第弐話 雨の朝、優しい夜


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 部屋の照明は既に落ちていたが、街のイルミネーションがカヲルの姿をシルエットにして浮かび上がらせていた。
 片膝を抱え、薄いカーテン越しに外を見ている。
 その傍らには、レイがぐっすりと寝入っていた。
 二つしかないベッドの一つをシンジに明け渡したので、下で寝ると言うカヲルをレイが結局引っ張り上げたのだ。
 そのくせ「狭い!」と文句を垂れていたが、明かりを落とすより早く寝入ってしまった。カヲルと二人で、思わず笑ってしまうほどに、あっさりと。
 二人は、兄妹なのだという。姓が違うことについて、シンジはあえて訊くような無神経な真似はしなかった。何か事情があるに決まっている。只でさえ、15歳と14歳の二人暮らしなど、あまり心楽しい背景である訳がないのだ。
 遠いイルミネーションを受けるカヲルの横顔に、シンジは半ば見とれていた。窓の外を見るカヲルの表情は、昼間見せたことのないものだった。
 いつか、シンジも目を閉じていた。眠りに至る最後の意識で、とん、という軽い音を聞いた気がした。

 路肩に停めてあったそのワゴンは、ライトをつけてはいなかった。
 運転席の辺りで、数秒だけ灯りが点る。
 カヲルはほとんど足音を立てず、エントランスから数歩でその車の助手席に滑り込んだ。
 ドアを閉めて、開口一番。
「・・・煙草、消して貰えませんか」
 露骨に眉をしかめて、言う。
「ん?ああ、悪かった」
 加持はつけたばかりの煙草をもみ消し、窓を開けて煙を追い払った。
「・・・・・・済みませんでした。明日には、学校へ戻ります」
「いや、俺の方こそ助かったよ。葛城に能無し呼ばわりされずに済んだからね。ありがとう」
 しかし、カヲル達が平穏な一日をすごしている頃、一番苦労していたのが加持だったのだ。何せ、失踪の言い訳を考えるのが一苦労だった。理由も喋らず、所在も喋らず、とりあえず見つかった、明後日には登校する・・・・そんな説明が葛城ミサト相手にすんなり受け入れられる訳もなかったのだ。
 ひたすらトボけるのにも限界があり、昼過ぎには早々に逃亡を図ったのだが。
「大丈夫なのかい、シンジ君は?」
「大丈夫じゃないでしょうね」
「おいおい・・・・」
「だって、何一つ問題が解決したわけじゃないでしょう。・・・・・昔の家に帰ったって、誰もいないことくらいシンジ君もよくわかっていたんですから」
「ただ、逃げていたと?」
「シンジ君は本当のことを知りたがってる。・・・でも、知ってしまうことが怖いんだ。真実はすくなからず痛みを伴うから」
 淡々と言葉を紡ぐその白い横顔を、加持はどう見ても面白がっているようにしか見えない眼差しで見守っていた。
「君はどうするつもりなんだい、カヲル君?」
「・・・何も」
「ほう」
 しかし、加持の余裕もそこまでだった。
「・・・ただ、シンジ君が真実を欲するなら、洗いざらい喋ってしまったって構わない」
 優しげなくせに思考の読めない、紅い瞳。それが初めて、挑発的ですらある彩を湛えて加持を射た。その口許にあるのは、見る者の背筋を寒からしめるような・・・。
「・・・・・本気かい?」
 加持ともあろう者がおもわず真顔になる。一瞬の後、カヲルが破顔一笑した。先刻の表情は別人としか思えない、天真爛漫という言葉をそのまま具現したような笑みで。
「冗談ですよ。今のところはね」
 脱力する加持。そうだった。この少年は・・・。
 ふと、胸ポケットから一枚のディスクを引っ張り出す。
「・・・・それはそうと、こんなものデータ、どこから手に入れたんだい?」
「ああ、それですか? 役に立つでしょう」
「役に立つとか立たないって問題じゃない。役に立ち過ぎてヤバいくらいだ。・・・・・一体こんなもの、どこから手に入れたんだ。MAGIへの直接アクセスコードなんて・・・研究所どころかネルフの人間だってそうそう持っちゃいないぞ」
「・・・でしょうね」
 平然としたものだ。いや、違う。興味がないのだ。
「使い方さえ間違えなかったら、当分は使えると思いますよ」
「カヲル君!」
「・・・・やり方に指図はしない。そういう約束でしょう。僕があなたがたに協力するのは利害が一致するからであって、あなたがたの崇高な趣旨とやらに賛同したからじゃない。わかっていますよね」
 言葉は静かだった。諦めたように、加持が吐息してハンドルに顎を預ける。
「・・・・自らをおとしめるようなやり方だけはするなよ。・・・・・あの人が悲しむぞ」
「その言い方は卑怯ですよ、加持さん。・・・大体あなたが、そんなお説教が出来る立場だとでも?」
 何か言おうとして、加持は再び肩を落とした。今更どう繕ったとしても、贖えるものではない。
「・・・・・堕ちようが汚れようが、今更何とも思いません・・・僕はね」
 そう言い放ち、冷めた眼差しでフロントガラスにはじける雨を見つめながら、薄いTシャツごしに自身の肩を掴む。
 言外の牽制に、加持は声もない。悽愴のなかの毅然。そこには同情も憐憫もつけいる隙はない。いやむしろ、憐むべきは・・・・・。
 加持の面持ちは、沈痛だった。

