第五話 Moonset Air

Full Moon

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「『二人目』の遺言を聞きにきたよ・・・・ 渚 カヲル君?」
シンジははっとして振り返った。
後方・・・・丁度ドアのところに、表情を消したカヲルが立っていた。
まるで鏡だ、とシンジは思った。「カヲル」と「タカミ」を一見して識別できた、あの笑みはもう・・・・彼にはない。
風に煽られる白いパーカーと、銀の髪。何もかもがそのままなのに、シンジが知っている彼ではない。浮かべた笑みにかつての暖かさはなく、ただすべてを突き放すような冷たさだけがあった。
「ここにあるね? Serial-02の最終バックアップデータが」
カヲルは答えない。
「・・・・・冬月・・・くん」
凍ってしまいそうな空気に耐えきれなくなったシンジが発しかけた言葉は、容赦のない一言に封じられた。
「その名で呼ばれる者は、もういないよ」
そして何も答えようとしないカヲルを一瞥し、少し意地悪く唇を歪めた。
「僕が・・・そして彼、渚カヲル君が何をしようとしているのか・・・いまここで教えてあげようか? ・・・碇 シンジ君?」
初めてシンジに向き直り、彼が口にしたのはシンジが最も望み、また同時に最も恐れていた言葉だった。シンジは一瞬返答に詰まり、沈黙を守るカヲルと、そして彼と同じ顔をみつめる。
だが、カヲルの冷め切った声が、シンジの喉元まで出かかっていた返答を塞き止めた。
「それは、僕が言わなければならないことだ」
シンジがびくりとしてカヲルを振り返る。
カヲルは静かに踵をかえした。
「・・・来るがいいさ。そして、知ればいい。自身が何を望んでいたのかを」

「またシグナルロスト!?どういうことなの、この所内でしょう!?」
報告を受けてラボへ駆けつけた赤木リツコは、昨夜の悪い予感を思い出して慄然とした。
「・・・それが・・・セキュリティは巧妙な偽データをかまされていて、彼一人敷地を出るだけの間が、完全にどの監視装置からも死角になっていたんです。
セキュリティをすべて止めようとしたら、どんな短時間でもMAGIに異常を感知されたはずです。彼は、MAGIが誤差範囲と判断するぎりぎりの線で監視装置に干渉して、死角を作ったんです」
要するに、巧妙な脱出支援プログラムでを組み、MAGIを騙して出奔したのだ。おまけに、予定時間になっても出頭しなかったことでようやくそれが露見するというていたらく。・・・位置確認システムなど、最初からまともに作動してはいなかったのだ。
「・・・ありえないわ。どこにそんな時間があったと言うの?あの子を起動して、まだ百時間も経過してないはず・・・・・!」
言いかけて、思わず咽喉が干上がった。
「・・・まさか・・・」
リツコがゆっくりと青ざめた。マヤが言いにくそうにちらちらとリツコを見ながら言葉をついだ。
「プログラムの残骸から、作成日は割り出せました。1カ月以上前のものです。つまり、組んだのは・・・・」

 Serial-02!

