第五話 Moonset Air

Full Moon

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「Serial-02が破綻したそうだな」
「・・・・すでに処置済です。データをリセットし、Serial-03を起動しました」
「Serial-01の事といい、どうも動作不良が多いな」
「ある程度はやむを得ません。いままでになかった試みですから。人間はある程度、人間の魂と呼ばれるものの一部を構成する『記憶』のメカニズムを解き明かしてきました。ですが、人間の心すべてが分かったわけではありません」
「・・・心は最後のフロンティア、か。だが赤木君、君はダミーシステムに、『心』を要求しているわけではあるまい?」
 その問いに、リツコは一瞬だけ返答を遅らせた。それはおそらく狼狽。
「・・・・・ナンセンスですわ」

「・・・で、どうするつもりだ、碇」
 無機的なオフィスの一郭に、そこだけ時代の流れに逆らうかのような重厚な本棚とデスクがある。リツコが退出した後、そこに居を占めている初老の学者然とした人物がそう問うた。
「・・・・人形遊びはこれくらいにしておいたらどうだ。藪をつついて蛇を出すことに、然程のメリットがあるとも思えんな」
「赤木博士はそれなりの意味を見いだしているようだが?」
 その言葉は、冷笑的な響きを持っていた。さすがに初老の学者は眉を顰めた。
「莫迦をいえ。赤木君のAI構想をあんなものに組み込む事は、元はと言えば碇、お前の提案だろう」
「せっかく残った17th-cell、遊ばせておくこともなかろう。あとわずかで研究は完成する。その間、やつに邪魔をさせなければいいだけのことだ」
「所詮は捨て駒か。むごいことをする・・・・・・・ではさしむき、あれはどうする。何くわぬ顔で差し替えるのか。どういう状況で機能停止したかわからんというのに。・・・・下手をすれば、私の手が最初に後ろにまわるんだぞ」
「逮捕?だれも我々には手出しはできんよ。Serial-02が機能停止した以上、『冬月タカミ』は除籍すれば問題ない。おおよその見当はついたし、データも取れた。もう学校に用はあるまい」
「・・・手配しよう」
 それは至って事務的な答えだった。しかし受話器を取り上げたとき、碇所長が掛けた言葉に一瞬手が止まる。
「・・・『心』が痛みますか、冬月先生?」
 この男のもの言いは、敬語をまとうとかえって他人の感情を逆撫でする。冬月は改めてそう思った。受話器を持ち直し、外線のスイッチに手を触れて呟く。
「・・・・それこそナンセンスだな」

 正午を過ぎ、眼下の海は引き潮。
 高階マサキは書斎の椅子に身を沈めたまま、中身が半分ほどになって、とうの昔に氷など溶けきってしまったグラスを揺らしていた。
 あの兄妹は彼の骸を荼毘に付すことを望んだ。・・・・青葉とかいう、保護者代わりに同居していたという青年も、もはや異は唱えなかった。
 違法行為なのだが、居合わせた誰一人として反対はしなかった。法律の外の存在だと、誰もが暗黙のうちに理解していた。
 作られた戸籍と、偽りのプロフィールを持った仕組まれた子供。・・・・かかわると面倒だと判っていながら、結局ここまでつきあう羽目になった。
『我ながら何をやってるんだか』
 軽く吐息してグラスを置く。
 キャビネットから新しいグラスを一つ取り出すと、氷とボトルの中身を注ぐ。高階がそれを手にとって陽に翳すと、こぽんという音を立ててその琥珀色の液体が氷を含んだまま中空に彷徨い出た。
 ・・・それは、明らかに重力の作用を無視していた。
 かすかに震えながらグラスの上で不整な球体を形づくる。高階がそれを手にとると、琥珀色は完全な球を成した。
 高階は立ち上がり、デスクの上の一輪差しから小さな花を取り、掌の上の球体の内へ沈めた。
 傾き始めた陽の光を受けて、琥珀色の珠がさながら宝石のように輝く。暫くそれを凝視めていたが、卒然とデスクに置いていた携帯電話が鳴動した。
「…ああ、イサナ」
 珠を支えている手はそのままに、片手で電話を取る。目を伏せ、電話の向こうの人物の報告を静かに聞いていた。予期していたが、そうでなければよいと思ったまさにその答え。向こうも思いは同じ筈だが、努めて平坦な調子トーンを保っている。
【サキ、聞いてるか?】
 相槌もないのをやや不審に思ってか、僅かにトーンを上げた声が高階の耳朶を打つ。
「…ああ、聞いてるよ。ご苦労だった。急かして悪かったな」
【…どうする?】
「どうもしない。…あのひとでは有り得ないんだ。俺達がすべきことは何も無い」
 その声はすこし、重たそうな…何かの重みに耐えるような響きを持っていた。
 それでいいのか。そう思うなら何故調べさせた? …そんな台詞が発せられないままに呑み込まれたことを、お互いが知っていた。
【…そうだったな】
「これ以上の深入りは御免だ。ああ、ミサヲに言って、このコテージは処分してもらってくれ。念のためだ。それから、済まないが機材を引き上げるのを手伝ってくれ。…些か疲れた」
【わかった】
 電話を切る。隠れもない疲労でその表情を翳らせ、掌を窓の外へ伸べる。
 高階は、手向けの花を閉じ込めた珠を、彼が還った海へ投じた。

