第参話 Moonlight Waltz


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「おはよう」
 にこやかな朝の挨拶に、大抵の者は思わず微笑み返してしまう。しかし、その全員がその直後、はてと首を捻るのだ。
 ――――――――誰だ、あれ?
 どうみても四月からずっとここにいるという顔で、当然のように校門をくぐる。制服は第一中のものだし、なにもおかしくはない。
 ただ、誰も知らないのだ。彼を。否、知らない・・・・・・というと、微妙に語弊があるかもしれない。第一中随一の有名人にあまりにも似すぎており、だれしも一瞬、彼をその人物と誤認するのだ。
 静かに風を巻き起こしながら、彼は玄関まで来て初めて皆と別のルートをとった。
 教室ではなく、職員室に入っていったのである。

「ちょっと、ちょっと」
 HRが終わり、ミサトが出ていった後のことだ。思いもかけない人物に手招きで呼ばれ、レイは少しめんくらいながらも席を立った。
 アスカはレイを窓際にひっぱっていくと、抑えた声で訊ねた。
「あんたんちのお兄さん、どうかしちゃった訳?」
「・・・・・・・・え?」
 一瞬、何を言われたのか分からなかったが、とりあえずアスカがこんなところまで引っ張ってきて話を始めた理由だけは分かった。レイの兄のことについては、知っている人間はえらく限定されているのだ。
「カヲルが、どうかしたの?」
「どうしたもこうしたも・・・・・・あんた今朝の騒ぎ、知らないの」
 きょとんとして、レイが首を横に振る。がく、とアスカの肩が落ちた。
「カヲルなら今日はまともに登校してるわよ。だから私が予鈴の20分も前に教室にいたんじゃない」
 あ、なるほど。などと納得していられる状況ではない。
「・・・・・・・ってことは、一緒に来たの?」
「そうだけど・・・・・それが何か?」
 アスカの眉がくもる。どうも話がおかしい。
「どうしたの、アスカも綾波も。先生、来るよ?」
 これも何にも知らないらしい太平楽シンジが呑気に声をかける。
 何か真剣きって話すのが莫迦らしくなったアスカは、しばらく眉間を押さえていたが、ややあって顔を上げた。
「・・・・いいわ。何か聞くに莫迦莫迦しい事態のような気がしてきたから」
 シンジとレイが怪訝そうに顔を見合わせる。

 ――――――――しかし、同刻。1-Aの教室では静かに爆弾が炸裂していた。
 担任に連れられて入室した転校生は、軽い動作で黒板にフルネームを書き、くるりと皆のほうへ向いて、にっこりと笑う。
 つやの良い栗色の髪が、もし銀色だったら。穏やかな鳶色の瞳が、もし赤かったら。
 教室の誰もが、思わず声を出し損ねていた。
 職員室で一足先に衝撃をくらった担任の日向が、その沈黙を苦笑いで見守る。
 その異様な空気に何ら頓着することなく、彼はぺこりと一礼した。

「冬月タカミ・カーライルです。よろしく」

「ふうん、そりゃまた随分と時期外れな転入生だね。もうすぐ期末試験だってのに」
 自分のことは遠い棚に放り投げて、カヲルは泥縄な予習のほうへ専心していた。
「・・・・だからな、おまえとそっくりなんだってば」
「まあ、世の中同じ顔は三つあると言うし・・・・・・・」
「人の話をきけよ。どうせあてられたって即興でできるだろうが・・・・ったく、さめてんなぁ」
 冷めるも何も、とカヲルは思う。それが何か自分と関係あるとでも言うのだろうか。
「向こうはお前と違ってやたらと愛想がいいみたいだぞ」
「いいことだね」
「うかうかしてっとNo.1の座、持ってかれるぜ?」
 人を何処かのホストと勘違いしてるんじゃないのかと思うが、このさい相手になるだけ労力の無駄のような気がして、黙っている。
「冬月とかいってたけど、クォーターらしいな」
 初めて、カヲルの手が止まった。
「・・・・・・・冬月?」
 知らない名ではない。いや、むしろ。
「やっぱ親戚か?」
 興味しんしんという面持ちのクラスメイトを見、再びノートに目を戻す。
「・・・・・・・さてね。十億年ぐらい前には多分そうだったんじゃないかな」
「あのなぁ・・・・・・」
 生命がクラゲ形態でぷかぷか浮いている頃の話を聞きたい訳ではないのだ。拍子抜けして、肩を落とす。
 冬月。人工進化研究所の副所長・冬月コウゾウの縁者という戸籍を持っているとしたら、それはカヲルにとって十分注意を引くことだった。