 シンジは、駅のホームに立っている母のもとへ、懸命に駆けていた。
 なんて遠いのだろう。
 まるで、母親が自分から遠ざかって行くようだ。
 ――――――――――待って、待ってよ、かあさん!
 シンジの声に、ようやく母が降り返る。しかし、その眼差しはシンジを歓迎してはいなかった。
 ――――――――――かあさん!何処へ行くの?
 ふと気がつく。母は、小さな子供を連れていた。薄水色の髪の、紅の瞳の・・・・・・。
 ――――――――――その子は、誰?
 紅の瞳が、決して好意的ではない視線をシンジに向ける。母の、シンジの母の手を握ったまま・・・・・・。

「あなた、ほんとうに何も知らないの?」

「えぇっ!? 同じ学校なの!?」
 いつもより早い朝食。今日はシンジの家に寄っていかなくてはならないからだ。
 平然といつもより一時間早く起き、三人分の朝食を作って寝坊助ふたりを至極丁重に叩き起こしたカヲルはにこやかに肯定した。
「そうだよ。だって、僕は中学3年だからね」
 言われてみればそうなのだ。しかし、これだけの容姿が学校で噂にならない訳はないのだが。
「無理ないわよぉ・・・だってカヲル、いままでまともに登校した日の方が少ないんだもの。立派に『幻の転校生』扱いだもんねぇ・・・・」
「ほらレイ、そのトーストにはもうバターがついてるよ。いつまで寝惚けてるんだい」
 レイはまだ目が半分しかあいていない。それでも余計なことだけは言うあたり・・・。
「一応まだ、出席日数は足りてるよ。それに、一段落ついたから暫くはまともに通うさ。君にも逢いたいしね、シンジ君?」
「・・・えっ?」
 何を言われたのか呑み込めず、固まってしまう。その隣で、まだ目がさめきってないレイがぼーっとした顔のままビンのふたを開けようとしていた。・・・・・だが、そのビンは。
「レーイ!コーヒーにハチミツなんか入れて、どうするんだい!」
「はっ!? きゃぁぁ!」
「・・・・悪いことはいわないから、もういっぺん顔を洗っといで。その間にいれかえといてあげるから。歯磨きと洗顔料、間違うんじゃないよ?」
「はぁーい・・・」
 これもまた半ばふらふらしながら洗面所へ向かうレイ。笑ってはいけないと思うがこらえきれずに肩を震わせる。そんなシンジを柔らかな笑みで見つめて、カヲルは穏やかに問うた。
「すこしは、落ち着けたかな」
 シンジは、カヲルを見た。ひょっとして、この不思議な瞳は心の中を見透かせるのだろうか。そんな感覚にさえ、陥る。
「・・・・・・うん」
「世界は、悲しみに満ちているよ。時には、生きているのもつらいと思うくらいにね。でも、そのつらさから逃れてばかりいちゃ駄目だ。時には、立ち向かうことも必要だよ。立ち向かうことで、救いを得ることだってできるんだ。そしていつか、同じくらいの歓びもあるんだということに気づくこともできる」
「・・・・・・うん」
