第参話 Moonlight Waltz


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「ねえ、綾波」
 アスカが帰り、ヒカリをトウジが何気にエスコートして帰り、ケンスケが帰り・・・そしてタカミが帰って、シンジの側にはレイが残っていた。
「何?碇君」
「言いそびれてたけど・・・・ずっと前、会ったことあるよね?」
「え・・・」
 一瞬何を言われたかわからず、反応に窮する。
「どこだかよく憶えてないんだけど・・・駅のホーム。あれ、夢じゃなかったんだ」
 シンジの表情は穏やかだったが、レイの顔からゆっくりと血が引いていった。
「ぼくも綾波も、4、5歳くらいかな? 綾波、赤いワンピースかなにか着てたと思う。・・・・で、母さん・・・僕の母さんと一緒にいたよね・・・・・・」
「・・・・・碇君・・・」
「・・・・綾波は、僕の母さんを知ってるんだね? 多分、カヲル君も」
 思わず、呼吸を飲み込むレイ。
「そんな顔しないで・・・・・僕はもう、逃げたくないだけなんだ。ホントはもう、ずっと以前から判っていたことなのに・・・今を壊すのが怖くて、ずっと忘れた振りをしてた。でももう、そんなのイヤなんだ」
 身を起こして、まっすぐにレイを見る。
「・・・冬月君のことだってそう。父さんの仕事がらみってことは見え透いてる」
「・・・・・碇君、碇君・・・・・」
 レイは言葉を継ごうとして、完全に詰まってしまった。それにあわてたシンジは赤くなってばたばたと手を振った。
「ごめん、今すぐってわけじゃないんだ。最近、二人で話すことってなかったし・・・・・。きっと、話しにくいことなんだよね。それはわかってる。・・・・でもそれがどんなことでも、僕はもう逃げたくないんだ」
 その目は、俯いていない。それは今まで、レイも見たことのないものだった。おそらく、アスカでさえ。

 加持リョウジは、開けたドアの向こうに立つ者たちを見て一瞬絶句した。
「・・・・・・どういうことですかな」
 表面、冷静に加持はそう問うた。
「・・・・・事情が変わった」
 なにがどう、変わったというのか。その説明は一切ない。それは、介入の通告に過ぎなかったのだから。
『こんな事をして、彼が黙っているとお思いですか?』
 目の前にいるのは、命令の遂行のためだけにやって来た者たち。加持が言葉に出さなかった問いに対する答えなど持ってはいない。・・・・・・もっとも、持っていたところでしゃべりはすまいが。
 どうにも、悪い方へ話が転がってゆくような気がする。
 偽りの静穏は、所詮破られるものなのか。
 加持は静かに、空を仰いだ。

 病院を出たレイは、暫く呆けたように玄関先に立ち尽くしていた。
 ややあって、不意に走り出す。
『・・・・・・カヲル・・・カヲル!!』
 もはやどうしていいのか分からなかった。このまま口を噤み続けるのか?それとも、あらいざらい喋ってしまうのか・・・・・・でも、そんなことをしたら・・・・・・!!
 ―――――――レイは、シンジ君を支えてあげればいい。これから、シンジ君は今まで逃げてきた真実と戦わなきゃならないんだから。
 支えてあげるどころの騒ぎじゃないよ、カヲル・・・・!!
 紅い瞳は今にも零れそうな涙を抱えていた。とにかく、カヲルに話すしかない。そう思ったレイは自宅までの最短距離をとっていた。
 この都市を建設する際に急造された労働者向けの住宅群。今は住む者もなく、近く解体されることにもなっている。
 この月夜に、おそろしく無機的な建物が明かりもないままに林立する風景は決して気味のよいものではなかったが、レイは躊躇することもなくそこへ踏み込んだ。
 建物の間には廃材が転がり、あちこちで道を塞いでいる。レイはそれにさえ些かもたじろがず、勢いよく地を蹴った。
 その直後に起こったことを目撃するものがあったなら、きっと目をむいたに違いない。
 レイの跳躍は、垂直距離だけでも軽く5メートルを越えていた。
 相対する建物のベランダからベランダへ、重力の存在を忘れさせるような動作で飛び移る。レイがそうして屋上へ舞い降りるまで、ほんの数秒。
 皓々たる月光をうける屋上を、レイは走った。地上と違い、廃材などという邪魔なものがないからその速度は何物にも妨げられることがない。建物の端まで走ってしまうと、一動作でフェンスに飛び上がり、フェンスを蹴って隣の棟に飛び移る。
 さながら、フェンスを飛び石代わりにするかのようだった。誰もいはしないという思いと、一刻も早くという焦りが、彼女に久々にパワー全開で走ることを許していたのだ。
 ―――――――が。
 いくつ巨大な廃屋を飛び越えただろう。レイが飛び越えようと視界に入れた、朽ちかけたフェンス。そこに、既視感のある人影が腰かけていた。
 月の光を浴びてでもいるように、こころもち夜空へ顔を向けていた。栗色の髪が、かすかな風に揺れる。
「・・・・・・!」
 思わず、レイは足を止めていた。それに気づいて、その人物が振り返る。レイを認め、鳶色の瞳で穏やかに笑んで、言った。
「・・・・・ようこそ、月の姫様」

