第七話 慟哭へのモノローグ


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 片手を胸の上に置いて安楽椅子リクライニングチェアに身を委ね、高階マサキは静かに瞑目していた。
 だが、その額にはうっすらと汗が浮かび、肘掛けに置かれたほうの指先は時折かすかに痙攣に似た動きをしている。
 ミサヲは肘掛けに置かれたマサキの手に掌を重ね、その傍らに端然と座していた。顔色は平生と変わらないが、重ねた掌に痙攣を感じる度、僅かに目許を険しくする。
 ややあってマサキが目を開け、深く静かに一呼吸した。
「・・・大丈夫?」
 手を離し、ミサヲが問う。
「・・・キツいねぇ、正直なとこ」
 そういう台詞で、マサキが応えた。微かに浮かべた、枯れた笑み。
「観測結果はあまり変わらない。・・・このままだと、この惑星ほしは原初の海に還されるな」
「やっぱりそうなるの・・・」
「まあ、昨今穏やかな生活が続いてたもんで、観測を怠ってたからなぁ・・・いつの間にこんなことになっちまったんだか」
 身を起こし、くつろげた襟元からその瘢痕をまさぐる。嘴を持った髑髏のようにも見えるそれは、胸骨体部のほぼ真ん中に位置し、健常な皮膚と明らかな境界を持った表面は特異な角質で形成されていた。
 正確には瘢痕ではない。一種の器官・・であることを、マサキは確信していた。・・・無論、現生人類に該当する器官はないから、どんな解剖学文献を漁ったところで見つかるわけはない。自分達だけに発生するものだ。
 自分たちがどこから来たか。そして、何者であるか。それに関する情報を個体へ伝達ダウンロードするための器官モノ。なぜそんなモノが必要か?・・・それは、情報が失われる危機が存在したから。危機を乗り越え、生き延びた者に膨大な情報を歪みなく与えるため、遺伝子レベルに刻まれた遺産。
 膨大な情報――――ひとつの星の歴史とその終焉。滅びゆく星から蒔まかれた子らに託されたもの。
 ある意味、効率のよいやり方というべきなのだろう。本来、自分たちが正常な発生段階を踏めば自ずと形成されたのだろうが、おそろしく不自然な操作のためにそれが阻害された。
 ・・・だから。
 今となっては、シュミット大尉の呟きの意味が概ね理解できる。かなり手荒な方法であったに違いない。だが、それを知っていて、しかも実行することのできた者とは。実行しなければならなかった者とは。
 ・・・当然、現生人類リリンであろうはずもない。
「この歪みは、やっぱり2000年の事故・・の所為?」
「多分な。それと、ゼーレの尻馬に乗っかった挙句、盛大に蹴り落としたツワモノの所為だろうねェ。・・・全く以て、怖い御仁だよ。まあ・・・とりあえず、お茶にしよう」
 襟元を直してしまうと、マサキは何かを振り捨てるように立ち上がった。そして、既に賑やかな茶会が始まっている隣室のドアを開ける。ミサヲもそれに倣った。

 明るいリビング。皆が思い思いの場所に座を占めて(中には半分眠り込んでいるのもいるが)、菓子をつまみながら談笑していた。
「今日のおやつ当番誰だっけ?」
「ミスズよ。だからタルト・タタン。林檎の箱売りが安かったんですって」
「うわ、ボリュームありだな」
「最近・・・学校へ行き始めてからかな?すごく機嫌がよくてね。はりきっちゃって」
 こんな穏やかな日々が訪れることなど、あの頃は思いもしなかった。
 今、その静穏が破られつつあるとはいえ、あの頃に比べたら確かに穏やかなものだ。さしあたっては、こうしてみんなでのんびりと午後のお茶アフタヌーンティーを楽しんでいられるのだから。
 マサキは茶碗ティーカップから立ち昇る湯気越しの光景を見回して小さく吐息した。
 家族みんなが居て、ひとつのテーブルを囲んでいられる。こんな実に平凡なことが、とても貴重なものであると知る人間は、そう多くないのではないだろうか。