 警戒しなければならない、という意味において。

「いやおっどろいたのなんの。ドッペルゲンガーかと思っちゃいましたよ」
 LL教室隣、英語教諭控室・兼・教材保管室。
 今朝のセンセーショナルな一幕を、時間ぎりぎりのミサトは当然知らない。それを日向が丁寧に身振り手振りで披露に及んだのだった。
「ふーん、そんなおもしろいことがあったんだ」
 しかし、ミサトの興味は別のところにあった。
 すべては、綾波レイという少女が現れてから。そう踏んだミサトは、彼女の周囲から始めた。そのうち別姓の兄、渚カヲルという少年に行き当たる。さらに、二人の保護者として名を記されている人間は架空の人物で、連絡先は巡りめぐって加持リョウジのそれに重なっていた。
 べつに二人の子供の保護者となっていたこと自体は、何もおかしくはない。親類の子の後見を引き受けたとすればたいして奇異な話ではないのだ。問題はそれがえらく巧妙に隠蔽されていたことだ。
『何を知ってるの?』
 加持は必死に逃げ回ったらしいが、ついにつかまった。
 問い詰められた末、彼ら二人の名義上の保護者となっていることを認めた。彼らが行き倒れたシンジを保護したことも。しかしシンジの失踪について、少なくと理由については彼らに直接の関係はない事を明言し、また彼らの身元についても彼ら自身のプライバシーという理由で決して明かさなかった。
『彼らの母親にあたる人物は、訳あって病気療養中だ。その上、悪いことには・・・世の中の大人なんて絶対にアテにしちゃいけないくらいに思ってる。・・・・そう思っても仕方のない目に逢ってるんだ。あの子達に関しては、今はそっとしといてやってくれ。頼む』
 韜晦が十八番の彼にしては、珍しく真剣な口調だった。
 もとより、子供達の身元を暴くのが目的ではない。不透明な部分が多すぎるシンジの失踪について、一抹の不安が拭い切れないだけなのだ。
 要は、彼女の生徒達に危害が加わらねば良いのだ。
 その旨、念を押すと、加持はこれも真顔で答えた。
『子供たちには危害を加えさせない。無論君にもだ』
 加持の言葉を、ミサトは信じた。
 そこへ、件の渚カヲルとそっくりな少年が転入という今朝の騒ぎである。
 だからどうした、というカヲルと同様な感想を抱いたミサトだったが、完全に無視するには不気味なタイミングではあった。

「どういうことだい?」
 社会科準備室。教材の補修をしながら加持が呟くように言った。
「それはこっちの台詞です」
 まったく明後日の方向を向いて資料ディスクを物色するカヲルは、いささか不機嫌だった。
「17th-cellのサンプルなんか残っていないはずです。僕が知ってる限りではね。第一、サンプルが残っていて、組み上げられたところで、正常に稼動する訳ないでしょう。僕が存在している・・・・・・・・以上は」
「髪は染められるし、瞳の色なんかコンタクトでいくらでも変えられる。君もやはりそう踏んでいるんだね」
「あの名前さえなければ、こっちだって他人の空似で済ませたいところですよ」
「・・・・・『冬月』タカミ・カーライルか・・・・・・・」
「一応確認を取ってください。あの冬月教授と関係がないなら、この件は忘れても良いと思います」
「もし関連があったら」
「そのときは向こうの示威と考えて良いでしょう。あるいは囮かも」
「このこと、レイちゃんには?」
「レイだっておかしいとは思うでしょう。こっちばかり息を潜めているってのは割に合わないとは思いますが、一応気をつけるようには言っておきます」
「わかった」
 複雑な表情をして、加持は天井を仰いだ。

