第弐話 雨の朝、優しい夜


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 雨の音がする。
 そんなことを考えながら、シンジは暖かさのなかで微睡んでいた。

 ――――――――カヲル、狭い。
 ――――――――いまさら文句を言わない。だから言ったろう、僕が下で寝るからって。
 ――――――――別にいいじゃない。寒いんだもん。
 ――――――――この夏にかい?
 ――――――――雨、降ってるもの。
 ――――――――はいはい。

 低い笑声。かわされる囁き。
 だがそれも、シンジを目覚めさせるには至らなかった。
 ただ、すぐ近くで人の声がすることには安心感を覚える。
 その所為か・・・閉じたままの瞼は薄明かりをとらえてはいたものの、身体のだるさも手伝って、シンジは再び眠りの淵に身を沈めていった。

 それから、どれぐらいの時間が経っていたのだろう。
 朝食の匂いにふと目を覚ます。
 ラタンのスクリーンで仕切られたスペースに、ベッドがふたつ置かれている。
 カーテンは半ば開け放たれている。シンジが横になっているベッドはまだ陰になっていたが、小さなテーブルの向こうのもう一つのベッドには、眩いばかりの陽が当たっていた。
 目覚めさせようとする朝の日差しを、けだるそうに遮る。・・・それが誰かに気づき、シンジは一気に目が覚めた。
『あっ・・あ、綾波ぃ!?』
 シンジの頭の中は、軽いパニックを起こしていた。昨日眠ったときの状況を必死で思い出そうと記憶を手繰る。そのとき、スクリーンの向こうから声がした。
「レイ。いい加減に起きておいで。そんな格好、碇君に見られても知らないよ?」
「うう~~~」
 唸りながらシーツを手繰り、さらに陽光を遮ろうとする。
「だって・・・眠い・・・・・」
「もう朝食ができるから、顔洗って」
「でもぉ・・・・」
「デモもストライキもないの。はい、起きたおきた」
 朝食を作ってるとおぼしき人物の声が近づいているのに気づき、シンジは反射的に目を閉じた。
「う~~~。どうせ今日はやすむんでしょ。いーじゃない、すこしくらい・・・・」
「・・・『すこししくらい』で片づく時間帯かどうか、時計見てから言うんだね」
「へっ!?」
 跳ね起きて、時計を掴む気配。
「うわー・・・・」
「もう朝食ってよりブランチだよ。はい、分かったら起きて、顔洗って、そのハネた髪をなんとかしといで」
「はぁーい・・・・」
 レイの足音。ややあって、少し声を落として彼が言った。
「もう、寝たふりはいいよ。起きるに起きられなかったんだろう?」
 低くて、優しい。少し笑いを含んだその声に促されるようにして、目を開ける。
「あの…えっと…」
 ジーンズとTシャツ。オレンジ色のエプロン。なんの変哲もない格好だが、その容貌は。シンジはそれっきり、思わず呼吸を呑んでしまう。
「着替えはそこに。僕ので悪いけど」
 白い手が伸びて、シンジの額に触れる。ひんやりとした感覚。しかし、暖かな感じ。
「よかった。熱は下がったみたいだね」

 ─────熱?

 その言葉で、昨日のことを思い出す。

 ─────そうか、僕は…。

「あの・・・」
「もうすぐ、朝食ができるから」
 陽の光のような笑みでシンジの言葉を遮り、彼はスクリーンの向こうへ引っ込んだ。
 言おうとしたこと、聞こうとしたこと。あっさりはぐらかされて暫時呆然としていたが、気がついて服を着た。
 コットンシャツのボタンをとめたとき、レイが戻ってきた。
「あ、目が覚めた?」
 水をつけた程度ではなおらず、結局軽く流したらしい。髪を拭っていたタオルを肩に落として、シンジの向かいに腰をおろす。
「よかった。気分はどう?」
「うん、もう平気。あの、綾波・・・・」
「いいよ、今はなにも聞かない。学校の方には、もう加持さんを通じて連絡したから、心配しなくていいって。とりあえず、ごはんにしよう。ね?」
「う、うん」
 決して押しつけがましいもの言いではなかったが、シンジは思わずそう答えていた。
 瀟洒なガラステーブルの上に並べられた朝食。スープとフレンチトースト、そしてレタスとプチトマトのサラダ。昨日一日ほとんど何も食べていない胃でも、なんとか受け付けてくれそうだった。
「スープは多分大丈夫だと思うけど、胃がきついようならトーストは残したほうがいいよ。大丈夫、心配しなくてもレイが二人前くらいきれいに片付けるから」
「ううん、大丈夫だよ。食べられる」
「なによそれー!いかにも私が大食らいみたいじゃない!!」
「でもほんとだろう?」
「あれはね! ・・・・勿体無くて・・」
 反論すればするほど墓穴を掘ることに気づいたレイが口を噤み、軽く睨む。睨まれた方はと言えば、涼しい顔でエプロンをはずしてランドリーラックの上に放り投げ、着席する。
 シンジはその光景を、思わず眩しげに眺めている自分に気がついた。
「食後はお茶でいいかな?コーヒーもあるけど」
 おいしそうな匂いが、長の空腹を呼び覚ます。普通、これだけの時間絶食すると、もう空腹感などなくなるはずなのに。
「お茶でいいよ。ありがとう。えっと・・・」
「渚カヲル。・・ああ、昨日はそれどころじゃなかったよね。カヲルでいいよ、碇君」
「あ・・・じゃ、僕もシンジでいいよ」
 そう言いながら、シンジは頬が熱くなるのを感じていた。昨日は、別に人事不省に陥っていたわけではないのだ。彼の前で倒れてしまったことも、そのあとここに連れてきて貰ったことも、一応は憶えている。熱で頭がぼうっとしていてほとんど身動きならなかったのは確かだが・・・・。
「どうぞ。冷めるとおいしくないよ」
 無論、レイは勧められるまでもなく食事にとりかかっている。
「あっ、うん」
 スープを口に運ぶ。――――美味しい。
 ふと、レイが心配そうにこっちを見ているのに気がついた。
「大丈夫?食べられそう?」
「美味しいよ。ありがとう」
 シンジは、本当に大丈夫だということを理解ってほしくて、精一杯微笑んでみせた。
「よかった」
 しかしこの笑みに、偽りはない。
『誰かが一緒の食卓がこんなに愉しいなんて、ずっと忘れてた・・・・・』
 家の食事はいつも一人だった。それが当たり前だった。他人と一緒に食事することに、軽い違和感すら覚えるほど。
 しかし元来、それは決して幸せな気分になるものではなかったのだ・・・。
「・・・・・食事が入るようなら、もう大丈夫だね。まあ、今日一日はおとなしくしておいで。学校へは明日から行けばいいよ。何なら今夜もうちで泊まって、明日の朝一緒に行こう。そのころには制服も乾くし、少し早めに出て、君の家へ回ってから鞄を取ってくればいい」
 思わず、シンジの手がとまる。
「い、いいの?」
「食べてくれる人が多いほど、料理ってのは作り甲斐があるものさ」
 そう言って、ウインクする。彼は何も訊かないのに、自分は何も喋っていないのに、彼は全てを理解ってくれている。それは、不思議な感覚だった。
「あ、ありがとう・・・・ごめんね」
 アスカや他のみんなへに心配をかけてしまったことは理解っている。少し帰るのを遅らせたとしても、結局はさらに言い訳に苦慮する結果になることも。
 だがそれでも、いまはあの家に戻りたくなかった。

