タブハベース
その研究室の中にあるものといえば、ワークステーションの置かれたデスクと無愛想なスチールの書棚だけであった。その書棚とて隅のほうに数冊の書籍があるだけで、他は未整理と思しきハードコピーの入った書類ケースが無造作につくねてあるばかり。抑えめの照明はデスクとその周囲だけを照らしており、部屋の隅の方は空虚な薄闇に占拠されていた。ただ、デスクの周囲は数台のワークステーションとその拡張デバイスを繋ぐケーブル、そしてそれらの電源ケーブルが床をのたくっており、うっかり踏み込めない雰囲気を醸している。誠に無愛想な部屋というべきであった。
一つ一つは何の変哲もない道具立てばかり。それなのに、童話に出てくるイバラに巻かれて時を止めた城さながら…その部屋にある物体すべてが外部からの侵入者を拒んでいる。
その中心に座し、あたかも城主然として…深海リエ・レベッカ=ランバートは、ディスプレイが放つ淡い光に包まれていた。
タブハベースは月面だが、通信は確立している。リエは天空の城に居ながらにして、月面はもとより地球上で行われる各方面の実験・作業の進捗状況を確認することができた。正式に閲覧権限が付与されている情報もあれば、大っぴらに出来ない手段でアクセスしている場合もある。だが概ねゼーレの下部組織であれば、どんなデータであろうとリエに閲覧できないものはない。閲覧出来ないとすれば…ゼーレそのものだけだ。
地上ではリリスの複製体への直接接触実験が始まろうとしていた。人類が生き残るために何が必要なのかを識ることが出来るかもしれない貴重な実験。だが、リスクも高い。
――――この地上すべての生命の基となったリリス。それは〝神〟と呼ばれたこともあった筈である。だが、その言葉を敢えて回避して〝始祖生命体〟と呼ばれるそれが実体を持ち、意志を持つことさえ、未だ一般に開示された情報ではない。ある領域ー例えば、形而上生物学といわれる分野ーの研究者達の間で、そういう存在があったとしてもおかしくはない、と認識されているのがせいぜいだ。
しかしリリスは実在する。剰え過去、人類とリリスは契約を結んでいた。現在は意思疎通できないためそれを確認する手段はないが、少なくとも、ゼーレはそう主張する。
ヒトはどこから来て、どこへ行くのか。リリスは人類が抱える永遠の問いに答えを与える存在であるはずだ。ならば、問うてみよう。最終的にはリリスへの接触を視野に入れた、直接接触実験とはそういうことだ。
しかし、実験にはもうひとつの目的が存在する。
本来は最終的にリリス本体と接触するための予備実験。それがエヴァの直接接触実験だ。しかし、人類はエヴァ…神の複製体に別の用途を見いだしていた。
――――神殺し。
神の理を越える力。それを〝神殺し〟と最初に呼んだのが誰であったのか、リエは知らない。神はまつろわぬヒトを罰し給う。その恐怖は、古来人類にかけられた一種の呪いのように…普遍的に存在する。だが、神が複製できるものならば、神の理をも越えることができるのではないか。
あるいは、それはヒトのヒトたる所以かも知れぬ。可能性に気づいたら、踏み込まずにいられない。踏み込んだ結果大いなる罰を招来しても、神の理を枉げることができるなら通過点のひとつに変えられると。
神の理を越える鍵、神の複製体。その力をヒトが手にするための〝汎用ヒト型決戦兵器〟エヴァンゲリオン。直接接触実験とは、それを実用化に持ち込むための足がかりでもあった。兵器というからには、コントロール出来なければ意味がない。リリスの複製体をヒトがコントロールするには、その制御系を理解し、ヒトが介入できるような仕組みが必要なのだ。
それが諸刃の剣であるという認識は、リエにもあった。
始祖生命体リリス、その複製体。言葉にすればそれだけだが、その真の意味を理解できている者はゼーレを除けばそう多くない。それが更に、ヒトに都合のよい「兵器」になり得るかどうか、という話になると…ゼーレでさえ未知数と考えているだろう。実直に、リリスの複製体にヒトが接触したとき、何が起こるかなどと…今はまだすべて予測でしかない。だが、猶予期間は刻一刻と過ぎてゆく。もう手を拱いてはいられないのだ。
アラームが鳴った。時間だ。リエは立ち上がり、実験室に足を向けた。
リリスの裡にはリリスの魂が。ではその複製体の裡には何がいるのか。
