Act.3 プラタナスの木陰で
『リッちゃん、授業が午前中で終わるなら、外で食事してから一緒に帰りましょう』
その日届いた母のメールに、赤木リツコは少なからぬ驚きと僅かな当惑、そして紛れもない嬉しさをもって承諾の返信をした。
母は、いわゆる第7世代有機コンピュータの開発に携わる技術者だ。リツコが物心つくまえから研究ひとすじで、研究所に泊まり込むことはざらにあったから、気が付くと半月ばかり母の顔を見ていない、というのも珍しくはなかった。
そんな母だがリツコが小学生だった頃から頻々とメールだけは送ってきた。電子通信という分野がまさに日進月歩の急速な発展を遂げた時代とはいえ、いわゆる電子メールという手段がその頃まだ世間的にはまだまだ実験段階であったことは、リツコ自身が技術者として開発に携わるようになって気付いたことだった。
――――あるいは、娘とのやりとりも母にとっては楽しい実験のひとつであったのではないかという気がする。
中学は母の勤務する大学の付属だったから、リツコは歩いて移動できた。
だが、プラタナスの並木道を抜け、母の研究棟の前まで来てからはたと考える。一応最先端といわれる分野の研究施設だ。身内だからと言ってひょいひょいと入れてもらえるものだろうか?
滅多にない誘いに、自分らしくもなく少しうわついていたのだろうか。そう思うと何だか少し口惜しい気がした。だが、その時不意に後から声を掛けられて心拍が跳ね上がる。
「ひょっとして…赤木博士の娘さん?」
「は、はいっ!」
弾かれたように振り返りながらの返事は、裏返る寸前のトーンになってしまった。
そこには、書類や模造紙を両手一杯に抱えた大学生…というより、どうもまだ高校生ほどにしか見えない人物が立っていた。
「ああ、ごめんね。吃驚させるつもりなかったんだ。赤木博士から聞いてるよ。お母さん、迎えに来たんだよね。おいでよ、案内してあげる。…よいしょっと」
そう言って、両手一杯の荷物を少々無理矢理に片腕に寄せ、空けた手で首から提げたIDカードを扉脇のカードリーダに読み込ませる。軽い音がして、鍵が開いた。そのまま絶妙なバランスをとりながらドアノブを廻し、身体でドアを押し込みつつ荷物が崩れる寸前に両手で持ち直した。肩でドアを押さえ、立ち尽くすリツコにもの柔らかな微笑を向ける。
「どうぞ?」
「はい、ありがとうございます。あの…少し持ちましょうか?」
リツコが掛けた言葉に、自身が荷物を抱える様子がひどく危なっかしく見えることを認識したらしい。
「はは、有り難う。大丈夫だよ。それに、君だって結構重たそうな鞄かかえてるじゃない」
確かに学校帰りそのままの格好だから、リツコは鞄を持ったままだ。余計なことを言っている間に入ってしまう方が親切というものだろう。
リツコがあたふたと玄関に足を踏み入れる。彼が扉からすっと身を退いた一瞬に見えたIDカードは、学生用でなく外来者用だった。
栗色の髪と、もの柔らかな緑瞳。風体からして学生だと思ったのだが、違うのだろうか?
入ってすぐ横の事務所、その受付窓口のカウンターテーブルに両手の荷物を置くと、受付窓口の奥へ向かって声を掛ける。
「ごめーん、だれか赤木さんに声かけてくれないかなー。お嬢さん、来られましたよって」
リツコの位置からは事務所の中までは見えなかったが、遠くの方から声が返ってきた。
「赤木博士ならラボですー。来客中」
「えー?しょうがないなぁ。まぁだ話し込んでるんだ?」
「あの、私、待ってますから」
リツコは慌てて言った。母とは学校が終わってから、という曖昧な約束しかしていないのだ。仕事の邪魔にはなりたくない。
「遠慮しなくていいよ。〝客〟の想像はついたから。僕もあのひとをそろそろ連れて帰らなきゃならないし、丁度いいや。うん、ちょっとこれ、置いてくるから一緒に行こう。
お母さんの職場、見てみたいでしょ?」
問答無用な段取りのつけようだが、不思議と押しつけがましい感じはしなかった。断る理由はない。確かに母の仕事には興味はあったから、素直に頷いた。
「はい、お願いします」
一旦事務所へ入って両手の荷物を置いたその青年が、奥への扉を開けてリツコをさしまねいた。
「赤木リツコさん…で、よかったよね? 鞄、重いでしょ。ここに置いていっていいよ?