 青葉シゲルが冬月ミズカこと高野ミズカに出会ったのは、大学に入りたてのころだった。
 高野は母方の姓である。ミズカが小学校低学年の頃に離婚、しかし高校2年の時母親が病死したため、それからは父である冬月教授の扶養に入っていた。つまり、戸籍上は「冬月ミズカ」であったのだ。
 結局大学生活のほとんどをミズカと共有したのだが、いざ卒業の段になり、家族の話になって父親が冬月教授、と聞いたときは、さすがに驚いた。
 それでも清水の舞台から飛び降りるつもりで挨拶に行った時、教授の言葉は長い沈黙の後にたった一言。『娘を頼む』とだけ・・・・。
『無愛想でしょ。でもね、あれで優しいのよ・・・・っていうか、子煩悩なくらいね。ものすごく不器用だけど』
 そう言って、ミズカは笑った。研究にかまけてなにも構ってやれなかった時間をどうにかして埋めようと、父は父なりに気にしているのだと。
 教授の研究室に入ってから出るまで、石のようになっていた青葉にはそこまでの感慨をもつ余裕はなかったが・・・・。
 だがそれが現実の形になって降ってきたのは、二人とも就職を決め、二人して新居の相談をしていたときのことだった。
 突然研究室に呼びつけられて渡された封筒には、マンションの権利書。
 このときもただ、『使いなさい』とだけ、前の訪問よりはこころもち柔らかい顔で言っただけだった。
 決して安いものではない筈だ。まさに開いた口が塞がらなかった。「子煩悩なくらい」と言ったミズカの言葉もあながち大げさではないだろう。むしろ、度外れていると言ったほうがいいかもしれない。
 ・・・しかし断る理由もなかったし、なによりミズカが父の気持ちをできるだけ受けてあげたいと言ったので、そこへ落ち着くことになった。
 さして多くもない二人の家具を運びこみ、必要と思うものは買い替えて、新しい生活が始まった。

