第七話 慟哭へのモノローグ


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

すべて世はこともなし
第七話

 

慟哭へのモノローグ


 紅・・・一面の紅。その中に・・・紅より紅い、何かが光っている。
 銃声、砲声、破裂音。怒号。悲鳴。断末魔の呻き。
 鉄の臭い。土の臭い。火薬の臭い。
 口の中は砂混じりの鉄の味で溢れていた。
 四肢の感覚は疾うになく、忍び寄る寒気だけが意識を侵食する。
 この世の終わりのごとき光景。このまま目を瞑れば、本当に全てが終わるだろう。

 それでも、生きたかった。
 生きたかったから、手を伸ばした。
 それ・・は、「生きたいか」と問うたから。

***

 そこは、闇しかなかった。
 闇の中で、それでも確かに自分は生きていた。
 生きたいと望んだ。それだけが確かだった。
 何故そこにいるのか。これからどうしたいのか。わからない。・・・何故なら、「意思」といわれるものに関与する一番大切な要素・・・「記憶」が欠落していたからだ。
 自分は誰なのか?
 何も聞こえず、感じることが出来ない。
 闇・・・ただ暗闇。
 そこで、ただ一条の光のように感じたものがあった。
 はるか高みから差し込む光のようであったし、差し伸べられた手のようでもあった。
 感覚そのものが未分化なのかもしれない。視覚とも、聴覚とも触覚とも弁別できない。あるいは、その全てを超越した感覚なのかも。・・・だが、そのいずれでも構わない。ともかくも、それに向けられる全ての注意を向けた。

 ―――――生きたい。

***

 緩やかに意識が覚醒の水面に近づく。だが、まだ浮かび上がることはできない。
「本当に、これ・・が生きていると?」
 懐疑的な響きを持った声は、そう訊ねた。
「生きています。間違いなく」
 若い声が、静かだが確信に満ちた声で告げた。年嵩の声はおののく。
Incorruptibility註1)…不朽体、なのか…?まさか、本当に『使徒』…」
「ご存知の筈です。この事故・・が起こったのは1914年。その時の記録では14歳」
「おお…」
「彼は成長・・しているのですよ。無論、ひどく緩やかではありますが。incorruptibleなのではなく、生存し回復過程にあると推測されます。…おそらく、程なく覚醒するでしょう」
「『使徒』が覚醒する?なんということだ…我々はまだ準備を終えていない。研究は端緒についたばかりだというのに。…我々には、もう時間が無いということなのか?」
「『死海文書』にいう『使徒』の覚醒とは限りません。ヒトの因子を取り込んだことは全くの想定外イレギュラーだった筈です。だから、かくも長い眠りにある。おそらくは、必要な条件が揃わなかったための発育不全であると推測されています」
「ゆえに、『CODE:Kaspar Hauser』か。…与えられるべきものを与えられず成長する、『アダム』の遺児というわけだな…我々人類にとって吉と出るか、凶と出るか…」
「どのような経過をたどるか全くデータがないのです。厳重な隔離、管理が必要と考えられます。そのための予算の承認を、キール議長」
「解った、委員会で検討しよう」
「ありがとうございます」
 言葉を言葉として認識は出来たが、意味がとれない。
 カスパール=ハウザー。それは自分の名前なのか。わからない。
 その後、何度眠りに落ち、何度その淵から浮かび上がったのか定かでない。次に聞こえたその声に、彼は意識を傾けた。それが、先ほどのようにただ聞こえる範囲で交わされているというだけの会話ではなく、確かに自分に向けられた言葉だと理解したからだ。
「…すまない。本当に…」
 慚愧に身を切り刻まれながら絞り出すような…そんな声音。
 だが、感じるのは温かさ。相変わらず感覚が混然として、それが声から感じるものなのか、触覚がもたらすものなのかは判然としない。
「私を赦してくれ…などと、言えた義理ではない…だが、君たちを守るためなら、彼らとて利用する…そう決めた。その代わり…私の力の及ぶ限り護る。どんな手段を使ってでもだ」
 意味するところを完全に理解できたわけではない。だが、その言葉に…確かに彼は安寧を感じていた。
 そしてそれを伝えることが出来ないのを、もどかしく感じる。
 覚醒の水面と、混沌の深淵を行きつ戻りつ…いつか、あの水面まで浮かび上がったら、伝えることが出来るのだろうかと、ぼんやり考えていた。