 起きたときは眩しいほどに晴れていたが、気がつけば空は雨雲に占領されていた。ただ、さほど厚い雲ではなく、空は明るい。
 降りだした細かな雨に、ベランダの観葉植物が静かに濡れている。
「ねえ、これ、だれが弾くの?」
 シンジの注意を引いたのは、部屋の隅で半ば埃を被っている黒いケースだった。
「ああ、ヴァイオリンかい?僕もレイも弾くことはできるよ。あんまり上手くはないけどね。ま、僕の方に一日の長はあるかな」
 洗い物をレイに任せ、テーブルを拭いていたカヲルがそう答えた。
「シンジ君は?」
「チェロなら、すこしは。でも、ヴァイオリンはやったことないんだ」
「チェロが弾けるのかい?」
「小学校にはいる頃からやってたから。でも、あんまり上手くないよ」
「小さい頃からやってたんだね。これは是非一度拝聴しないと」
「ほんとに上手くないったら」
 照れくさそうに笑うシンジ。
「・・・・そういえば、もう随分長いこと調弦してないね・・・・」
 台拭きを片付けたカヲルがケースを開ける。弦楽器特有の、あの匂い。シンジにとってそれは、懐かしい匂いだった。
「ストラディバリウスとはいわないけど、結構な年季ものらしいんだ。貰い物だからよくは知らないけどね」
 そっと取り出して、弓をあてる。うわついた音は、カヲルが数回螺子に指をあてただけで澄みわたった本来の音に変わった。
「さて・・・・」
 カヲルは視線を彷徨わせた。
「リクエストがある?」
「えっ?」
「あまり多くはないし、上手くもないんだけど」
 ようやく何を問われたかに気づくシンジ。
「あ・・・えーと、G線上のアリアは?」
 カヲルはにっこりとして言った。
「嬉しいね、趣味が同じで」
 軽く目を閉じて、再び弦に弓をあてる。
 ああ。
 低い雨音がかすかにかぶさるカヲルの演奏を聴きながら、シンジもまた軽く目を閉じていた。
 同じだ。あの音色と。
 ―――――――当時の体格にはまだちょっと大きいチェロを抱え、たどたどしい旋律を奏でるシンジ。それを根気よくフォローする、ヴァイオリンの音。
 ―――――――なんとか弾き終えたとき、扉の方から拍手が聞こえた。びっくりして顔を上げた時・・・・扉の前に立っていた人物の、普段は無愛想な目が、眼鏡の奥で笑っていた。
 拍手の音に、シンジは我にかえった。カヲルが演奏を終え、お茶の支度をしてきたレイがそれに拍手をしたのだ。それに和すシンジ。
「器用なんだよね、カヲルは」
「すごいね。巧いよ」
「ありがとう。今度レイも一緒で三重奏でもやってみるかい?」
 カヲルの言葉に、今まで拍手していたレイがにわかにむくれる。
「やだ。カヲルと比べられたら立場ないもの」
「そっ、そんなことないよ。僕だってあまり上手くないし。いいじゃないか、おもしろそうだよ」
 もしや傷つけたかと懸命にフォローするシンジを見、僅かに頬を染めるレイ。
「・・・・だって。レイ?」
 了解を求めるような口調で、そのくせ顔は完全に面白がっていた。
 そんなカヲルを軽く睨み、もう一度心配そうな顔のシンジを見て、俯く。
「・・・・うん」
 シンジの顔が、ぱあっと明るくなる。
「よかった」
 さらに赤面するレイ。カヲルはそんな二人を見て微笑み、ヴァイオリンをケースに戻した。
 ケースを閉じる一瞬、内張りのビロードに埋もれた刻印がカヲルの視界に入る。

 Y.IKARI

 カヲルは表情を動かさなかったし、手を止めることもなかった。
 無論、シンジが気づくわけもなかった。
 そして、何事もなかったように顔を上げる。
「・・・じゃ、お茶にしようか」