「・・・何ということ・・・・・!」
軽い眩暈を覚えて、リツコは解析結果のひとつを映し出すディスプレイに寄りかかった。
「・・・してやられたよ、赤木博士」
その時、後方・・・扉のほうでした声にマヤがびくりとして椅子から跳ねあがり直立する。リツコが緩慢に振り返ると、そこには所長がいた。
「・・・所長」
この時確かに、リツコは呆然としていた。彼女らしくもなく、事態の進行に頭がついていかなかったのである。だが、そんな彼女に更に追い打ちをかける言葉が所長の口から発せられた。
「赤木リツコ博士。君の任を解き、すべての資料・データを押収、身柄は保安部で拘束する。・・・弁明があるかね?」
瞬間、頭の中が漂泊されたような感覚に立ち竦む。だが次の一瞬、わっと泣き出したマヤの声に自我を取り戻していた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい先輩、こんなことになるなんて・・・・『タカミ』の基本プログラムをチェックしてみたら、とんでもないことが判って・・・・私、怖くて・・・」
「ダミーシステムのプログラムには、最初から抵抗因子が組み込まれている。度重なるトラブルは実験上のミスではない。君の故意だ。・・・残念だな、裏切りとは」
リツコは暫く所長の色の濃い眼鏡を見つめた。眼鏡の奥の、得体の知れない両眼を。だがそれはもう呆然としてなどおらず、どこか醒めてすらいた。
「弁明はありませんわ。私は・・・私と母は、抵抗因子そんなものなど組み込んではいませんから」
「容疑を否認するのかね?」
「・・・私達は彼にこう教えただけですわ。・・・『生きなさい』と」
なかば昂然と、彼女は答えた。碇所長が軽く手を挙げ、その背後から保安部員が手錠を持って現れても、その態度は変わることはなかった。
「私は逃げも隠れもしません」
冷然と言い放ち、保安部員をたじろがせる。
「・・・・手錠は不要だ。収監しろ」
連行されるリツコ。マヤがたまりかねたように声を上げた。
「・・・・先輩、わたし・・・・!」
立ち止まり、半身はんみほど振り返ってリツコは静かに言った。それは決して責めるような口調ではなく、むしろ哀れむような響きさえあった。
「・・・マヤ・・・いいこと、これから30時間以内に何かが起こっても、絶対に『槍』を使ってはだめよ」
保安部員達が目を剥く。
「あの子にはもう、本体メインフレームの概念は適用できないわ。何故なら・・・」
しかし、それは最後まで伝えられることはなかった。リツコの言葉を苦しまぎれの戯言ととった保安部員達が、リツコを急かせたのである。
「先輩!!」
マヤは滂沱たる涙を抑えることもできず、保安部員の分厚い背の向こう、リツコの後ろ姿に手を伸べながらその場にへたりこんだ。
「わたし・・・こんなつもりじゃ・・・こんな・・・」
「伊吹君。追って正式な辞令を出すが、E計画は当面君に任せる」
昇格を内示する言葉も、マヤにとってもはや悪夢でしかなかった。
入力されないはずの情報をいつの間にか入手していることに、些細な疑問を抱いたのが始まり。逡巡の果てにたどり着いたのは、「タカミ」の基本プログラムの、致命的なバグ―――――マヤから見ればそうとしか思えなかった―――――だった。
そして、マヤは恐怖した。基本プログラムを組んだリツコの真意をはかりかねたのだ。
「ちがう・・・・違うんです、わたし・・・こんな・・・・・!!」
リツコを陥れるような真似をするつもりはなかった。ただ、怖くて・・・・。
人道上問題のある実験だとは思っていた。だが、あのプログラムはその目的からすらも逸脱している。
リツコはマヤにとっての絶対的な指標だった。報告すべきなのかどうかぎりぎりまで迷い、疲れ果てたマヤはとうとう、所内随一というよりほとんど唯一の良識派と目される副所長・・・冬月教授にこの話を持ちこんだのである。
その翌日の出来事であった。
所長が踵を返し、部屋に静寂が戻る。その中でマヤの嗚咽だけが低く、いつまでも尾を引いていた。

 その部屋には、ベッドと床頭台と椅子が一つずつ。
床頭台の上には、件の簡易端末が置かれていた。
言葉少なにタカミを案内するカヲルを、加持は言葉をかけることもできずに見守っていた。だがタカミが簡易端末を手に取るのを見届けてカヲルが部屋を出てくると、さすがにたまりかねて問う。
「いいのかい、渡してしまって?」
「僕たちが持っていても意味のないものです。本来さほどの容量があるわけじゃない簡易端末に、彼はバックアップデータをぎりぎりの暗号化・圧縮をかけて入力していました。・・・それこそMAGIクラスのスーパーコンピュータでもないかぎり、解読は不可能です。・・・読み取れない情報に、何の意義もない」
カヲルは冷然と、だがあくまでも静かに断じた。
「バックアップを彼に渡してしまうこと自体が、問題だとは思わないかい?・・・彼が、何を画策しているとも判らないのに」
「・・・彼の目的?・・・」
カヲルは一瞬、冷たい目許に複雑な彩を閃かせた。そのことに、かえって加持がたじろぐ。
「簡易端末の中に残されたのは彼の記憶そのもの。それがどんな意味を持つものであろうと、誰であろうとそれを奪う権利などありません。それに、彼の目的なら、もう・・・」
俯きかけたカヲルの横顔に、いたましさのようなものが掠めたと見えたのは・・・加持の思い違いか?
「何だって!?」
声を高くした加持に、カヲルは初めて明確な苛立ちをのせて言い捨てた。
「老人達を見縊るあなたでもないでしょう。・・・・今になってもゼーレの探索が届かないのは、何故だと思ってるんです!?」
はっとして、加持が呼吸を呑んだ。声を荒げたことを悔やむように、一瞬カヲルが顔を伏せる。
「・・・・なぁカヲル君・・・君にはもう、何が起こりつつあるのかわかっているんじゃないのかい? だったら教えてくれないか。このままじゃ、俺たちは動けない」
「・・・・だったら、動かないでください」
顔を上げ、少し低い声で発したのは・・・あまりにも簡潔で、そして残酷な科白だった。
「・・・カヲル君」
「いずれ、あなたにはどうすることもできない領域ですよ。・・・・そして、僕にもね。僕らにできることは、結末を見届けることだけです」
そこまで言ったとき、カヲルはふと言葉を切って廊下の向こう側に立ちつくす人物に目を止めた。
シンジであった。
「・・・僕はシンジ君に話があります。あなたは外してください、加持さん」
「・・・わかった」
もはや、加持は反論しなかった。
加持がシンジの側を通り抜けてそこを立ち去った後も、シンジは何も言い出せずにいた。カヲルもまたそこを動かず、奇妙な距離をおいたまま、優しく問う。
「・・・・何から聞いていいのか、わからないんだね?」
確かにそのとおりだったのだが、頷いていいものやら悪いものやらわからず、シンジはカヲルの紅瞳を見つめたまま結局動けなかった。
ゆっくりと歩み寄るカヲル。だが、そのままシンジの側をすり抜けてホールへ降りる階段の前に立つと、瀟洒な造りの欄干に手を置いて言った。
「・・・・外へ出ようか、シンジ君?」