 洞木ノゾミは、転校生を案内しながらふと思った。
『このひと、すごく素直に笑うのね』
 理科室、工作室、美術室、音楽室・・・・そういった移動教室を一通り説明する間にも、まるで初めて学校というところに来たかのようなよろこびようだった。拡張途中の学校ということもあり、あまり設備が豊富とも言えないこの第一中。さして驚嘆に値する代物とは思っていなかったノゾミも、ここが何かしらすばらしい空間のように思えてくるほどだった。
「でね、この向こうが焼却場。週番のことについては順番が近づいたらまた説明するけど、掃除のこともあるから説明しとくね」
 そう言って校舎の角を曲がった時、焼却場の前にはカートを押したりごみ箱を抱えた数人の生徒がいた。どうやら担任に資料の整理を手伝わされたものらしい。焼却炉が既にもうもうと煙を上げているにもかかわらず、炉の前にはうず高いごみの山が築かれている。そのうちの一人を見て、ノゾミは手を振った。
「あ、ヒカリお姉ちゃん」
「なんだ、ノゾミじゃない。週番?」
 そう言いかけたヒカリは連れを見て、状況を納得した。
「そういやヒカリんとこって、姉妹揃って委員長だっけ」
 ごみ箱を抱えていたアスカも連れに気づく。
 同様に、シンジ。トウジとケンスケに至っては、思わず口をぽかっと開けたまま固まっている。
「あのね、うちのクラスの転校生」
 そして、いささか長いフルネームを復唱しようとした時、彼はぺこりと一礼して言った。
「冬月タカミ・カーライルです。よろしく」
 異様な沈黙が、一瞬だけ降りた。天使が通り過ぎる、という表現を、シンジは頭の隅で思い出していた。
「あ、よ、よろしくね」
 こういう場合に一番立ち直りが早いのはヒカリである。
「・・・・・・なんや渚が二人おるような気がして怖いで」
「渚から毒を抜いたらこうなるかもな」
「そんな・・・・・・カヲル君ってそんなに毒があるかな」
 男子連中のぼそぼそ話を肘鉄で遮るアスカ。本人をまえにして、あまりに失礼と思ったのか。
 そのとき、彼は一歩進み出て手を差し出した。
「碇先輩・・・・・・所長さんの、息子さんだそうですね。養父ちちがお世話になっています。僕も音楽部に入ろうと思ってるので・・・・その時はよろしくお願いします」
「・・・えっ・・・・・・あ、そうなの? こちらこそよろしく」
 締まらない返答は、シンジのあわてっぷりを如実に表していた。一瞬、差し出された手にすら気がつかなかった程である。アスカに脇腹をこづかれて、ようやく手を差し出すていたらく。
 握手して、にっこりと笑う。友人のそれと同じに、性別に拘わりなく、思わず魅了される笑みであった。だが、同じ顔で、同じように微笑むのに、ものすごい違和感を感じる。
 ノゾミと転校生が去った後、一同しばらく言葉がなかった。
 一番困惑していたのは、シンジだったであろう。ほとんど頭を抱えんばかりだ。
「先輩? 先輩って・・・・・えーと・・・・そりゃそうなんだろうけど・・・・・なんか違うな・・・・・・」
 珍しく口にこそ出さないが、アスカも同様な居心地悪さを感じているものらしい。僅かに表情が引きつっている。
 彼らから見たカヲルは、どちらかというと謎めいて、ちょっと目には近寄りがたい雰囲気がある。話をしてみるとそんなことは絶対にないのだが。ただ、少なくとも誰にでも積極的に声をかけるというタイプではない。
「うーん・・・・・・」
 五者五様の困惑を抱え、しばらくごみを焼却炉にくべる手は完全に停止していた。

「・・・・・・わかった、ご苦労」
 人工進化研究所所長・碇ゲンドウは無機的にそう言って受話器を置いた。
「手続きは完了した」
 広い所長室の一郭を、所長のデスクとは別に古風な書棚とデスクが占拠している。そのデスクの主は、学者然とした初老の人物だった。副所長、冬月コウゾウ。
「そうか」
 これは無機的というより、無造作な物言いだった。あまり感心がないようでもあった。
 泰然と、膝の上に載せた重厚な本の頁を捲る。
「データ収集というなら是非もないが・・・いまやらねばならんことかね?」
「所詮、時間稼ぎだ。成否はおまけのようなものさ。例のシステムに援用できればよし、できなければ当初の予定通りに進めるだけだ」
「薮をつついて蛇どころか龍を出すことになりはしないか?」
 一瞬、視線だけを動かして腹の底の見えない所長を見る。
「問題ない・・・・」
 この返答も、いつものことだ。ゆっくりともう一頁を捲って相槌をうつ。
「・・・・そうか」

「おいおい、まさか初日から道に迷った訳じゃあるまい?」
 日がとっぷり暮れてから帰宅したタカミに、青葉は苦笑混じりに言った。
「はは・・・ごめんなさい。ちょっと散歩が長くって」
「荷物、届いてるぞ。とりあえず部屋に入れてある。なんか、えらく少ないな。まあ、手伝いが要れば言ってくれ」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
「食事は冷蔵庫の中に入ってる。悪いが先に済ませたぞ」
「ええ。ほんとにすみませんでした」
 にっこり笑って部屋に入る。だが、部屋のドアを閉めたとたんにそれが翳った。
 部屋の中には、数個のダンボール箱。そして、部屋の隅にはパイプベッドと、黒いスチール製のワゴンがあるばかり。
 ほとんど封印状態だった部屋に、この二つだけはあらかじめ置いてあった。奥側がクローゼットになっているから、衣服の収納ボックスの類は要らない。
 ワゴンの上のデカンタの中で、水はすっかり温くなっていた。
 ダンボールの一つを開け、錠剤が2ダースばかり入った箱を引っ張り出す。デカンタの水をコップに移し、2錠ばかりと共に飲み下す。
 手の中の錠剤のカラに疎ましげな一瞥を投げ、ベッドに身を横たえる。
 その時の表情は、確かに「カヲル」に酷似していた。