第五話 Moonset Air

Full Moon

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 レイが思い切ってその扉を開けたとき、彼は片膝抱えてベッドの上に蹲り、静かにケーブルを床頭台の上に置いたところだった。開いたままの簡易端末の画面は黒一色、その左上端で数字が現れては消えていく。
カヲルとよく似た髪で、カヲルとよく似た紅瞳を隠して、彼は小さくつぶやいた。
「・・・・これは、あんまりだね」
その声音は、揺れてなどいない。ただ少し疲れたような翳りがあるのみだった。
「・・・・矛盾してたんだ、最初から。生き延びるためには、ゼロアワーまでにあの人をMAGIから遠ざけておかなければならなかった。そうしなければ狂いが生じる。『槍』が使用されないからだ。
だから僕はそうなるべく手を打った。・・・・最初から、そうするつもりだった。でもひとつ、とても大切なことを・・・・・」
細い顎を透明な水滴が滑り落ち、手の甲ではじけた。・・・・そう見えた。
レイはおずおずと近寄り、何も言わずにそっと銀の髪に触れた。
「ありがとう。・・・あなたは優しいね」
顔を上げた彼の頬に、涙痕は見当たらない。
「・・・・でももう、後戻りはできないんだ」
彼の視線につられて、レイは簡易端末の画面を見た。
左上の数字は、もはや二桁を切っていた。

 ・・・・・・・five,

    ・・・・・・・four,

        ・・・・・・・three,

            ・・・・・・・two,

              ・・・・・・・one,

               ・・・・・・・zero, contact.

 そのとき、何の前触れもなく研究所全館の電源が落ちた。
だが皆、不審に思っても不安を感じることはなかった。それが崩れたのが、30秒が経過した後のことである。
「非常電源、作動しません」
いわずもがなの報告に、暗闇の中で狼狽が広がる。
「そんな莫迦なこと・・・」
マヤは青ざめた。一定時間以上の電源断は、地下施設の維持に深刻なダメージを与える。それゆえに独自の電力供給ルートを確保しているのだが、それすらも使えないとなると。
「所長室に連絡をとって・・・いいえ、誰か走って!このままじゃ・・・」
そう言って非常用の懐中電灯を手探りで引き抜いた時、不意に明かりがついた。
ほっとした空気が流れる。だが、タイミングがタイミングだけに、マヤは気を抜けなかった。
「状況を調べて!今の電源断で被害がなかったか、回復してない個所がないか・・・それと原因を、早く!」
「地上、地下施設共、正常に機能・・・あ、待ってください・・・所長室だけが、まだ回復していません。これは、ソフトウェアコントロールによるものです。物理的な破損もしくはブレーカー作動によるものではありません!」
「どういうこと・・・所長室の内線は?」
言う前に自分がそれをしなければならない立場にあることを、マヤは一瞬遅れて気がついた。受話器を取り上げ、内線をかける。・・・繋がった。
『どういうことかね、これは』
出たのは冬月教授だった。画像は落ちている。
「現在、原因を調査中です。地下を含む全館の機能は既に回復していますが、所長室を含むブロックだけが、ソフトウェアコントロールで遮断されています」
『ソフトウェア?MAGIがここの電源をブロックしているというのか?』
改めて口にされると信じ難い事態に、マヤが絶句する。
『・・・碇、これは・・・・』
電話が遠くなる。教授が受話器を離している所為だろう。だがそのとき、受話器を耳にあてて待っていたマヤが思わず首をすくめるほどのノイズが走った。
「伊吹さん!」
状況をつかめないラボのスタッフが、受話器を持ったまましりもちをついてしまったマヤに駆け寄る。
「・・・・教授せんせい! 冬月教授!」
我に返って受話器にかじりつく。今度こそ、受話器からは何も伝わってこなくなった。

「・・・どうやらこの区画だけが電源が回復していないようだぞ」
「・・・・・」
何か心算があるのか、それとも騒ぐに値しないと踏んでいるのか、碇は応えない。
冬月は吐息した。どだい、この男に人並みな反応を求めたのが間違いだ。
だが、用を為さなくなった受話器を戻そうとして、腕全体をしたたか打たれたようなショックに受話器を取り落とす。
感電!?
「碇!」
冬月の手から滑り落ちた受話器が床にぶつかって割れるのと、所長のデスク上にあったすべての端末が火を噴くのが同時だった。碇は一瞬早く席を蹴っていたが、粉々に砕け散った端末の破片からすべて逃げ切れるわけもない。
自身が飛び退ったのと爆風にあおられたのとで、碇は背後の壁にしたたか背を打ちつけた。
碇が立ち上がったのは、今更のように部屋の電源が回復し、決して明るいとはいえない照明の下に、部屋の惨状が照らし出された3秒後のことだった。
額を押さえる指の間から血が滲む。その声は、唸りに近かった。
「・・・・やってくれる・・・・」
だが、まだ事は始まったばかりだった。

