第五話 Moonset Air

Full Moon

Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

「・・・今更逃げも隠れもしないといったでしょう。女の部屋にまでついてくるつもり?」
 冷たく、容赦のない口調でリツコが言うと、保安部員はしぶしぶ引き下がった。
 保安部員をエントランスに残して、リツコはマンションのエレベータスイッチを押した。出入りの少ない時間帯の所為か、エレベータはすぐに降りてきた。
 誰も乗せていないエレベータ。自分の階ボタンを押すと、ふと軽く息をついて壁に凭れかかる。
 ほどなく軽い音がして扉が開くと、保安ライトのついた見慣れた廊下が目の前に現れる。リツコはゆっくりとそこを通り過ぎると、自分の部屋の鍵をあけた。
 閉めた扉に身をもたせかけ、吐息して暫時玄関の灯りの下で何故ともなく佇む。・・・さして長い時間が与えられているわけではなかったから、扉から身を離して暗い廊下へ進んだ。
 だがその時、明かりのついていないリビングに淡く光る銀色を認めて立ち止まった。・・・暗闇の中で、ゆっくりと二つの紅が灯る。
 カヲルであった。
「・・・・釈放ですか?」
 静かに問う。リツコは苦笑した。
「追放、ね。どちらかというと。研究所IDの抹消、あそこで開発したすべてのソフトウェアに対する権利の消失、第3新東京市の市民権剥奪・・・・これが私の処置よ」
 奇妙な問いであり、奇妙な答えであった。だがそれが成立してしまったことで、カヲルはひとつの疑問に対する答えを得た。
「・・・・あなたは、僕の暗示にかかってたわけじゃない」
「何のことかしら・・・・」
 リツコは微笑う。カヲルのおもてにあるのは、静かな痛ましさだけだった。
「ここにいたのは駐車場で拾った猫でも、僕でもなかったんだ・・・」
 笑みをおさめて、リツコが呟くように言った。
「・・・そうね、そうだったかも知れない・・・でも、よく覚えていないわ・・・・・」
 それは悲しみではなかった。感情を隠すことに長けた横顔から垣間見えたのは、強いて言えば安堵に似ていた。
「僕には分からない。 破綻することが分かっていながら、何故この計画に反対しなかった?」
 彼女は答えず、クローゼットに歩み寄ると、いくつかの箱のあとにスーツケースを出す。
「・・・・破綻はしていないわ。あの人の思い通りに行かなかっただけ。
 DISを通して膨大な入力を得たことで、あの子は明確な自我を持った。あるいは擬似的な魂と言えたかも知れない・・・重力下での長期にわたる生存は、それを消極的であるにしても裏づけているわ。制御可能な17th-cell、というあの人の思惑は・・・ここまでは確かに成功していたの」
 制御可能な17th-cell、という言葉にカヲルが一瞬だけ目許を険しくする。
「でも彼は自律的な成長を続け、より生存率の高い方法を立案、選択し、実行した。それだけのことよ」
「・・・インターフェースとしての存在は、人とMAGIとの仲介ではなく、彼自身と外界とのものだったと?」
「・・・インターフェイスをどう作ったとしても、最終的にはそう傾くと思っていたわ。・・・だって、母さんの基本構想はヒトに等しい人工知能だったんですもの。・・・・でもあの子は、そんなレヴェルを早々に飛び越えてしまったのね」
「それがあの男の注文にはそぐわないことを知っていて・・・・」
「・・・・・・・もう、疲れたのよ」
 リツコは小さく笑った。
「身代わりであることにも、道具であることにも・・・・・。17th-cellは所詮私たちの手に負えるものではなかったわ」
 穏やかな微笑は、韜晦ではなかった。
