第七話 慟哭へのモノローグ


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 警報だ。
 実のところ、少し前から目は覚めていたと思う。だが、耳障りなサイレンに蹴飛ばされて跳ね起きた。
「バート、フランツ、ディータ、起きろ!空襲だ」
 同じ部屋にあと三つある寝台にいる子供たちを起こす。何度も訓練されたことだから、十代はじめの子供たちとて慌てはしない。決められた手順通りに非常持出袋を握って整列する。
 今まで空振りの警報は何度かあった。でも、今回は何かが違う。
「サッシャ、こっち完了」
 ドアを開けて、ユーリが顔をだす。廊下にはユーリ以下四名が整列していた。
よしGut! ユーリ、こいつら連れて先に壕へ行け」
了解jawohl!」
 サッシャが子供たちを送り出して反対側を向いたとき、暗がりから複数の足音を聞いた。一人、足りない。
「誰が居ない?」
 平静を装うつもりが、そうしきれなかった。
「大丈夫。ロッテが寝てるだけ。私が抱えてる」
 間髪いれずにアウラの声が返ってきた。
「俺が代わる」
 こんな事態でもうつらうつらしている最年少のロッテを背負って、防空壕へ走る。指定の防空壕には、既にユーリたちが待機していた。
「ユーリ、アウラ、後頼む」
 サッシャ達の身分は軍人ではないから、対空戦闘配備中に壕に入っていることはむしろ義務でもあった。だが、ふとあることが気にかかって警報の鳴り響く中、研究棟へ向かった。
 研究棟も灯は消され、人員は避難した後と見えた。考えすぎか、と踵を返しかけたとき、ラボの窓に紅い光が灯っているのが見えた。
 まさか。
 扉を開けたとき、まさかと思った光景がまさにそこに在った。
 悠然とデスクについたまま、掌中の紅珠を見つめる白衣を羽織った人物の姿。
 その珠の紅は、いつかサッシャが見たあの光に違いなかった。
「大尉、何してるんです!? 警報鳴ってるんですよ!」
 シュミット大尉はゆっくりとサッシャの方へ振り返ると、薄く笑んだ。
「・・・ああ、サッシャ」
 それは、ひどく哀しそうで・・・しかし、自嘲を含んでいた。
「・・・もう、時間がなくなってしまったんだ。ここで待つのも限界みたいだ。すまないね、サッシャ。君たちには、本当に申し訳ないと思っている。君たちにもう何もしてやれないのがひどく気がかりなんだが・・・」
 ガラスの微細な振動音と共に、爆発音が聞こえ始めた。
 焼夷弾も投下されたのか、窓の外が明るい。
「まだなにも伝えられていないのに、こんなことになってしまうなんて・・・」
 立ち上がると、ゆっくりとサッシャの方へ歩き出す。
「でもこれだけは信じてほしい。私は、君たちを苦しめるためにこの世界へ連れ出したわけじゃないことを・・・」
 窓のすぐ外で閃光がはじけ、轟音が窓だけでなく建物全体を震わせる。
 大尉がうるさげに窓を見遣った瞬間、目を疑うような現象が起きた。踊る炎が凍ったように動きを止めたのだ。それだけでなく、音の全てが消えた。
 凄まじい力が、音、光、熱・・・全てからこの空間だけを隔離したのだ。だが、むしろそれを理解できてしまったことのほうに、サッシャは恐怖を覚えていた。
 サッシャを含め、子供たちは・・・当時の科学常識からは解析不能な現象を引き起こす様々な特技・・を持っていた。だが、こんな無茶苦茶なものはかつて無い。
 以前から…この人は何か違うな、という漠然とした感触はあったが、それが確信に変わった瞬間だった。それはもう一つの仮定を含んでいる。
「大尉、あんたはっ・・・!」
「あまり時間がない・・・」
 確実に只人ではあり得ない。
 では何者なのか?
 その恐怖がサッシャの足をその場に釘付けにした訳ではなかった。ただ、それまで穏やかさによって丁寧に覆い隠されてきた深い愛惜と苦悩の翳りが、サッシャにその場から逃げることを禁じた。
 そして、伸べられた手から逃れる術を・・・サッシャは持たなかった。
「・・・っ・・・!」
 凄まじい痛みに声を失う。
 素手であったはずだ。だが、触れたのは焼灼された火箸にも似た感覚だった。・・・否、触れたときには確かに人間の手だったと思う。それが、一瞬にして強烈な熱量を発した。
 ぼやけた視界の隅で、紅い飛沫がデスクを染めるのが見えた。
 声もなくくずおれるサッシャを、大尉が支えた。ゆっくりと背後の戸棚へ縋らせながら座らせ、胸の傷にガーゼを当てる。
「済まない、痛みはすぐにおさまるよ。ただ、機能が安定するまで多少の混乱はあるかも知れない。それでも、自らの能力で読み出す・・・・のが最良なんだ。・・・彼等が死海文書と呼ぶもの、あれは文字を媒介にしてしまった時点でノイズが発生しているから、あれに固執する以上は誤謬を免れない。
 だが、君たちには知る権利がある。それも、なるべくノイズの少ない状態で。・・・行使するかどうかは君たちに委ねよう。無責任と言われても仕方ないが・・・」
「・・・行使・・・何を・・・?」
 何が起こったのか理解しきれてはいなかったが、声は出た。
 傷は胸骨直上。深ければ気管はおろか大動脈を損傷する。だが、瞬間の痛みを思えば、不可解なほど傷は浅かった。幾らもしないうちに、白い瘢痕を残して治癒する。痛みは既になく、血で汚れた襟元だけが、今ここで何かが起きたのだという証だった。
 それ自体は、もう嫌というくらい見慣れた現象。代謝速度を、緩急自在とは言わないまでもある程度コントロールして傷を修復する。それは生存の本能ではあろうが、人間としては明らかに規格外だった。
「・・・大尉、あなた何者です。俺たちと同じ存在ものと・・・思っていいんですか?」
 もはや、他に説明がつきそうになかった。そして、それは希望でもあった。・・・そうであれば良いと。そうあって欲しいと。
「・・・そうだと・・・よかったなぁ・・・」
 寂しそうに微笑い、立ち上がる。
「『破滅を導く者』・・・彼等は私をそう呼ぶらしいよ」
 それは多分に、自嘲を含んでいるように見えた。
「この基地は放棄されるが、彼等は君たちを人手に渡すつもりは決してないだろう。・・・先手を打たなければ大変なことになる。
 ・・・みんなを頼む、サッシャ」
 呆然から解放されつつあったサッシャの胸中に、沸々と怒りがこみ上げてきた。問いに肯定も否定もしないまま、遺言めいた台詞で別れを告げようというのか。
 一度、深く息を吸い込む。そして、肺腑の空気を全て吐き出す勢いで叫んだ。
「勝手なこと言わないでください。あんた、俺たちをどうしたいんですか。知っているんでしょう。・・・俺たちが何者で、何処へ行くべきのか!?」
 大きな呼吸が胸郭を軋ませ、塞がりかけた傷に引き攣るような痛みを走らせた。先ほどは出なかった涙さえ滲むほどの激痛に、思わず身体を折って呻く。
「・・・本当に、ごめん」
 辛そうな声音に、サッシャは僅かに顔を上げた。羽織った白衣の下、軍服のシャツの胸にも大きな緋色の汚点しみが浮かび上がっている。
 強制同調による一部体組織の再構成。
 言葉というより概念がサッシャの意識の中に無遠慮になだれこんで、身体を振り回されるかのような眩暈に再び目を閉じた。
私を赦してくれLibera Me…」
 朦朧とした聴覚にすべりこむのは、慚愧に身を切り刻むがごとき声音。血を吐くがごとき言葉。そう、この声を聞いたことがある。
「君たちを誰にも渡しはしない。・・・絶対に。君たちは、自分で未来を択び取るんだ」
 何かを、言おうとした。だが、大尉が肩に触れた瞬間、サッシャを天地が逆転したかのような衝撃が襲う。

