第六話 暫し空に祈りて


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 土曜日の昼下がりのグラウンドは、遠くで時折運動部の掛け声がするくらいで・・・いたって静かだった。補習ついでに担任の雑用を手伝わされてこの時間になってしまったが、遊びに出るほどの時間もなし、かといって真っ直ぐ家に帰るには早い時間であった。仕方なく、本屋でも素見ひやかして帰ろうかと思いながら下駄箱から靴を出す。
 くたりとした靴紐を結ぶのに少しだけ手間取っている間に、女子生徒が二人ばかり、急ぎでもあるのかひどくあわただしく靴を履いて傍を駆け抜けていった。
「おつかれさまでした、碇先輩!」
 すれ違いざまにそう言って、会釈を残していく。そのスピードについていけず、すんでのところで言葉を選びそこなうところだった。
「・・・ああ、おつかれさま」
 ワンテンポずれてしまった挨拶は、女子生徒の耳に届いたかどうか。苦笑して、靴紐を結び終える。
 季節は移り、冬さえもこの街から去る準備をしていた。しかしまだ風は冷たく、陰鬱な曇天に花芽を抱いた街路樹の枝が果敢に叛旗を翻す。
「・・・・とうとう、同じ学年になっちゃうよ。カヲル君・・・・」
 溜息を風の中へ逃がして、肩を落とす。
 出席日数足りなくなるよ、とたしなめるレイに、「そうやって、シンジ君と同じ学年になるのもいいかもね」と笑ったカヲル。まさかこんな形でそれが実現してしまうなど、あの時は思いもしなかった。
 去年の4月、シンジ達のクラスに転入してきたレイ。そしてあの雨の日に、カヲルと出会った。あれから―――――――。
 晩夏の海の出来事は、あまりにもシンジの日常からかけ離れていて・・・ふと、何もかもが夢だったのではないかと思ってしまうほどだった。裏死海文書、『核』、ゼーレ、世の終末と再生、『人類補完計画』。いずれ絵空事としか思えないことばかり。
 だが、鮮烈な紅瞳が眼に焼き付いて、夢で終わらせない。
『そう、君には話すって約束したね。・・・僕の目的を。僕は、ヒトがどうなろうが知ったことじゃないんだよ。・・・ただ、レイを守りたいだけなんだ。だから、人類補完計画は阻止する』
 常に優しい笑みを湛えていたカヲルの紅瞳が凍てつくような光を放ち、硬い声は決然と宣した。
『・・・たとえ、君のお父さんを殺してでもね』
 その父の姿を、シンジはもう長いこと見ていない。ただ、生活費だけは変わらず振りこまれるので、カヲルの宣言がいまだ成就されてはいないとわかるだけであった。
 シンジを前にしてあまりにも無慈悲な宣言にも、シンジはまともに反応できなかった。シンジが何を言ったとしても、おそらくカヲルに翻意させる事などできないだろう。それだけの重みを、シンジはカヲルの言葉に感じていた。
 それだけの憎悪を受けるに値する罪を、父は犯したのか・・・。
 雪混じりになってきた風に、シンジはマフラーを巻き直しながらもう一度風の中へ顔を上げ、呟いた。
 風が言葉を運んでくれる事を望むかのように。

