第六話 暫し空に祈りて


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 皆、一年ばかり前のことを忘れているのかもしれない。シンジはそう思った。
 小鳥遊たかなしミスズと名乗った物静かな少女は、周囲の好奇の視線を意に介する様子もなく午前中の授業を受けていた。そして、4限終了の鐘が鳴るとともにふいっと姿を消してしまったのである。
 皆はただ、ちょっと毛色の変わった転入生に至極単純に興味を持っているのだろうが、シンジは違った。
 昼休みの屋上。5限がもうすぐ始まるこの時間に、シンジより他の生徒の姿はない。フェンスにもたれかかり、人気の少なくなったグラウンドを見下ろして、シンジは吐息した。
 漠然と、雰囲気が似ている。その程度のものなのだ。身内?そんなわけはない。レイは、カヲルとたった二人だと言っていたのだから。
 休み時間の度、シンジはよほど綾波レイの消息について訊ねようかと思った。だが、転校生の周りには人だかりができており、とても近づけたものではない。
「綾波を知らない? ・・・じゃ、あんまりにも莫迦みたいだよな・・・」
 状況としては、冬月タカミが転入してきたときと似ている。だが、人工進化研究所が事実上閉鎖し、カヲルとレイが第3新東京市から姿を消している今、タカミと同じ存在が今再び送り込まれる理由もない。
 何が起こっているのだろう。シンジは言い知れぬ不安に気温によらない寒気すら感じ始めていた。
 残酷なほど穏やかに微笑って、襲いかかる波の彼方へ消えた・・・カヲルと同じ顔をした少年。シンジには何もできなかった。何も言えなかった。何もかもが目の前で起こっていながら、シンジの手の届かないところで進行していった。
「もう、あんな思いはたくさんだよ・・・」
 フェンスの手すりに額を押し当てて、シンジは呻くように呟いた。
「具合、悪いの?」
 俄かに声をかけられて、シンジははじかれたように頭を上げる。つぶらな瞳が、不思議そうにシンジを覗き込んでいた。
 青銀の髪を微風に遊ばせ、青空を背景に佇む少女。悩み事の張本人が至近距離に忽然と現れたことに狼狽しつつも、シンジは瞬間、そのたたずまいに何かを連想した。
「た、小鳥遊たかなし、さんだっけ・・・・・」
 近くで見ると、レイよりすこし小柄で背も低い。顔立ちもすこしあどけなさが残っている。一年生といっても十分通用しそうだった。
「フェンスの上に突っ伏してるから、具合悪いのかと思って」
 かすかに首をかしげるしぐさで、シンジはつい先刻自分が連想したものを思い出した。昔住んでいた家の庭先に迷い込んできたジュウシマツだ。
「ごめん、そんなんじゃないんだ。ちょっと考え事してて・・・」
「ヘンだね。どうして謝るの?」
 くす、と笑われて赤面するシンジ。アスカなら「まぁ~たすぐ謝る!! そういうところが内罰的ってゆーのよ!!」と問答無用でビンタが飛ぶところだが。
 ・・・・そのアスカにも、このことは相談できないままだ。
 夏の顛末を、アスカにはすべて話した。シンジが見聞きし、言葉で語れるすべてを。・・・だが、シンジがそうであったように、アスカにもそれを理解することは難しかったようだ。ただ、荒唐無稽な話として片付けず、最後まできちんと聞いたうえで、こう言った。
『・・・そんなの、シンジが悩むことじゃないわ。シンジにはどうしようもできなかったんじゃない。ただ悩むことで自分を罰しようとしてるのなら、それはただの自己満足、あるいは傲慢よ。彼の選択をないがしろにしてるだけだわ。
 ・・・その彼が何考えてたのか、正直アタシにはよく理解らない。でも、これだけは言えるわ。もしアタシが彼の立場なら、シンジが胃に穴あけるくらい悩んだとして、これっぽっちも有難くない。むしろ、アンタをひっぱたきに来るわ』
 まっすぐな瞳で、ぐうの音も出ないほどの正論を突きつけられても、シンジは腹が立たなかった。アスカの言うことはまったく正しいのだ。おそらくは、シンジの懊悩も杞憂で一蹴してくれるに違いない。
『いずれにしても、行動につながらないんじゃ意味ないじゃない!』
「・・・そうだよね」
「何なぁに?」
「ううん、あの、小鳥遊・・・さん。君はこんなところで何してるの?もう、5限はじまっちゃうよ?」
「その科白、そっくりそのまま返したげる」
「あ、そか・・・・」