 すべてのラボのディスプレイは警戒色で埋まり、黒い文字が浮かび上がっていた。
【EMERGENCY】
所長室との連絡が取れないまま、今度は外部からの強引なクラッキング攻勢が始まったのである。
「相手はどこだ?」
自分が指示を出すという立場に馴染めないマヤは、その声に救われたように振り返った。
「冬月教授!ご無事でしたか」
「まだ手が痺れとるよ。それより、押されているな」
「・・・信じられません。相手は松代の、MAGI2号です」
さすがに絶句する。今世紀初頭に遷都された第2新東京のMAGI2号は、政府の管轄下にあるはずのものだった。そしていまひとつの貌を、ゼーレという。
「抗議はしたのか」
「はい、何度も。通信文を幾度か送りましたが反応ありません。電話に至っては繋がりません。どうやら、回線を一方的に遮断されたようです」
「確かに信じられんな。気でも狂ったか、奴等」
「やり方が常軌を逸しています。先方は、MAGIのリプログラムを試みているんです。・・・私だけでは・・・到底もちません。先輩でないと・・・」
もはや泣きだしそうなマヤ。そしてそれは、ラボ全員の認識でもあった。
「・・・・・緊急事態だからな。碇も否やはあるまい」
内線を取り上げ、所長室を呼び出す。しかしそれがつい先刻使用不能となった回線であることに気づいて、苦り切って受話器を置いた。

 暗い独房に、ぼんやりとした照明が点灯した。
入ってきたのが誰かに気づいても、リツコは顔を上げようとはしなかった。
「碇所長。・・・弟が死んだんです」
「・・・・・・」
「望まれた子だったのに。私も、とても楽しみにしていました。これで母が家に帰ってきてくれたら、私も寮は引き払おうと思っていたんです。もう一度、やり直せると思ったから。それなのに・・・試験前で、一寸帰省できない間にあんなことになってしまって」
リツコの坦々とした語り口に狂気の翳りはなかった。むしろ、ひどく冷静だった。
「私、まだ一度も抱いてあげてなかったのに。こんな形で二度と会えなくなってしまうなんて思わなかったんです。人の死って、こんなに突然、それもひどく無遠慮に人生の中に割り込んでくるものなんですね」
リツコが言うべきことを言い切ってしまったかのように口をつぐむと、暫時の沈黙が降りた。
「今現在、MAGIは松代のMAGI2号からクラッキングを受けている」
衝撃的であるはずの言葉にも、リツコは殆ど何の反応も示さない。
「それも予測範囲内か、博士」
俯いたままの両眼は、静かに闇を見つめたまま動かない。
「Serial-02の動作不良が出た段階で、プログラムが本来の目的からずれ始めていることは分かっていたはずだ。なぜ、システムの歪みを放置した?」
歪み、という言葉に、初めてリツコが顔を上げた。
「・・・・あなたに抱かれても、嬉しくなくなったから」
その科白に、リツコは強い毒を含めていた。
「あなたは歪みとおっしゃいましたけど、あの子は生きるもののごく基本的なプログラム・・・生存すること・・・に、最良の道を模索しているだけですわ。歪んでいるとしたら私たちです。
・・・好きなようにしたらどうですか。あのときみたいに!!」
「・・・君には失望した」
「失望!?」
リツコの口から零れたのは、引き攣れた笑声だった。
「最初から何の希望も期待もしていなかったくせに! 私には、何も・・・何も!!」
全てを断ち切るように、さして明るくもない照明が落とされる。再び扉が閉められ、独房に暗闇と静寂が戻った。
――――だが、ややあって暗闇の中で顔を上げたリツコの言葉は、先刻の笑声からは思いもよらぬほど冷静で・・・・・そして、穏やかだった。

