Act.5 はじまりの日
仮設基地の無愛想な天井を見上げて、葛城ミサトは吐息する。
日本なら今は真夏。しかし南極は陽光乏しい冬だ。
『…南極? 私も、行くの?』
三ヶ月程前のその日、ミサトはたっぷり三秒間、目を瞬かせながら絶句した。
『ああ、半年ほどは家をあけることになる。その間、お前が一人になってしまうだろう』
――――そんなに心配しなくても、母さんが出て行ってからいつだって私は一人だったわよ。
そう毒づきそうになって、ミサトはその言葉を寸前で呑み込んだ。父は話をしていても滅多と視線を合わせることがなかったから、その時もミサトがどんな目で父を睨んでいたか知る由もない。だったら、何を言っても無駄だろう。
『…学校、どうするの』
『先生には私から話を通した。問題はない』
既に確定事項か。これは相談ではなく、通告ということらしい。
『…わかった。支度する。出発はいつ?』
『明後日。月曜日だ』
『…そう』
これだから、母は泣きながらこの家を去ってしまった。一回り以上歳の違う両親が結婚したからには、当時はそれなりの想いがあったのだろうが…自らの研究、夢の中に生きる父についていけずに、母は先年、とうとう離婚を決意した。ミサトの親権者が父になった理由はよく憶えていない。何だったか、経済的な理由だったような気がする。
爾来、実質一人暮らしのような生活だった。家のことは父が雇ったハウスキーパーが通ってくる。父は時折帰っては来るが、いつとも決まっていない。会話も殆どない父親が今更半年ばかり帰ってこないからといって、何の痛痒も感じないというのがミサトの実感であったが…それに反撥するほどの余剰エネルギーはミサトにはなかった。
むしろ、自分が父と揉めることで、母がまた泣くかと思うとその方が面倒に思えたのだ。
――――それにしても南極か。また途方もない処へ。
自室に戻り、はたと何を支度したものか考え込んだ。日本はこれから夏だ。つい先週、夏物と冬物をいれかえたばかり。
しかも、そもそも南極大陸の気温が日本の冬支度くらいでどうにかなるものだと思える程、ミサトは無邪気でも楽観的でもなかった。
俄に莫迦莫迦しくなって、ミサトはベッドに倒れ込んだ。そして仰向けになって、見慣れた天井を眺め遣った。白いパネルにエンボス加工された幾何学模様。飾り気と無縁なシーリングライト。じゃあ、しばらくこの光景ともお別れか。そんなことを考えた。今にして思えば、そんな感慨が懐かしくさえある。
然程の愛着があったわけでもないが、基地の天井に比べたらまだ人の住処としての表情を持っていたからだろうか。
――――部屋というのも憚られるような、ベッドと机と収納しかない空間。しかしそれは紛れもなく、ミサトに与えられた部屋だった。父の個室のすぐ傍に無理矢理のように造り付けたスペースなのだが、建造するほうとしては子連れで調査隊に加わる者を想定できなかっただろうから無理もない。
極夜1の九月。基地の外ではそろそろ頼りない極地の太陽が少しずつ姿を見せ始めている頃の筈だったが、基地の中は人工灯で模擬的な昼夜が設定されており、それなりに快適だからミサトとて滅多と外に出たりはしない。 基地の中で、ひたすらに教育用のタブレット端末で遠隔授業を受ける日々。だが時に父はミサトを実験施設へ伴い、訥々と説明をした。
父があれだけ長く喋るのを、ミサトは初めて聞いたと思う。残念なことに専門用語が多すぎて何のことだかさっぱりであったが、父が父なりの情熱を以てこの調査に臨んでいることだけは理解できた。
父が知りたいのは、この世界の来歴なのだ。
自分たちはどこから来て、何処へ行くのか。そのすべてを解き明かしてくれる鍵がここにあるというのだ。その鍵を、欠片でもいい、向こうの世界から引き出したいと。
終いには父も父なりに、娘にはわかりづらかったということを理解したらしく…専門用語を排して平易を心がけた説明をしようとしたようだが…それはそれでなにやらお伽噺のようで、ナマイキ盛りの中学生にとっては大人しく聞いている振りをするのも億劫ではあった。
それでも、父との時間が妙に心地好い。それが不思議だった――――――。
壁に掛けられた、日本の風景写真をテーマにしたカレンダーは九月十三日。枕元の時計の指し示す時刻は朝の9時過ぎ。でも、取りかかりが早かったからその日の分の課題はあっさりと修了し、とりあえずベッドに寝転がった時のことだった。
ぼんやりと天井を眺めていたミサトは、下から突き上げるような揺れに思わず飛び起きた。
幾ら最新鋭の研究施設といっても、極地には違いない。不測の事態に対するアクションカード1は当然ミサトの部屋にも何パターンかぶら下がっている。
揺れは一撃でとりあえず止まった。だが、いくつかのカードの中からとりあえず地震を想定することとして、ミサトは急いで外に出られる支度をした。
支度をする間に、二度目、三度目の衝撃が襲う。だが、明らかに地震ではない。爆発だ。
『何かの事故!?』
見えない手で心臓をぐっと掴まれるような感覚に一瞬息を停めるが、貴重品と非常用のトランシーバーだけを屋外作業服のポケットにいれる。ここから先、ミサトがすべきは身の安全をはかること。
しかし、何処が安全で何処が危険なのかさえわからないのだ。動き回るのは危険と判断して、トランシーバーを握りしめてベッドの下に潜り込む。