「・・・でも、もう一度、話がしたいよ。カヲル君・・・・」

 そして、加持リョウジ。
 飼主ゼーレの手を噛んだはいいが、ゼーレが健在なら地上に彼の居場所はない。どうなることかと首を竦めていたが、カヲルの言葉通りゼーレは完全に裏の顔を失ってしまっているようだった。経済機構としてのゼーレは形骸的に存在しているが、拘束力のある命令は降りていないらしく、加持は何事もなく年を越すことができたのである。
 本当に追跡を恐れるなら、彼こそ行方を晦ましても良かったのだ。それでも端目には安閑として用務員を続けているのは、居直りというより何をする気力も失せてしまったというのが当たっているかもしれなかった。
 それはさておくとしても、さしあたって生きていくために用務員世を忍ぶ仮の姿のほうが世間的に安定しているという事情も厳然と存在したのである。
「・・・・・最低だな、俺は」
 この一年、加持が己に向かって吐き続けた言葉を、今また本日二箱めの煙草の封を切りながら呟く。
 少しぐらいの危険は冒しても真実をつかむというのが、フリーのジャーナリストとしての加持の姿勢であった筈だ。それが、ゼーレに関わったばかりにおそろしく弱気になっている自分に気づいて愕然とした。挙句、子供たちが傷ついていくのをただ傍観していたのだ。
 そんなことに、ゼーレの脅威が薄れた頃になって気づく自分が更に腹立たしかった。
 カヲルの失踪は、決して静穏を求めてのことではない。表向き閉鎖された人工進化研究所との・・・否、碇ゲンドウとの最終決着をつけるためだ。
 今度のことで第3新東京市でのカヲル達の所在が知れてしまった以上、留まるのは危険だ。それは理解っている。だが、カヲル達が加持にすら所在を示唆せぬままに姿を消してしまったことが・・・・今更ではあったがひどくこたえた。
 カヲルにしてみれば、加持もゼーレも同じだった。そしてゼーレが事実上崩壊した今、加持の利用価値など爪の先ほどもないのである。それは理解っていたつもりだった。
 あの晩夏の海で、進行しつつある事態を把握しかねた加持がカヲルに説明を求めた。このままでは動けないから、と。だが、その問いはあまりにも冷然と遮られた。
『・・・だったら、動かないでください』
 一瞬、呼吸を停めてしまった。
 疎まれているのは百も承知。あてになどされていないことも十分理解っていたつもりだった。
・・・・・それでも。
 今はただ、無為であったことを償う機会が欲しい。そう願いながら、何も踏み出せずに季節がすぎた。
 その日、残っていた仕事を片付けてアパートへ戻ると、長くなった日もさすがに暮れていた。鍵を取り出して開けようとしたとき、その鍵が開いていることに気づいて息を呑んだ。
 そう、一年ほど前にはこういう状況シチュエーションも不審に思うことはなかった。留守中に堂々とあがりこみ、他人のパソコンを遠慮なく使っていた誰かのことが頭をよぎり、勢いつけて扉をあける。
 灯りはついていなかった。
 開いた扉の向こうに闇しか見出せず、一瞬だけ落胆した。・・・だが。
「いーから何でもないフリで入ってこい。何処で監視されてるかわからんぞ」
 闇の中の声はいけしゃあしゃあと指示してくる。だが、この時ばかりは逆らう理由もなかった。期待した声ではなかったにしても、聞き覚えのある声だったからである。
 扉を閉め、慣れない目で闇を探る。
「・・・・お前・・・」
「灯りぐらいつけろよ。野郎と暗がりで密談する趣味はないぞ。第一、怪しまれるだろうが」
 加持に否やはなかった。やや接触が悪いので点灯するまでに時間をくったが、灯りは雑然とした部屋と、おそらくは意図して窓に影の映らない位置に片あぐらで座を占めている横着な客人の姿を照らし出す。
「久しぶりだな、加持。例の、17th-cellの坊やはまだ・・元気か?」
 やや髪の色が淡く、目鼻立ちもはっきりしているが、それでも格別日本人離れしているというふうもない。年齢的には、加持と概ね同年代。あくまでも概ね、だ。
二十代後半から、四十代前半まで、どの年代と言われても納得できそうな風貌ではあった。
 実験体の少年の治療を頼んだことから結局まきこんだ形になった。件のコテージはいつの間にか人手に渡っており、電話は繋がらず、医院のほうもいつ行っても休診の札がかかっていた。よもや、ゼーレの手が回ったのではと不吉な想像もしたが、加持自身が無事である以上それも考えにくい。
 意図的に避けられている、というのが一番妥当な推測というものだった。
「高階・・・・・!」