 静寂を避けるためにつけっぱなしていたラジオの天気予報は、嵐の来寇を繰り返し告げていた。
もうそんな季節だったろうか。レイはそんなことをぼんやり考えていた。
窓を開ける。昼近いというのに空は雲が低く垂れ込めて夕方のように暗く、沖の海上を凄じい勢いで雲が疾っていた。波も朝よりも高いようだ。ラジオの予報を待つまでもなく、遅かれ早かれこのあたりに上陸するであろうことを確信させるに十分な雲行きだった。
視界を…風速を増してゆく海岸へ転じた時、見慣れた姿が歩いてゆくのを見つけた。
そして、見えざる綱でかれるかのようについてゆくシンジの姿も。
窓枠にかけていたレイの手が軽く握りしめられる。
――――――来るべきときが来た・・・・・・。
いつか話さなければならないことだと分かってはいた。でも、怖かった。
今を失うことが怖かった。
所詮は短い夢でしかなかったのかもしれない。冬月タカミの残した言葉は、レイにとっても決して他人事ではなかった。
『三人目』の彼は加持やミサトを丁重に無視したが、レイを見たときにはかすかに表情を揺らした。
それは、『悲しみ』に一番近かったかもしれない。
彼は知っているのだ。レイが何者であるか。

「・・・どこまで話したかな・・・・?そう、僕の話だったんだっけ」
カヲルは笑った。
「・・・便宜上『コア』とよばれた球体・・・それについての情報が何故握りつぶされたか分かるかい?」
何もいえず、ただ首を横に振るシンジ。
「前世紀末に、地球が滅びる、人類が滅びるっていう『預言』が巷に流れたのはシンジ君も知っていると思うけど・・・そう、一番ポピュラーなところで、例の1999年七の月に、恐怖の大王が降るだろうって話」
吹きつけた風に、手をかざす。
「今でこそ笑い話で済んでるけど、結構深刻になった人達もいたんだって。まあそれに限らず、2000年前後に世界が危機的な状況に陥るってネタは、いろんな宗教屋の売り出し文句になってたらしいよ。可笑しいよね、百年ほど前・・・19世紀の終わりにもそんな話が山のようにあったこと、もうみんな忘れてるんだ。
あるキリスト教系の分派セクトは、1914年を最後の審判が始まる年として警戒していたそうだよ」
「1914年・・・」
「あながち全くのはずれでもなかったかもね。その年、人類史上最初の世界大戦が起こったんだから。でも、ヒトは生き続けた。だから今があるんだけど」
岩場まで来たとき、カヲルはふと視線を上げた。
「・・・遙か昔から、裏死海文書と言われるものを聖典のようにしてきた一団がいたんだ。彼等は、自身を『ゼーレ』と称している。
・・・『核』、『使徒』の存在は、この裏死海文書に預言されていた」
シンジの顔が引きつる。
「今日、キリスト教の成立過程を解明する資料として取り沙汰されている死海文書とは、発見された地域が同じというだけで全く別物なんだが、往々にして混同されている。・・・むしろ内容的には、黙示録。おそろしく曖昧で、意味がとりづらく、逆に言えば何とでも読めてしまう。それを、彼等は自分たちに与えられた契約の書と理解している。彼等が彼等の神の試練・・を乗り越えれば、より高次の存在になれるという契約。
・・・試練・・・つまり、世の終末だよ」
「ヒトは・・・滅びてしまうのかい?」
シンジはその言葉を、彼自身意外な程の冷静さで口にすることができた。何を聞かされてもおかしくないと構えていた所為かもしれない。