  平凡だけれど幸福な日々“Ordinary but happy days”。多くの人にとっては失って初めてわかるもの。だが、彼らにとっては長い忍耐の末にようやく手に入れたものであった。地下室や屋根裏を転々とし、軍靴の音に怯えた記憶は、半世紀以上の時間を越えてなお、薄れることはない。
 ―――――戦直後の混乱を利用して日本へ潜り込み、戸籍をでっち上げるには・・・高階夫妻の協力が不可欠だった。
 戦前から留学生としてあの国にいたものの、戦局の悪化で自国に帰るに帰れなくなったために、つてを頼ってスイスに逼塞していた高階博士。彼は、短期間ながらあの研究所の協力者だった。同盟関係にあったとはいえ、徹底的にアジア人を見下していたあの国では希有なことであったに違いない。
 それだけ高階博士が有能な人材だったということだろう。
 再会は偶然だったが、マサキが接近を試みたのは・・・場合によっては口封じの為だった。高階博士は、子供たちが何者であるか知っている可能性があったからだ。
 しかし、結果から言えばそれは拍子抜けするほどに杞憂であった。
 高階博士は、子供たちを非常に獲得困難な特殊抗体を持つ者としてのみ見ており、研究が頓挫した戦後となっては、「行き場をなくした不憫な孤児たち」という認識しかなかった。
 追手がかかっているかもしれない、というマサキの話を真っ正面から受け止め、急ぐつもりのなかった帰国を早め、その際に子供たちも日本へ連れ帰ることについて手を尽くしてくれた上、日本での生活が成り立つようにはからってくれた。
 高階夫妻が相次いでこの世を去ったのは、それから僅か数年後であった。
 戦直後の混乱期にそれだけのことができたのは、高階博士の実家が比較的裕福であったからに違いない。だが、縁もゆかりもない異国の子供にかける温情では説明がつけにくいほどの厚遇であった。正直、マサキとしては警戒もしていた。
 しかし、二人の葬儀を終えて理解ったのは・・・世の中には、そういう種類の人間が確かに存在するのだということだった。
 世界は醜く、残酷で、容赦ない。人間は保身や、栄達のために打算で動くものだし、良心と言われるモノはおそろしく脆い。

――――それでも・・・世界は美しい。

God’s in His heaven神は天にいましAll’s right with the world!すべて世はこともなし 

 そっと囁いてみる。
 自分達が何者であっても構わない。この世界の片隅で穏やかに生きていこう。そうすることが、高階夫妻の恩義に報いるただ一つの途だと思うから。
 シュミット大尉に関することについて、見当はついていたのに敢えて追及していないのもその所為だった。自分たちが何者なのか。それについては、長い時間に一応の回答は得ていた。納得したとは言い難いにしても、理解はできた。何とか、この場所で生きていく方策も見つかった。
 ・・・ならば、振り払われた手に固執することはないだろう。
『・・・そうだと・・・よかったなぁ・・・』
 寂しげなあの微笑は、胸奥にかかった小さな棘。だが、今更どうなるものでもない・・・。
 しかし彼同様、時間に置き去りにされた子供たちに、定住は難しい。怪しまれないように、日本国内外を転々としなければならなかった。
 新世紀となり、マサキとしてはもうゼーレとて諦めただろうと気を緩めかけていた。
 静穏の中でゼーレの影は遠ざかっていた。そもそも大昔の杜撰な実験の産物など、もはや生存を信じるほうがどうかしている・・・。
 そこへ、俄かにきな臭い風を送り込んできたのが加持だった。
 軍の記録には、空襲を受けたのは『サンプル』を搬出した後だということになっていた。搬出責任者がヨハン=シュミット大尉。海軍の協力を得てサンプルを国外へ搬出するために潜水艦に乗艦した後、潜水艦ごと消息を絶っている。表向きは「移送中の事故」で、実際にはシュミット大尉が自身と『サンプル』を人間の世界から永遠に遠ざけてしまうためにそうしたのだということは容易に想像がつく。
 潜水艦の乗組員には迷惑なことだったろうが、あの時点で選択することの出来た最善の方法であったことは間違いない。事実、半世紀以上それで隠しおおせたのだ。
