならぬ様子に、止めるに止められずおろおろとただ追従してきた衛視寮の神官を、ソランジュは後は自分が対応するからと下がらせ、ともかくもレオンのずぶ濡れの身体を拭くための布を探した。
 そうしながら、面会を断る術はないかと考えている自分に気づいて、ソランジュは慄然とした。少しでも長く、アンリーを引き留めておきたいと思うのは…もはや自分の身勝手でしかないのに。
 もう休んでいるから、と言っても、レオンは諾くまい。かつてアンリーが発熱で昏睡に陥っている間も足繁く見舞った彼だ。顔だけでも見せてくれと懇請されたら、ソランジュには断れない。
 だが、ソランジュの僅かな逡巡の間に、アンリーは、起き出してしまった。
『いいんだ…ソランジュ。私は待っていたのだから』
 ひどく穏やかな、安堵に満ちた微笑。既に服を整えているアンリーを見て、ソランジュは改めて、もう止めることなど出来ないのを悟った。多分、少し前から目覚めてはいたのだろう。
『…ソランジュ、悪いが少し席を外していてくれ。後で呼ぶから…。それと…』
 アンリーは一旦、言葉を切った。…そしてゆっくりと付け加えた。
『ありがとう』
 ソランジュが退出の礼をして控えの間に戻ったとき、涙が溢れそうになって、天井を仰いだ。だが、それで涙が零れ落ちるのを止められるわけもなかった。
 見開いた眼から涙が零れ落ちるに任せて、ソランジュはただ放心したように座していたのだった。
 だが、椅子の倒れる音で弾かれたように立ち上がる。
 駆け戻ったソランジュの視界に入ったのは、緋色――!
「ソランジュさん!」
 倒れた椅子の向こうで、レオンが蒼白になって立ち尽くしていた。先刻の音は、驚いて立ち上がったレオンが椅子を蹴倒したためのようだった。
 卓の上に並べられた海図、そして床の上にも、緋の花が咲いていた。
 ソランジュはとらわれかけた幻想を振り払うように頭を振り、仰向けに床に倒れたアンリーに駆け寄った。量は多くない。倒れたはずみで床に広がった彼自身の緋の髪が、一瞬大量の出血にみえただけだ。
 だが、少量であったとしても窒息が怖い。頸部で脈を触知し、早く浅い上に微細な異物を抱えた呼吸音だけ聴き取ると、ソランジュはアンリーを横向きにした。そのはずみでアンリーは弱く咳込んだが、新たな喀血はなかった。
 卓の端に置かれたままだった、先程レオンに差し出した浴布を引き寄せ、丸めて枕にする。アンリーがうっすらと目を開け、ソランジュの手に掌を重ねた。
 ――――大丈夫だ。
 血色の薄い唇はひどくかそけく動いただけであったが、ソランジュは確かにその言葉を聴いた。
「レオン様、ここを暫くお願いします。今すぐ動かすとよくありませんが、口を漱がないと血の臭いで嘔吐えずくかもしれません。私は漱ぎ水と、保温のための上掛けを持ってきます」
「判った、頼むよ。俺はどうしたらいい」
「こちらへ。アンリー様の背を支えて、このまま横向きが維持できるようにしてあげてください。仰向けになると吐いた血に固まりがあったとき、窒息する危険性があります」
 レオンは青ざめつつも、ソランジュの依頼を丁寧に諾いてくれたが…ソランジュが漱ぎの水を汲んで戻ったとき、アンリーはレオンの腕に支えられてはいたものの、既に身を起こしていた。
「アンリー様…」
 まだ安静に、と言いかけるソランジュを制して、アンリーは穏やかに言った。
「…うん、大丈夫だよ。ソランジュ」
 このひとはある意味、狡い。こんなふうに言われては、反駁も出来ぬ。ソランジュは呼吸を整え、漱ぎ水を差し出した。
 口は漱いだものの、唇の周囲についた緋色は残る。ソランジュは黙したまま、それを丁寧に清潔な布で拭った。それをまた、やはり黙したまま見ていたレオンは…意を決したように口を開いた。
「…待っててくれ、アンリー」
「ああ、待っている。まだ、私には…海神宮わだつみのみやからのお迎えはないようだからな。手配はしてある。海神窟へゆけ、レオン。あの、はじまりの場所に」
 レオンは、その明朗な雑作に似合わぬ幽かな笑いを零した。
「海神窟か…昔は、行ったのがバレる度にこっぴどく叱られたな」
「ツァーリの軛は絶たれ、禁制は解けた。風神アレンの墓所にあった鉄格子もまた、今は取り払われている。誰に憚ることもない」
「そうか…そうだったなぁ」
 ソランジュとレオンでアンリーを椅子に座らせる。少し休んでから寝所へ戻るというアンリーに、レオンは頷いた。
「じゃ、いってくるよ。アンリー」
 アンリーもまた、完爾として頷く。
 椅子に座したまま友人を見送ったアンリーは、立ち上がろうとして失敗しくじり、卓に緩々と肘をついた。
「アンリー様…」
「済まない、少しだけ…手を貸して貰えるだろうか」
「はい」
 ソランジュの肩を借りて寝所まで戻ったアンリーは、ゆっくりとその身を横たえた。
「服を…替えましょうか。汗もかいていらっしゃいますし、その…」
「うん、汚れてしまったね。でも、それほど派手にやってしまった訳でもないし、明日でいい。…どうにも、ひどく眠いんだ」
「はい、かしこまりました。お休みなさいませ」
「…ありがとう」
 そう言って、アンリーが緩々と目を閉じる。無造作に投げ出されたアンリーの指先にその手を重ね…ソランジュはそっと額を寄せた。