「1914年、彼らは遂に複数の『核』を見つけて解析・実験を始めた。しかし実験は第二次世界大戦の影響で一旦中断、サンプルはヨーロッパから運び出されたあと、失われたと思われていた。それが南極で見つかったのが2000年のこと。二十世紀最後の年だね。ゼーレを名乗るものたちは、研究を再開すべく組織を再編した。・・・それが人工進化研究所。
君のお父さんはね、シンジ君。ヒトの破局を回避するために、ヒトを破局を乗り切れる新しい種として人工進化させる研究をしているんだよ。君たちヒトの直系の先祖である、2nd-cell・・・つまり、レイを使ってね」
「・・・それって・・・カヲル君・・・」
「レイは、『リリス』と呼ばれるヒトを生み出した存在の『核』から生まれた。ヒトのDNAを用いて作られた器に、『核』の状態から魂を移されたんだ。・・・そして僕は」
一旦、言葉を切る。
「・・・『リリス』は遙かな昔、今はもう知るべくもない遠い星から地球へ逢着した生命。同じようにして、文書は『アダム』と呼ばれるもうひとつの生命がここにたどり着いていたと記している。それらは人類の敵と位置づけられ・・・その眷属共々滅ぼすべきものとしている。
僕はね、シンジくん。その『アダム』の最後の子とされる第17使徒・タブリスの細胞から生み出されたんだ。2000年の南極で発見された17th-cellは、人類の敵たる『アダム』を解析するために徹底的に研究された。…そして、『使徒』を制御する目的で現生人類リリンと同じ姿を与えられたんだ」
シンジは、カヲルの言葉を笑って流そうとして失敗した。笑おうとして開いた口はゆがみ、声は震えた。
「・・・そんな・・・僕たちと・・・カヲル君・・何が違うのさ・・・どこも違わないよ・・・一緒だよ・・・・」
「・・・ありがとう、シンジ君」
カヲルは優しく微笑み、いつかの朝のように、両腕でシンジを包み込んだ。あのときはびっくりして暫くぼうっとしてしまったシンジだが、穏やかな言葉に潜んだ不安を感じて、今はせりあがってくる涙を押し込めるのに精一杯だった。
「レイが聞いたら喜ぶよ。・・・ずっと、不安がってたから・・・」
腕をほどいてカヲルがそう言うと、シンジははっとした。
「そう・・・母さんのことを聞いたときに、綾波の様子が変だったんだ。・・・やっぱり、何か関係があったの・・・?」
「碇ユイ博士は・・・・君のお母さんは、計画の担当者だった。僕やレイはあの研究所で生まれて、あの人に育ててもらったんだ。・・・もっとも書類上は実験体扱いだけどね。覚えてないだろうけど、君も小さい頃は、遊びに来てたんだよ。あの人だけだった。分け隔てなく可愛がってくれたのは・・・」
カヲルの言葉がすべて過去形であることに、シンジはふと悪い予感にとらわれた。
「・・・・かあさんは、まさか・・・・もう・・・・・」
「生きているよ。ただ、もう長いこと入院してる」
「入院!?・・・まさかあのカスミ草・・・」
「・・・そうだよ。あの人へのお見舞いさ。ユイ博士は碇所長に反発して、計画の再考を求めたんだ。でもそれは聞き入れられなかった。だからあの人は、僕らを連れて研究所を出たんだ。数年前の話さ。その後研究所だけじゃなくゼーレからも追いかけ回されて、すっかり身体を壊してしまったんだ」
「・・・・・じゃ・・・父さんの言う入院って・・・」
「無論失踪を言い繕ってるだけさ。・・・・結果としては嘘じゃないけどね」
言葉を失うシンジ。
「そう、君には話すって約束したね。・・・僕の目的を。僕は、ヒトがどうなろうが知ったことじゃないんだよ。・・・ただ、レイを守りたいだけなんだ。だから、人類補完計画は阻止する」
静かに、だがそれは動かし難い強さを含んでいた。

「・・・たとえ、君のお父さんを殺してでもね」