2000 A.D.――――
EVER AFTER
The departure
Act.1 夏への扉
梅雨も明けきらないというのに、蝉の声が喧しい。
「転校?」
下校途中のことだ。まるで「明日、学校休む」というような何気なさで卒然ときりだされた別れの挨拶に、加持リョウジは思わず一瞬立ち止まった。
それでも言った方は全く歩調を変えない。5歩ばかり後れた時、ようやく我に返った。足を速めて追いついた加持を一瞥するでもなく、彼は恬淡と告げる。
高階マサキ、といった。ハーフだかクォーターだかというのは、色の淡い髪とその顔立ちを見れば詮索するのも野暮というものであった。成績は上位、女子に十分騒がれる容姿でありながら妙に存在感が薄く、あたりまえのようにそこにいる。水のように、風のように。それでも話をすると面白いし、帰る方向が同じだからなんとなく一緒に帰ることが多い。
つまりはその程度だ。
「ああ…ってか、引っ越しだな」
「何だ、遠いのか?」
「さしあたってはハイランドのインヴァネスまで来いと。そこから先はまだ聞いてない」
「は?」
「…イギリス。スコットランドも北のほうな」
「またえらく遠方だな。…親父さん、海外へ転勤でもするのか」
「いや、俺ひとり」
「…すまん、状況がよくわからん」
「心配するな、俺にもよくわからん」
「おいおい…」
「向こうに母方の親戚の家があって…そこへ引き取られるらしい。…まあ、何だ。俺はもう此処では暮らせないんだと」
「…何か、あったのか?」
複雑な家庭の事情、というやつだろうか。確かこいつの親は大学の教授か何かだった筈だ。揉めようのないほど安定した家庭のイメージだが、人の家のコトはわからない。突っ込んで訊いて良いものかさえ。
「あったといえばあった…いや、ある、か。現在進行形だな。ああ、そんな深刻な顔せんでくれ。別に家庭内争議で此処に居られなくなった訳じゃないから。俺にもまだちょっと…整理が付いてない話でな。向こうに行ったら何か手がかりみたいなものがあるかも知れないんだ」
しかし今ここで、それを話すつもりはないらしかった。…そういう奴だ、こいつは。
「じゃ…整理がついたら話してくれ、高階」
「…そうだな」
それほど深い付き合いがあったわけでもない。女子じゃあるまいし、手紙を出すの出さないのという話にもならなかった。いつもの角で、いつものように別れるだけだ。
皆は加持のことを掴み処がないというが、当の加持はこいつには及ばない、と思っていた。人当たりは良いくせに決まった友人らしきものがいないのはその所為だろう。加持とて、友人を自認するほど自惚れてはいなかった。
いつもの角。高階がふと足を止めるから、加持も釣られて立ち止まる。見ればそこに、車が駐まっていた。
きちんとスーツを着こなした、白髪…いや、見事な銀髪の人物が車のすぐ傍に立っている。髪の色に一瞬騙されたが、まだ若い。どう見積もっても二十代というところだろう。
「…何で」
高階が低く呟く。
「知り合いか?」
「知り合いというか…まあ、知ってるな。一応」
複雑な物言いに加持が思わず首を傾げた時、銀髪の人物がこちらを認めた。気軽に手を挙げ、満面の笑みを浮かべて歩み寄ってくる。それはもう、小走りに近い。
「見つけた!」
加持が思わず身を退いてしまう勢いだったが、高階は何やら諦めきったような表情で立ち尽くしている。
その身長は自分たちよりも頭ひとつ分高いだろう。決しておさまりが良いとは言えない銀の髪。端正といっていい容貌に人好きのする笑みを浮かべて駆け寄って来たかと思うと、その人物は大層な勢いで高階に掴みかかった。
否、度外れて荒っぽいがハグというのが正解。
「…向こうで待ってる、って話じゃなかったか?」