「天使タブリス・・・あなたが守るものは彼女であって、その愚かな子供たちではないのね」
 彼女の言葉に、カヲルはなにがしかの抗議をするつもりだったのかも知れない。だが、わずかな間の後に目を伏せたカヲルの唇から漏れたのは、ひどく冷えた言葉だけだった。
「・・・・・僕は神様の使いなんかじゃない・・・」
 それについて、リツコは何も言わなかった。ただスーツケースを横たえて開いたときに発した言葉は、それまでとは違った、ひどく冷静な口調であった。
「・・・・自分の命をおとりにするような戦い方はおやめなさい。あなたがあの子にかかずらっている間に、あの人は予備実験の殆どを済ませてしまっているわ。所長はもう、17th-cellに固執しないでしょう・・・・」
 さすがにカヲルが呼吸を停める。
「彼女を守りたいなら、彼女を連れて第3新東京市からお逃げなさい。・・・ゼーレのバックアップを失った今、人類補完計画の頓挫は時間の問題よ。無益な血を流すことはないわ」
「・・・それは僕に、『碇ゲンドウを殺すな』と言っているつもり?」
 僅かな沈黙の後にカヲルがそう言った時、リツコは少なからず驚いたようだった。だが、ややあって・・・今度は彼女が静かに眼を伏せた。
「・・・・そうね・・・・できるなら殺さないで・・・・」
 その言葉に、カヲルが初めて苛立ちを表情に乗せる。
「暗示が効いていなかった以上、僕があなたのパスでMAGIにアクセスしていたことは、薄々気づいていたはず・・・何故、何もしなかったの!? 何故、黙って利用されていたのさ!?・・・僕が何者か知っていたあなたなら、その目的も知っているくせに・・・!」
 だがそこで、一つの可能性に思い当たって口を噤む。らしくもなく、導いた結論を口に出すことを躊躇ためらった。
「・・・・あなたも、ユイ博士と同じ結論にたどり着いた・・・・・?」
 沈黙が答えだった。カヲルは暫く蒼白な顔でリツコを見つめていたが、少し苦しげな吐息をして、踵を返す。
 話の脈絡を完全に無視したタイミングで、リツコが視線を上げて言った。
「あの子は行ってしまったのね・・・・・」
 カヲルは振り向いた。リツコの横顔は、先刻の・・・ひどく穏やかなそれに戻っていた。
「・・・いつか人々が、もっと簡単に、そう・・自分の記憶を探るようにネットを探索する日が来たら・・・私たちは自分たちが作り上げたはずの世界の中に、静かな先住者の存在を知ることになるのね・・・・」
 カヲルはそれに対する答えを持たなかった。
「・・・・彼は・・・・・・」
 言葉を飲み込む。口にしてしまうことが、誰の心も救わないことに気づいて。
「・・・・さよなら」
 カヲルは今度こそ本当に、リツコに背を向けた。

 あの嵐の日、カヲルとレイがコテージから姿を消してから2週間が過ぎようとしている。
 シンジやミサト、そして青葉や加持もまた、それ以上そこにとどまる意味を失ってコテージを引き払わざるを得なかった。どこか釈然としないまま、シンジは家へ戻った。
 カレンダーはすでに夏休みの終わりを告げている。やらなければならないことはたくさんあったが、とてもそれどころではなかった。
 カヲルやタカミ、そして加持達の言ったことが頭の中でぐるぐると不毛な回転運動を続けていた。それは頭痛すら伴って、シンジを苛む。父の仕事、母の失踪、人類補完計画、ゼーレ、DIS、死海文書、MAGI・・・・身近なことが、途方も無い糸に繋がっていたことがいまだに整理できないのだ。
『・・・たとえ、君のお父さんを殺してでもね』
 常は優しいカヲルの、決然としたもの言いが痛い。
 あのカヲルが、それだけ憎むに足ることを・・・父はしようとしているのか。
 綾波を守りたいと言った。父は綾波をどうしようというのか?