***

「Sascha Klein, Aufstehen!」
 それが命令であることに、暫く気づけなかった。言葉であることさえ、一瞬認知できなかったと言ってよい。聞こえたそれが人間の声であり、しかも自分に向けられたものであると理解するまで、一体何秒かかったのだろう。普通なら、怒号に変わる程度の間はあったはずだ。
「・・・ッシャ。サッシャ、起きなさい」
 彼は目を開けた。
 辛抱強く声をかけてくる相手を認識する。しまった、出頭時刻を過ぎたのか。毛布をはねのけて起き上がった。
 上体を起こしただけだったが、ふっと目の前が暗くなって目を閉じる。すみません、大尉。そう言おうとしたが、乾ききった喉は壊れた笛のような音を立てただけだった。
「大丈夫だ、サッシャ。ここはまだラボだよ」
 咳き込んで上体を折った彼に、心を読んだかのような言葉をかける。その人物はコップに入った水を勧め、ゆっくりと起きるよう動作で促した。
 サッシャ=クライン。そう、それが与えられた名前だった。拾われる前のことは名前を含めてほとんど憶えていないのだから仕方がない。
 そういえば昨夜は結局ラボから帰れなかったのだ。
「サッシャ、君は今日休みだよ。動けそうだったら部屋へ戻って寝みなさい」
了解jawoh・・・」
 薄目をあけて、視界が回復したことを確認してから頭を起こす。正直、ラボのベッドも宿舎の寝台も硬さでそう差違はない。むしろラボのほうが断熱がよい分快適と言えなくはなかったが、落ち着けるかどうかは別の次元の問題だ。
 ゆっくりと、数冊のノートをまとめている白衣の人物の背に視線を向ける。
「あなたも、帰ってないんですか?シュミット大尉」
 色彩の判然としない双眸と、ややくすんだ銀の髪。年齢としてはまだ20代であろう。この歳で大尉ならエリート路線だろうに、軍人にありがちな高圧的な雰囲気がなく、むしろ神父かなにかのような深沈たる態度が板についている。
「まあね。私はいつものことさ。・・・ただ、君の血圧がなかなか回復しなくてね。眠ってるのか昏睡してるのかちょっと判断に迷ったから、結果の整理かたがた残ってただけなんだよ。気づいたら朝だったがね」
 大尉は苦笑いをして言った。
 相変わらず律儀なことだ。他の研究員が当番なら、委細構わずストレッチャーで宿舎へ放り込んで終いだろう。サッシャとしては下手につつき回されるよりは自分の宿舎のほうが落ち着けるから、それでも一向に構いはしないのだが。
 …この人だけは、どういうわけか彼を普通・・に扱う。血圧が下がろうが脈が途切れようが数日すればまた何事もなかったように動けることを十分知っている筈なのに、体調の変化をつぶさに訊ね、歩いて宿舎に帰れる状態でなければ決して帰さない。変調を来している間は必ず就業免除を指示する。
 軍属と言いながらその実、被験体にすぎないサッシャたちの待遇は、この人の提言がなければもっと酷いものになっていたに違いない。相応の地位にあるのか、この人が言ったことは大概通るようだ。
 しかし…そもそも自分の本名すらわからない自分が言うのも変な話だが、正直なところヨハン=シュミットジョン=スミスなんて幾ら何でも偽名くさすぎる。誰も何も思っていないふうなのが不思議なくらいだが、場所自体が過分にワケアリなのだから、存外他の研究者だって皆偽名なのかも知れない。情報漏洩を防止するためだとしたら、有り得ない話ではないだろう。
 軍の、機密扱いの医学研究所、と聞かされている。
 表向き、新しく発見された抗生物質の実用化試験という名目である。抗生剤という概念が出現してまだそれほどの年数が経っていないし、競争の激しい分野だから機密扱いになっていても不思議はないのだが、サッシャたちの関与する研究は全く別物らしい。
 戦闘に巻き込まれ負傷・・・普通ならまず助からないはずの傷から、サッシャは生還した。それは、あの戦場でサッシャが接触した『何か』を取り込んでしまったからなのだという。それが何なのか、当然だが研究員たちは教えてくれない。だが、まかり間違っても『抗生物質』で説明のつく代物でないのはサッシャでさえ理解出来た。
 かすかに憶えている。紅より紅い、深い輝き。死にかけて見た幻と言われても否定できるほどの材料を持っているわけではないが、あれは研究員たちの説明で納得できるものではない。
 そしてあの輝くものを、研究員たちが『Core』と呼んでいたのを知っている。
 しかも、一つではないらしいのだ。研究員たちはあれと同じようなものをいくつも確保していて、それを人間に取り込ませる実験をしていた。
 被験体は、例外なく子供。おそらくは手に入れやすくて、扱い易いから。
「では、失礼します」
「スケジュールは追って連絡するから」
「はい」
 ベッドから滑り降りて、畳まれていた上着を羽織った。
 研究棟を出て、宿舎へ向かって歩く。どうせ同じ敷地内で、行き交うのは軍人か軍属。サッシャの立場を知っている者のうち、半分ほどの人間は概ね珍獣でも見るような目で見る。挨拶しても返ってこないことがしばしばだ。自分達の立場というものが胸が悪くなるほどよく分かる。
 1943年。この国は、戦争中なのだという。それもあまり旗色がよくない。報じられるのは勝った話ばかりだが、耳に入ってくる噂話は暗澹たる戦況。物資は滞り、空振りとはいえ空襲警報の回数は増えている。いずれ本当に空襲があるだろう。…しかし、それよりも差し迫った不安があった。

