第弐話 雨の朝、優しい夜


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 ここに僕の居場所はないんだ。
 帰らなくちゃ。
 帰らなくちゃ。
 帰らなくちゃ。
 でも、何処へ?
 僕の居場所はどこにあるの?
 父さんも母さんもいてくれて、僕を見ていてくれたあの場所はどこにあるの?

【ちょっとリツコ! あんたんとこの所長の所在はまだわかんない訳!?】
 もはや電話にかみつきかねない勢いで怒鳴るミサト。しかし、電話を受ける方は至って冷静だった。
「いい加減にしなさいよ、ミサト。ここがどういう施設か知らない訳じゃないでしょう?所長が行き先を知らせてないってことは、よほどの緊急事態でなければ呼び出すな、という意味なのよ」
 赤城リツコはペン先で机をつつきながら吐息する。いったいこのエネルギーは一体何処からくるのだろう? 一晩平均4~5本のビールか?あの壮絶な味のカレーラーメンか?
【自分の息子が行方不明ってことは、よほどの緊急事態に入らないっての!?】
「私に怒鳴ったって知らないわよ。でも、シンジ君の件は副所長を通じていちおう連絡してあるわ。そのうち連絡してくるわよ」
【その台詞は昼聞いたわよ。それが何!?今何時だと思ってるの】
「とにかく!こっちだって打つ手は打ってるのよ。大体、今日一日学校を休んだだけなんでしょ?明日はひょっこり出てくるかもしれないじゃない」
【う~~~わかったわよ。なにか分かったら知らせてよね!!】
「はいはい」
 電話を置く。リツコのデスクのすぐ側で、助手の伊吹マヤが声をかけ損ねて立ち尽くしていた。
「・・・すごい声量ですね。話、丸聞こえでしたよ・・」
「つくづく、教師が天職なのよ、ミサトはね。それにしても、シンジ君の件は気になるわね」
「シンジ君・・・所長の息子さんでしょう。一度だけ会ったけど・・・あまり、所長には似てないみたいですね」
 こわもてゲンドウに似てなくてよかった、とまではさすがに言わなかったが。
「あら、そう?」
 リツコはミサトの電話で中断されていたデータチェックを再開した。
「所長似なのよ、彼は」

 一方、6限が終わるが早いかアスカは学校を飛び出していた。
 雨模様の空は、夕刻が近づくにつれて暗さを増していた。駅前でトウジやケンスケ達と合流し、情報を交換する。
 午後からエスケープして探し回っていたトウジたちの収穫は、まずゼロといって良かった。
「ここらへんで碇が立ち回りそうなとこはみんな探したんやけどな。影も形もあらへんのや」
「こうなると、電車かバスに乗って行った可能性が高いよ」
「そうだとしたら、今度こそほんとうに見当がつかないわ・・・あの莫迦!」
 爪を噛むアスカ。自分は何を以て幼馴染みを自任していたのだろう。こんなときに行き先の一つも思いつかないとは!
「そういや碇のやつ、例の日曜以来様子がおかしかったよな。惣流、心当たりないわけ?」
 悔しいが、ない、というより仕方がなかった。
「あ、そういやぁ・・・・」
 考え込んでいたトウジがふとアスカに向き直った。
「碇の母親って入院しとるんやろ?見舞に行ったんと違うんか?」
「学校を休んで?それはないわ。だって、シンジは入院先知らないもの」
「はぁ!? なんやそれ」
「シンジだけじゃないわよ。私も・・・周囲の人間はだれも、シンジのお母さんの入院先って知らないの。知ってるのは、お父さんだけなんじゃないかな」
「子供が親の入院先を知らんやなんて・・・そんなんありか?」
「知らないわよ。だってそうなんだもの」
 しまいにはアスカも腹が立ってきた。そうだ、どうしてこんなことになっているのだろう?
「いよいよこれは、警察沙汰かなぁ」
 ケンスケが不吉なことを呟く。
「阿呆!縁起でもないこというんやない。惣流、もいっぺん自宅に連絡入れてみてくれんか。ワシはミサトせんせぇんとこに何か情報入ってないか、連絡してみるわ」

 シンジが自分の意志で出ていったのは確かだ。
 雨の中、加持は一足先に別荘地へ車を走らせていた。
 カヲルたちは何の助力も要請しては来なかったが、彼らがシンジの行先をそこだと見当をつけた以上、確率は高い。行ってみない手はなかった。無論、まだミサトには何も知らせていないが。
 彼は、帰りたかったのだろうか。平穏な日々に。
 空は暗さを増していく。
 雨は、降り続いている。