今のところ、ヒトを複製しても意志なき人形が出来上がるだけであることは判っている。それを敷衍すると、複製体の裡もおそらくは虚だろうというのが現在の定説である。では、それを制御するための魂に代わるものが必要であるはずだ。
そこで…エヴァを制御するための魂の代替物としてAIを利用する、という計画が進行中であった。魂の代わりをさせるというのであれば、並のAIではリリスの複製体を制御することは出来ないのは自明であった。ヒトに等しいAIが必要だ。
前世紀に規定されたAIの段階として、聞かれたことだけに答を返すオラクル型、願いをかなえるジーニー型、意志を持つソヴァリン型という概念がある。リリスの複製体がAIを魂と認識して稼働するためには最低でもジーニー型、可能ならソヴァリン型のAIであるべきなのだ。
既に現在、個人の思考をある程度類型化して判断の重み付けを行う人格移植型AIについては、箱根のジオフロントで赤木ナオコによるMAGIと呼ばれるプロトタイプが形を成しつつある。MAGIは現在準備中の要塞都市、そして『兵器』であるエヴァのOSとしては最有力候補であったが、それが「魂の代わり」になるかという点については…疑問の余地があった。MAGIは確かに画期的なスパコンだが、ヒトが与えた課題について最適解を探す、というジーニー型AIの域を出ない。
そこから一歩進め、個人の人格をまるごと複写することでAIに〝意志〟を持たせることを提唱した者がいる。他でもない、榊タカミだった。
まさに魂のダビングとでもいうべき膨大なサンプリングなど、被験者が耐えられる筈はない。しかもそれを完遂出来たとして、そこに本当に意志と呼べるものが宿るのか?…机上の空論とリエは一蹴したが、タカミは薄笑いさえうかべて「やってみなければわかりませんよ」と言い放ったのだ。
タカミはその生まれ方の影響もあってか、もともと機械との自我境界が曖昧な感はあった。しかし…リエとしてもまさかそこまで踏み込むとは思ってもみなかった。
不可能ではないかも知れない。だが被験者が精神を健常な状態に保てなくなるのは必至だ。最悪の場合、ストレスが神経系に物理的な損傷を及ぼし、取り返しのつかない事態になる…と牽制したリエに、タカミは事もなげに言ってのけた。
『言い出したの僕ですからね。まずは僕がやってみますよ。それでいいでしょう?』
至極冷静に、穏やかにそう言ってのけたタカミの表情は、まさに狂気と紙一重であった。
しかし倫理上の問題はともかく、巧くいけば誰も傷つかずに済むプランであることには違いない。だから結局リエも止めきれなかった。…というより、強硬に制止して手の届かないところで暴走されるくらいなら、コントロール下でやらせてみた方がマシだと踏んだのである。
あくまでも〝巧くいけば〟である以上、一回の情報サンプリングセッションにかける時間を厳密に規定し、影響をモニタリングし、十分な休息をとらせなければならない。だからリエの管理するスケジュールに従うという条件つきで、実験は開始されていた。
提唱者自らが実験台になるという、常軌を逸した状況を可能な限り制御しなければならない。タカミの焦慮も悲嘆も理解ったうえで、リエはそれを自身の責任と考えていた。
実験室の扉を開ける。低い唸りをあげる機械類に囲まれた、LCLに満たされた水槽の中で、無数の端子を張り付かせたタカミが揺蕩っていた。
水槽は被験者の身体が傷つくことのないように十分な容積を持っており、その直上にはエキスパンドメタルの歩廊が渡されていた。
予定のシーケンスが終了していることを確認し、リエはヘッドセットを取り上げるとマイクに向かって口をひらいた。
「時間よ。タカミ」
水槽の中であっても、感覚入力デバイスで声を伝達することは出来る。水槽の中のタカミがうっすらと両眼を開いた。
『はい…』
「上がって。排水する。いいわね?」
『了解です』
タカミが自身の身体に張り付いた端子を取り外す間に、水槽はゆっくりと排水され始める。タカミは水槽から歩廊へ上がったあと、そのままエキスパンドメタル1の歩廊の上へたり込んだ。暫くそのまま…身体を伝い落ちてLCLの水面で微細な波紋を描く雫を金属の網目越しに見送っていたが、ややあって畳まれていた丈長のシャツを取り上げ、緩々と身に纏った。
「いつもすみませんね、リエさん」
タラップを伝ってキャットウォークから降りてきたタカミの頭にタオルを投げて髪を拭くように言い、リエはその日のデータが正確に記録されていることを確認した。