 ―――――自分は、何者なのか?
 ―――――いつまで、生きられるだろう?

『CODE:Nephilim』
 Nephilimネフィリム…堕ちたる天使と人間の混血。その名が自分達に付された意味は、まだ十分に理解できたとは言えない。
 なにを取り込んでしまったのか、それが自分にどういう影響をもたらすものなのか。そう滅多なことでは死ねないらしい、というのはなんとなくわかるが、その力がどこから来るのか、何のためのものなのか、そのあたりは一切わかっていない。多分、このまま軍の実験に身を任せていたところで、そんな答えは得られないだろう。
 宿舎が見えた。基地の一隅、倉庫と紛うようなひどい建物ではあったが、今はそこがサッシャの『家』であった。
「おーい、ちびども元気か?」
 そんな台詞で扉を押し開ける。それがいつもの挨拶だった。
「「「「サッシャぁ!!」」」」
 薄暗い宿舎の廊下に、わっと子供たちが溢れる。
「帰ってこないんだもん、びっくりしたよー!」
「今度こそくたばったかと思ったぞ」
「お泊まりするんなら連絡ぐらいちょうだいよね!」
「できるか!こちとら血圧下がって失神してたってのに!」
「・・・おかえりなさい、サッシャ」
 最後に出てきた、サッシャと同年代の娘。アウレリアという。18歳。サッシャとアウレリアが概ね最年長ぐらいのもので、あとは10歳から15歳の子供ばかり。
「とりあえず寝かせてくれ、アウラ。ラボのベッドじゃ寝た気がしないよ」
「ええ。何か食べる?」
「スープがあるといいなぁ」
 アウレリアは笑って言った。
「温める間起きていられる?」
「その間シャワー浴びて着替える!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 サッシャとアウラを含め、総勢十四名。被験者はこれ以上増える兆しはなかった。
 いずれも身寄りのない、そのままでは路傍で野垂死ぬしかなかった子供たち。世界大戦後の欧州では決して珍しい存在ではなかった。幸か不幸か拾われ、被験者となり、そしておそらくは・・・生存しているということは、適合者。
 適合しなかった場合、おそらくは命を落としたことは想像に難くない。サッシャがほぼ偶然に適合し『核』を取り込んだ経過を、研究者たちはおそらく人為的・・・に再現したのだ。今ここに居る子供たちの数倍、下手をすると数十倍の命が消えた可能性だってあり得る。
 背筋が寒くなるような話だが、それを考えすぎと一笑に伏すには暗い材料が多すぎる。
 この国は敗戦への路をたどり始めている。上層部が自分たちをどう使うつもりで飼っているかは知らないが、後がなくなってきたら、いきなり前線投入されるか、さもなければ不要なものとして処分されるかだ。
 しかし、自分たちの現況を考えたら・・・後者というのが妥当な線だろう。戦闘員として駆り出されそうな年齢に達しているのは辛うじて半数ほどで、あとはなんといっても年端もいかない子供達ばかり。子供達は殺されて、残りが前線に放り出されるという事もありうるが…機密保持という観点から考えにくい。
 この基地に来る前の記憶がほとんどないのに、奇妙なことにそういう推測をするだけの知識はあった。知識の中にはこの数ヶ月で俄に仕込んだものもあるが、それだけでは説明のつかない知識と言うより記憶・・が、自分でも不気味だった。
 奇妙なのはそれだけではない。
 ・・・浴室の鏡に映る自身の姿。くすんだ金褐色の頭髪と、黒とも見えるがわずかに青みがかった眼。顔立ちも、この国の人間とそう差異がない。だが、サッシャ自身には違和感があった。