 二人がその小さな駅に降り立ったとき、既に夕闇の幕が辺りを覆いはじめていた。
「まずいね。暗くなると、探しづらくなる」
 暗い空を見上げる。
「手分けしよう、レイはこの駅の周囲。駅員さんたちにも、いちおう聞いてごらん。バスターミナルは僕が探してくるよ。30分後に、ここでもう一度落ちあおう。それまでに何か手がかりがあれば、携帯で連絡を。万が一、彼がバスに間に合っていたり・・・歩いて行こうとしたのなら、今頃加持さんが見つけているよ」
「うん」
 二人は別れた。
 乗降客の少ない、小さな駅だ。人そのものが少ないから、それほど時間はかからない筈。案内板でバスターミナルの位置を確認して、カヲルは歩き出した。
 ――――先刻のレイの指摘に一番ショックを受けたのは、ほかならぬカヲルだった。
『ひょっとしてカヲルは、碇君のこと、嫌いなの?』
 これは嫉妬なのか?
 自分よりはるかに恵まれた環境にある者への?
 慌てて、それを打ち消す。何を莫迦な。自分の比較対象となりうる存在なぞ、この地上に存在する筈がないではないか。
 過去から受け継ぐべき何ものもなく、未来に何も残らない存在。それが自分だった。普通の人間と比較すること自体が、間違っているのだ。
 自分には何もない。ただひとつの存在を除いて。
 しかし、彼・碇シンジには彼を心配してくれるたくさんの人々がいる。幼馴染み、クラスメイト、先生、それから・・・。
 彼はなぜ人々を拒絶するのか?
 ヒトの心はカヲルの理解を越えていた。
 ――――――一瞬、突風が吹いて雨が横殴りに吹きつけた。
 傘を傾けたが、大粒の雨がカヲルの制服の裾を濡らす。そのとき、視界の隅に同じ制服の少年が映った。
 少年は、バスターミナルのベンチにかけていた。背を丸めて、じっと動かない。
 バスターミナルにも屋根ぐらいあるが、この横殴りの雨では、ないも同じだ。
 わきに置かれたツートンカラーのバッグも、すっかり水を被っていた。
 カヲルはベンチの側まで行くと、傘を差しかけた。
 何の、反応もない。
 丁度バスがやってきた。今日最後の便のはずだ。バスは狭いロータリーを回り、二人の少年の前で停車すると、ドアを開けた。
 少年は、動かなかった。怪訝な顔で二人を見る運転手を、カヲルは笑顔でケムに巻く。運転手は乗らないと見てドアを閉じた。
 カヲルは傘を差しかけたまま姿勢を低くした。
 膝にのせたS-DATのテープは回っているようだが、もはや聞いてはいないようだった。目は虚ろ、青ざめた唇は小刻みに震えている。何かを譫言のように呟いているようにもとれた。

 カエリタインダ。
 ココハ ボクノ イル バショ ジャ ナイ・・・・

「碇・・・・シンジ君?」
 ゆっくりと、両眼がぼんやりとした焦点を結ぶ。顔を上げて、カヲルを見た。
「・・・君は?」
「僕はカヲル。渚カヲル。君を探していたんだよ」
 ――――――――その言葉に、彼は強く反応した。言ったカヲルが驚くほどに。
「僕を・・・・・?」
 濡れた前髪から、雫が落ちている。それとは別の水分を湛えた、すがりつくような眸。・・・・視線を合わせたとき、カヲルの裡に鋭い痛みが走った。
 痛い。これは、胸の痛み。心の痛み。無論カヲルのものではない。

 ――――――――心が、痛い。

 巻き込まれているのだ。この、碇シンジという少年の心に。
 頭を振り、雨に濡れた肩に触れる。
 軽く目を閉じて、こころに触れる。

 ――――――――愛されたい。
 ――――――――でも、他人に触れるのが、触れられるのが怖い。
 ――――――――傷つきたくない、傷つけたくない。
 ――――――――嫌われるのが怖い、失うことが怖い。

『・・・・ああ、そういうことなんだね』

 ――――――――・・・・もうイヤなんだ。もう誰もなくしたくないんだ!!

『だから、全ての接触を拒むのかい?』

 ・・・・・やられた、とカヲルは思う。これでは、憎むことなどできない。捕まるしかない。
 硝子のように繊細なこころ。壊れそうな自身を必死に守っている、臆病な魂。壊してしまうのは簡単なことかもしれない。しかしもう、カヲルにそれはできなかった。
「おいで。一緒に帰ろう」
 時刻が来たのか、バスが発車する。
 それと同時に、シンジの上体が倒れた。
 カヲルはシンジの身体を支え、携帯の短縮ボタンを押した。3コールと待たなかった。
「レイ?」
【見つかったの!?】
「タクシーを一台、つかまえておいてくれないか。どうも、歩かせるのは酷みたいだ」
【分かったわ】
 雨に濡れたまま、吹きっさらしのバスターミナルに蹲っていたのだから、当たり前と言えば当たり前だが・・・・・ひどい熱だ。
 シンジのバッグを肩にかけ、シンジに肩を貸して、立ち上がる。
 加持への連絡のことが一瞬だけ頭をかすめたが、それだけだった。