 顔を合わせようとはしなくなった綾波。シンジを見るときの、怯えたような瞳の色が悲しい。
「・・・・・何をしてるんだ、父さん」
 ダイニングテーブルの上の、セピアがかったカスミ草を目に映し、つぶやく。
 その時、ドアベルが鳴った。
 のろのろと立ち上がり、インターフォンを押した。
「・・・・はい」
 だが、一瞬の空隙があった。ぼんやりと、悪戯かな、と思う。
【あんた、莫迦っ!?】
 感度のいいインターフォンに、耳をつんざく大声。他の誰であろうはずもない。
「ア、アスカ!?」
 殆ど条件反射的に玄関へ飛んでいく。
「ど、どうしたの?」
 開けたドアの向こうのアスカの形相ときたら、端正な唇から牙をはやさんばかりだった。その背後には、火が燃えているかと思うほど。
「どうしたのじゃないわよ、この鈍感不感症手前勝手の大莫迦シンジ! ・・・・ったく何度失踪したら気が済むのよ!? 今度はミサトまで連絡取れないし・・・・!!」
 仁王立ちの怒り肩で、両拳を固めていても、碧い瞳が僅かに揺れている。
「・・・ごめん、アスカ・・・・」
 自分の行動が、また彼女に心配をかけていたのだということに気がつく。それと一緒に、今まで頭が飽和状態で出すに出せなかったものが零れ落ちた。
「・・・・・ごめん、本当にごめん、アスカ・・・・」
「莫迦、泣いてんじゃないわよ!泣きたいのは・・・・」
 そこまで言って、アスカが口を噤む。口を滑らせたことに突っ込むような余裕は、シンジになかった。
「何泣いてんのよ。何があったのか、言わなきゃわかんないでしょうが!しゃんとしなさい、莫迦シンジ!」
 両頬を軽くたたいて、アスカがシンジの顔を覗き込んだ。だがシンジは何も言えず、幼児のように涙をこぼしながらしゃくり上げるばかり。
「・・・・」
 アスカはもう何も言わなかった。開けっぱなしだったドアを閉め、立ち尽くすシンジの肩を押してダイニングへ連れていくと座らせ、自分も座る。
 そして、待っていた。
 シンジが知ってしまったことを、シンジが喋れる状態になるまで。

 青葉シゲルは、かつては義父ちちと呼んだ人物の、また少し老けた横顔を見つめて、次の言葉を探していた。
「・・・・君には済まないことをしたと思っている」
 今ではもの珍しくすらあるであろう、四方を本物の書棚で埋め尽くされた書斎。
 重厚な机の上には、ちいさなリュックがひとつ。
「・・・・俺には何のことだかわかりません」
 小さなリュック。タカミが、マンションにやって来たときのたった一つの荷物。後日送られてきたダンボール箱は、青葉が帰宅したときには持ち去られていた。
「君はもうこの件に関わらないことだ。君には迷惑をかけた。これ以上はかけられん」
「迷惑!? 何がですか・・・・・あの子を俺に預けたことが!?」
 青葉の声がつり上がる。だが、冬月はあくまでも静かだった。
「・・・・機密事項に近づけてしまったことだ。まさかああいう結果になるとは予想できなかった。ごく普通の状況での情報入力が必要だったからこそ、君に預けたが・・・」
「・・・・タカミは実験体だった」
「・・・そうだ」
「・・・どうして、あんなことを!? あなたがたはいったい何をやっているんです!? どうしてあなたが、明らかに法に触れるような研究を!?」
「・・・・あれは、それを知られることを恐れてはいなかったかね?」
 思わず、言葉を呑み込む。タカミの、絶望の声音が去来したのだ。
「君は知らなくていいことだ。・・・知れば巻き込まれるぞ」
「・・・ミズカなら、よかったんですか?」
 今度は冬月が絶句する番だった。
「ミズカなら巻き込んでよかったとでもおっしゃるんですか!?」
「・・・・すまないな」
「どうしてあなたが謝るんですか!! あなたの娘ですよ!!」
 交通事故死とされている冬月ミズカの死が、外聞を憚る遠因を含んでいることを知っている者は限られている。