本来、LCLには完全な循環システムがあるから実験の都度すべて排水する理由はない。だが以前、タカミがリエに内緒でスケジュール外のセッションを行っていたのが露見してから、セッション終了後確実に排水するようにしたのだった。また〝内緒〟をやらかさないように制御システムには二重三重の安全装置を組み込んだし、それに数倍する数のトラップも仕掛けてある。しかしお互いが専門家というのは面倒なもので、片っ端から回避されてしまう。その応酬はすでにゲームの様相すら呈していたが、それでタカミの暴走を止められるものなら安いだろう。
「バイタルと脳波のチェック、いいわね」
「えー、やっぱりやらなきゃ駄目ですか? 大丈夫ですよ、何ともありませんったら」
「あんたの『大丈夫』ほどアテにならないものはないわよ。つべこべ言わずにベッドに上がんなさい。これも必要なデータなんだから蓄積しないと意味ないでしょ」
「…はーい」
項垂れ、少し不貞腐れたように…それでもおとなしくベッドに這い上がると、胸元のボタンを弾いた。こういうときの所作は外見年齢相応である。
「データは順調にとれてるみたいだし、AIの構成も問題なく組み上がってきてる。ノイズもほとんどない。…なのに、不思議なんですよね」
心電図の端子を自分で貼り付けながら、ふと思い出したようにタカミが言った。
「…何?」
「セッション中に…何だか別の記憶が紛れ込んでくるんですよ。それがちょっと変なんです。僕の記憶なんだけど、そうじゃないみたいな。おまけに何が奇妙って、記録には何も上がってきてないんです」
「侵入されてる?」
リエは、声が硬くなるのを止められなかった。
「いえ、違うと思います。…多分、いえ、確かに自分の記憶なんですよ。でもまあ、どうにも事実と合致しないというか。夢を見る、ってあんな感じなのかなぁ」
この実験はわずかなノイズも入れるわけには行かないから、実験機器の外部通信デバイスは悉く切ってある。他から情報が流れ込むはずはない。
手を止めてしまったリエを見て、タカミが笑った。
「そんな深刻な顔しないでください。どうにもなりはしませんって」
「…感覚遮断2からくる意識変容ってことはない? 言っちゃ何だけど、LCL槽の中なんてぶっちゃけアイソレーションタンク3みたいなもんなんだから」
「うーん、言われてみると…そんな感じもしますかねぇ…。やってみたことないからわかりませんけど」
端子の装着を終えて、タカミが仰向けに寝転がる。いつも通りのデータ収集が開始された。…異状なし。
「いいわ、今日は上がって。違和感があったらすぐに私に報告。いいわね?」
「Yes, ma’am.」
タカミがひょい、と跳ね起きて実験室を出て行く。それを見送って、リエは改めてLCLが抜かれた水槽をかえりみた。
感覚遮断からくる意識変容を予測していなかったわけではないが、タカミの「事実と合致しない、だが確かに自分の記憶」という言葉に、リエはもうひとつの回答を導き出していた。
本人の認識は希薄だが、タカミはライゼンデだ。アイソレーションタンクにも似た環境が、タカミに魂の記憶を追記しているのではないか。それが吉と出るか凶と出るか、今の段階では何も言えない。
- エキスパンドメタル…金属材料に千鳥状の切れ目を入れて押し伸ばす方法で菱形・亀甲型の網目状に加工した製品。材質としては文字通り鉄のものから、アルミやステンレスなどいろいろ。耐食性・安全性(切れ目の入った金属だけに、下手に触ると切れる)を高めるためにフラット加工したり、メッキ・塗装をしたり、樹脂コーティングしたり。この場合は裸足でペタペタ歩くことも想定されてる筈なので、おそらくは樹脂コーティングかなにかされてると思われます。それにしても直に寝たら痛いだろうな。
- 感覚遮断…外界からの刺激(いわゆる五感)を極限まで低減すること。感覚遮断の状態になると思考が乱れたり、身体的な違和感を生じたり、場合によって幻覚が生じることもある。海や雪山での遭難、高速道路での長時間運転で見られる現象であり、それが事故に繋がることもしばしばであるが、それによる意識変容を目的とする治療に応用されることもある。
- アイソレーションタンク…感覚を遮断するための装置。光や音が遮られた空間で、皮膚の温度に保たれた高濃度のエプソムソルト(硫酸マグネシウム)水溶液に浮かぶことで、皮膚感覚や重力の感覚を大きく制限することができる。リラックスを目的として、また心理療法や代替医療として使われている。