僕は榊。榊タカミ。いつもはイギリスの大学にいるんだけど、今回は上司のお供。お母さん…赤木博士には、来日とか滞在の手続きでとってもお世話になったんだ。暫くこっちにいるから、よろしくね」
言葉は極力平易を心がけているふうではあったが、子供相手に至って丁寧な自己紹介ではあった。上司、というからにはおそらくもう学生ではないのだろう。思ったより歳が上なのかも知れない。榊の後について、リツコは歩き始めた。
コンピュータ開発にも様々な分野があるが、母が関わっているのは生体部品を用いる…いわゆる有機コンピュータといわれる領域だ。生物細胞が持つ潜在能力を引き出し、高速並列処理を可能にしようという試みである。その所為か、行き交うスタッフは白衣姿が多かった。付属中学のブレザー姿のリツコとしては、最初は妙に目立ってしまう気がして気後れしたが、すぐに周囲への興味に引っ張られる。前を行く榊は、前を向いて歩いているのに何故かリツコが目を留めたものがすぐに判るらしく、驚くほど的確に説明をしてくれた。
それほど広大な施設というわけでもないので、すぐに目的の部屋に辿り着いてしまったのが…いっそ惜しい程だった。
その部屋には、パソコンを載せた金属のメッシュラックが林立していた。
並んだパソコンはひとつ残らずカバーを取り払われている。そして、ラックも人間の通る隙間をあけているというより、パソコンの放熱のための間隙というのがありありと判る配置であった。
そのラックの間で、立ち話をしているやはり白衣の女性が二人。
サーキュレータ代わりなのか、業務用の大きな扇風機が稼働していて…白衣がその風にはためいていた。
開けた扉を更にノックしながら、青年が遠慮なく半畳をいれる。
「あーいたいた。討論ならちゃんとディスカッションルームでやってくださいよ。こんなところでお二人の議論が白熱したら、この部屋のマシンが一台残らず熱暴走1しちゃうでしょうが。
まったくもう、リエさんたら…まだこっちに残ってたんですね。赤木さんも!姫様待たせて何やってるんですか。今日は約束の日でしょう」
そう言って榊がすいと身を横に滑らせる。リツコは母と、もうひとりの女性の正面に俄に立たされた格好になって、少しだけ慌てた。
濡れ光るような見事な黒髪を腰辺りまで伸ばした長身の女性。母と同い年くらいか?…否、もっと若い。鼻筋の通った、歴然たる美女。切れ上がった両眼の虹彩は、鳶色というより限りなく緋色に近かった。
「ああ、連れてきてくれたの? よくリッちゃんが判ったわね、榊君」
母が驚いたように言うと、榊はへらっと笑った。
「それはもう、博士似の美人さんが研究棟の前で行き暮れた感じで思案してたからすぐにわかりましたよ」
「あらお上手。ありがとう。リッちゃん、待たせちゃってごめんね?」
「それとリエさん、さっさと帰りますよ! 滅多とない親子水入らずの休暇を邪魔したら、お嬢さんに申し訳ないでしょう」
「ふーん…あんたが女の子ひっかけてくるなんて珍しいと思ったら…何だ、そういうことか」
黒髪長身の女性が凄味のある笑みをした。譬えて言えば、猫科の大型肉食獣が動けない獲物を爪下に抑えたときのような。
「ひっかけるって…リエさん! そんな、不審者が声掛けしたみたいな言い方しないでくださいってば!」
榊が俄に慌てるのを愉しんでいるのは明らかだった。くっくっと低く笑ってから、リツコに対してはいたって穏やかな…やや悪戯っぽくすらある微笑を向ける。
「リツコさん、よね? …お母さんを引き留めてしまってごめんなさい。
セントフォード大学のレベッカ・R=ランバートよ。ほんと、ナオコそっくりの美人さんね。ナオコの研究にも興味持ってくれてるんだって?優秀なブレーンと聞いてるわ。縁があったらまた会いましょう」
思わず息を呑んだ。レベッカ=ランバート教授といえば、コンピュータシステム開発に関わる者なら誰でも知っている…教科書で必ず目にする名前だ。こんなに若かったなんて!