 普通なら助かるはずの怪我。常識では考えられない出血傾向に輸血が追いつかず、ミズカは危篤状態に陥った。血液検査の結果、特殊な細菌が検出される。それが「極秘サンプル」に付着していたもので、「サンプル」をある条件下で不活化させることが分かったばかりだった。
 ミズカはスタッフとして手伝いをしていた―――――
 無論所内の感染者が再チェックされ、ワクチンの製造に全力があげられた。
 出血傾向そのものはある時点を境に止まったが、時は遅く、ミズカは命を落とした。だがその数時間前に採取された血液からワクチンが生成され、数人見つかった感染者は発病を免れたのである。
「ミズカのことは、事故だ・・・・・」
「わかってます!!」
 もはや青葉にも、何が言いたかったのかわからなくなっていた。
「研究のため・・・そうですよね。ミズカも納得してた。誰を恨むこともなかった。俺はその気持ちを踏みにじりたくはありません。でもタカミのことは・・・・・!ミズカが関わった研究ってのは、タカミのような存在を作り出すためのものだったんですか!? だとしたら、俺は・・・・!!」
 机に置いた両拳をかすかに震わせて言い募る青葉に、冬月は穏やかに問うた。
「・・・君は、あれのことを『可哀相な実験体』だと思っているのか?」
「・・・・・・え・・・・」
「そうだと思っているなら、違うな」
 冬月が浮かべたのは、苦笑に近かった。
「確かにあれは研究所の実験体で、我々はあれを制御することを試みた。・・・・だが、手に負えなかった。それどころか研究所は、甘くみたことのツケを払わされた・・・いや現に払わされつつあるのだよ」
「いったい・・・・」
「『槍』の発動は確かにMAGI2号の乱心を鎮めたが、数分の空隙の後・・・『槍』はなぜかMAGI本体にまで牙を剥き、MAGIのハードとソフト両方に深刻なダメージを残した。
 それどころか後ろ盾を失った以上・・・・おそらくは近日中に研究所自体が閉鎖、解体される。基礎研究が終わっても、どうにもなるものではない。何よりも、今度のことでまた優秀な技術者を離反させてしまった。
 我々は負けたのだよ。操るつもりで踊らされていた。いらぬ欲をかいて自らの足元を掘り崩してしまったのだ。莫迦なことをしたものさ」
 冬月は寂しげに笑った。
「・・・もうここに来てはいかん。ゼーレの圧迫から自由になった当局は、スケープゴートを求めている。私にかかわれば、君にも累が及ぶ」
「そんな・・・・・」
「話は終わったな。帰りたまえ」
 穏やかな声が、そのときだけは有無をいわせなかった。青葉は、その静かな圧力に押され、ゆっくりと部屋を出た。
 扉を閉めた青葉が、扉にもたれてずるずると座り込む。
 だが、ややあって立ち上がり、遠ざかる足音を聞いて、冬月は静かに呟いた。
「・・・・貴重な資材、膨大な時間・・・そんなものは、私にとってはあまり意味を持つものではない。だが、私が研究を投げ出したら、ミズカにそれこそ言い訳が出来なかった。そう言っても、多分君は納得せんだろう・・・・」
 枯れた声だった。しばらくそのまま立ち尽くしていたが、自分の机に歩み寄ると引き出しを開ける。
 身辺の整理をするために。

 沈みかけた月が、解体寸前の集合住宅を照らしている。
 第3新東京市。タカミが撃たれたその建物の屋上に、二つの影があった。
 フェンスに凭れるカヲルの手の中には、パーカーのボタンがある。
  しゃがみこんだままのレイは、何も言わずに月を見ていた。
 レイの腕の中には、簡易端末タブレットがひとつ。serial-02の最終バックアップデータが入っていたものだが、システム領域を削ってまで書き込まれた膨大なデータはきれいに削除されていた。代わりに残されていたファイルは暗号鍵をかけてロックされており、解錠は出来なくはないが、カヲルにさえ少々厄介なものだと判ってからはまだ手が着けられていない。
『土産を残しておくよ。あなたが何者か、あなたが忘れないように』
 彼タカミは一度MAGIを掌握し、人工進化研究所の手の内を見ている筈だ。その彼が敢えて残したというなら、無意味であるはずがない。