ミサトの判断は正しかった。
ベッドの下に潜り込んで三つ数える間があったかどうか。最初の衝撃の数倍、否、数十倍のエネルギーを持った衝撃が空気を揺らし、轟音と共にすべてが吹き飛んだ。
思わず目をつぶり、フードを被った上から耳を押さえて身体を硬くする。
耐衝撃性の高い屋外作業服は皮膚感覚から外を推し測ることを困難にしたが、この際それは有難かった。振動・衝撃波がミサトを容赦なく打ち据えたのだ。
だが、身体を圧し潰すほどの力を受けることはなかった。ただ、周囲の建物は次々と吹き飛ばされていくのがわかる。遂に外気が吹き込んだと思ったとき、逼塞していたベッドごと身体が浮き上がり、吹き飛ばされる。
ひたすら身体を丸めて奥歯を噛み締めている間に、一体何回転したことだろう。何かにぶつかったのはわかっていたが、痛みを感じる余裕もなく…意識が途切れた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。
極地の風の冷たさと、火災で熱せられた空気が代わるがわる吹き付ける。焦げくさい臭気が漂い、建材が風に揺れてがたがたと不規則な音を立てている。
「…こんなはずでは、なかったんだ」
父の声だった。すぐわかった。信じられないことに、震えていた。
「そうだね、あなたはただ理論を実証しようとした。そうして、それは達成された」
こんな異常な状況をものともしない、冷静な声がそれに応じた。
おとうさん。そう呼びかけようとして、声が出ないのに驚いた。
「あなたは何も間違っちゃいない。…ただ、利用されたんだね。すべては仕組まれていたんだよ。そして、今日この場所に居合わせた僕もまた、やっぱりその企みの中に組み込まれているんだろうな…」
「私は、どうすればいい…?」
「申し訳ないけど、あなたがここでできることはもうあまりないよ。あなたにできるのは…あなたがやらなくちゃいけないことは、今はただ一つじゃないかな?
救命艇の格納庫まであと少しだ。使えるものが残っていると良いけれど。…手伝えなくて申し訳ない。
…さよなら、葛城博士」
風鳴の中、瓦礫を踏みしめる音が少しずつ離れていくのがわかる。
その時になって、自分がまだ目すら開けていないのに気付いた。
ゆっくりと、目をあけた。血と塵埃にまみれた作業服の膝が目の前にあった。
頭を巡らせて、上を見る。屋外作業服姿の父が、ミサトのすぐ傍に跪いているのが見えた。父の背後には真っ赤に染まった空。
…そして、巨人がいた。
巨人といってもぼんやりと人の形、というぐらいのものだ。ただ、天を衝くほどの大きさである。それが4体。
息を呑んだ拍子に咳込んだミサトを、父はゆっくりと抱き上げた。そして、ひどく重い足取りで歩き始める。
父の肩越しに、ミサトはその巨人のいるほうへ歩いて行く人影を見た。
そのシルエットは細い。屋外作業服ではなく、ごく普通のシャツとスラックス姿がひどく周囲から浮いて見えた。この非現実的な光景の中で、更に非現実的な何か。
一度だけ、その人は振り向いた。
髪の色は淡い。白髪というより銀髪なのだろう。遠くてその眸の色など判るわけはないのに、空と同じ辰砂の朱色を見た気がした。
どうして行くの。怖いものがいるよ?
朦朧とした意識の中で、ミサトは声に出せたわけではなかった。大体、先程息を吸い込むだけで咳込んでしまったのだ。
知らず、父に縋り付いていた。父がわずかな間ほど足を止め、ミサトを抱き上げている腕に力を入れたのが判る。大丈夫だ、と伝えたかったのか。それとも単に、支えるのが難しくなって抱え直したのかはわからない。
それでも、確かな安心があった。安心して初めて、胸から腹にかけての凶悪な痛みに気づく。さっき父の膝を汚していたのはこれか。屋外作業服が緋に染まっていた。
爆風の中で転がされている間に何処かで傷つけたものだろう。どの程度の傷なのか、痛みだけではよく判らない。ただ、身体が動かなかった。
不意に、シートのようなものの上に降ろされた。視界が黒い四角に切り取られる。救命艇に乗せられたのだと、一瞬置いて理解した。救命艇といってもカプセルのようなもので、一人乗りだ。
「…おとうさん」
ようやく、声が出た。その時、ミサトは初めて父が笑うのを見た。笑い、震える手で白木のペンダントを外してミサトの胸に乗せる。
その手は、ひどく焼けただれていた。屋外作業服の厚い手袋が溶け、手の皮どころか肉、骨が露出している。
その手、どうしたの。そう言おうとした。だが、父はその焼けただれた手でレバーを引く。直ちに扉が閉まり、小さな肉視窓もふっと暗くなる。父が救命艇の上に蔽い被さったのだと判ったが、その直後に襲ってきた衝撃で、ミサトは再び意識を失った。
意識を取り戻したのは、洋上であった。
救命艇の扉…その内側からの操作方法が判るまでが、随分と息苦しかった。多分、基本的な生命維持システムは設置されていたのだろうが、血液中の酸素濃度と気分的な閉塞感はこの際無関係だ。
扉を開け、身体を起こしたミサトが見たものは、氷を喪った南極の海だった。
そして、真っ赤な空。真っ赤な海。空へ伸びる光の翅。
降りしきる灰の中、禍々しい翅が天空を埋め尽くす光景。
それは、すべてのはじまりの日であった。
――――To be continued