 その部屋では、もう長いことキーを叩く音だけが流れていた。
 ―――――――伊吹マヤは、有り体に言えば彼が怖かった。
 『最初』の彼に感じたのは、恐らく哀れみに近いものだったに違いない。・・・その感情ががいかにひどい傲慢か、彼女自身判っていても。
 『二人目』の彼に感じたのは、驚嘆と親しみ。次々と与えられる課題を、彼は砂が水を吸うようにクリアしていった。だが、その反面でただ機械的な反応ではなく、そこらにいる少年と変わらない微笑みや仕種を身につけていくにつけ、彼が何者であるか忘れそうな時すらあった。
 だが、『三人目』の彼に感じるのは、底知れない恐怖。その容姿も声も前の二人と変わるものではなく、紡ぐ言葉にそつはない。情報処理能力も二人目のそれをほぼ完全に引き継いだだけではなく、さらに機能を拡大している。
 自律型AI。その言葉が持つ重い意味を、マヤは改めて感じていた。
 彼が、MAGIの全機能を掌握するまでさほどの時間はかからないだろう。それは本来何の不思議もない筈のことなのだ。それを最終目標として組まれたプログラムなのだから。
 だがそれが今、とてつもなく恐ろしいことに思えてきたのだ。
 もし彼が、何らかの理由で自分達のコントロールを離れたら?
 その危惧に対してスタッフは決して無策ではなかった。コントロールを離れたAIを強制的に機能停止させるプログラム・・・・『槍』の名を与えられたウイルスがそれだ。
 開発はしたものの、彼に対してそれを使うことなど思いもよらなかった。マヤは彼と、スタッフの訣別などありそうにないことだと思っていたのだ。
 だが現実にそれは起動され、抹消完了の結果リザルトコードが位置特定不能のコードを付されて送信されてきた。
 今目の前で黙々と課題をこなす三人目の彼もまた、同じ裏切りを繰り返すのだろうか?
 そもそも何故、彼は自分達の手を振り払おうとしたのか?
 その問いに対するたった一つの答えを、マヤは既に得ていた。だが、それを確認することが恐ろしい。
 何よりも、敬愛する上司であり先輩、そして彼の基本プログラムを組んだ赤木リツコ博士がそのことに気付いていないとは思えず、マヤの不安をさらに深刻なものにしていた。
 まさかという思いが拭い切れない。そのことが苦しい。
「・・・・どうされました、伊吹二尉?」
 気がつくと、彼がキーを打つ手を止めてこちらを見ていた。マヤがぼうっとして、次の項目を転送するのが遅れたのだ。作業の流れを中断されて、訝しんだものだろう。
「あぁ、ごめんなさい」
 無意識に目を逸らす。顔は当たり前に彼の方へ向けても、その目を見ることが怖い。
 繕うことばも見つからなくて、マヤはコンソールに目を戻した。不用意にキーに触れたか、マヤのディスプレイにはエラー表示が出ていた。
「・・・ごめんなさい、シーケンスFの106からすこしデータが飛んだようなの。少し戻っていいかしら?」
「はい。シーケンスF、No.106へ戻ります」
 だがそこで、マヤはもういちど硬直してしまった。
 先刻、彼は何と呼びかけたか? 伊吹二尉・・と?
 彼女が軍にいたのはほんの僅かの間で、その間のことは彼女がこちらに移るきっかけとなった赤木博士を除いて殆ど人に喋ったことがない。・・・無論彼にも。

