遠い空の下

 2004 A.D.――――
月面 タブハベース

 その研究室ラボは照明が抑えられている所為で、部屋の反対側の壁までは見渡すことが出来ない。呆れる程に広大であることだけが確かで、闇に閉ざされたその向こうは、実は果てなどないのではないかと思える程だ。その中に、橙赤色の液体を湛えた円筒形の水槽が林立していた。
 器械の低い唸りだけが満たすその薄暗い狭間を、森をそぞろ歩くかのような足取りで進む者がある。白衣を羽織ってはいたが、身長はともかく肩幅は高校生というのもやや強引なほど華奢であった。
 栗色の髪は柔らかくはあるのだが、やや癖があって世辞にもおさまりが良いとは言えない。暗緑色の双眸は茫洋としているようでもあり、水槽の中を食い入るように見つめているようでもあった。水槽の狭間を進み、立ち止まり、あるときは僅かに速度を緩めるだけで通り過ぎる。そうかと思うと水槽の壁に額をつけて、暫くそのまま立ち尽くしていることもある。
 あまり足音がしない所為もあって、その姿はひどく現実感を欠いていた。まるで立体映像がゆらゆらと景色の中を動き回っているかのようでさえある。

 レベッカ・リエ=ランバートは、研究室の扉を開けはしたものの…暫く立ち尽くしたままある種の傷ましさをもってその現実感の薄い光景を眺めていた。
「…あれ、リエさん。どうしたんですか?」
 彼がこちらに気付いて声を掛けてくるまで、それほど長い間があったわけではないだろう。だが、リエは自身が埒もない思考に囚われていたことに気づいて思わず内心で舌打ちした。しかし、表面は何事もなかったように歩を進める。
「様子はどう?」
 直裁に問うと、彼…榊タカミは少し寂しげに苦笑して首を横に振った。
「まだ…みたいです」
 そうしてすぐ傍の水槽にそっと額をつけて深く息を吐く。
「必ず帰ってくるって言ったんだ。信じて待つしかないよね。…でもまあ、ちょっと待ちくたびれちゃったかなぁ…」
 だが、すぐにその額を離して軽く頭を振る。
「ううん、カヲル君はもっともっと長い時間をたった一人で生きてきたんだ。僕がたかだか数年で音を上げちゃ、カヲル君に申し訳ないですよね?」
 背負い込むな、莫迦。そんな言葉がリエの喉元までせり上がってきたが、彼女は辛うじて抑え込んだ。タカミはいまだにカルバリーでの一件が自分の所為だと思い込んでいる。
 リエは呼吸を整えた。
「…ベタニアから連絡が来た。やはり、〝第3使徒〟は掘り出されたらしい」
 タカミの反応は冷静だった。冷笑すら含んでいた。
「…連中、どうにか出来るとでも思ってるんでしょうか」
「幾ら切り刻んだところで理解できるとは思えないけど、連中なりに制御を試みているようね。もとより、制御不能な兵器なんてナンセンスなんだけど。まあ、作って動かすためだけにべらぼうな手間とコストがかかる上、人身御供パイロットまで要求する『汎用人型決戦兵器』より、たったひとりの犠牲・・・・・・・・・で勝手に組み上がって勝手に目標物へ突進していく『使徒』のほうが効率が良いってのは、武器屋の理屈としては解らなくもないわよ。
 誰しも、犠牲になるのが自分だとは思わないから」
「…でしょうね」
 タカミは小さく肩を竦めた。
「僕としては…作れるもんなら作らせてしまえばいいと思いますよ? 神ならぬ人がつくったモノなら、制御を横合いからひったくるぐらいどうにでもなるし…ね? なんなら、そいつでゼーレの爺さんがたの拠点をひとつ残らず叩き潰しちゃいましょうか。そうしたらこれ以上、物騒なことが起こらなくて済むんじゃないかな。
 大丈夫、もう誰も犠牲になんかさせませんよ。『使徒』が起動するための贄なら、僕がどうとでもします」
 そう話す間も、端正な雑作に徐々に危険な色彩を滲ませていく同胞に、リエは思わず嘆息する。
「そう簡単に言わない。大体、貴重な生存圏でそんな大破壊をやらかしたら現在いまでも少ない生態系保存領域がまた狭くなるじゃない。あんた、イサナに絞め殺されたいの?」