 ただ、カヲルはその解析に然程の熱意を持ってはいなかった。…そのデータに頼ることにやや依怙地な反発を抱えていた節もあったのだが、レイは置いておけずにあのコテージから持ち出していた。
 研究所と渡り合うための切り札…とまでは行かなくても、攻略の手がかりになる可能性があるなら。そう思ったのだった。
 カヲルの手の中のボタンは、フェンスの壊れた非常階段の踊り場に落ちていたもの。
 ・・・ここだったのだ・・・・。
 カヲルは目を閉じる。黒い影となって林立する廃ビル。眩暈すら感じさせる星空。その星へ向かって伸べられた、朱にそまった手・・・・。
 ――――――生きたい。
 ――――――この不思議な感じを忘れたくない。
 DISを埋め込んだ、自分と同じ細胞を持つ存在が、「タカミ」という自我をもつに至った経緯を・・・カヲルはおぼろげながら理解した。
 AIとしての進化が、「タカミ」自身の本意ではなかったかもしれない。しかし生存するための手段を追及したとき、AIとしての進化しか途がなかった。
 17th-cellに縛られている以上、その存在を研究所に左右されてしまうから・・・。
 もはや本体メインフレームを必要としないAI。この地球上で増殖を続けるネットの海で、影なく姿なく・・・・それでも確かに、どこかに存在している。したたかに。
 カヲルの手の中で、オレンジ色の光がはじけた。手を開くと、粉にかえった白いボタンが指の間からすり抜けてゆく。
 かすかな歌のような白い風が、薄明の街へひそやかに消えるのを・・・カヲルはじっと見ていた。
「・・・本当にいいのかい?」
「・・・・・うん」
「僕には、マーカーになるDISのようなものは使用されてない。ただ、僕の存在が、かえって連中にレイの居場所を教えてしまうことにもなりかねないのを考えたら・・・・シンジ君のそばが、かえって盲点かも知れない」
 カヲルの言葉に、レイは首を横に振った。
「シンジ君は優しいし・・・信じられる人だよ」
「それは知ってる・・・・知ってるけど・・・・」
 レイは立ち上がり、カヲルの腕にそっと額を寄せた。表情を見せずに、それでも袖を握る指先が、かすかな震えを伝えていた。
「・・・ずっと、一緒がいい・・・」
 カヲルは僅かに表情を揺らして、青銀の髪を軽く撫でた。
「・・・・そうだね。ごめん・・・・・・」

 暦の上は秋とはいえ、日中はまだ十分暑い。
 高階マサキは、たまっていた書類仕事を途切れさせてくれた電話のコール音に、喜んで飛びついた。
「はい・・・何だ、ミサヲか」
【何だとはなによ。仕事進んでるの?】
「はいはい、やってますよ。で?」
【うちにお客様よ】
「美人なら俺の客、そうじゃなかったら患者」
【寝言いってんじゃないわよ。二組いるのよ】
「二組?」
 高階は玄関のインターフォンの映像を呼び出した。そして、外部の保安カメラの映像も。
【・・・・どうすんの?】
 モニターから目を逸らし、暫く天井を仰いでいたが、海よりも深い吐息をして頭髪をかき回す。
「玄関から礼儀正しくいらっしゃったレディをこっちへお通ししといてくれ。非っ常ーに不本意だが、俺は外の招かれざる方に話を聞いてくる」
【あ、そう?んじゃ、よろしく♪】
 軽い音がしてインターフォンが切れる。ひどく大儀そうに、高階は立ち上がった。

 白いワンピースと白い帽子の女性を尾行つけてきたその男は、目標が不意にドアの陰へ隠れてしまったことにあわてた。・・・が、それに呆然とした一瞬に背後へ回られたことに、男は気づけなかった。
「ウチに御用で?」
 その声に振り返ろうとしたとき、背後から首を絞められて息を詰まらせる。そのまま、脇のガレージへ引き込まれた。
「いや、俺だってむくつけき野郎ヤロウのぶっとい首なんかに、腕まわしたかぁないよ? でもなぁ・・・人んちの前をこーいうモノぶら下げてうろつくような奴、自由にさせといたら後で困りそうじゃないか」
 もう片方の手が、男が脇に吊っていたホルスターから銃を引き抜く。
「俺は銃はよくわかんないんだけど、ここをこーやったら、安全装置ってやつがはずれるんだよね」