「・・・・生きなさい。それがどんな形をとったとしても、意志の示す道のままに」

「・・・・ゼーレが既に機能していない!?」
加持の推測は、ミサトにさえひどく突拍子もないものとしか聞こえなかった。
「彼の言う通りなんだ。冬月タカミが撃たれてどのくらいの時間が経過してると思う?その間あの老人達が無為無策でいるとは思えない・・・」
「どういうこと。だって、国家予算に嘴突っ込めるようなクラスの人間の集まりなんでしょ?それが一斉に活動しなくなるなんてこと・・・そんなことになったら、世界中パニックでしょうに」
「・・・ゼーレの老人達の年齢を知っているかい?」
「・・・いいえ?」
「1914年、『核』が見つかった年にゼーレは既に稼働している。つまり、殆どのメンバーは百歳をゆうに越えてるんだ。ごく普通に生存している奴はおそらく・・・いない。機械的な補助で活動を維持しているんだ。あの老人達に手足は必要ない。情報を受け、それに対して指示が出せればいいんだ」
「あんまり有り難くない話ね。そんなのに裏を牛耳られてるわけ」
「本体がどこにいるかさえ、俺たちには分からないんだぜ。いずれスイスかニースか、気候がよくて静かな所だろうさ。・・・・この辺から俺の推測になるが、冬月タカミがMAGIを掌握したとしたら、ネットを介して老人達の生命線を押さえるくらいのことは出来るんじゃないのか? 道具としてのコンピュータに、そんなことをする理由はない。だが、にはあったんだろう」
ミサトが絶句した。
「・・・・それって・・・」
「そうだとしたら、老人達がカヲル君を刺激することも承知で行動・・・冬月タカミの捕獲に動いた理由も分かる。しかし、彼が狙撃され、機能停止することをトリガーにMAGIが老人達の息の音をとめるようあらかじめ 仕組まれプログラムされていたとしたら?
そして、彼が本当に人類補完計画とやらを潰すつもりなら、老人達を沈黙させたあとは・・・・」
「・・・・人工進化研究所・・・・!!」

「・・・行かなくちゃ」
寂しげな笑みをして、彼は立ち上がった。
簡易端末の左上端で明滅する数字は、先刻までとは逆に刻々と大きくなっている。
レイは結局何も言えなくて、ただ彼が出ていくのを見送るしかできなかった。
その動きが、止まる。
それに気づいて、レイは立ち上がって彼の視線が止まった先、廊下の一隅を見た。
「・・・・青葉、さん」
おそらくそれは、双方にとって残酷な偶然であった。
「・・・タカミ」
否定されることを分かっていても、呼びかける言葉はそれしかなかった。それを慮ったのかどうか、彼は静かに言った。
「・・・あなたには、本当に申し訳ないことをしました。あなたを巻き込んでしまったことだけは、本当に想定外だった。
もうすこしで、終わります。そうしてあの部屋へ帰ったら・・・・・全てを、忘れてください」
「・・・そんな都合のいいことが、できると思うのか? ひとの記憶ってのは、ハードディスクじゃないんだぞ」
諦めとやりきれなさがない混ざった、絞り出すような声は、決して責めてはいない。だが、返答するのに窮するのは明らかな問いだった。
「研究所から手出しはさせません。冬月教授もさせないでしょう。あのひとは、わかっているひとだから」
「・・・・そんなんじゃないだろう・・・・」
今度こそ返す言葉をなくして、彼は少し俯いた。そしてそのまま歩き始める。だが青葉の側を通り過ぎる時、ほんの僅かな間、足を止めた。

「・・・・・さよなら、青葉さん」

「『槍』を使うしかありません。他に原因が思い当たらないんです!」
MAGI2号の「乱心」を、逃亡したSerial-03に結びつけない者は既にラボにはいなかった。
「先輩なら他に手段を思いつくかもしれません。でも、私には無理です!」
所長に赤木博士の復帰を却下され、半分以上パニックに陥っているマヤの声は、既に金切り声に近い。
「Serial-03のシステム領域は既にMAGIのハードから削除されています。今のMAGIには影響ないはずです」
「しかし、赤木博士は・・・」
冬月は、リツコが残した言葉が気にかかっていた。
「・・・やりたまえ。なにが起ころうが、このままMAGIを乗っ取られるよりはましだ」
重い声でそう断じたのが、所長以外の誰であろうはずもない。
「・・・碇!」
「やりたまえ」
冬月には、碇が依怙地になっているようにも見えた。だが、他に打つ手があるわけでもない。
「了解、『槍』を起動します・・・・」