「あ、そうか。でも…生物の大量絶滅なんて、何度もくりかえされてるんだけどなぁ…。今度はバックアップも取ってあるんでしょう?」
「バックアップのプロジェクトはまだ始まったばかりよ。手遅れになった地域だって少なくない。
 それとタカミ…あんた口の利き方にはもう少し気を配んなさいね。客観的事実としては間違いじゃなくても、人間には感情ってモノがあるんだから、割り切れないことだってある。合理的判断ってやつは確かに便利だけど、人は概ね感情で動く。
 ・・・そしてそれは、一面において正しい」
 そこまで言って、リエはふと言葉を切って目を伏せる。何でよりによって自分がこのテの説教をこいつに向かってせねばならないのだろう。
「いつか…あんたにだって理解るわよ」
 タカミはいっそきょとんとした表情でリエを見て、それからまたすこし寂しげに笑った。
「そうだと…いいですねえ」
 リエは再び嘆息して昏い天井を仰ぎ、それから水槽のひとつに目を落とした。
「まあ、そっちについてはサキやイサナ達の成果を待つより他ないわ。
 私たちはカルバリーから引き揚げといた機材と文書の解析を進めて、一刻も早く『契約』更改の可能性を探さないと」
「僕らには『儚いレジスタンス』以上のことが、本当に出来ないのか…ですね。
 裏死海文書の解析だってまだ途中だ。爺さん連中ときた日には、人が開いてしまったパンドラボックスは、人の手で閉めなければならない…とかいって何も答えてくれないし、彼らが当てにならならないなら、やっぱりカヲル君に助言を求めるしかなさそうなのに…」
 タカミがまた、水槽のひとつに歩み寄る。
 立ち並ぶ水槽の中ひとつひとつには、小柄な少年の身体があった。瞑目しているからその瞳の色は判らないが、その髪も身体も明らかに色素に乏しかった。そして顔立ちはタカミに酷似…というよりタカミそのものだ。
 これらは、ゼーレが禁断の扉を開けるために必要とした、セカンドインパクトの贄…その予備スペアであった。そのオリジナルは、カルバリーで消えた青年だ。
 ゼーレがリリスと並んで畏怖するただひとつの存在。その時代によっていくつもの名前を持っている。いつから存在していたのかは分からない。少なくとも、第一始祖民族の漂着前から世界にいたことは確かだった。ゼーレに対して一定の距離を保ちながらも、時折接触してきた。何処にでも存在しながら、どこにも存在せず、それでいて時に現身うつしみを持ってこの世界を遊弋する。時には無邪気な子供のように、あるいは老獪な賢者のように振る舞い、その目的は誰も知らぬ。
 ゼーレがリリン達の要請に基づいて再び禁断の扉を開けるために協力を求めたとき、彼は事もなげにその現身うつしみの複製を許した。
 その現身が持っていた名前を、渚カヲル、という。
 そうして大量につくられた複製体クローン…ゼーレは「純粋な魂だけで造られたけがれなき生命体」というが、その実態はただの人形だった。だが、その中で唯一人だけ、意志を持って覚醒した複製体が現れたのである。
 意志を持った複製体はLCL水槽を出されて後、暫くしてライゼンデと同様の体質変化を呈したため、名を得て死海文書および第一始祖民族の遺物解析に携わることになった。
 …それが、タカミだった。
 ただ、ひとりのライゼンデとして遇されながら、彼は自身をそうは認識していなかったフシがある。偶々たまたま意志を持ってしまった人形が、束の間人間ごっこを愉しんでいる…そんな醒めた認識を言葉の端々に匂わせていたのだ。それでもまた、あの時までは表面上…〝普通の生活〟を享受しているようには見えていた。
 2000年9月13日。セカンドインパクトを抑えるためにカヲルがこの地上から姿を消したとき…カヲルではなく自分の方が生き残ってしまったことを歎くあまり、彼は一時精神の均衡バランスを失ってしまった。最近ようやく持ち直しては来たものの、リエから見ると何か大事な螺子ネジが一本抜けたままいびつな修復をしてしまったような気がしてならない。
