遠い空の下

2004 A.D.――――
パリ郊外・ユーロゲヒルン研究施設

「ちょっとそこ、どいてくれない?」
 突然の切り口上に、マリは思わず鼻白んだ。
 マリは資材調達の折衝のためにここを訪れていた。担当者から少しだけ待ってくれと懇請され、廊下で立ったままタブレット片手に予定の調整をしつつ時間を潰していたところである。そろそろ、これ以上待つならいっそ出直そうかと思っていた。
「あぁ、こりゃ失礼…」
 急造の建物は廊下がそれほど広いわけでも、快適なわけでもない。資材の箱を両手で抱えたその女性に、軽く会釈して道をあけた。もとより狭い廊下、人が通れないような立ち位置は占めていなかった筈だが、マリはちょっと重そうな荷物を抱えた相手に勝手に通れと凄むほど荒んだ心理傾向メンタリティは持ち合わせていない。
 だがふと顔を上げた時、荷物を抱えて目の前を通るその女性を見知っていることに気づいて小さく声を上げそうになる。声を上げなかったのは、声をかけてもあまり楽しい会話になりそうもないことが明らかだったからだ。マリはなるべく然り気無く、口を噤んでタブレットに視線を落とした。
 パンプスの踵が刻む音を聞きながら、このまま通り過ぎてもらえれば有難いけどな…と思いながらこの後の予定を繰り始めたが、残念なことに足音は止まった。
「…コネメガネ」
 その言葉が自分に向けられているのだと理解するには、わずかながら間が必要だった。故意でも偶然でもなく、いつもの癖で眼鏡のフレームを指先で触れる。
「この私を無視とは偉くなったもんね、真希波マリ・イラストリアス」
「へっ? あ、あたしすか?」
 今気づいたようなふうで、マリは顔を上げた。
「あれー?式波先輩ですか。お久しぶりです。ユーロこちらにおられたんですね」
 明るいブラウンのストレートヘアを結い上げた、二十代後半の女性。美しい碧眼の端正な顔立ちなのだが、勝ち気としか言いようのない目許の所為で年齢よりもやや幼く見える。ユイよりもひとつふたつ上の筈だが、当時からユイの方が歳上に見られることもあったほどだ。
 式波アスカ・ラングレー。冬月教室の先輩で、卒業後にユーロに渡ったという話は一応噂では聞いていた。
 美人で、頭の回転が速くて、スポーツも万能。文武両道・才色兼備が服を着ているような女性だが、誰にも欠点はあるもので…性格が非常に残念な人物であった。なにやら高貴な家の出だという話ではあったが、それに相応しく自身が高貴なる責任ノブレス・オブリージュを負う選ばれた者という意識がベースにあって、自分以外のすべては「愚民」と言い切って憚らない。いくら才豊かな身であったとしても、よくあれで世の中が渡れるものだとマリはいっそ感心するのだが、ユイの存在はそんな彼女の中でも心地悪いものだったらしい。卒業後さっさとユーロへ移ったのは、実家がユーロだからというわけではなく、ユイと比較されるのが耐え難かった所為だろうと陰口を叩かれていることも知っていた。
 その理由にされていたのが、在学中のユイに対するかなりつんけん・・・・した態度である。だが、ユイが例によってまったくそれに頓着していないのがいっそ爽快で…マリも積極的にこの女性を嫌う気にはなれなかったものだ。