「うぁ・・・・よ、よせ・・・・」
 だが、狼狽えたふりをしながら男はプロであった。高階の指が安全装置にかかる前に、はねあげた膝で銃をたたき落とす。・・・が、そこまでだった。
「ってェ!何すんだよ・・・素人相手に容赦ないな」
 舌打ちして、高階が絞める力を強めたところであえなく音を上げた。
「こっちはなるべく穏便に穏便にって思ってるのに、どうしてこう皆、事を荒立てたがるんだろうな。ったく、終いにゃ怒るぞ?」
 あららげてこそいないが、その声は既にあまり穏便とはいかない怒気を孕んでいた。
「たくさんは尋かないよ。あんたが誰の命令で、何をしに来たか。それだけでいい」
 それでも口を噤む男の目の前に、高階がふいと先刻膝蹴りをくった手を差し出した。
「…ヒトの身体ってのは、60%水だって話は知ってるよな?」
 低い囁き。その声音は穏やかであったが、氷のような冷たさを含んでいる。
 掌の上に、重力を無視して浮かぶ小さな水球が現れた。それは揺らぎながら少しずつ大きさを増していく。信じられない光景に、男は暫く呼吸を停めていた。
「そのうち何%を失ったら脱水・・・そして死に至るか知ってるかい?」
 水球の体積は増え続ける。不吉な想像に、男は額に冷汗を感じた。
「この水がなんだかわかったらしいな?」
「莫迦な・・・・そんな・・・・お前、何者・・・・」
「・・・・・なるほど、少なくとも俺のお客さんじゃなかったわけだ。あーよかった」
 気楽に笑い、さらに絞める力を強める。
「で? さっきの質問に答えて貰えるかな」
 しかし男は答えない。
「職務に忠実だってのはいいことだけどね。命は大切にしたほうがいいよ?ほら、もうこんなになっちまった。口ん中、もうカラカラじゃないかい?それとも、本当にミイラになるまで耐えてみるか?」
 口渇感は確かに現実のもの。汗すらもでなくなっているような感覚に、口をぱくばくさせる。頭より大きくなった水球を見つめ、男はものも言わずにずるずるとその場へ倒れ込んでしまった。
「・・・おや。心がけは立派だけど、胆力がついてかなかったみたいだな」
 男を足元に転がし、掌の上の水球を顔の上で破裂させておいて高階が呟く。男の内ポケットをさぐり、身分証を引っ張り出した。
「・・・やれやれ」
 身分証の中身を見て頭をかく。
「すごいじゃない、サキってばそんな芸当も出来たんだ」
 ガレージにひょっこり覗いたのは、ミサヲであった。拳銃ベレッタに安全装置をかけながら姿を現す。
「んな器用なことできるわけないだろ?見てたんなら手伝ってくれればいいだろうに。…っていうか、頼むから不審者ぐらいでそんな物騒なものを持ち出さんでくれ」
「あら、これくらい…主婦の常識たしなみよ?」
「一体どこの常識だ。おまえ事務長だろうが。この国の法律に照らして考えろよ」
「はいはい。それで?どうするのよ、それ」
 高階の叱言こごとをさらりと聞き流す。かみつくだけ無駄なのはよくわかっていたから、高階もそれ以上は何も言わずに足下の男を見下ろした。
「…さて…軽ーくだがホントに脱水おこしてるみたいだしなぁ。多分、一過性の脳虚血発作も起こしてるが…ま、ほっといても死にやしないだろう。タケルに言って適当な処へ抛り投げといてもらうさ」
「・・・ひょっとして先刻さっきのはハッタリ?あきれた」
「いきなり拳銃M92F持ち出すよりなんぼかマシと思うぞ。それじゃ、お客さんにお会いするか」
 だがその鷹揚っぷりも、応接室で待っていた女性が帽子を脱いで顔をみせるまでのことだった。
「・・・・・あなたは」
 栗色がかったショートカットの髪。だがなによりも、その面ざしで誰なのかが分かった。
「・・・高階 マサキ医師せんせいでいらっしゃいますね?」
 その女性は、そう言って静かに一礼した。
「突然、お約束もなくお訪ねしたこと、お詫びします。私は・・・・・」
 高階は自分の直感を正直に口にした。
「・・・・・碇 ユイ博士?」
「はい・・・・」

――――――第五話 了――――――