 ・・・だが、人間というやつは。
「まさかあんなところまで行って、大昔の遺物をサルベージしようって酔狂な人間がいるとは思わなかったんだよなぁ・・・」
 『核』が発掘され、そこで発生した『事故』について聞いた時、げんなりするのを通り越して半ば感心しかかった。それが今になってこういう形で降りかかるとは夢にも思っていなかったのだが。
「・・・眉間に縦皺寄ってるわよ、サキ」
 紅茶の湯気の向こうが回想の幻でなく、ミサヲの苦笑であることに気づいて顔を上げる。
「全く、悩みは尽きんよ。お陰様でね」
 ミサヲの仕草に促されて、いつの間にか誰かがマサキの椅子の後ろに立って背凭れに肘をかけているのに気がついた。
「・・・サキ、実は・・・」
 水底のような静けさを纏う青年である。その眼はやや細い所為もあってか色調は一見判然としないが、至って穏当な光を湛えている。賑やかな年少組とは対照的だ。
 かつて、ユーリという名で呼ばれていたが、今は鯨吉ときよしイサナの名で検査技師として働いている。サッシャ、アウラに次ぐ年長であったためか、冷静で年少組の抑えに回るのが常の役回りであった。
 そのイサナが、子供たちに聞こえないようにか、声を低くして言った。
「イサナがそんだけ言いにくそうなところをみると、重たい話らしいな」
 マサキが苦い顔で言うと、生真面目なイサナが言い淀む。
「・・・サキ」
「悪い、言ってくれ」
 これ以上コトが増えちゃかなわんが、と思いながら、イサナの困惑は見え透いていたから先を促す。イサナはそれでも僅かな躊躇を見せたが、思い切ったように口を開いた。
「・・・こないだから、アベルが何かぶつぶつ言ってる気がする」
「・・・!」
 マサキの茶碗の中の紅茶が波立つ。
「・・・外見は変わらない。でも、確かに何か言ってる。内容がよく掴めないんだが・・・」
「いつ頃からだ?」
「はっきりとはしない。・・・だが、秋・・・くらいか・・・最初はいつもとそれほど変わりがないように思えたんで気にとめてなかったんだが、だんだん言葉がはっきりしてきた。あいつ、ここの言葉で喋ってるぞ」
「・・・日本語?・・・んな訳あるか、だってあいつは・・・」
「サキ、カップ。溢れるわよ」
 いつの間にかミサヲが傍に立っていた。茶碗の中で紅茶が生きたモノのように浮き上がりかけていたのを冷静に指摘すると、マサキは慌てて茶碗を置いた。紅茶が無事に碗に収まる。
「お前も感じるのか?」
 ミサヲは目を伏せ、ややあって うべなった。
「・・・ええ」
 マサキは天を仰ぎ、椅子に凭れて微かに吐息した。
「・・・いや、決して悪い話じゃないにしても・・・何か波乱の予感がするぞ」

 高階家には半地下のフロアがあって、その一室には個人宅としてはやや大きめの水槽アクアリウムが、壁際にずらりと並んでいた。
 その部屋には、採光の為の窓も、ドライエリアもあり決して暗い印象は受けない。だが、個々の水槽に付属の照明はあっても全体の照明はほとんど点灯されることがないため、突き当たりの一角は常に薄闇に占拠されていた。
 並んだ水槽は小さな淡水魚が数匹ずつ泳ぐばかりで、 水草ウォーターグラスが主体と見えた。いずれも手入れが行き届き、澄みきった水の中で宝石のような緑が揺らめいている。
 マサキとイサナ、それにミサヲがその扉を開けたとき、その部屋はいつも通り・・・水を循環させるための微かなモーターの唸りとエアレーションの音しかしなかった。
 イサナが手近な水槽から順に水温のチェックを始める。口の中で何か呟いているのは、水槽の中の小さな住人たちに話しかけているのである。
 水棲動物と意思疎通するといういささか童話めいた特技は、マサキはもちろん他の誰にも真似はできない。イサナによれば、別に 相手サカナがヒトの言葉を解する訳ではなく、一種のエンパシー能力で読みとっているということらしい。それでいくと、一応疎通しているというなら魚類にもそんな能力があるのかというと・・・やはり「理解る奴と理解らない奴」はいるという。