「碇 シンジ君だよね。朝からずーっと何か聞きたそうな顔してこっち見てたから、何か用かなって思って」
「えっ・・・あの・・・・」
 シンジの慌てぶりを明らかに愉しんでいたが、悪戯っぽい笑みをうかべて言葉をついだ。
「・・・で、声かけたんだけど、タイムリミットだね。冗談じゃなくて、5限はじまっちゃう。また後でね♪」
 そう言って、勢いよく身を翻す。軽やかな動作。端正な面を喜色できらめかせて駆け去る少女は、はぐらかしたというより本当に授業が楽しみのようだった。
「次の授業、眠いので有名な世界史なのに・・・好きなのかなぁ、世界史」
 些か間の抜けた感懐を呟いたシンジだったが、あることに気づいてはじかれたように階段を駆け下りた。
 世界史の教師は、遅刻者にひどく厳しいのだ。
 慌てて屋上の扉を閉めたシンジは気づかなかった。その様子を、校門脇の木陰でじっと観察している人物がいたことに。
 二人の人物はよく似ていて、そのくせ対照的だった。ここらあたりでは見かけない高校の制服。端正な造作はやや似通っていたが、一人は敵意に満ちた視線でシンジの居た場所を射抜き、いまひとりは穏やかなまなざしを注いでいる。

 放課後の喧騒のなかで、小鳥遊ミスズの周囲はやはり人だかりができていた。しかも今度は二年や一年の生徒までもが見物に押しかける始末である。
 アスカは注目の焦点が自分から逸れることがあまり面白くないふうではあったが、ミスズが教室から出るに出られなくなっているのに気づくと、実力を行使して道を開いてやった。男子生徒の一部からブーイングが飛んだが、アスカ相手にそれ以上の行動に出られるツワモノがいるわけもなかった。
 無事に下駄箱までたどり着いたとき、ミスズはアスカがたじろぐほど深々と一礼して言った。
「本当にありがとう。どうしようかと思ってたの」
「あ・・・アタシは自分がさっさと帰りたかっただけよ。礼をいわれる筋合いはないわね」
「もう、アスカったら」
 いま五つぐらい素直でないアスカの返答に、ヒカリがたしなめるように脇腹をつつく。
「それでも、助かりました。あんまり出てくるのが遅くなると、ちょっと困ったことになるし・・・・」
 屈託と無縁な笑みで返されて、アスカも少々調子が狂ったようだ。一瞬、二の句がなかった。
「あんた、何かぼーっとしてるわよね。疲れてる?それとも素なの?」
 失礼な質問もあったものだが、アスカはアスカの視点からレイとの共通点と相違点に戸惑いを感じているらしい。少女はといえば、普通なら貶されたとしか思えない問いに律儀に答える。
「たぶん・・・もとじゃないかと。きょうだいにもよく言われるもの」
「へえ、きょうだいがいるの」
 思わぬところで話の糸口がみつかり、シンジにしては褒められてしかるべきタイミングで質問をはさむ。
「ええ・・・・あ、そろそろ時間。じゃあ、またね。今日はありがとう」
 くるり、と身を翻し、ぺこりと一礼してグラウンドを駆けてゆく。
 取り残された格好のシンジ、アスカ、ヒカリはしばらくその軽捷な後ろ姿を見送っていた。
「なんていうかこう・・・いい子なんだけど、ちょっとテンポが掴みづらいのよね」
「・・・・同感」
 ヒカリの素朴な感想に、アスカが満腔の同意を示して頷く。似たりよったりの感想を抱いていたシンジは、何故ともなく彼女が走っていった先を見つめていた。
 校門のそばで待っている、二人の高校生。
 きょうだいってあの二人のことかな、と言いかけて、シンジは向けられた鋭い視線に思わず射竦められる。
「何、固まってんのよ莫迦シンジ」
 アスカが怪訝そうにシンジの眼前で手を振る。そして、シンジが凝視する場所に気づいて振り向いた。
「・・・見かけない制服ね」
 それが、アスカの感想であった。シンジを射竦めた人物は、その一瞬前に身を翻していたのである。
 視線を逸らせたことで身体の自由を取り戻したシンジは、思わず深呼吸してしまう。
「・・・何だか、睨まれたような気がする・・・・」
「彼女の言ってた『きょうだい』かしらね。だとしたら当然じゃない? 登校一日目にしてヘンな虫がついたと思ったんでしょ」
「虫って・・・アスカ」
 あまりな言われように何がしかの抗議をしようと試み、シンジはやめた。中学2年生をわざわざ迎えに来るほどの身内なら、それぐらいのことは思って当然かもしれない。何より、今この場でアスカに逆らったところで、一文の得にもならない。
 それよりも、既視感のある視線が引っかかっていた。