「真実は、つらいことのほうが多いよ。信じたものすべてが崩れてしまう事だってある。それでも、閉ざしてしまったらいつまでも同じ悲しみの中に閉じ込められたままだ。・・・・・・択ぶのは、自分自身だよ。いつだってね。だって、自分のことなんだから」
「・・・・・・うん」
 その答えに莞爾として、カヲルは立ち上がった。
 カヲルはハチミツがたっぷり入ってしまったレイのカップを流しへ持っていって洗うと、いれかえて持ってきた。テーブル越しに置くかと思うと、回り込んでシンジの隣、今までレイが座っていたところへ膝をついて、静かにカップを置く。
「カヲル君・・・・・?」
 シンジは、柔らかく包み込まれる感覚に一瞬戸惑い、次に頬と耳朶をくすぐる銀の髪の感触に慌てた。
「かっ・・・・・・カヲルく・・・・・」
「・・・・・」
 カヲルが耳許で何かを囁いた。その直後、唸りを上げて飛んできたヘアブラシがカヲルの後頭部を直撃した。コケるカヲル。つられて倒れるシンジ。
「なぁに朝っぱらからあぶなっかしい雰囲気だしてんのよ!!」
 立ち直りは、無論カヲルのほうが早かった。
「いい狙いだ。しっかり目は覚めたみたいだね、レイ」
 しゃあしゃあとしたものである。一方、シンジはといえば、視線が宙を泳いでいた。

 碇家があるマンション。
 時間割をあわせるために部屋に入ったシンジを、レイとカヲルは下のエントランスで待っていた。
「・・・・・・・ったく・・・・碇君たら目が点になってたわよ」
「おや? 妬いてくれるのかい、レイ?」
「そういうんじゃなくってぇ・・・・・・!! ・・・・・・とにかく、学校では慎んでよね」
「何を?」
「カヲル!」
「はいはい。でも本当に、他意はないんだよ。シンジ君だけならともかく、今の今こっちの居場所を向こうに知られるのは問題だからね」
「暗示でしょ。それは分かってるわよ!・・・・・・でもどこにあーゆーコトまでやる必然性がある訳!?」
「その必然性を人は『役得』と言うのさ」
「何考えてんのよ!!」
 くすくす笑うカヲルを、レイは軽く睨む。が、ふと視線を外した。
「・・・・・・・私、どうしたらいい?」
「レイ・・・・・・・・」
「碇君の、記憶の欠落って・・・きっとあの時の所為だと思うの。私、どうやって償ったらいい・・・」
「そんなことはないよ」
 カヲルは即座に言った。
「記憶は欠落してた訳じゃない。彼自身の意志で、今まで封じ込めていただけなのさ。認めたくないから、都合のいいつくりごとを本当だと思い込んでいただけなんだ。そうすることで、バランスを保ってきた。そうするしかなかったんだ。彼は、自分には支えてくれる何者もいないと信じ込んでいたから。レイの言葉は、その嘘を突きつけた。だから虚構が崩れてしまった。・・・・・でもそれはレイの所為じゃないよ」
「でも・・・」
「レイは、シンジ君を支えてあげればいい。これから、シンジ君は今まで逃げてきた真実と戦わなきゃならないんだから」
「・・・・・・・・・できるかな、私に」
 俯き加減な、か細い声。
 カヲルは何も言わず、水色の髪に手を置いて微笑んだ。