Act.2 遠い空の向こう
真希波・マリ・イラストリアスは、宿舎として貸与されているセミデタッチドハウス1の古風な天井を眺めて吐息した。
『先輩、あたし…ゲンドウ君との幸せを願ってますよ。遠い空の向こうから』
心にもないことを言ったわけではない、と思う。だが、結構ムリしてたな、という自覚はある。ただ、あの時はそういう台詞で自身の想いにケリをつけたつもりだった。
キレイで、可愛くて、頭脳明晰で、それでいてちょっと抜けてるところもある…優しすぎる女。いっそ憎らしくなるほど好きだった――――。
セントフォード大学・アレックス教授の特別研修生として渡英してそろそろ2年。日々をそれなりに楽しめている、と自分では思っていた。少なくとも、日常的に彼女のことを思い出さなくて済む程度には。眼鏡だって、あのひとに貰ったものではあるけれど、今では確かに自分の一部と思えるくらいには。
憂鬱のタネは、ここのところの身体の変調。否、変調そのものというよりは、その原因が思い当たらないことにあった。
眠くないから眠れない。お腹が空かないから食事がとれない。じゃあ、その所為で目の下にクマができたり痩せたりするのかというと…そうでもない。夜に眠れないから昼間眠たくなるかというと、別段そういうこともない。
最初は食費が浮いて、本を読むために使える時間が増えたと思えば良いか、と居直ってみたが、それが1年以上にわたると流石に不気味だ。
一体どうしてしまったというのだろう。
もともと身内と縁薄い身の上だから、異郷での生活が身に堪えたわけでもない。水が変わり、食生活が変わった所為?いや、確かにこちらの料理は関西の味に慣れた舌には少々刺激が強い面もあるが、当初は確かに美味しかった。…というか、今でも別に不味くて食べられないとは思わないのだ。ただ、身体がそれを欲しない。
だからつい食事を抜く。ベッドにも入らず本を読んでいる。…諸々手間は省けるし、手持ちの時間は増えるというだけで、今のところ不都合はない。
ないのだが…。
ふと気付く。周囲は薄闇に包まれていた。
「…え?」
違和感に襲われて飛び起きる。軽い眩暈を感じて片手で額を抑え、もう片方の手でベッドサイドテーブルにあるはずの眼鏡に手を伸ばす。指先に当たり、軽い音がして眼鏡がテーブルから滑り落ちた音がした。思わず舌打ち。
「珍しい…寝てたのか、あたし」
ベッドに横になっても眠れないから、滅多とベッドに入らない。そんな中で、今日は何となく帰宅した途端に身体の重さを感じてベッドカバーもとらないまま寝転がったのだった。それが…何時だった? 薄闇に、時刻を疑う。初夏の英国は夜九時近くなっても薄明るい…。
そろそろとベッドを降り、四つん這いになって眼鏡を探す。
薄闇の中で裸眼のまま眼鏡を探すという行為がひどく非効率なのは判っていたが、灯りを点けに立ち上がった直後におもいきり踏む、というのは実にありそうだったから回避した。そうして何とか眼鏡を探し当て、改めて枕元の時計を見る。
時計は八時過ぎを示していた。帰ってきたのが二時過ぎだから、ざっと六時間弱は眠っていた勘定である。大きく吐息してそのままベッドへ座り込む。
「なんだろうなー…」
頭がぼんやりする。身体の重さが残っているものだから、薄闇に座したまま、漫然と昏い室内を見ていた。
ふと、部屋のドアが開く。
「起きたわね」
ドアを開けたのは、長身の女性。腰まである銀髪は着ている深い青のワンピースの色を映したかのような薄青い光沢を湛えている。
「…えーと、どちらさま?」
借家とはいえ、自分の家には違いない。そこーしかも寝室ーに実に自然に入ってきた者に対して掛ける言葉ではなかったような気がするが、マリとしては他の言葉が出て来なかった。
「あら冷静」
女性が笑う。自分よりは歳上、というぐらいしか見当がつかないが、歴然たる美女だ。それも、怜悧と評されるタイプの美貌。
「レミー=シェーンベルクよ。隣の者だけど…いっぺん、挨拶はしたわよね?」
「あはは、そーでしたっけ?で、そのMiss.シェーンベルグがどうしてここに?」
マリの返答にレミーは小さく嘆息して一度天を仰ぎ、向き直って言った。
「あんたんとこの教授に生存確認してくれって頼まれて、昨日今日と様子見に来てたのよ。…やっぱり自覚なしか。とりあえず灯りつけるわよ。それでもって、その時計で現在時刻、特に日付を確認して頂戴」
「…へ?」
思わず間抜けな声を上げて、マリは電波時計に両手で掴みかかった。記憶にある日付から、五日あまり経過している。
「えーと…これ…あの…あたし、五日も転寝してたってことっすか!?」
「まあ、そうなるわね」
レミーがやや面倒臭そうに、青銀の頭を掻く。
「驚くのはムリないと思うけど…とりあえずアウラ…アレックス教授んとこへ、今から一緒に来てもらって良いかしら」
「や、心配かけたっていえばそーなんでしょうけど、良いんですかこんな時間に?」
「構わないわ。アウラも私もあなたと同じで、時間なんてあんまり関係ないから」
何気なく投下されたその言葉に、マリは思わず声を呑んだ。
「今…あたしとおなじとか…仰いました?」
「ええ、言ったわよ。…眠りたくないし、食べたくないでしょ。そのくせ身体は別に何も調子悪くない。…あぁ、でも今回はちょっと…ね。それについても、正確な知識を持っておくべき時期に来たみたいだから。アウラから…あなたが目覚め次第、呼んできてくれって言われてるの」
「アレックス教授…がですか?」
「彼女もそうだから。アウレリア・ミサヲ=アレックス…あんたんとこの教授は、おそらく存命する最年長のライゼンデよ。とりあえず彼女の話を聞いてみることね」
「…旅人?」
「誰が言い出したのかは知らないケド、便宜的な呼び名よ。でもまぁ…言い得て妙、かな。
で、どう?動けそう?なんなら担架持ってくるわよ?」
「いやいや、動けないわけじゃないですよ。…多分」
ぐずぐずしていると荷造りして運ばれかねない勢いだ。マリは緩々と立ち上がった。キツネにつままれたようではあったが、とりあえずアレックス教授の下へ出頭せねばなるまい。まかり間違っても他家を訪問する時間ではないが、案内してくれるという隣人がさっさと車のキーを取りに行ってしまったから、とりあえず顔だけでも洗ってからと思って洗面所へ行った。
だが、灯りを点けようとして…薄闇の中に浮かび上がる自身の双眸に気づいて手が止まる。
――私の眼…こんなに緑がかってたか?