 新しい生活。それは、あまりにも短かったけれど―――――――。

 ・・・・よく微笑う居候は、今夜は夕食にも帰ってこなかった。
 ひとりで食事を済ませ、自室で仕事の続きをしていた青葉だったが、ふと引き出しを開けて留守録用のテープを取り出す。
 消せなくて、結局テープを買い替えた。
 未練がましいと思いながら、処分できなかった。
 デスクの上の電話に組み込み、再生を押す。
【はい、冬月・・・・じゃなく、青葉です。ただいま留守にしております。発信音のあと、お名前とご用件をお願いいたします】
 間違えてみせて、笑う。ちょっとおどけた声。もう歳をとることのなくなった声。事故の後、何度聞き返したか分からない。
 青葉自身、精神の再建に長い時間を要した。だが、教授も急に老けたような気がする。ほとんど一緒に暮らしたことなどなかったとはいえ、一人娘であれば無理もないことだった。
 だからこそ。
 青葉にしてみれば、疑問というより不審の念を禁じ得ない。
 養子という肩書は辻褄を合わせるためにある、という感触は最初から薄々は感じ取っていた。そしてタカミ自身もそれをよく承知している。あの笑顔が諦めか、韜晦かは定かでないにしても。
 言葉少なに、それでも娘の将来について真摯に気遣う教授の表情と、タカミの件がどうにもつながらないのだ。あるいは教授の本意ではないのかもしれない。では、教授に不本意を強いたのは一体誰だというのだろう。
 青葉は頭を振った。
『ふうん・・・僕に、姉さんがいたんですね』
 知らされていなかったことに微塵の曇りも見せず、ただ心底嬉しそうに微笑んだタカミ。同情は侮辱だろうか?・・・だがタカミの笑みが、ミズカのそれと似ているように思えて、そのことが青葉をタカミの立場について無関心ではいられなくさせていた。
 留守録のテープを取り出し、しまいこむ。
 やりかけの仕事に戻ったが、ある文書を印刷しようとしてプリンタのカートリッジを切らしていたことに気づく。
 明日学校へ持っていて、学校のプリンタを使えばいいことのはずだった。しかし、ここから10分ほどのコンビニにも置いてある代物だ。
 積極的に探そうという意思があったわけではない。なにせ、何処をほっつき歩いているものか、皆目見当がつかないのだから。それでも青葉が財布を掴んで立ち上がったのは、行き先への興味と無関係ではなかった。

「冬月・・・くん」
「タカミ、でいいですよ」
 そう言って、笑う。月の曖昧な光が、タカミの髪の色をも曖昧にしていた。そうするといっそうカヲルに似るが、レイには違いが明らかなだけに然程の意味を持たなかった。
「何してるの、こんな所で」
 その「こんな所」にレイ自身も踏み込んでいることを完全に棚に上げて、レイは問うた。
「そうだね、何だろう・・・道草っていうか、夜遊びかな? あるいは、あなたを待ってたのかも」
「・・・・・冗談」
 レイの表情がひきつったのを見て、また笑う。全く、これだけ悪意と隔絶した笑みを浮かべることのできる人間も希有ではあるまいか。
「最後のは冗談ですよ。でも、邪魔の入らない所であなたと話がしてみたかったのは確かだけど」
「・・・・・私?」
「そう。綾波レイ・・・・月の姫様、人が託した希望の結晶」
 一瞬、返答ができなかった。
「・・・あなた、誰?」
 それでもなんとか、レイは注意深くそう言った。タカミはフェンスの上で重力が干渉しないかのような軽い動作で身体を反転させ、フェンスのこちら側へ足をつけた。
「・・・僕・・・?」
 台詞の語尾はかき消された。タカミの背後で、一瞬にしてフェンスがばらばらに砕ける。タカミの腕に緋色の線が走ったかと思うと、粗雑なコンクリートの床にむけて緋の虹がかかった。
 声もなく、タカミがその場に膝をつく。駆け寄ろうとしたレイは、鋭い声に引き留められた。
「レイ、離れて!!」
 振り向くまでもない。白い腕が、レイを引き寄せて庇う。
「カヲル・・・・・カヲルがやったの!?」
 カヲルは答えなかった。いつになく厳しい紅瞳で膝を折ったままのタカミを牽制しつつ、片腕でレイを庇う。もう片腕は下げたままだが、その手の内ではオレンジ色の光がはじけていた。
「これが、ATフィールドってやつですか・・・成程、凄いや」
 自身の傷と、砕けたフェンスを見遣って、タカミは冷静にそう言った。
「知りたいですか?僕が何者か」
 傷をパーカーのポケットから出したハンカチで縛り、ゆっくりと立ち上がる。そして、笑った。
「いいえ・・・もう判っているんでしょう?僕はあなたのダミーですよ。渚先輩。いいえ、タブリスとお呼びしましょうか? それとも…」
 レイの目が見開かれる。だが、カヲルは決めつけるように言った。
「嘘だ」
「・・・自信たっぷりですね。さては根拠がありますか・・・・」
「サンプルはすべて処分したはずだ」
「強情ですね。たまには、目に映るものも信じてみたらどうです」
「・・・・・君は僕じゃない。何を考えて、そのなりをしている?」
「あたりまえでしょ、僕は『タカミ』なんだから」
 何を今更、とでもいいたげな表情をする。
「・・・17th-cellを基にすれば、形質が似るのは当然でしょう?」
「あり得ない。・・・形を作ったところで、動けるわけがない!」
 それへは、タカミは答えなかった。ただ、悪戯っぽい笑いをするだけだった。しかしこのときタカミは、確かにカヲルを一瞬呆然とさせることに成功していた。
 ―――――その一瞬だった。
 立っていたタカミの身体が、びくりと揺らいだ。
 一拍おくれて、白いパーカーの胸についていたボタンがはじける。
 音はしない。ガス銃か。カヲルは、後方の建物の屋上から撃った者の存在を感知した。
 一部を砕かれ脆くなったフェンスに、ふらついたタカミが寄りかかる。フェンスは耳障りな悲鳴を上げて崩れ、タカミの身体もまた月明かりのなかに浮く。
 レイが駆け出したのと、カヲルが地を蹴ったのが同時だった。