 手前から順番に水槽を回っていたイサナが不意に顔を上げた。
「・・・ほら」
 マサキは、部屋のほの暗くなっている突き当たりまで進んだ。リノリウムのフロアから三段ほど降りれば、その部屋の幅一杯を掘り下げた深い水槽になっている。手前は腰の高さまでガラスになっているから、水がこちらへはねてくることはない。ちょっとした水族館なみの施設ではあった。
 しかしそこは照明が消えており、水の中は薄闇に沈んでいた。
 マサキが壁のスイッチに手を触れた。壁に埋め込まれた小さな照明が点灯し、巨大な水槽に光を投げる。他の水槽と違い、植栽は一切ない。その水も、淡い橙赤色のように見える。濁っている訳ではない。 通常ただの水ではあり得なかった。
「・・・起きたのか、アベル?」
 おそろしく殺風景なその水槽に向けて、マサキは問いかけた。
 そこには胎児のように緩く身体を丸めた・・・人間の形をしたものが浮遊していた。体格としては十代半ばというところだろう。やや華奢ではあるが肩幅などからは男児と見えた。髪や膚の色は淡く、身体を覆うほどに伸びた髪がその面差しを見えづらくしていた。
 イサナも降りてきて、片手をその水槽に浸して瞑目していた。
「・・・だめだ、また眠った」
「そうか・・・」
 子供たちは環境によく適応していた。外見すら、長い時間の間に少しずつ変化させてこの国に馴染み、それなりに生活できている。だが、何にも例外はあるもので・・・ただ一人だけ、適応不全を起こしてしまった。
 かつてアベルと呼ばれていた、線の細い少年。おそろしく感応系の能力が高かったが、コントロールが未熟なために周囲の感情を絶えず拾ってしまい、徐々に疲弊していった。そして、終には外界からの刺激をほとんど受け付けない状態に陥ってしまったのである。
 食べも眠りもせず、ただ蹲って虚ろな視線を宙に彷徨わせる。このままでは生命維持に支障を きたすと考えたマサキ、ミサヲとイサナでこの環境を作り上げたのであった。
 だから、アベルはこの国に来てほとんどまともに外界と接触する機会を持たなかった。この国で生活するための名前も持たず、ひたすらに外界との接触を忌避して眠り続けていたのである。
 だが、それをアベルの弱さと断じる訳にはいかなかった。アベルは、ただ一人・・・マサキと同じ器官を、しかもマサキのように外部からの介入なくして持っていたのである。
 能力のコントロールがきかなくなってしまうまで、アベルはどちらかというと好奇心旺盛な子供であった。マサキが時々『観測』をしているのに興味を持ち、嘴を持った髑髏のようなその瘢痕に触れて、何らかの情報を読み取ってしまったらしい。数日の高熱に苦しんだ後、その胸にはマサキと同じ瘢痕のような器官が出現していた。
 おそらくは、強力な感応力と相俟ってオーバーフローを起こしたのではないかというのがマサキ、ミサヲ、イサナの共通見解であった。
『まあ、とどのつまりサキは図太かったのよね』
 ミサヲあたりは至極単純にそう断じる。のだが、せめて能力のコントロールに長けていたとかいう説明の仕方はないのかと訊いてみたが、『そんな上等なモンかしらね』と一蹴された。
「何故、今、このタイミングか・・・ってことよね」
 長く眠りについていた同胞が目覚めようとしている。本来なら喜ばしいはずのことに、マサキやイサナが手放しで喜べない理由がそこにあることを、ミサヲがそう総括してみせた。
 それは、ミサヲもまたそう感じていることを意味していた。
「アベルを眠らせたのは、あくまでも環境へ適応させるための一時的な情報遮断だった。・・・そうだよな?」
「ああ」
 確認するかのようなマサキの問いを、イサナは首肯した。ミサヲも賛同する。
「・・・だとしたら、適応するための準備が彼の中で整いつつある、という解釈はできない?」
「まあ、他の解釈は難しいだろうな。・・・だが、何故今だ?もう少し早くても良かったんじゃないのか?」
 マサキは、なおも釈然としない様子で顎を撫でながら、淡い光に照らされる橙赤色の水面を凝視みつめていた 。