 しかしまあ、こういう場所で一対一というのは可能な限り避けたいシチュエーションではあった。

 こちらを向くでもなく、目の端で睨むようにして見ている碧眼と視線が合ってしまい、マリは内心で天を仰いだ。
「しらじらしいわね。…アレックス教授のところに引き抜かれたんだって?」
「はあ、引き抜かれたってほど大層なもんじゃありませんけど、まあ一応。日々、細々こまごまと雑用を仰せつかっては走り回る日々ですよ。ぶっちゃけ、パシリみたいなもんですね。今日ここへ来たのもそれで」
「よく言うわ…どんなコネがあったのか知らないけど、いい気になるんじゃないわよ」
「コネ…?」
 何を言われているのか一瞬見当がつかなくて、思わず眼をしばたたかせる。
「それ、綾波ユイが使ってた眼鏡ね。餞別に貰ったって訳?」
 更に話の行き先が見えなくなって、マリは思わずフレームに指先で触れる。
 過日…ユイの持っていたものが欲しくてこっそりこの眼鏡をパクったのが露見し、それでも結局「あげるわ、それ」と穏やかな微笑で許してくれた…などというエピソードを披露に及ぶのが妥当な相手とはとても思えなかったから、さしあたっては笑って誤魔化した。
「まあ、そんなもんです。女子高生みたい、って言われちゃいましたけど。笑えますよね、当時私16だったんですよ。トシから言ったら十分女子高生だってゆーのに」
 誰か何とかして、この空気。マリは背中に冷汗を感じながら、なおかつ顔で笑いつつ、目の前の女性が一体何を言いたいのかを必死に考えていた。

 だが、救いの神はいるものだ。

 何の前触れもなく、式波アスカの向こうにあったドアが開いた。
 ドアが内開きだったのは幸いだった。逆だったら扉は何だか不機嫌な彼女を直撃し、更に状況が拗れるところだったろう。
 扉の向こうにいたのは先刻、〝面倒臭い折衝〟とやらでマリに待ちぼうけをくわせた事務官だった。
「すまんマリアちゃん、なんとかカタついたから入って…と?」
 開けたはいいが、その場の微妙な空気を察したらしく、咄嗟に舌を凍らせてしまった。だが、式波アスカはふいっとそのまま歩き出してしまう。
「お忙しいとこ、引き留めて悪かったわね。じゃ」
 いや、言うのと言われるのが逆ですが。そうツッコんで楽しい展開になるとは到底思えなかったので、マリはニコッと笑って一礼した。
「こちらこそ」
 事務官は式波アスカの昂然たる後ろ姿が廊下の曲がり角へ消えるのを見送って、視界から消えたところでようやく我に返ったようにマリを見た。
「…なんか、タイミング悪かった?」
「いえいえ、絶妙でしたよ大石さん。助かった、ホント」
 ニッコリ笑いが苦くなったところでようやく察したらしいユーロゲヒルンの事務官、そしてライゼンデでもある大石タケルが頭を掻いて吐息する。
「悪い人じゃないと思うんだけどねえ…。まぁいいや、とりあえず入って」
「はいな♪」
 それまでマリが会ったライゼンデは、下はローティーンから上はせいぜいが二十代後半というところだったが、大石は若く見積もっても三十代後半、ぱっと目には普通に四十代、それも後半寄りといったところだ。風采の上がらない事務官僚、という形容がしっくりくる、まあ俗な言い方をすれば生真面目そうなオジサンだ。
 ただ、他人の名前を微妙に、しかし勝手に呼び換える悪癖があった。まあ、悪意あってのことではないし妙な渾名というわけでもないから、マリも既に気にしなくなっていたが。