「待ちきれなくて迎えに来ちゃったよ!」
銀髪の人物はそう答えながら、高階をがっちりとホールドし、色の淡い髪をくしゃくしゃと撫で回す。だが、高階の問いはその人物ではなく、その後方…運転席から降りてルーフに肘をついている人物に向けられたものだったようだ。
濡れ光るような黒髪と深く鋭利な光を放つ双眼が、銀髪の人物といっそ見事なほどの対称を成しているが、負けず劣らず年齢が読めない。
この情景に小さく嘆息してから、頭痛を堪えるようにこめかみに指先を当てて口を開く。
「驚かせて済まん、サキ。…大人しく待っていてくれと言ったんだが、すっかり舞い上がってて、聞く耳持たなくてな」
「…だからって往来で待ち伏せるか?」
「それも止めた。せめて高階の家で待てと。…これでも褒めて欲しいくらいだ、本当は校門のところまで押しかけるつもりだったんだからな。それじゃまるで変質者だとようやく説き伏せたんだ」
そう言って深く嘆息する。それを見咎めたか口調で察したか…銀髪の青年が不満げに半身振り返って言った。
「酷いなぁ。それじゃ僕ひとりが燥いでるみたいじゃないか。イサナだって、日本に来るのは反対しなかった癖に」
「俺ぐらいついて行かないと、またお前一人で動くだろう…あんまりアウラの心痛のタネを増やすな」
「何だ、アウラの差し金か…」
銀髪の青年がむくれたようにぼやく。それでもまだ両腕はあからさまに迷惑げな高階をひしとハグしたままだ。
どうにも、傍で聞いていると見かけの年齢と言動が一致しない。丁度真逆だ。いい歳した大人である人物が一番子供っぽくて、自分と同年の高階が一番落ち着いて見えた。
「…でもまあ、結果一緒だな。通報したものかどうか思案している御仁がいるようだ」
イサナと呼ばれたその人物に突如として話を向けられ、加持は慌てた。指摘されたとおり、加持はポケットの中で防犯ブザーを探っていたからだ。それなりに距離はあったし、死角だと思っていたのに。
「いや、俺は…」
「ああ、大丈夫だ、加持。…言動が奇矯なだけで変質者でも誘拐犯でもないから。少し、他人との距離感が壊れてるだけなんだ、このひと」
「サキまでそんなこと言う…?」
銀髪の青年が傷ついたように腕をほどいて一歩退がった。しかし実に素早く気持ちを切り替えたようだ。にこやかに加持に向かって手を差し出す。無邪気としか言いようのない微笑に細められる、印象的な紅瞳。
「ええと、サキのお友達?」
「友達っていうか…まあ、同じクラスで。加持といいます。加持リョウジ」
「ふうん。リョウちゃんって呼んでいい?
僕は渚カヲル。サキの、ええと、まあ遠い親戚みたいなものさ。でも、今日から家族。今回は急なことで吃驚させちゃったと思うけど、別に今生の別れって訳じゃない。縁があるなら君ともきっとまた会えるよ。
その時には、僕のこともカヲルって呼んでくれると嬉しいな」
初対面の人間を掴まえてリョウちゃんときたか。『距離感が壊れてる』という高階の説明には十分な説得力があったが、いきなり往来でハグされるよりはるかにマシというものであろう。そうしてみれば、存外、完全に常識がないという訳でもなさそうだ。
驚いたのは確かだが、差し出された手を拒む程の理由はなかった。
繊細な容貌に見合った色白な手ではあったが、親指と小指の外側のラインがかなり発達していることに加持は微妙な違和感を感じた。それが、日常的にピアノを弾く手の特徴であったことは…後になって知った。
「じゃあな、加持。また…『縁があったら』」
苦笑雑じりに小さく手を振った高階に、何と言って返したのか憶えていない。高階を乗せて走り去る車を見送った後、加持は蝉時雨の中を再び歩き始めた。
中二の初夏。いつだって微風と共に潮の匂いがする、海の見える小さな街での出来事だった。