「・・・っ痛!」
「「「「サッシャ!」」」」
 目を開けたとき、そこはアウラたちの待っていた防空壕であった。周囲には、数は少ないが基地の非戦闘員の姿もおぼろげながら見える。
 何かが起こる。それは確実だった。
「・・・ちびども、固まれ。全員いるな!?」
 サッシャの剣幕に子供たちは行動で応えた。それとほぼ同時に、地が震える。
 爆弾の炸裂とは次元が違う。壕の入口のほうからかすかに見える火災が一瞬で恒星のような光にまで膨れあがった。
 壕の入口から劫火が巨大な蛇となって侵入し、さして広くもない壕の中を一瞬で焼き払う。周囲の悲鳴は刹那でかき消された。
 できるかどうか、などと考えている場合ではない。やるしかなかった。周囲全ての拒絶。あのとき、大尉がやっていたように・・・熱も、音も、光も、全てを!

 結局、炎がおさまったあと・・・サッシャ達以外には、基地だった場所に生きた者の姿は存在しなかった。基地の存在した地点は瓦礫すらなく、巨大なクレーターが残るのみ。
 地下壕さえもすべて削り去るほどのクレーター。こんな凄まじい光景を作り出した何かは、既にそこには見当たらなかった。
 夜は明けた。だが、低く垂れ込めた雲は陽の光を遮り、そこから灰を思わせるような雪が舞い落ちる。
 無音の世界。ただ、くすんだ色の雪が降り、静かに全てを覆い隠す。
 それは、この世の終わりすら思わせた。
「サッシャ、怪我した?」
 さすがに目を醒ましたロッテが、サッシャの血に汚れた襟元を見て訊ねる。
「いや、これは・・・」
 もう治ってる、と言いかけて、触れた違和感に自身の胸元を見る。
「どうしたの、これ」
 アウラも気づいた。傷が癒えた後の白い瘢痕。そう見えていたものが、少し盛り上がって角質化している。
 その瘢痕は、嘴をもった髑髏のように見えた。
「何だこれ・・・」
 触れた途端、雷電を受けたかのような衝撃に思わずその場に座り込む。
「「「サッシャ!?」」」
 子供たちがわっとサッシャを取り囲む。額を押さえ、呻くようにして声を絞り出すまでには、幾許かの時間が必要だった。
「・・・いや、大丈夫だ」
 冷汗で濡れた額をやや乱暴に拭い、サッシャは立ち上がった。
「・・・大体、わかったよ。まあ、道々話すさ。とりあえず、ここから撤退だ。連中・・には、俺たちがここで消滅したと思わせないとまずい」

 ―――――そこから、欧州中を身を隠しつつ、転々とする日々が始まる。