 大石は待たせたお詫び、といってペットボトルのジュースと小皿に盛ったキャンディを勧めてから、マリの端末タブレットに引き渡し予定の物品リストを転送した。マリがそれに眼を通して受領のサインをしながら先程の経過を話すと、大石は苦笑した。
「ああ…そりゃねマリアちゃん、君はやっかまれてるんだよ」
「…はい?」
「アレックス教授…ミサヲ姉んとこで働いてる、っていうのは…言ってみればまあ、〝ゼーレ直轄〟ってのと同義だからね。そこでパシられてます、みたいなこと言っちゃったら、ゼーレの勅命で動いてる、と思われてもまあ、仕方ないね」
「そんなに偉い方なんですか?」
「実際はもっと複雑だけど。ミサヲ姉が結構な影響力のある立場ってのは本当。ただ、知ってる人が限られてるってだけでね。…てか、知らなかった?」
「いえ、アレックス教授の名前を出したら大抵の無理は通るよ、って話はナオキ君から聞いてるけど…」
 大石は嘆息して天を仰いだ。
「あいつ…もうちょっとましな説明はないもんかな…」
「…語弊あり?」
「や、事実としてはそのとおりだし…だからまぁ、この物資不足のご時世でも僕たちはそこそこ普通な暮らしが出来てるって話もあるんだけどね」
「私ら、とりあえず食費考えなくていいですしね」
「そういう面もあるかな」
 大石は笑って傍らのエスプレッソマシンからクレマたっぷりのエスプレッソを抽出した。
 食事を必要としないライゼンデは、往々にして嗜好品にこだわる。茶葉リーフから淹れようがペットボトルから出してレンチンしようが、茶なんてそれほど味が変わる気がしないマリとしては…必ず茶葉からポットを使って淹れ、しかもソーサーつきの茶碗ティーカップに注ぐ〝城〟の面々の几帳面さには、思わず天を仰いでしまう。それに比べれば、大石のこだわりなどまあ標準範囲だろう。
『食事はね、栄養補給だけじゃないの。心を満たしてくれるわ。でもまぁ、こういうご時世だから…食糧は貴重だもの。食べなきゃ死んじゃう人達に食べて貰わなくちゃ。
 でも、だからこそ、私たちだって心を満たすために口に入れるモノには妥協したくないのよね♪』
 先日もミスズはそう言って、城の温室で育てたというハーブ茶で饗応してくれた。
「まあ、そこはさておくとして…多分ね、ラングレー女史には焦りもあるんじゃないかな。箱根はどうやらとうとう直接接触ダイレクトエントリー実験に踏み切るみたいだし、遅れはとりたくないだろう。何が起こるか予測もつかない危険な実験だが、それでEVAがコントロールできるとなれば、その功績は比類ないものになる。箱根の被験者は、やっぱり碇博士で確定らしい。
 …だから、対抗意識かなぁ。ユーロ版の直接接触ダイレクトエントリー実験に…彼女、被験者として名乗りを上げてるって聞いたよ」
 マリは思わず呼吸を停めた。
「危険な、実験ですよね…」
「まあ…その危険を冒してでもやらなきゃならない実験ではあるらしいね。それにしたって、プロジェクトリーダー御自ら被験者ってのもどうかとは思うんだけど…箱根の事情はよくわからないんだ。まあ俺は、見ての通りのただの事務屋だから、そう詳しいわけじゃないんだけどね」
 大石は軽く肩を竦めて言った。
 マリにとっては式波アスカがユイへの対抗意識から被験者に、という話よりも…ユイが重要だが危険な実験の被験者として既に定まっているということのほうが気になっていた。
 あのひとのことだ。功名心からではありえない。求めるものがそこにある。だから進む。実験全体についての危険と利益リスク&ベネフィットについてはきっちり計算するけれど、自分が負うリスクについては往々にして無頓着なのだ。…不安が胸を咬む。
 いつもちょっと抜けていて、危なっかしい感じすらするのだ。だがふと、ある瞬間…遙か遠い真実を見つめるような、透徹したまなざしで何かを見ている。あのひとがあの瞬間に何を見据え、今また何を探し求めているのか…マリには未だにわからない。ただ、この仕事に関わっていれば、いつかそれが判るような気がしていた。
 だからこそ…ここに身を置いている。
 マリは実のところ、突然放り込まれたライゼンデという立ち位置スタンスを、未だに納得しきれたとは言い難い。あるリスクを抱えた特異体質者、という理解はできているのだが、これから自分がどう生きていけばいいのか…わからなかった。仕事やるべきことは目の前にある。むしろ山積しているといっていい。だが、自分は本当にそれでいいのか。…まだ迷っていた。
 それを見定める為にも、もう一度あのひとに逢いたい。以前からそう思っていた。その上、危険な実験の被験者と聞いてしまって不安も膨らんだ。だが、箱根、と聞く度にあの男の仏頂面が思い出されて気が挫ける。

 ――ゲンドウ君との、幸せを、祈って、いますよ。遠い、空の下から。

 あのひとに、聞き分けの悪い子供だと侮られたくなかった。オトナである為には、あの時、ああ言わなければならなかった。それを悔いてはいない。だが…。
 自分は自分に呪いをかけてしまったのではなかろうか。天を仰いで、マリは嘆息する。
 あのひとの択んだ道だ。行って止められるものでもない。だから、ただ心の中で祈った。

 どうか、悪いことが起こりませんように。