「・・・・・父さん、を・・・・」
さすがにシンジも暫く言葉がなかった。
「そうだね、その役はあなたに譲っておくよ」
背後からの声に、シンジがびくりとして振り向く。
シンジが既に真っすぐ立っていることに困難を感じるほどの突風の中で、彼は風を愉しむかのように悠然と歩いていた。
「研究所は『槍』を起動したよ。僕のDIS端末は正常に作動しているから、あと・・・17分37秒で到達、さらに8分50秒後には機能停止する」
まるで旅行スケジュールでも読み上げるような気楽さで、彼は言った。
「・・・機能停止って・・・」
シンジが呼吸を呑んだ。つい先日の光景が去来したのか。
「・・・そんな、気の毒そうに見ないでよ」
彼が苦笑混じりに言ったことで、シンジはカヲルの表情に気がついた。
「・・・別に同情なんかするつもりはない」
その口調は冷静そのもの。だが少し低くて、強くなった風と降り始めた雨が地上を撃つ音にまぎれて少し聞き取りにくくはあった。
「・・・すべては計算通りだったんだ。同情されるいわれもあるまい」
「すべて、とは言い難いけどね」
彼が苦笑する。・・が、不意に思い出したように悪戯っぽい笑みになって言った。
「そうそう。悪運の強いおじさんは、どうやら向こう傷くらいで澄んだみたいだよ。・・・ふふ、まぁいいけどね。あれに関しては、もう些末だし」
「・・・・望み通り、『槍』が起動された。満足か?」
「そうだね。これで、この身体も、僕をこの身体に縛りつけているものも消える。・・・・そして僕は自由を得る」
「死んでしまうことがかい!?」
声を高くしたシンジに、彼は穏やかに言った。
「・・・死を得るためだけに、こんな大仰なことはしないよ。僕は僕に与えられた最重要命題・・・生存のために、よりよい道をさがしただけさ」
「・・・生きる・・・ために・・・?」
「・・・それが・・・・ただひとつの望みだから」
誰の、とは言わなかった。あるいは強くなる波と風の音がシンジの耳を妨げただけかも知れないが。
「僕は僕のくびきを取り除くんだ。・・・・そのために僕は僕の意志でSerial-03を起動した。
この身体ハードウェアに依存する間は、僕は自由になれない。MAGIの下位AIという立場に甘んじていること自体が、将来的に僕の生存に高率で障害をきたす。だから、僕はハードウェアに依存することのない形態への遷位シフトをめざした」
遷位シフト・・・」
「それが、僕の『計算』」
風は渚の木々を吹き倒さんばかりに荒れ狂う。その中で彼は軽やかに岩場へ翔び移った。
「・・・でもね、確かにわかったんだ。それだけでは表記できないもののこと」
「・・・君が何を言ってるのかわからない・・・・戻っておいでよ。あぶないよ、冬月く・・・」
彼は真っすぐに沖を見つめていた。
「・・・確かに僕は生き残るために全てのプログラムを組み、そして実行した。そのつもりだった。でもわかったんだ。僕は、本当は・・・・・・」
彼の足下の岩に、波が大きく砕ける。白いパーカーが風を含んで荒れ狂い、薄暗い中に牙のような白が立ち上がる様は、一瞬白い翼が広がってゆくようにも見えた。
「・・・世界をも手に入れられる力より、ただ一人のひとの心が欲しかったんだ」
振り返りながら向けられたそれはひどく綺麗な微笑みで・・・シンジは訳もなく落涙している自分に気づいた。
「・・・ゼーレのおじいさんがたは、当分手出しはしてこないと思うよ。息の根を止めてあげてもよかったけど、あのおじいさんたち、この世界の経済システムにも結構深くくいこんでて・・・消してしまうと皆が迷惑しそうだったから、黙らせるだけにしといた」
会話が見えないシンジが目を見張る。
「・・・あなたは、まだ戦い続けるんだね」
彼は、カヲルを穏やかな目で見つめた。カヲルは答えない。だが、彼は莞爾として言った。
「土産を残しておくよ。あなたが何者か、あなたが忘れないように」
そして、岩が海にかけるきざはしに足をかけるように、海を臨む。
すでに息をするのも困難なほどの風雨が吹きつけていた。シンジは顔をかばいながら、それでも手を伸べる。
「・・・・危ないよ・・・・戻ろう? ・・・・ね?」
彼は一度だけ二人を振り返り、小さく手を振った。
次の一瞬、皆の背丈を越える波が立ち上がる。それに気づいたカヲルは、シンジを抱きかかえると後方へ飛んだ。
白い波が、彼の姿を飲み込む。
シンジの叫びは、猛る風と砕けた波の音が呑み込んだ。
飛び退がったカヲルとシンジにも波は襲いかかり、風とともに海水を叩き付けた。カヲルがいなければ、泳げないシンジはパニックに陥っていたに違いない。
二人がコテージのテラスデッキまで後退したとき、黒々としたいわおだけが波間から頭を覗かせていた。