 自分はこんな顔だったろうか?
 その上、どう見ても年齢があわない。1914年のクムランで拾われた時に十代半ばであったというなら、少なくとももう40代の筈だ。しかし、どう見ても鏡の中の自分は20歳を超えているかどうか。
 そのうえ、サッシャの記憶はこの基地での数年分しかない。概ね四半世紀分が飛んでいる。
 本当の名前も、出自もわからない。1914年のクムランで、『核』の発掘のための人員として集められたということだけがわかっていて、そこで戦闘に巻き込まれ被弾、通常ならまず助からないところを、なぜか生存が確認されて収容された、らしい。
 死んだ現地作業員など、普通ならそのまま打ち棄てられるところだったはずだ。・・・こともあろうに発掘した対象を取り込んだりしていなければ。
 第一次世界大戦と呼ばれる、欧州中を巻き込んだ戦争の勃発と終結、そしてまともに世界恐慌の影響を受けてしまったこの国がファシズムへ突き進む間の記憶はサッシャにはない。
 気がつけば、この基地内の研究所の研究補助員という立場と、軍属サッシャ=クラインの名を与えられていた。そして被験者としての時間と基地内の軽作業をこなす日々。
 当初は、それを不思議に思うことさえできなかった。クムランで死にかけたときの記憶が間違っていると考えるのが普通だろう。そうサッシャに信じ込ませることは可能であったはずだ。
 ・・・その資料を読まされなければ。
 本来サッシャの目に触れることはないであろう、当時の資料を読ませてくれた人物がいるのだ。それが、ヨハン=シュミット大尉。軍籍にあるが、本分は科学者であるらしかった。
 それまでコードネームでしか呼ばれていないかった彼に名前と軍籍を与え、今のサッシャの生活を設計した人物だ。数ヶ月前になるが、その大尉が1914年当時の資料をサッシャに読ませたのである。
『内緒だよ』
 そんなコメントと一緒に。
 軍の上層部とは別のことを考えているのかもしれない。そんな漠然とした思いはあった。しかし、冷静に考えれば、軍規に触れるはず。有り体に言えば実験動物に過ぎない今の自分達に、わざわざ教える事ではないはずだ。事実、その資料を読まされてから、不審にすら思ったことがなかった不自然さに気づいた。
 気づいてしまったら、調べずにはいられない。研究員達の会話にのぼる言葉の意味を知ることから始めて、世界情勢、周辺地理、医学の基礎、その他…すべてシュミット大尉が本や資料を手の届く範囲に用意していた。大尉が置き忘れた振りをし、それをサッシャが持ち出すかたちではあったが、それも数ヶ月となると結構な量になる。
 なにを考えているのか?もしくは、サッシャに何を期待しているのか?考えれば考えるほど、わからなくなる。
「おーい。鏡の前で悦に入ってる奴がいるぞー」
 賑やかな足音と声で我に返る。
やかましいぞバート。風呂ぐらいゆっくりつかわせろ」
「アウラがスープ温まったって。早いとこ行けよな。燃料だって貴重なんだぞ!」
「わかってる!すぐ行くから」
 そう、今は周りの思惑なんか気にしてはいられない。とりあえず生き延びなければ。そのために必要なことなら、何だってやる。
 さしあたっては、この基地から逃げ出さなければならない。ちびどもをつれて、というのはなかなか難儀だが、いまはそれが自分のしなければならないことだった。

 ―――――生き残るのだ。みんなで。


註1…Incorruptibility:死後も腐蝕しない遺体、聖人の遺体

第七話 慟哭へのモノローグ