遠い空の下

 2004 A.D.――――
旅人の島インゼル・デス・ライゼンデン

 ヘリコプターの回転翼が巻き起こす気流ダウンウォッシュが飛行甲板に吹きつける。
 小さな島だ。きちんとしたヘリポートがあるわけではないから、基本的には港に停泊している輸送艦上の飛行甲板が発着場であった。
 風が緩むのを待って甲板に出たマサキは、ハッチが開いて降り立ったイサナの姿を見て肝を潰した。
「…何があった!」
 お帰り、という前にそう怒鳴ってしまったのも無理からぬことではあった。白い開襟シャツの脇腹が真っ赤に染まっていたのである。ただ本人イサナは至って平静で、おろしたての服を不注意で汚してしまったのを見つかったような、きまり悪げな表情をしただけだ。
「大したことじゃない。もう処置は済んでる」
「そうじゃなくて!」
「だから、上着ぐらい羽織っとけばって言ったのに。そもそも、内緒に出来る話じゃないんだから…ちゃんと連絡しろよな」
 続いて降り立ったカツミが嘆息して、頭を掻きつつ補足した。
「視察先で反対派とやらの狂犬に噛みつかれたんだ。作業員の中に紛れ込んでた。防護服なんか着けてるとどうしたって認証が甘くなるからな。吃驚したよ。一応テロ対策はしてたけど、まさか工事現場で自作したナタで襲ってくるとは思わないもんな。まあそれをその場で、しかも素手で叩き伏せるイサナもイサナだけどさ。
 ちょっとは気にしてほしかったなぁ。普通はまず処置でしょ」
「判っている。洋上に出ている艦船のデッキ上で防護服を破られたのに、平然としているというわけにはいかないんだが…とりあえず容疑者確保が先だからな。咄嗟にカツミが防護服へシールを貼るふりをしてくれたから、本来俺たちが防護服なんか要らないってことはバレなかったと思うが」
「…イサナってば…心配の要点がズレてる」
「そうか?」
「そうだよ。シール貼って定着させる時に圧迫はしといたけど、代わりに防護服の下で血がひろがっちゃったんだ。防護服脱がせないと手当てできないから、それまでに少し時間が要ったってとこもあるんだよね。シャツが派手なことになっちゃった原因のひとつはそれなんだ。…ったく、あんな逃げ場のないところで白昼刃傷沙汰に及ぶような莫迦、本職の連中SPに任せてすぐに艦橋に退がればいいのに…」
「それほど時間はかけなかったが」
「たしかに一撃だったけどね。イサナの剣幕にSPのほうがフリーズしてたよ。ま、珍しくもないけどさ」
 何があったか目に見えるようで、今度はマサキが嘆息する番だった。
「…状況了解だ。カツミ、諸々ありがとな」
「ほーい」
 国際環境機関法人・海洋生態系保存研究機構。赤くなった海を元に戻し、海洋生態系を復元するための研究機関である。『アレックス教授』はゼーレの承認の下に研究を主導する立場にあり、鯨吉ときよしイサナはその実務に当たっていた。
 基礎研究は既に終了しており、既にその本格的な実験プラントが五年後の完成を目指して日本沿海区域1に建設中である。実務の最高責任者であるイサナは今日その視察に赴いたのだった。
 青い海を取り戻す。それは誰もが期待するはずの事業であったが、利権、信条イデオロギーがらみでそれを気に食わないという立場の人間もまた、存在した。組織的なもの、そうでないもの、手段も嫌がらせから実力行使まで様々であったが、今日の件もその一端である。
 イサナはといえば、狙われるのも既に仕事の内と捉えているふうがあって…立場上、島外で活動するときには相応に警護もつけた。…ただ、「形式上そうするべきだから」という認識を隠しもしないので、今回のようなことにもなる。
 艦を降りるイサナに追従しながら、マサキは吐息雑じりにぼやく。
「今更だが、もうちょっと身辺には気を遣ってくれないか。少々体質が違うってだけで、俺たちは決して不死身ってわけじゃないんだ。待ってる方の身にもなってくれ」
「心配しなくても、こんな格好のままミサヲのところへ報告へ行ったりはせん」
「当たり前だ!」
 マサキの声が跳ね上がったことで、イサナがふと足を止める。舷梯タラップを降りている途中だったから、マサキは思わずつんのめりかけて手すりに摑まる羽目になる。
「ひょっとして、あんたも心配してたのか」
「…してないとでも思ってたのか」
「いや、少し意外だった」
「あのな…俺にだって一応、お前ひとりを矢面に立たせてるって認識はあるんだぞ」
「それは仕方ないだろう。いくらあんた抜きでは実現し得なかったプラントだといっても、あんたはその姿をさらせないし…何より、結界から出るわけに行かない。何を今更」
 再び歩き始めながらさらりと言い放たれ、マサキは小さく唸ってこめかみを揉んだ。
 イサナはすべて理解している。だが、つくづく言い方を択ばないのでさすがに刺さることもある。加えて、本人にまったく悪意がないから叱言こごともしにくいときている。
「そうだ、土産というわけじゃないが」
 振り返って、イサナがポケットに入れていた携帯端末を寄越す。
「何だ?」
 受け取り、画面をフリックする。プラント内部だろう。何もいない大きな水槽の一部を撮った画像が現れた。すぐに動画だと気づいて再生をかける。
 画面を、小さな魚が横切った。…それを嚆矢に大小、色様々な魚がフレームインする。
「正式な報告はまた上げるが、保護生物の定着・繁殖もそこそこ結果が出始めている」
 動画がズームバックして全体を映す。水族館のような光景がそこにあった。
「凄いな、もうこんなに…」
「水槽レベルでの循環は確立した。…あんたの成果だ、サキ」
 まだ規模としてはそれほど大きいわけではない。周囲は無粋な鋼管や機械類に取り囲まれている。だが、青く澄んだ水の中で確かに芽吹き躍動する生命たちに思わずマサキの口許が綻んだ。
 30秒に満たない動画はすぐに終了したが、マサキは暫くそのまま最後の1フレームに見入っていた。
「お、見入ってる見入ってる! やー、俺もちょっと感動しちゃった」
 肩越しにカツミが覗き込んだのでようやく我に返る。もう二、三回は観たいところだったが、舷梯で立ち止まってやることでもない。マサキはイサナに端末を返した。
「ありがとう、イサナ。俺もいつか、実際にこの目で見られるといいんだが」
「見られるさ。…必ず」
「そうだな…」
 それには、越えなければならないハードルがいくつもある。そこに居る者すべてがそれを認識してはいたが、敢えて口に出すことはなかった。
 代わりにマサキが口にした短い言葉は、祈りにも似ていた。

「…いつか、きっと」

  1. 日本沿海…概ね本邦、樺太本島及び朝鮮半島の各海岸から20海里以内の水域。
    これが近海となると東経175度、南緯11度、東経94度、北緯63度の線により囲まれた水域。北は樺太から南はパプアニューギニアまで入ってしまう。詳しくは国交省中国運輸局のページ参照。