 危うさをはらみながら、彼が第一始祖民族の遺物解析に他の追随を許さない才能を持っていることについては変わりなかった。時間は急速にその歩みを早めようとしている。破局を防ぐための時間と人手はいくらあっても足りないのだ。だから、リエはこのタブハベースへタカミを伴った。
 「使徒」はこのタブハベースにに顕現する天国門ヘヴンスゲートから出現し、地上へ降臨する。ゆえに当面の対策としては天国門を監視し、使徒として誰かが摘み取られたら、使徒としてリリスの贄になる前に確保、贄とされた魂を引き戻して使徒の実体を封印する。
 荒唐無稽なようだが、決して不可能ではない。事実、4年前、そうしてマサキを引き戻すことには成功した。それが現在、ベタニアベースで切り刻まれている〝第3使徒〟だった。
 しかし事を動かしているのは神のことわりだ。4年前に出来たからと言って、次に出来るとは限らない。だから、成功率を少しでも上げるためには2重3重のバックアップが必要なのだ。その中には、摘み取られる〝魂〟とやらを人工知能にすり替えるというやり方もあってよい。人工知能であれば制御も可能だ。タカミはまさにそれに挑戦しようとしていた。
 リエは成功率を上げる手段として、今ひとつ〝執行者〟を考えていた。
 神の使い・使徒を物理的に制圧、殲滅する。そしてそれは既に、福音者エヴァンジェリストという言葉を人外の名詞に置き換えた『エヴァンゲリオン』の名を得て各地で研究が進んでいた。神のことわりさえも捩じ枉げ得る力に期待をかけることが、正しいのかそうでないのかはわからない。しかし、現在の状況において、現状を変えうるひとつのベクトルとなることは疑いなかった。
 いずれ、神の理に対する挑戦であることには違いない。不従順の罪は太古から数限りない聖典逸話の類が戒めるところだが、唯々諾々として贄となるくらいなら、神に逆らい罰を受けようが、力の限り抗うことをリエは是とする。
 絶望の初期化リセットより、希望の続行コンティニュー。そのためにこの世界に突っ込まねばならないコインは? 
 考えなければならないことは山ほどあるのだ。タカミのことも含めて現在の状況に心痛を深めている旧い友人のことを思えば、先程のようになすすべなく立ち尽くしてもいられない。ゼーレの中にあって、ゼーレでなく、然りとてリリンとも言いかねる特殊な立ち位置スタンスにあるライゼンデ。往々にして孤立を余儀無くされるライゼンデを庇護するための闘いを、既に数世紀にわたって続けてきた高階ミサヲ・アウレリア=アレックス。
『…あの子タカミの行動原理は私たちとは少し違う。あの子にはカヲルしかいないの。生まれ方が生まれ方だったから仕方ないんだろうけど、一番大切なものが抜け落ちてるわ。Femme Fatalを見失っているのは決してカヲルだけじゃない。
 あなたも私もそのことを知ってるけど、当のタカミだけが知らない。あまりにも残酷だわ。…誰が仕組んでるのだか知らないけれど、いい加減にして欲しい…』
 タカミをこのタブハベースに連れてくる相談をした時、そう言って凜然たる目許にうっすらと涙をうかべた彼女ミサヲもまた、その『残酷な』何者かの掌に翻弄される身であった。
 しかし、彼女はいつも誰かのために泣くのだ。…彼女自身のためではなく。
 そして今なお、彼女はあの島で…急激に流れはじめた時間の楔となって静かな闘いを続けている。
 あの勁く優しい白い魔女の心痛を少しでも減らすことが出来るなら、リエには鬼でも悪魔にでもなる覚悟はできていた。倫理的には甚だ問題のある実験にのめり込むこの同胞を、ミサヲに代わって見守るコトぐらい雑作もない。
 よしや、結果としてタカミを手に掛ける羽目になったとしても。
 だが、同時に願わずにいられない。決定的な瞬間が訪れる前に、タカミが遠い空の下、時空の彼方に置いてきてしまった…大切な記憶を取り戻してくれることを。