 照準スコープから標的外の二人が消えて、数秒も経たなかったに違いない。
 男は訳も分からないうちに頭上からすさまじい衝撃を受け、その場に伏した。
 何とか身を起こそうとしたときに、眉間にあてられたのが自身が持っていたはずのの護身用拳銃であることに気がつき、背に冷汗が吹き出すのを感じる。
 それを手にしているのが少年であることに気づいたときに生まれた余裕は、一秒もたたないうちに雲散霧消した。
「老人達は方針を変えたな?」
 男は震えながら、何度も頷いた。あるいは素直になることで、助命の望みが得られるかと思ったか。
「・・・・・そう」
 あくまでも、紅瞳は静かだった。と言うより、感情めいたものが欠落していた。
 くぐもった音ともに、土埃にまみれた床が血に染まる。
「・・・・引き金を引くよりも、ATフィールドで首を引きちぎる方が簡単だとでも思うのかい?」
 吐き捨てるように言って拳銃を血の泥濘へ放り込んだとき、急いた足音に続いて扉が開いた。
「渚君・・・・」
「・・・いつ、知りました・・・・・?」
 眼前の光景に立ち尽くしてしまった加持に、カヲルが抑揚に乏しい声で問うた。
「・・・・つい、先刻さ・・・・」
 加持の返事は苦い。事態は仲介役である加持の頭越しに進められたのだ。
「老人達は何か情報を得たのかもしれない・・・事が性急にすぎるよ」
「・・・・・」
 カヲルは応えなかった。ただ、フェンスを越えてから加持をかえりみて、短く言った。
「向こうが約束を守らないなら、こちらも相応の態度を取らせてもらう。・・・・だから、あなたにあのひとのことを頼みます」
「待っ・・・・!」
 加持の返事を聞かないままに、カヲルは夜空へ翔んだ。

「・・・・カヲル・・・・」
 一階下のベランダに、レイはいた。冷たい床の上に座り込んで、その膝にタカミの栗色の髪を乗せ、いまにも泣きそうな顔でカヲルを見上げた。
 レイが差し出したものを見て、カヲルは身を硬くした。注射針のついた小さなシリンジ。
 ――――――麻酔弾。
 逃げた獣を狩るがごとく、彼らは麻酔銃を用いたのだ。初弾は釦に当たって逸れたが、第2射が命中した。ほぼ全量が体内に入っただろう。今のところ息はある。何を使ったか知らないが、捕獲目的である以上致死性のある薬物ではない筈だ。
「も・・・・やだよ、カヲル・・・・・」
 レイの頬を、涙が転がり落ちる。
「もうここに居たくない・・・・三人で、どこか遠くに行こうよ。誰も知らないところ・・・・」
 レイの言葉に、カヲルは立ち尽くした。

 人工進化研究所・研究室―――――――
「serial-02・・・シグナル、ロスト!」
「一体何!?」
「わかりません。ロスト直前の位置も不鮮明です。例の、確認システムの誤動作が起きていて・・・・」
 暫時の、沈黙。
「・・・・消失点の特定、急いで。保安部に招集・待機命令を。それと、serial-03がいつでも起動できるように準備しておいて」
 敬愛する上司の、あまりにも冷静な言葉に、伊吹マヤは一瞬だけ呼吸を飲み込んだ。
「・・・・はい」

――――――第参話 了――――――