 ―――――君はダミーシステムに、『心』を要求しているわけではあるまい?
 所長の言葉が、妙に刺さる。
 勿論そんなつもりはなかった。だが、母が最初にAI構想を打ち出し、実験的に組んだプログラムにある名前を与えた時にも絶無であったかどうかは、リツコに明言はできない。
 待ち望まれた小さな生命。名前さえもすでに決められていた子供は、掻爬というかたちでしか新しい世界へ出てくることは出来なかった。
 母は無論、AI構想そのものに死児の齢を数えるような夢を託す人ではなかった。だが、与えた名前が一時とはいえ夢の依代となったことも、また確かだった。
 それは多分、リツコにも。
 後ろでドアが開く音にリツコは椅子をかえした。ドアの前に立っているのは、銀髪の少年。
「呼び出しがありましたので」
「どうぞ、座って」
 椅子を勧めて、リツコは先刻から気になっていたデータを画面に呼び出した。砂糖とクリームがないことを断って、傍らのコーヒーメーカーから自分のと予備のマグにコーヒーを注ぐ。
「熱いから、気をつけて」
 渡されたマグから立ち上る湯気越しに、彼はリツコを見ていた。ひどく透明なまなざしで。
「・・・血液データがよくないわ。あなた、ちゃんと薬は飲んでる?」
 彼は、返答を遅らせた。
「・・・・いいえ」
「どうして?」
「・・・・変な味がするので」
 あの子も内服薬は忌避した。変な味がする、と言って。結局説き伏せ、糖衣錠にして内服を続けさせたが、マンションからは当然減っているはずの量よりも多い薬が見つかった。
「内服が出来なければ、静注になるわ。そのほうがイヤでしょう?決められた量はきちんと飲みなさい。何故そうしなければならないか、について・・・説明が要る?」
「いいえ・・・・判りました」
 硬い表情。理屈ではこの子も理解している。もっと感情的な理由なのだ。・・・感情?この子に?
 考えるにつけ矛盾に陥りそうになり、リツコは頭を振った。
「お話は、それだけですか?」
「・・・ええ、いいわ、部屋に戻っても」
「では、失礼します」
 供されたコーヒーに型通りの礼を述べ、彼は立ち上がった。リツコもマグを片づけるために立ち上がり、ふと、彼の何か悲しげな横顔に自分でも思わなかった言葉が出た。
「薬は、嫌い?」
 意味のない、問い。薬を好む者などいるわけはない。
 彼は一度目を伏せ、それをリツコへ戻そうとして結局逸らす。
「・・・はい」
「もう少し我慢して。状態が安定したら、少しずつ量を減らすから」
 それは嘘ではない。だが別に、強いて彼に説明すべきことでもなかった。既に彼は知識として持っているのだ。飲まなければならない理由も、それが全身状態の安定に伴って要らなくなるプロセスも。
「・・・はい」
 葛藤ジレンマは人間の専売特許ではない。MAGIにすらそれは起こりうる。いわんや、ヒトの器を得た人工知能においては。
 だが、そんな理屈よりも・・・単純に苦い薬を嫌がる子供の表情を垣間見たような気がして、思わずその銀色の髪に手を伸ばす。
 不意に触れられたことに、彼は少なからずびっくりしたようだった。
 触れていた時間は、短いものだった。
「・・・おやすみなさい」
 リツコが手を引いたとき、紅瞳は確かに彼女を見た。しかし、そこから何かのサインを見いだそうとした一瞬に、それは伏せられた。
「・・・・ごめんなさい・・・・・」
 あるいは本当は発せられることはなかったのかもしれない。それほどに、かすかな声だった。
 それをリツコは子供のような葛藤を処理しきれないことに対する、彼なりの当惑ととった。
 だが彼が出ていった後、マグを片づけ、自分の端末にふと目をやって不意に慄然とする。・・・何故?それはおそらく、理屈よりも第六感に近かった。
 端末は、エラー表示を最後にハングアップしていた。

 高階が医療機械を引き上げて帰ってしまったあと、その別荘には平穏とは言い難い沈黙が降りていた。
 事態の追及を目的にしていた筈のミサトも、事の大きさと「タカミ」の件でさすがに舌鋒を鈍らせていたし、シンジに至ってはカヲルの守る沈黙に近寄ることすらできない。
 結果として加持ひとりがミサトの吊し上げをくう運命にあったが、ここに至る経緯はともかくとして、「タカミ」の思惑は実のところ加持にも判らないのである。
 青葉はと言えば部屋にこもったまま虚脱状態から抜け出せずにいた。
 そんなところへ不意に別荘のドアベルを押す者がいたとして、それに暫く誰も何も反応しなかったのも無理はない。
 確かに、空を分厚い雲が嵐を先触れてはしる早朝、それも常識的とは言い難い時間であった所為でもあったに違いない。
 だが、数度鳴らされたベルにとうとうシンジが降りていき、ドアを開けた。
 そこには誰もいなかった。最後のベルが鳴ってから時間がたっていたし、呆れて帰ってしまったのかと思い、シンジはサンダルをつっかけてポーチへ降りた。
 周囲を見回し、海の方を向いて佇む人影を見つけて思わず呼吸を呑み込んだ。
 夏の終わりを告げる嵐。その先兵が早くも海岸の木々を軋ませている。薄暗い空から鳥達はとうに姿を消し、ここからも見える海は天へ向かって皓い牙を剥いていた。
 そんな中で彼は両手をパーカーのポケットに突っ込んだまま、吹きつける風すら微風にしか感じていないかのように、悠然と銀の髪を遊ばせていた。
「・・・・・・あ、の、ごめんなさい。今ベルを鳴らしたの、君かい?」
 数歩歩み寄って、遠慮がちに声をかける。彼はくすりと笑い、シンジを肩越しに省みた。
 そして同じ声で、同じ紅瞳で・・・微笑った。

「『二人目冬月タカミ』の遺言を聞きにきたよ・・・・ 渚 カヲル君?」

 シンジははっとして振り返った。
 後方・・・・丁度ドアのところに、表情を消したカヲルが立っていたのだ。