「じゃあナオコ、私はこれでお暇するわ。…久し振りの休暇でしょ、ごゆっくり」
「ありがとう、レベッカ。お言葉に甘えるわ。榊君もありがとう」
「どういたしまして。リツコさん、今度はもっとゆっくりお話ができるといいな」
「あ、はい、お世話になりました…」
榊の〝上司〟というのはランバート教授だったようだ。何だか色々ありすぎて、少々頭の中がパニックになってしまっている。二人を見送るともなく見送って、リツコは母を振り返った。
「ごめんなさい母さん。来るの、早かった?」
「とんでもない。母さんこそごめんね、リッちゃん。ランバート教授はうちの教室でお預かりしてる大切なお客様なの。そうは言っても見ての通り気さくな方だから、いつもつい話が弾んじゃって。
実は今、あるプロジェクトのメインシステム設計に携わってみないかって誘って頂いてるの。今私が考えてる人格移植OSを載せたシステムを、本格運用できるかもしれないのよ」
常は冷静な母が、頬を紅潮させて語るのを…リツコは軽い驚きと共に見上げる。
「プロジェクト?」
「そのうちリッちゃんにも手伝ってもらえる日が来るかも知れないわね。さ、食事に行きましょうか」
母の手を背中に感じながら、歩き始める。
可能性を見つけた時の、母のきらきらした横顔は好きだった。
母は時折、時には諧謔を込めて、時にはやや沈んだように…『母親らしいこと…何もしてあげられなくてごめんね』と言うが、その『母親らしいこと』とやらの定義がいまひとつピンとこないリツコとしては、それが悪いことなのかどうか…判断がつかない。
むしろ、優秀な科学者である母は誇りだった。
「そういえば…リッちゃん男の人は苦手っぽかったけど…榊君は平気だったみたいね?」
先程のランバート教授の凄味のある微笑と…なにか微妙な共通点を持った笑みを閃かせて肩に手を回す母に、思わずたじろぐ。
「え、母さんなにそれ!」
「冗談よ! でもまあ、先刻のレベッカの台詞じゃないけど…〝縁があったら〟また逢えるかもね。さてさて、何食べる?母さんデリバリーばっかり…しかもスタッフ任せであんまりまともに考えたことないのよね~」
「仕方ないなぁ…」
そう言いながら、此処に来るまでに通った学生寮の前で貰った学生向けのミニコミ誌を鞄から引っ張り出す。普段なら見向きもしないものを敢えて手にしたのは、確かに母との時間をいくらか楽しみたいという動機があったに違いない。
パラパラとページをめくりながら、母の台詞がリフレインする。男の人が苦手。直接に会う機会はとても少ないのに、どうして見抜かれたものか?学校は共学だから当然クラスにも当然男子はいるし、口もきけないほど緊張するというわけでもない。
ただ、話をしていてもつまらないだけだ。そう、言い訳めいた思考を巡らせていて、ふと気付く。さっき廊下を歩いていただけの、ほんの短い時間がとても楽しかった。ああ、でもそれは自分の興味のある話題だったからで…。
「リッちゃん?」
いつの間にか手が止まっていた。
「ううん、何でもない。この店、どう?今なら昼時間からすこし下がってるし、空いてるかも」
こっそりページの角を折っていたその店を指して、リツコは母を仰ぎ見た。リツコの指したページを見て、母がニッコリと笑った。
「ふうん、良さそうね。行こうか」
扉を開けると、初夏の風が吹き込んできた。
〝縁があったら〟。そんな古風な表現を、リツコは随分後になって思い出すことになる。その年の9月。ついぞ昨日のことでさえ、ゆっくりと思い出すこともできないほど…世界は一変してしまったからだ。